真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

こちらもミステリアス・・・母方平野家高祖父の謎

家系のインデックス

 

前回、菊地家についてのやるせない思いを綴ったばかりですが、またベクトルとしては変わらないことを書き綴ってみたいと思います。

 

私の母が生まれた北海道小清水町の平野家。

戦後に現在の場所に落ち着いてから現在に至るまで、農業を営んでいます。
5年くらい前までは養豚も行っておりましたが、現在は畑作一本。
ビートやカルビーのじゃがいも、人参、アスパラなど、さまざまな野菜を生産しています。

 

そんな平野家が小清水に移り住んだのは、明治30年代。

小清水町史によると、明治38(1905)年に祖父・平野政次(1922~2018)のそのまた祖父・平野儀三郎(1866~1939)が止別原野に入植したと記載されています。

その前は道南の今金町というところに入植したものの、良い場所が無く、オホーツクに向かったそうです。


北海道での平野家の祖となった、高祖父である平野儀三郎。

慶応2(1866)年、東京府北多摩郡田無町(現在の西東京市南町付近)にて、質屋などを営んでいた新倉治兵衛・フジ夫妻の3男1女の次男として生まれました。


今回は平野家というよりも、この儀三郎の人生にスポットを当ててみたいと思います。

明治12(1879)年3月、12歳の時に父・治兵衛が世話役をしていた田無学校の下等小学第4級を卒業。当時、田無は神奈川県に組み込まれていました。

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その4年後、明治16(1883)年4月に16歳で北豊島郡小榑村(現在の練馬区西大泉2~3丁目付近)に住む平野丑松(1827~1903)の長女・いち(1863~1953)の婿養子として平野家に迎えられます。

言い伝えによると新倉家と平野家はもともと親戚だったそうですが、詳細はまったくわかりません。

 

すると、その翌年1月には丑松が56歳で隠居。儀三郎が若干17歳で家督を継ぎます。そして4月に長男・留五郎が誕生。


あまりにもスピーディーな展開で、17歳の儀三郎少年はどのような気持ちで過ごしていたのでしょうか。

 

その後、26歳までに次男~四男まで男子を4人授かりました。

しかし、そこで平野家の運命が動き出します。


明治26(1893)年に埼玉三芳村へ嫁いだ儀三郎の妻・いちの妹・かのが、10か月で離婚して平野家へ戻ってきます。

するとその4か月後、隣の上土支田から加藤音五郎(儀三郎より4つ上)を婿に迎えたのです。


そしてその5か月後の明治27(1894)年12月、戸籍の儀三郎欄に記されたのは「失踪」の文字。

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儀三郎は2か月の空白を経て復帰届を出していますが、旧土地台帳によると、その2日後に所有していた土地を当時10歳だった長男・留五郎に譲渡しています。

さらにその4日後、丑松夫妻と音五郎夫妻が儀三郎の籍から分家。儀三郎一家のみの戸籍となりました。

独立させた形だったのか、それとも厄介払いの形だったのかは知れませんが、短い期間でいろいろありすぎです。

 

留五郎は、儀三郎から譲られた土地を明治31(1898)年に叔父の音五郎へ譲渡し、儀三郎家は先祖代々の土地を一切手放した状態となりました。

 

その翌年に生まれた儀三郎の長女・喜代についての記載。「北海道瀬棚郡利別村字メップ南岸番外地にて出生」とあります。

戸籍に初めて北海道の文字が出てきました。

おそらく儀三郎一家は、この時期にすべての縁故を棄てて、北海道へ渡ったのでしょう。


なお、郷土史家である加藤惣一郎氏著の「大泉今昔物語」によると、平野家のルーツは千葉県鴨川市の仁右衛門島

源頼朝より、平家の追手から匿ったお礼として島+漁業権+平野姓を賜ったと伝わっています。

我が平野家の祖先は、仁右衛門島日蓮が訪れたときより行動を共にし、市川市中山の法華経寺に寄留したのち、日高上人とともに寺領地の有力者高橋氏の故郷である小榑へと布教活動に訪れ、21日間の説法の末、天台宗大覚寺日蓮宗への改宗まで持っていき、名も西中山妙福寺(中山の西にあるから)と改めました。祖先はそのまま寺檀那として土着したそうです。


そしてここから平野儀三郎のミステリアスな部分について・・・

大正9(1920)年、西巣鴨村の学校で寄宿舎火災があり、そこから米田久興(北海道興部村出身)という少年が救い出されました。

その久興少年を救ったのは、平野儀三郎なる人物(当時54歳)。

 

大正11(1922)年、大正天皇のいとこでもある貴族院議員・柳原義光伯爵が北海道に行ってみたいという話になり、「興部に知り合いがあるので」ということで、柳原伯爵を興部へと誘ったのが平野儀三郎なる人物(当時56歳)。

なにせ伯爵さまがやってくるのです。久興の父で興部の有力者であった米田常作は、私財を投じて「米田御殿」と呼ばれるようになる、たいそう立派な屋敷を建てました。

そして、興部までやってきたのは柳原伯爵と三室戸敬光子爵など錚々たるメンバー。

 

縁あってか、このお二方には興部の浄土真宗興隆寺建立にも賛助員としてお力添えいただいたようです。

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その後、昭和2(1927)年。儀三郎は61歳となり、東京市下谷区竜泉寺350番地に居住。そこから米田氏になにやら香典に関わる手紙を送付しています。

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ミステリアスな部分はここで終了です。


儀三郎は昭和10(1935)年に新天地に希望を求め、樺太恵須取町布礼に移住。
樺太時代は、農業や煙突掃除など、なんでもやって生活していたそうです。

昭和12(1937)年に長男の留五郎を熊の襲撃によって失い、自身はその2年後におそらくは脳卒中で世を去りました。72年の生涯でした。

そして、祖父・政次が16歳にして家督を継ぐこととなります。


儀三郎のミステリアスな部分ですが、実は高祖父である儀三郎であるかという確証はいまのところありません(-_-;)

 

しかし、この平野儀三郎が高祖父と同一人物であるかの調査はずいぶんがんばったと思います。

 

興部の米田家に連絡をとり、伯爵来村当時のエピソードを伺ったり、貴重な集合写真をいただいたり。

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その集合写真を、わくわくしながら生前のじーちゃんに見せたのです。
「おぉ、じさまだ!」・・・とはなりませんでした(;'∀')

この写真は大正11(1922)年のもの。祖父が生まれた年です。

じーちゃんの記憶に残っているじさま(儀三郎)の顔とは違うのか、あるいはそもそも別人である儀三郎が写っていたのか・・・、興部に来てないっていうことも考えられます。


そして米田久興が通っていた瀧乃川学園にも、儀三郎のことについて照会をかけさせていただきました。

この瀧乃川学園は、明治24(1891)年に創立された日本で初めて障がい児福祉施設

石井亮一・筆子夫妻が生涯を捧げて運営していた学校で、現在も場所は変わりましたが、石井夫妻の意思が引き継がれています。

この大正9(1920)年の火災で園児6名を亡くし、学園閉鎖を決めたそうですが、当時の貞明皇后大正天皇妃)より事業存続をうながされ、学園は残りました。

なお、その翌年に、渋沢栄一が理事長になったりしているそうです(; ・`д・´)

照会の結果としては、儀三郎について「米田氏友人」としか遺されておらず、謎のまま。

でも偶然居合わせた感じではなさそうですし、何らかの用務についていたと考えるのが自然のような気がしますが、友人かぁ・・・

余談ですが、先日亡くなられた米田家の当主夫人にお話を伺った際、夫人が北見北斗高校に通っていたときの英語の先生が、山梨で村岡花子に習った先生だったそうです。

村岡花子といえば、赤毛のアンを翻訳した、NHK連続テレビ小説花子とアン」で有名です。
そして白蓮事件で有名な柳原燁子(あきこ)の友人でも。

さらに柳原白蓮こと燁子は、柳原義光伯爵の妹・・・

なんだかいろいろと不思議なリンクをします。。。


最後に柳原家にコンタクトをとるべく、身分も顧みず旧華族の親睦団体である霞会館へと勇気を振り絞って連絡。

するとなんということか、柳原家のご子孫の方からご返事をいただきました!!
しかし、義光伯爵が北海道に行ったのも初耳だったそうで、儀三郎についての情報は無し。

 

ここまでか~!と思いながら、今度はダメもとで三室戸家にもコンタクトをとってみました。

そしたらば、三室戸家のご子孫である三室戸東光氏(東邦音楽大学などを擁する三室戸学園理事長)より、直接お電話をいただくことができたのです。

「祖父(敬光子爵)が北海道に行ったことも初めて知りましたし、戦争で本郷の家が燃えてしまったので、昔のものは何も残っていないんです。」
・・・とのご返事でしたが、その電話の最中、私の足はずっと震えていました。

う~ん、結局平野儀三郎=高祖父の図式は成り立たず!!

・・・という状態のまま今に至ります。


儀三郎の実家である新倉家。

かつて明治天皇行幸で田無に立ち寄った際に、美人と名高かった儀三郎の妹・まつがお茶の相手を務めたこともあったそうです。

そんな新倉家に生まれた儀三郎。

戸籍上は練馬に婿入りし、失踪し、北海道に渡り、樺太に渡った波乱の人生。

その間に戸籍に載らないようなことがあったのでしょうか。

西巣鴨村で火災現場から友人の息子を助けたり、竜泉寺に住んでいたり、柳原伯爵と親交があったりといったことがあまりにも突飛なのです。

 

あくまでも妄想ですが、天皇家と何らかの形で繋がっていたような気すらします。隠密とか。


しかし、建立時に儀三郎が総代となっていた興部の寺は、平野家代々の日蓮宗ではなく浄土真宗

やっぱり別人なのか・・・

 

ただ、じーちゃんの記憶によると、時折りふいっと東京に行ったりしていたことがあったらしいのです。

どこに行っていたかは知れませんが、実家の新倉家にとっては樺太へ渡って以来音信不通だったそうなので、それまでは行き来があったのかもしれません。

東京と北海道を行き来するなんぞ、当時(大正~昭和初期)の農民としてはかなり珍しいことだったのではないでしょうか。

・・・と、こんな感じで菊地家とは違う感じで行き詰っている平野家。

 

この平野儀三郎=高祖父という図式の正誤だけでも知りたいものです。

 

平野家については、いままでのもやもやした調査内容を以下のように綴らせていただいています。もしもお時間がありましたら是非・・・(/ω\)

2008/05/11 東京府北豊島郡小榑村→利別村→斜里村【平野家】

2010/08/14 高祖父・儀三郎

2010/09/29 続:高祖父・儀三郎

2011/01/16 樺太に渡ったという歴史

2011/05/28 小榑村のこと

2011/08/13 平野家についてじいちゃんから得られた情報

2011/12/20 ひさびさに進展!

2012/09/22 じーちゃんが新聞に載った!

2013/02/03 平野家のルーツを訪ねて①

2013/02/04 平野家のルーツを訪ねて②

2013/12/02 祖父の軍歴

2016/10/15 ずっと勘違い・・・

2016/11/01 果たして同一人物だろうか?

2017/08/19 またもや平野儀三郎

2017/12/21 霞会館および柳原伯爵家より

2018/02/23 推測し過ぎの平野家年表

2018/02/26 新編武蔵風土記稿、小榑村部分抜粋

2018/03/01 平野儀三郎について、一縷の望み断たれる

2018/03/06 祖父のアニバーサリー!

2018/03/13 平野政次、逝去。

2018/03/28 じいちゃんとか平野家についてとかのなんやかんや

2020/10/29 皆川の大叔母との邂逅など

2021/01/07 おもえば変だけど・・・な戸籍謄本