菊地家の謎に迫りたい
私の姓、「菊地」。
いままで探求してきた経緯は以下のリンクのとおりなのですが、さっぱりはかがいきません。
2008/05/11 福島県東白川郡豊里村→屈斜路村【菊地家】
2018/01/22 菊地・菊池家はなぜ鷹の羽紋が多いのか?
2018/02/01 菊地家について、多くの謎のうちのひとつ
そこで、いま一度整理をしてみようと思い、つらつらと綴ってみることにしました。
私は釧路市生まれですが、父が釧路市で就職したためで、もともとは祖父が写真館を営んでいた釧路市から車で70分ほどの弟子屈町の市街地で父は生まれています。
そして、写真家であった祖父は屈斜路湖畔で生まれています。
屈斜路に入植したのは、高祖父・菊地幸吉(1874~1959)とその息子である曾祖父・菊地幸太郎(1894~1936)の一家。
福島県東白川郡豊里村東舘舘本(現・矢祭町)より、大正2(1913)年2月に、北海道川上郡屈斜路村字エントコマップの御料地へ入植をしました。
御料地への入植でしたので、一般の入植者とは異なり、好条件で入植したのではないかと思われます。
ですので、この100年で福島→屈斜路→弟子屈→釧路と拠点が移ってきました(私が一人暮らしになった後は両親は数度転勤、退職した地である函館市に居を構えています)。
時はさかのぼり、明治7(1874)年、高祖父・幸吉が生を受けました。
父・菊地儀平(1844~97)、母はハツ(1853~1906)。兄に3歳上の初太郎がおり、幸吉は第2子です。
明治19(1886)年に作製された最古の戸籍は、東舘村舘本40番地。
戸主は儀平で、籍にはハツの父・儀右衛門(1810~90)と母・ヤス(1813~1899)が健在。
儀右衛門は、隣村である関岡村の菊地友輔三男。年月日は不詳ですが、菊地藤兵衛の養子となっています。
ヤスは、戸籍および地籍図によると、おとなり39番地の藤田傳五右衛門長女。
なお、旧土地台帳に書かれた40番地の最古の名は「菊池」儀平となっています。
謎①
・もともと舘本40番地に居住していたのは菊地藤兵衛なのだろうか?
・あるいは、どこか違う地で暮らしていた儀右衛門がヤスと結婚することになり、ヤスの実家の隣に住むようになったのだろうか?
儀右衛門の父として記載がある菊池友輔(友甫)という人物は実在し、関岡村の医師であり、墓石によると明治18(1885)年12月に行年74で逝去しています。
友甫が逝去したのが、明治19年戸籍編製以前だったため、菊池家の最古の戸籍(子孫の方にご提供いただけました)の筆頭者は、友甫の長男・政恒(1843~97)となっており、惜しくも友甫は籍に入っておりません。
墓石から推測するに、友甫が生まれたのは文化9(1812)年となります。この時点で、少なくとも文化7(1810)年生まれの儀右衛門の父ではないようです。
そこで有力な情報源ものとなるのが、昭和43年の広報やまつりです。
その記事には友甫の父である菊池友元道恒(1781~1855)についての記述があります。
記事によると、友元は関岡村飯野の農家で生まれ、病気で苦しんでいる方々を救うために医師となったそうで、その子孫たちも医師の道を継いでいます。
友元には二男二女があり、長男が友甫孝恒であり、次男は孝昭という名であるとのこと。
友甫の墓石には明治18年12月18日「立」とあったので、墓石を建てたのがその日で、逝去したのはもっと以前、たとえば2年以上前であれば儀右衛門の兄であるという辻褄が合う・・・と思っていたのですが、菩提寺に確認したところ、亡くなったのがこの日で間違いないようで、可能性が一つ潰れました。
謎②
・儀右衛門は友輔三男と記載されていたが、それは誤り?
・本当は友元の次男・孝昭?それにしても年齢が逆転してしまう・・・
・それとも友輔なる人物が他に存在した?
菊池家がある関岡村一帯は、おおよそが地内にある真言宗泉福院の檀家のようですが、その泉福院のご住職にお話を伺った際、「関岡の菊池家はもともと3軒あり、一帯の菊池家はその子孫です。もともとの3軒も、親戚だったと考えられます。」とご教示いただけました。
そこで白河の法務局へ、あたり一帯の旧土地台帳の写しを交付いただけるよう請求。
菊池率の高さもさることながら、気になるのが「菊地」から「菊池」へと修正、もしくは願いにより改正している台帳がやたらと目に付いたこと。
我が家の土地台帳も「菊池」となっていますし・・・。
謎③
・「菊地」と「菊池」の使い分けがなんらかの理由でなされていた?
・該当地域の旧土地台帳上は、最終的に「菊地」姓は存在しない(全て「菊池」に修正されている)。
高祖父・幸吉と、その兄・初太郎には妹が一人おり、宮城県へ嫁いでいます。
高祖父兄弟はともに屈斜路に入植し、妹は宮城へ。
つまり、儀平の子孫は福島に誰も残っていないのです。
最古の戸籍しか情報がありませんが、儀右衛門には長女・ハツと、三女・シモが確認されています。
ハツは上関河内村からの婿養子、近藤儀平を迎えて家を継ぎましたが、生まれが嘉永5(1852)年。父・儀右衛門が42歳、母・ヤスが39歳のときの子となります。
戸籍編製時は儀右衛門76歳、ヤス73歳。
もしかすると、戸籍編製前に家を出ている子どもがいることも考えられます。
また、三女のシモに至っては、慶応2(1866)年生まれであり、父が56歳、母が53歳のときの子。
シモは24歳で茨城県常陸太田市徳田の菊池市之右衛門家に嫁いでおりますが、この生まれ年だと、当時14歳であったハツの子、もしくはこの戸籍に登場していない儀右衛門の子の子と考えるのが自然のような気がしてきます。あくまでも推測の域を出ませんが・・・。
なんらかの事情で、儀右衛門の子という形をとらざるをえなかったのかもしれません。
謎④
・他にもいそうな儀右衛門の子の存在
前述の菊池友元ですが、出生した番地と、のちに医院を開業して居住していた番地が異なります。
医院を開業して住んでいた番地の子孫の方に見せていただいた戸籍は、友甫の長男が戸主のもの。
そこで、おととし友元が生まれた地番の菊池家に突撃させていただき、戸籍取得のための委任状を書いていただきました。
そのお宅は、友甫家の子孫の方が本家と呼んでいる家。
きっと戸籍に手掛かりがあるはず!と勇んで交付してもらったのです。
すると、最古の戸主の父として「菊池活次郎」という初登場の名前が・・・。
年代的には友甫や儀右衛門と同世代を生きた人物のようです。
謎⑤
・友甫、儀右衛門、活次郎。どのような関係なのだろうか・・・?
私の以前に、平成5(1993)年に亡くなった大叔父が菊地家のルーツを調べていたらしく、高祖父・幸吉とその兄・初太郎は、本家から「帰ってこい」と言われていたらしいと、大叔父の弟より聞いたことがあります。
その大叔父は、本家に行き、たいそう歓迎されたそうなのです。
謎⑥
・菊地の本家が存在する(した)!
・本家はどこにあるのか?
また、かつて東舘にある東慶寺のご住職に過去帳を探していただいたところ、儀右衛門、ヤス、儀平、ハツのことを記述した部分を見つけてくださいました。
しかし、儀右衛門とヤスは儀平の父と母、儀平は初太郎の父と記載されているので違和感はないのですが、ハツのみ幸吉の母と記載されていて、初太郎はこの時点で家を出ていたのかも?という疑念がわきます。
なお、「菊池」と記載されております。
そしてこれはただの間違いでしょうが、幸吉は「孝吉」、そしてなぜか鈴木を消されて菊池に直されています。
明治30(1897)年に儀平が亡くなった時は初太郎23歳。そして家督相続。
明治39(1906)年にハツが亡くなった時は初太郎32歳。戸籍の筆頭者であり、ハツも籍に居り、結婚(妻は茨城県大子町久野瀬の植田家より)もしています。
謎⑦
・初太郎は家を出ていた時期がある?
そして、東慶寺には菊地家のお墓が無いとのこと!!
その後に出会えた初太郎の子孫にもうかがいましたが、儀平以前の遺骨については存じ上げないそうで・・・
謎⑧
・菊地家のお墓はどこに!!?
・・・と、自分の家のことなのに謎だらけでさっぱり先に進まない菊地家の調査。
矢祭町には3度訪れ、お手紙もけっこうなお宅からご返事いただいたのにも関わらず、うちの先祖を知る人はまったく見つかりません。
なんとかならんかなぁ・・・?