真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

桜田門外の変と石井家

家系のインデックス

 

時の大老井伊直弼が刃に散った歴史上の大事件、桜田門外の変

安政7(1860)年の小雪が降る日にその事件は発生しました。

 

事変の指揮を執ったのは、水戸藩を脱藩した志士・関鉄之介。

文政7(1823)年生まれの当時37歳でした。

 

(菊地家)の高祖母・菊地スエ(1874~1931)はまだその頃は生まれていませんでしたが、スエの実家である茨城県久慈郡大子町小生瀬寺地の石井家が、事変前後の関鉄之介と接触していたということが伝わっています。

 

当時、南田気村や久野瀬村(現在はともに大子町)の庄屋であった櫻岡源次衛門氏。

関と旧知の仲であった櫻岡氏は、関らに資金を提供していました。

 

そしてその資金を江戸まで届けていたうちの一人が、櫻岡氏の甥である「石井重衛門」。

 

事変後は近畿地方四国地方へ逃げた関。しかし、頼ろうとしていた薩摩藩が関所を封じてしまい、他藩の者を通さないようにしていたことから、やむなく水戸藩領へ戻ります。 

 

なお、櫻岡氏は文化元(1804)年9月生まれで、事変当時55歳。

スエの父・石井庄衛門は天保8(1837)年生まれの当時23歳。

もしかすると重衛門と同一人物かもしれない庄衛門は、櫻岡氏の甥としては自然な年齢です。

 

なお、石井家の子孫(庄衛門の次男・鐡之助の子孫)の方によりますと、石井家は小生瀬村の横目を務めていたと伝わっております。

また、石井庄衛門は戸籍が変わるたびに庄衛門→庄右衛門→正右衛門と名前が変わっていったのですが、庄衛門の父は一貫して重四郎と記されています。庄衛門は重四郎の長男です。

戸籍上では、櫻岡氏の甥といわれる「重衛門」の名は出て来ないのですが、重四郎と庄衛門の名を混ぜると、重衛門になります・・・(*´ω`*)

 

事変の当時、江戸時代は名前なぞ頻繁に変わったでしょうけれど、この重衛門が庄衛門と同一人物なのか、はたまた全然関係ない人物なのか、いまのところは確証がありません。

 

ただ、庄衛門の家督相続は事変前の1853(嘉永6)年、17歳の時なので、その時点で横目は庄衛門が継いでいたのかもしれません。

大子町史には「(関鉄之介は)大子を離れる3日前に寺地坪の重衛門宅に宿泊した。」との記述があります。まさに、寺地は石井家があった地。

 

関は1年以上櫻岡家に匿われておりましたが、追手が来たと悟ると、大子を離れて越後方面へ逃げます。

しかし捕らえられた関鉄之介は、文久2(1862)年に日本橋でその生涯を閉じました。

脱藩していたこともあり、関の家族は監視の下にはあったようですが、巻き添えを食うことはなかったようです。

 

その5年後に生まれた次男に、庄衛門は鐡之助という名を付けます。庄衛門は関にあやかって同じ読みの名前をつけたのかもしれません。

奇しくも、関鉄之介の仇であった井伊直弼の幼名も鉄之介であったそうです。

 

以下は、私が知る限りの石井家年表です。石井家の子孫の方の聞き伝えも含まれております。

年表を作製してみることによって、年代の整理がつき、祖先の生きた激動の時代を感じることが出来るような気がします。

 

和暦 西暦 出来事
江戸期 石井家、常陸国久慈郡小生瀬村248番屋敷(現:大子町小生瀬寺地)に居住。石井家は小生瀬村の横目を長年務めていたと伝わる。屋敷跡は現在竹藪となっている。
現在判明の最古の祖先は重四郎
天保8年 1837 5月1日、重四郎の長男・庄衛門誕生。
嘉永6年 1853 10月20日庄衛門(16)が家督相続(事由不明)。
安政4年 1857 4月6日、庄衛門(19)と、外大野村・齊藤善治エ門の長女・ふゆ(17)が婚姻。
安政5年 1858 翌年にかけて井伊直弼大老等による「安政の大獄」が起こり、日米修好通商条約調印や徳川家茂の将軍就任に反対する100名以上が弾圧される。
安政7年 1860 2月、弾圧を強めていた井伊直弼を暗殺するという計画のため、水戸藩を脱藩した関鉄之介ほか十数名が江戸に潜伏。関の旧知である常陸久慈郡袋田村の櫻岡源次衛門が資金を提供。櫻岡の甥である石井重衛門も資金を届ける役目を担った。
3月3日、関鉄之介(35)の指揮により「桜田門外の変」発生。井伊直弼大老が刃に倒れる。44歳没。安政の大獄以来の弾圧が収束。
文久元年 1861 5月17日、庄衛門(24)・ふゆ(21)の長男・酉次郎誕生。
7月、関鉄之介(36)、京都や四国を逃走したものの水戸藩領に戻り、袋田村の櫻岡源次衛門(57)家へ潜伏。
文久2年 1862 関鉄之介、大子を離れる3日前に石井重衛門宅に宿泊。後に越後地方へ逃亡するも捕らえられ、5月11日に江戸で斬首される。37歳没。
元治元年 1864 天狗党の乱」。父・重四郎は諸生派(幕府側)、長男・庄衛門(26)は天狗派(尊王攘夷派)と、親子で分かれたことから、庄衛門一家は家を飛び出すが、諸生派の襲撃に逃げ切れないと観念。妻・ふゆ(24)と酉次郎(3)を連れて谷底に身投げしようとしたところ、酉次郎が泣くので乳を含ませるとニッコリ笑ったので、子どもを道連れに死ぬことを思いとどまり、磐城東舘村に潜伏。天狗党の乱は同年中に収束。おそらくはそのまま東舘にとどまったと思われる。
慶応3年 1867 12月23日、庄衛門(30)・ふゆ(28)の次男・鐵之助誕生。
明治7年 1874 8月1日、庄衛門(37)・ふゆ(34)の次女・すゐ誕生(長女は不詳)。
明治11年 1878 2月23日、酉次郎(16)と、福島県東白川郡真名畑村・金沢勇吉の次女・きく(14)が婚姻。
明治15年 1882 1月2日、酉次郎(20)・きく(18)の三女・いち誕生(長女、次女は不詳)。
明治16年 1883 11月20日庄衛門(46)・ふゆ(43)の三女・かね誕生。
明治17年 1884 2月8日、庄衛門(46)が隠居。酉次郎(22)が家督相続。
9月1日、福島県東白川郡伊香村、鈴木あきへ婿入り(婿入り時期は不明)していた鐵之助(16)が離婚し、石井家に復籍。
明治18年 1885 12月21日、酉次郎(24)・きく(22)の四女・いの誕生。
明治26年 1893 11月24日、すゐ(19)と、福島県東白川郡豊里村大字東舘字舘本、菊地儀平の次男・幸吉(19)が婚姻し、石井家を離れる(20年後に北海道屈斜路村へ移住)。
明治29年 1896 12月26日、隠居していた庄衛門(59)が、妻・ふゆ(57)、次男・鐵之助(29)、三女・かね(13)を伴い、福島県東白川郡豊里村大字東舘字舘本53番地へ分家。小生瀬には長男・酉次郎(35)一家(妻、いち、いの)が残る。
明治30年 1897 1月21日、鐵之助(29)が、東白川郡高城村関岡、大垣亀太郎の妹・アキ(25)と婚姻。
8月6日、鐡之助(29)・アキ(25)の長男・誕生
明治31年 1898 7月12日、庄衛門(61)が、次男・鐵之助(30)に家督を譲り、二度目の退隠。
明治32年 1899 9月12日、鐡之助(31)・アキ(28)の次男・誕生
明治33年 1900 7月21日、鐵之助(30)、豊里村大字東舘字石田11番地の土地(332坪)を購入し、転居。
明治34年 1901 11月4日、鐵之助(31)一家、舘本から石田11番地へ転籍。
明治35年 1902 11月10日、庄衛門(65)が逝去。墓所は東舘東慶寺(のちに鐡之助が移り住んだ常陸大宮市へ移動)。
明治38年 1905 1月18日、鐡之助(38)・アキ(33)の三男・武男誕生
明治39年 1906 1月8日、鐡之助(39)・アキ(34)の四男・正清誕生
3月26日、鐡之助(39)が東舘で営んでいた鱗屋旅館が破産。石田の土地を売り渡し、夜逃げ同然で大八車を押して水戸市南町の借家へ引っ越す。
12月10日、酉次郎(45)・きく(43)の長男・正之誕生。
明治40年 1907 8月15日、かね(23)が静岡県駿東郡菅沼村851番地の1で逝去。
明治42年 1909 4月9日、鐡之助(39)、東白川郡高野村大字大梅字大岩、藤成寅吉の妹・トメ(19)と養子縁組。
10月18日、ふゆ(70)が逝去。
明治43年 1910 (12)、三の丸尋常小学校を卒業し、水戸市内の総合食品卸問屋に奉公へ出る。
明治45年 1912 3月1日、いち(30)と西茨城郡岩間町大字岩間下郷246番地・貝毛福太郎の間に貝毛きん誕生。貝毛家に籍を置く。
大正2年 1913 11月9日、茨城県那珂郡大宮町147番地において、鐡之助(46)・アキ(41)の五男・三郎誕生。
大正5年 1916 5月8日、いの(20)が東京市小石川区餌差町31番地・柏原正哉と婚姻。石井家を離れる。
大正6年 1917 8月1日、正之(10)が長野県上水内郡芹田村において夭折。
(20)が那珂郡大宮町において商店を開業する。
大正9年 1920 4月17日、鐡之助(53)一家、茨城県那珂郡大宮町147番地へ転籍。以降は現在まで子孫が常陸大宮市に居住。
大正13年 1924 4月27日、酉次郎(63)・きく(60)、孫・きん(12)を貝毛家より養子として迎える。
昭和13年 1938 2月4日、きく(74)が西茨城郡岩間町大字岩間下郷246番地において逝去。届出者は酉次郎
12月2日、酉次郎(77)が西茨城郡岩間町大字岩間下郷246番地において逝去。届出者は三女・いち(56)。
昭和21年 1946 8月13日、いち(64)が西茨城郡岩間町大字岩間下郷246番地において逝去。届出者は同居者・貝毛德次郎。この時点で、石井酉次郎家はいちの娘・きん(34)のみとなり、絶家。

 

歴史的な大事件に関わっていた石井重衛門は、果たして私との繋がりがあるのでしょうか。まだまだ謎は解けません。