令和最初の秋の最後の夏休み
枯れ葉舞い散る10月30日の水曜日、今年最後の夏休み。
妻は仕事、子どもたちも小学校。
さぁ久しぶりのひとりっきりのお休みだ!何をしようかな~と考えまして、いろいろ考えを巡らせたわけです。
なにせ、ひとりのお休みなんぞ何年ぶりだろうか・・・というプライスレスなシチュエーション。
ただし、子どもたちが帰ってくる14時半くらいには家に居なくてはならない、という条件つきですが。
あんなことやこんなこと、いや、ゴニョゴニョとかムニャムニャとかも・・・
さまざまな葛藤の結果、ひいばあちゃん・菊地カツ(1895~1996)の屈斜路にある実家を訪ねてみよう!という健全なイベントに決定しました。
そう決めたのが月曜日。さっそく実家を守ってくれている屈斜路の藤田さんに電話だ!
私「もしもし!藤田さんのお宅ですか?」
藤田さんのおばちゃん「誰だい~?」
私「菊地幸松の孫なんですが!」
藤田さんのおばちゃん「ごめんね~、耳遠くて聞こえないから切るわ~」がちゃん。つー、つー。
おぉ・・・!電話の意味ないじゃん!
あるいは詐欺電話と思われたかなぁ・・・?
この藤田家ですが、ひいばあちゃんの父・藤田松吉(1853~1937)が福島県東白川郡棚倉町下山本から入植したのがルーツ。
松吉じいさんの長男・松四郎(1900~84)さんのさらに長男(私のじいちゃんのイトコ)が継いでおりましたが、イトコさんが亡くなった現在は、奥様が家を守っておられます。
なんとも電話が用をなさないことから、仕方がないので大叔父に頼ります。
弟子屈の大叔父に電話をすると、「俺がいっしょに行ってやる!」ということで、大叔父と共に屈斜路に行くことになりました。
当日は9時半に大叔父の家に行くという約束で釧路を8時10分頃に出発。
道中の鶴居村では、観光名所の鶴見台に集まる丹頂鶴が名物なのですが、居ないな~、まだ時期じゃないのかな~?
そしたら、少し離れたたぶん掘り終わったジャガイモの畑にタンチョウが百羽くらいぎゅうぎゅう詰めになっており、SNS映えどころの騒ぎではありません。
何をついばんでたんだろう?時間あったら写真撮りたかった~(*´Д`)
約束の時間よりちょっと前に大叔父の家に到着すると、大叔父は家の前で待っていました。
なんと、病院(すぐ近く)以外で外出するのは1年ぶりくらいだそうで。
すっかり足腰が弱くなり、家の中では車椅子を使っている94歳。元気ではあるものの、最近はすっかり気弱になってしまっています。
大叔父も藤田家に電話をかけてくれたようですが、私と全く同じように切られてしまったようです。もうほんとに電話の役目を果たせていないですな。
道中いろいろと大叔父の話を聞きながら、約20分離れた屈斜路に向かいます。
その話の中で、ひいじいちゃん・菊地幸太郎(1893~1936)が弟子屈村の村会議員を務めていたということを初めて知りました。
確かにあとで確認すると、遺影のスーツには議員バッジが付いています。言われないとわかりませんでしたけど。
(※のちに昭和24年の弟子屈町史を確認しましたが、弟子屈村議員には名前無し・・・!?村会議員ではなく、農業委員会とかなのかしら・・・?)
そして、幸太郎の長男である私のじいちゃん・菊地幸松(1916~1970)。
尾札部尋常小学校には高等科がなかったため、卒業後は札友内高等小学校に通っていたらしいのですが、大叔父の記憶だとじいちゃんが14歳の高等小学2年(今の中学2年生)のころ、父・幸太郎に「菊地家の全てを放棄する!」と宣言したらしいのです。
もちろん幸太郎は激怒したらしいのですが、その話の途中で幸松は家を飛び出し、当時開通したばかりの鉄道「美留和駅(昭和5年開業)」から、写真を学ぶために東京小石川へ。
大叔父は当時、小石川の兄・幸松から雑誌「少年倶楽部」が届いて喜んだということを覚えているとのこと。
じいちゃんが中2の年は昭和5(1930)年くらい。美留和駅が開業したのも同じ年。そこまでは合致するのですが、小石川に写真学校があった形跡が見つけられないので、ちょっと疑念はあるわけですが・・・。
頭がすんごく良く、釧路で行われた北海タイムス(現在の北海道新聞)の陸上競技大会でメダルを何個も取っていたというじいちゃん。
何がそうさせたのかはわかりませんが、ド田舎で農家をするのが嫌だったんでしょうかね・・・。
いつのまにやら藤田家につくと、おばちゃんが無事にご在宅。
この家には、松吉じいちゃんの写真があると大叔父に聞いていたので、絶対いつかは来ないと!思っていたのです。
実際に耳の遠かったおばちゃんの案内で仏間に行くと、ありました。松吉じいさんの写真が!
大叔父曰く、ハゲで立派な髭を蓄えている、とても優しいじいさんだったと。
私の見たことがある祖先の写真の中では、最も昔に生まれた人物になります。嘉永6(1853)年生まれですので、実に166年前の生まれ。
その隣には、19歳下の妻・カメ(1872~1942)の写真。
大叔父が「おっかないばあちゃんだった」と言っていたのですが、確かに写真も険しい表情で写っております(;'∀')
無事にひいひいじいちゃん、ひいひいばあちゃんの写真をデジタルで取っておくことができました。安堵です。
いろいろと藤田家のお話を伺いましたが、おばちゃんにとって義父にあたる、松吉の長男・松四郎さんは福島時代のことについてはほとんど話さなかったそうで、まったく何もご存じないようでした。
ただし、ひとつ判明したのが家紋。
屈斜路にある藤田家のお墓には、「丸に左三階松」紋が刻まれています。
しかし、松吉じいさんの写真を改めてみてみると、着ている羽織には「丸に下り藤」紋が縫われております!
おそらく白河に居た頃は下り藤だったのでしょう。白河市東千田集落の墓地には、下り藤の藤田家のものが多くありましたし。
北海道に来てからの松紋は松吉じいさんの名前から来てたりするのかも?
ひとまずは、北海道に来てから紋を変え、宗派も真言宗から浄土真宗に変えたということがはっきりしました。
また、カメばあちゃんの羽織には「丸に蔦」紋が。
おととし白河市東蕪内集落の墓地に行ったとき、カメばあちゃんの実家(こちらも藤田家)の紋を確認したらば「丸に梅鉢」だったのですが・・・、女紋とか・・・?
これについては謎が増えましたね。ただ借りた羽織だったり、顔だけ挿げ替えて体の部分は別人の写真だったりするかもしれませんけど。
おばちゃんに「またお邪魔するかもしれないからよろしくね~」と藤田家をあとにし、すぐ近くの屈斜路墓地へ行ってみます。
大叔父は車からは降りられませんでしたが、「ずいぶん久しぶりだ~。こんな秋が深い時分に来るのは初めてかもな」と感慨深げ。
近くで巨大なエゾシカが山境の柵をぶち破ろうと果敢に体当たりしまくっていたのが気になりましたが。
お墓参りをし終わると、ポツリと「これが最後かな」と大叔父がポツリと呟くもんですから、「いやいやとりあえず100歳は目指そうよ!」とか言ってみたりしました。
大叔父との別れ際に幸太郎の写真をやると言われ、「いやいや、大事なもんだべさ!」と言い返すと、「家にあったって捨てるだけだもんさ」と言い返されました。大叔父はホントに何でも燃やしてしまうので、燃やされる前に保護しておくことにします。
最後にちょっと弟子屈町の図書館に寄り、弟子屈村の村会議員の名簿や、大正2年に屈斜路に入植した人たちの名簿とかがありませんか?と尋ねたところ、残念ながら図書館には該当資料は有りませんでした。
司書さんが、「何かヒントでも見つかったらお知らせしますね~」と、ありがたいことをおっしゃらってくださったので、連絡先を伝えて帰ってきました。
図書館では収穫が一つありました。
弟子屈の商工会について書かれた本を読んでいると、「昭和21年~31年菊地写真館」、「昭和35~45年菊地写真館」との記述が!
この本の出版は昭和53年。既にじいちゃんは昭和45年に亡くなり、写真館も潰れていたために写真館の写真は載ってませんでしたが。
戦後に弟子屈の町で写真館を開いたじいちゃんは、借金の保証人になり、清里町や常呂町などに夜逃げしたと聞いていました。
この記述で、昭和31~35年の間がそのダークな時期だと知ることができたのです。
令和最初の夏休み最後の日は、こうして終了し、子どもたちが帰ってくる前に家に戻ったのでした。
それにしてもたった半日でしたが、とても充実した濃厚な時間でした。
次、こんな時間が与えられたら何をしようかな~?
なお、この日に私の通勤快速マッスィーンであるマツダ・ラピュタSターボ(平成16年式、スズキKeiワークスのマツダ版)を車検に入庫してきました。
昨年から2速や3速でアクセルをベタ踏みすると3000回転くらいのところからガクンガクンと息つく症状が出ていたのですが、どうやらメカさんによると強いブースト圧がかかるとウエストゲートがうまく開閉しないので、治すためにはタービンまるまる交換しなくてはならないようで・・・(/・ω・)/
車検自体はブレーキキャリパーの交換やらラジエターキャップの交換やらで10万弱くらいなのですが、タービンの交換となるとプラス10万コース!
・・・ターボは生きているので、しばらくは(もしくは廃車まで)ベタ踏み禁止で乗ることを余儀なくされました(ノД`)・゜・。