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真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

ずっと勘違い・・・

あぁ、1年以上もブログをほっぽってしまっていました。

ぼちぼち、最近の出来事を綴っていけたらいいなぁ(希望)。

 

今秋、母方実家・平野家の農業を継いでくれたイトコがめでたく結婚式を迎えることとなりました。

その際、せっかくなので平野家の歴史について小冊子を作って配布しようかと画策。

ちょっと気合をいれて再度いろいろ調査記録や記憶を掘り起こしているところです。

 

そしたらば、高祖母の母についての疑念が生じました。

まず戸籍謄本。

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平成19(2007)年に家系の調査を開始して、初期の頃に小清水町役場にて取得した謄本です。

これは大正5(1916)年に、利別村(現:今金町)から小清水村に転籍してきた際に作製されたもの。

右側にある高祖父・儀三郎の欄を見ると、養母(儀三郎の妻・いちの母)として「たつ」と現代仮名で書いてあります。

私はこの表記をずっと鵜呑みにして、この9年間ずっと「平野たつ」だと思って調査や資料作成をしてきたんですが・・・

左側の本人の欄をみると、これは変体かなで「者つ」と書いてあります。

「者」は「は」と読みます。

・・・ということは、「たつ」ではなく「はつ」が正しい?

ドキドキしながら東京の本家(当時は大泉村小榑。現在は練馬区西大泉)の戸籍謄本を見てみます。

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2文字目が「川」の変体かなですが、これは「つ」と読みますね。

やはり「はつ」(「者川」で「はつ」って読むの、今の感覚だとすごい変)!

しかも下田忠藏の長女なので、「はつ」という名はとても自然ですし。

こりゃあ、全部資料修正しないばなりません(>_<)

 

そしてさらに「はつ」についての疑念パート②

かつて本家のお墓参り&墓石調査をした際の資料を見返していたんですが、

墓誌にはこの「はつ」についての記述について2つ「ん?」とおもうところがありました。

ひとまず縦長ですがこれを、

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文政2(1819)年1月2日に田無町で生まれ、明治43(1910)年10月3日に大泉村小榑で亡くなっています。

計算すると、満91歳。数えで92歳となります。

続いて、私からすると高祖母となりますが、儀三郎の妻であり、はつの娘(長子)でもある「いち」の欄です。

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平野丑松・はつの長女は「いち」です。

 

しかし、東京の本家の墓誌を見ると・・・

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え?明治43年に亡くなっているのは「いち」?しかも享年82歳?

・・・まず年齢の件ですが、確かに文政2(1819)年生まれの「はつ」にとって、初子の「いち」が文久3(1863)年というのは遅いとは思っておりました。44歳で初産ですから。

戸籍の文政2年だと行年は92歳となりますから、戸籍が10年間違っていたと考えるのが自然でしょうかね?初産が34歳と、割と常識的な年齢になりますし(それでもちょっと遅いかな?)。

そして俗名「いち」と、娘の名前になっちゃっているのは果たしてどうなんだろう?

本家の子孫の方に聞いても、過去帳を基に墓碑を造ったということで、それ以上の情報は現状得られていないですが・・・。う~ん、ミステリアス。

ちなみに、小清水町で亡くなった「はつ」の娘である高祖母「いち」は、小清水町の墓地に眠っています。

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・・・と、いろいろな疑念の湧いた高祖母の母でした。一体何が正しいのかしら?