下北時代の山田家年表
前々回の菊地家、前回の母方平野家に続いて、今日は妻方山田家の年表を・・・
和暦 | 西暦 | 出来事 |
慶長20 | 1615 | 大坂夏の陣で豊臣方について敗れた山田、畑中、舘(たて)、田中、安藤、倉田の諸氏が、陸奥国下北半島の高梨地区(現:青森県むつ市高梨川目)に落ち延び、集落を形成。主に稲作を生業とする。 |
文政7 | 1824 | 7月5日、山田三之亟の二男・善四郎出生。 |
年代順序不明 この間の出来事 |
善四郎、舘半右エ門の長女・みのと婚姻。 善四郎、畑中由蔵を養子に迎える。 由蔵、舘半六の養女・みゑと婚姻。 |
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明治元 | 1868 | 7月12日、善四郎(44)・みの(44)の長男・留蔵出生。善四郎夫妻にとっては望外の跡取り男児出生だったため、養子である由蔵の立場が微妙になる。 |
明治8 | 1875 | 4月15日、由蔵・みゑ(18)の長男・菊松出生。 |
明治12 | 1879 | 4月25日、善四郎(54)、三之亟家より分家。 10月8日、由蔵・みゑ(22)の長女・きくの出生。 |
この間に由蔵が死別、もしくは離縁 | ||
明治17 | 1884 | 4月7日、善四郎(59)が退隠。長男・留蔵(15)が家督を継ぐ。 |
明治18 | 1885 | 5月7日、鳥山丑松(28)・みゑ(28)の長男・万次郎出生。 |
明治19 | 1886 | 現存最古の戸籍作製される。戸主は山田留蔵。本籍地は青森県下北郡関根村150番戸。 |
明治20 | 1887 | 8月5日、鳥山丑松(30)・みゑ(30)の二男・伊與松出生。 12月13日、みゑ(31)が奥内村・鳥山万右エ門の二男・丑松(31)を婿養子として迎える。 |
明治22 | 1889 | 明治の大合併により、関根村は田名部村大字関根となる。 |
明治26 | 1893 | 5月7日、丑松(37)・みゑ(37)の三男・多三郎出生。 |
明治27 | 1894 | 2月28日、留蔵(25)が畑中丑松の長女・しゆん(16)と婚姻。 |
明治28 | 1895 | 11月10日、留蔵(27)・しゆん(18)の長男・善太郎出生。 |
明治29 | 1896 | 3月31日、菊松(20)が田名部町金谷・杦山治郎左衛門の二女・をれ(19)と婚姻。 4月19日、きくの(16)が田中善之助の長男・福太郎と婚姻。 |
明治30 | 1897 | 8月6日、善四郎(67)逝去。 |
明治31 | 1898 | 10月1日、留蔵(30)・しゆん(21)の長女・セン出生。 |
明治32 | 1899 | 1月15日、菊松(23)・をれ(22)の長女・イソ出生。 8月1日、イソ(0)夭折。 |
明治33 | 1900 | 8月25日、菊松(25)・をれ(23)の長男・市太郎出生。 8月29日、市太郎(0)夭折。 10月25日、留蔵(32)・しゆん(24)の二女・マン出生。 |
明治34 | 1901 | 9月27日、菊松(26)・をれ(24)の二女・つな出生。 |
明治36 | 1903 | 6月13日、留蔵(34)・しゆん(26)の三女・オノ出生。 |
明治37 | 1904 | 8月3日、菊松(28)・をれ(27)の二男・綱吉、高梨にて出生。 9月22日、オノ(2)夭折。 |
明治38 | 1905 | 10月、丑松(49)一家、菊松(30)一家、北海道釧路郡鳥取村ヒラトマナイ2番地(現:釧路市北斗)に入植。 |
明治40 | 1907 | 4月10日、菊松(31)・をれ(30)の三男・綱次郎、鳥取村にて出生。 |
大正元 | 1912 | 11月26日、万次郎(27)が田名部中通の柳澤辰五郎の三女・キソ(15)と婚姻。 11月28日、万次郎(27)・キソ(15)の長女・マサ、柳澤家にて出生。 |
大正4 | 1915 | 5月7日、万次郎(30)・キソ(17)の長男・政太郎、高梨にて出生。 |
大正5 | 1916 | 12月1日、丑松(60)一家、北海道釧路郡鳥取村ヒラトマナイ2番地へ分家届出。 |
大正7 | 1918 | 8月15日、菊松(43)一家、丑松と同番地へ分家届出。 |
大正8 | 1919 | 8月14日、万次郎(34)一家、丑松と同番地へ分家届出。 |
赤文字部分は推測、もしくは口伝となっております。
釧路市で発刊された「山花・美濃80年誌」という集落の冊子には、美濃に移住した山田伊與松について記載された項があり、それによると入植したのは明治38年10月となっています。伊與松は当時12歳ですので、おそらく丑松とともに入植したのは間違いないでしょう。菊松は一緒ではなかったかもしれませんが。
そして畑中由蔵、妻から見て高祖父・山田菊松(1875~1934)の父という非常に重要な人物なのですが、今のところ名前しか判明しておりません。
おなじ集落の人物ではあるとは思うのですが、畑中家とは未だにコンタクトを取っておりませんので、推察するのにもそれが叶ってからとなりますね。
高祖父の母・みゑ(1856~?)についても、丑松が大正12(1923)年に隠居した際の戸籍が釧路市では80年廃棄されており、隠居後相続した多三郎の戸籍にはみゑが居ないことから、大正7~12(1918~1923)の間に没していると思いますが、詳細は不明となっています。
万次郎の息子の奥さん、多三郎の息子さんにうかがっても、お墓すらわからない状況。
丑松夫妻はいったいどこに眠っているのか・・・?
万次郎だけは、両親が北海道に渡った後も何年かは下北に居たようです。
あと、初っ端にある慶長時代の部分は、山田本家に伺ったお話を、私が拡大解釈したものですので、妄想入ってます。