平野儀三郎と平野儀三郎
高祖父・平野儀三郎(1866~1939)。
慶応2(1866)年5月、武蔵国多摩郡田無(現在の西東京市南町)において、質屋等を営む新倉治兵衛とふじ夫妻の二男として生まれる。
明治12(1879)年3月、公立田無学校下等小学第4級を卒業。
明治16(1883)年4月16日、明治天皇が田無を行幸された際、妹のまつが天皇のお茶のみにお付き合いする。
その8日後、16歳で北豊島郡小榑村(現在の練馬区西大泉)の平野丑松・はつ夫妻の長女であるいちの婿養子として、平野家に入る。いちは3歳上の姉さん女房。
儀三郎を迎えた平野家は、もともと鴨川の仁右衛門島に在り、源頼朝より平野姓を賜ったのち、千葉を経て日蓮宗とともに小榑に入ったと伝わる。家紋は「丸に抱き茗荷」。
明治17(1884)年1月、丑松の隠居により、弱冠17歳の儀三郎が平野家の家督を継ぐ。
その3か月後、長男である留五郎が誕生したのを初めとして、五男二女をもうける。
明治26(1893)年3月、実兄で新倉治兵衛の長男でもある庄藏が分家するにあたり、立会人としてサインをする。
明治27(1894)年12月9日、失踪届出。
翌年2月17日、復帰届出。
この間、何があったのか知れず。
明治30年代に北海道瀬棚に入植するも、農耕に適した土地が無く、利別村メップ(今の今金町種川)に移住。
明治38(1905)年、39歳時にオホーツクの斜里郡止別村(今の小清水町止別)へ移住。
昭和10(1935)年、68歳にして樺太恵須取町上恵須取へ移住。
昭和14(1939)年2月22日、脳出血のような症状により急逝。満72歳。
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そしてもうひとりの平野儀三郎。
大正5(1916)年、水産に関する「碇ウインチ」についての特許を取得。その際の住所は東京府下谷区龍泉寺町379。【大正7年発刊の「水産界425号」より】
大正9(1920)年、当時は西巣鴨村にあった滝乃川学園で発生した火災より、米田久興を救出する。久興は、北海道興部(おこっぺ)村の有力者である米田常作の息子。
なお、滝乃川学園にも確認したところ、儀三郎については「米田氏友人」としかわからないとのことでした。
滝乃川学園を創設した石井亮一氏は、この火災の際に閉園を考えたそうですが、大正天皇の后である後の貞明皇后に再建を促されたそうです。
大正11(1922)年、貴族院議員の柳原義光伯爵が北海道に行きたいということで、儀三郎が米田氏を紹介。伯爵は三室戸敬光子爵とともに興部へ赴く。
米田氏、伯爵、子爵、儀三郎は発起人、賛助員として興部村の浄土真宗隆興寺の建立に携わる。
昭和2(1927)年、米田氏に手紙を送る。その際の住所は東京府下谷区龍泉寺350。
昭和5(1930)年、平野儀三郎方の平野元三郎なる人物が「武蔵野会」に入会。住所は同上。【昭和5年発刊の「武蔵野 第15巻第5号」より】
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「水産界」に載っている碇ウインチの特許取得、「武蔵野」に載っている平野元三郎の名。
この2件の情報につきましては、家系探求同朋の渡邊氏にご提供いただきました。誠に感謝です。
この2件の情報を得たことで、高祖父と龍泉寺の平野儀三郎は別人であろうという方向にシフトしていっているところです。
特に、武蔵野に記載がある元三郎氏。
おそらくは儀三郎の息子さんではないかと想像しておりますが、同名の著名人がいらっしゃるのです。
平野元三郎(ひらの・もとさぶろう、1910~90)。
「日本人名大辞典」によると、東京出身の氏は、早稲田大学卒業後、昭和27(1954)年より千葉県教育委員会に勤務。考古学者として「青木昆陽伝」など著書が多数。
※10/13追記:早稲田大学の卒業生名簿には平野健造と五郎の間に記載があるため、読みは「げんさぶろう」もしくは「げんざぶろう」かと思われます。昭和8(1933)年史学科卒。
高祖父の戸籍情報とは少しもかすりません。
しかしながら、真偽が確定しているわけでもありません。
祖父が言っていたことが頭をよぎります。
「じさまは東京にちょいちょい行っていた」。
「樺太に居たころ、徳川の紋が入ったいろいろなものがあった」。
そして東京とオホーツクという2つの地に関わりがあるという共通点…
しかし数百年も日蓮宗なのに浄土真宗の寺院建立に携わるのはなかなか考えにくいですし、元三郎氏の存在やずっと龍泉寺に家があったということを鑑みると…
んもう、こうなったら別人でも構わないから腑に落ちるような情報が欲しい!
藁をもすがる思いでいろいろと調べてみました。
そこで思い当たったのが、柳原家。
儀三郎と懇意であった柳原義光伯爵は、典侍(天皇のお世話役、女官の監督)であった柳原愛子(やなぎわら・なるこ。1855~1943)の甥。
愛子は大正天皇の生母でもあります。
その愛子を仲人として、24歳年上のアメリカ人、ヘンリー・パイク・ブイ(Henry pike Bowie)と婚姻した女官が、横浜代官所詰めだった武家の娘、平野駒(1870~?)。
そのふたりの長男で、フランス文学者でもあった平野威馬雄(1900~86)は、言わずと知れた料理愛好家である平野レミさんのお父さん。
次男の平野武雄氏は翻訳家として活動し、武雄氏の息子さんはライブハウス、ロフトプロジェクト代表の平野悠氏。
悠氏は、お祖母さんのことをブログに綴ってらっしゃいました。
少しでも興味がおありなら、何かご存じなのではないだろうか・・・!!?
そのような乱暴な図式により、平野悠氏に連絡をとってしまうという暴挙に出てしまいました。ご迷惑にもほどがあります。
しかし、心優しい悠氏は、ご返事をくださったのです。
『私の婆様は「駒」といいました。天皇家で側近を務め、柳原愛子の家で私の祖父、ヘンリーパイクブイと出会って結婚して、平野威馬雄、武雄が生まれたといいます。
平野駒さんのことはほとんど知りませんし、平野儀三郎さんも初めて聞く名前です。もし駒婆さんの生涯がわかれば楽しいのですが、全く手がかりはないと思います。その点では平野レミさんの方が詳しいかも』
そんな悠氏に私は無理なお願いをしました。レミさんに聞いていただけないでしょうか?・・・と。
すると、しばらくして再びご返事をくださった悠氏!
『平野レミさんに聞いたところ、平野儀三郎の名前は自分の父から聞いたことがあるそうですが、それ以上のことは全くわからないので、連絡をくれても仕方がないと申しておりました。平野駒さんは私たち平野一族にとっては全くのミステリアスな人で、もしそちら様で何か発見したら教えてくださいとのことでした。』
!!!儀三郎の名を聞いたことがある!!!?
でもそうですか・・・やはりレミさんでも詳しくはわからないのですね・・・
どこの馬の骨ともわからない男に優しくしていただいた平野悠さん、ほんとうにありがとうございました!
・・・ということで、これからはちょっと思考をシフトして、平野駒および龍泉寺の平野儀三郎について調べていこうと思います。
平野駒については悠氏曰く家紋も没年もわからないとのこと。
明治3年生まれではありますが、特殊な経歴なので情報が残っていてしかるべき人物だとは思いますけれど・・・、お孫さんが何もわからないのですから、ほんとうに何も遺っていないのですね。
この目線から、真実にたどり着けるよう、精進していきます!
そしてレミさんや悠さんをはじめとする平野家に、なにか少しでもお伝えできる情報を探し出したいです。本気ですよ!
2021/10/5追記:平野悠氏より、貴重な情報をいただくことができました。
「平野駒さんはどこぞの下級武士の娘だったそうで、横浜の料亭『花の家』に養女に入って天皇家の側近に仕えて、それから天皇家から駒さんは柳原愛子さんの家で過ごし私の祖父ヘンリー・パイク・ブイさんと知り合って結婚したそうです。ヘンリーさんは渋沢栄一とも親交があったそうです。」
平野駒が横浜の元武士の家に生まれた・・・ということは、そこはかとなくいろいろなwebページで見たことがありましたが、料亭に養女に入っていたというのは初めて知りました。この「花の家」(ネットで探しても出てこない💦)で皇室関係者に見初められたとかなのでしょうか・・・?
また、ヘンリーが渋沢栄一と親交があったのもうなずけます。
渋沢栄一は滝乃川学園が火災に遭った後、教育に全力を注ぎたいという石井夫妻の意思をくみ取り、理事長に就任しました。
滝乃川学園は大正天皇より今の天皇に至るまで、幾度となく行幸啓されている施設。
平野儀三郎とヘンリーが面識があったかはわかりませんが、平野家と滝乃川学園に何らかの繋がりがあったと考えると、リンクするような気がします。
以下は今まで綴った平野家に関する記事です。
2008/05/11 東京府北豊島郡小榑村→利別村→斜里村【平野家】
2011/08/13 平野家についてじいちゃんから得られた情報
2018/03/01 平野儀三郎について、一縷の望み断たれる