真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

ご隠居さん

家系のインデックス

 

昭和22(1947)年の日本国憲法発布とともに、戸主制が廃止され、ともに隠居制度も廃止されました。

隠居をするには、満60歳以上になることと、完全の能力を有する家督相続人が相続を承認すること、という条件がありました。

ただし、上記条件を満たさずとも、戸主が病気等で家政を振るうことができない場合や、本家を家督相続するために現在の家の戸主を務めることができなくなる場合、そして女性の戸主だった場合などに特別に隠居が許されたようです。

 

さて、我が家はどうだったのでしょう。

 

まず、当菊地家ですが、明治19年式戸籍時点では福島県東白川郡東舘村、菊地儀平(1844~97)が戸主となっています。儀平は当時42歳です。

すでに義父の菊地儀右衛門(1810~90)は隠居していますが、明治19(1886)年時点で76歳。いつご隠居さんとなったのかは読み取ることはできません。

明治30(1897)年に儀平が53歳で世を去ると、長男の初太郎(1870~1942)が27歳で家督相続。

そして大正元(1912)年に、初太郎の弟で、私の高祖父である幸吉(1874~1959)が38歳で2軒隣に分家し、新たな戸主となります。

 

初太郎家は、北海道屈斜路→美幌に移住したのちの昭和17(1942)年5月4日に72歳だった初太郎が隠居届出。大子町下野宮の大森家より迎えた婿養子・菊地酉松(1898~1964)が44歳で家督を相続します。

初太郎は、そのわずか4カ月後に逝去。家督を譲って安心したのか、それとももともと病気で隠居したのか・・・そういったことは伝わっておりませんが、ギリギリで相続を終えていたため、初太郎の逝去でどたばたしなくても済んだのではないかと思われます。

幸吉はといえば、屈斜路に渡ったのちもそのまま戸主であり続け、昭和32年に現行の戸籍制度となるまで不変でした。

 

いっぽう、母方の平野家

明治19年式戸籍編製時は、東京府北豊島郡小榑村に居住。

小榑村は現在の練馬区西大泉にあたります。

そして、残念なことに練馬区は除籍後80年廃棄を実施していたことから、明治19年式戸籍を取得することは叶いませんでした。

当時の戸主は、平野丑松(1827~1903)。明治19年式戸籍編製時点では59歳。まだ通常の隠居が法的に出来ない年齢です。

・・・だと思ったのですが、丑松の長女であり、私の高祖母でもある平野いち(1863~1953)が、20歳だった明治16(1883)年に田無町の新倉家よりお婿さんとして迎えた平野儀三郎(1866~1939)が、その翌年の明治17(1884)年に丑松の隠居により家督相続しております。

実に当時、丑松56歳、儀三郎は若干17歳。

60歳に達していないことから、通常の隠居ではなかったのでしょうか?
あるいは、年齢条件は努力義務的な感じで黙認されていたとか・・・?

その後、儀三郎は北海道の利別村(現在の今金町)→止別村(現在の小清水町)→樺太恵須取町と転籍。

71歳まで戸主のままでいたところ、私の曾祖父である長男の留五郎(1884~1937)が樺太で熊に殺られるという悲劇が起きてしまいました。

その2年後に、儀三郎は遠い樺太で波乱の人生を終えました。満72歳。急逝だったと聞きます。

そこできっと、一家は大慌てしたのではないでしょうか。

なにせ、跡継ぎがすでに世を去っており、家督を継げるといえば留五郎の次男、私の祖父である若干17歳の平野政次(1922~2018)だったのです。

奇しくも儀三郎が跡継ぎとなった年齢と同齢でした。

政次が戸主のまま小清水町へ引き揚げ、戸籍的には昭和32年の改製を迎えました。
じいちゃんは激動の樺太時代やシベリア抑留を経て、小清水町平野家の礎を築き、おととし亡くなるまで80年もの永きにわたり平野家当主であり続けたまさにレジェンドです。

 

ひとまず直系2家について綴ってみましたが、私の直系傍系で隠居を行っている祖先をまとめてみました。

    退隠 後継  
小野寺辰之助 岩手県九戸郡長興寺村 1808 1881 72 長男・亀吉 35  
湯谷德平 鳥取県法美郡荒舟村 1832 1883 51 長男・善太郎 21  
飯島太十郎 茨城県筑波郡牛縊村 1828 1883 54 長男・龍介 30  
山田善四郎 青森県下北郡関根村 1824 1884 59 長男・留藏 15  
石井庄衛門 茨城県久慈郡生瀬村 1837 1884 46 長男・酉次郎 22 ※1度目
太田勇一郎 茨城県筑波郡牛縊村 1825 1884 58 長男・安造 31  
平野丑松 東京都北豊島郡小榑村 1827 1884 57 婿養子・儀三郎 17 ※1度目
岩渕徳松 岩手県九戸郡戸田村 1827 1891 64 長男・石松 38  
佐藤佐平 宮城県刈田郡小村崎村 1826 1892 66 長男・佐助 46  
近藤清兵衛 福島県東白川郡豊里村 1830 1896 65 婿養子・兵右エ門 41  
植田庄三郎 茨城県久慈郡袋田村 1833 1896 62 長男・金太郎 31  
大久保末五郎 宮城県名取郡千貫村 1830 1896 65 婿養子・仁助 48  
藤田定藏 福島県西白河郡釜子村 1840 1897 57 婿養子・忠吉 35  
石井庄衛門 福島県東白川郡豊里村 1837 1898 61 次男・鐡之助 30 ※2度目
平野丑松 東京都北豊島郡大泉村 1827 1901 73 婿養子・音五郎 38 ※2度目
菊池健三 福島県東白川郡関岡村 1841 1902 60 長男・髙良 33  
小野寺亀吉 岩手県九戸郡長興寺村 1845 1906 60 長男・熊藏 41  
杉山治郎左衛門 青森県下北郡田名部村 1843 1911 68 長男・石松 39  
小出石五郎 新潟県西蒲原郡味方村 1847 1915 58 婿養子・福松 44  
柿﨑権兵衛 山形県最上郡大蔵村 1846 1917 71 長男・運次郎 38  
飯島龍介 茨城県筑波郡牛縊村 1853 1917 64 長男・才次郎 39  
岩渕石松 北海道空知郡砂川町 1853 1918 65 次男・馬吉 33  
森井半左エ門 北海道茅部郡落部 1853 1918 64 長男・半次郎 36  
菊地初太郎 北海道網走郡美幌町 1970 1942 71 婿養子・酉松 43  
奥田亀之進 宮城県桃生郡矢本町 1879 1946 67 次男・博 45  

 

もっとも若く隠居しているのは、高祖母の父・石井庄衛門(1837~1902)。46歳で22歳の長男・酉次郎に家督相続しています。

その後、庄衛門は酉次郎家より分家し、61歳で二度目の隠居。二男の鐡之助に家督を譲っています。

 

もっとも高齢で隠居しているのは、前述の平野丑松。儀三郎に家督を譲ったのち、上土支田村の加藤家より迎えた二女の婿養子である平野音五郎(1862~1931)に73歳で家督を譲っています。

なお、私の言う東京の平野本家は、この家の子孫の方です。

 

一覧を見てみると、60歳に満たない隠居も散見されますね。

この25件を考察すると、隠居の平均年齢は62.32歳。相続側の平均年齢は35歳となっています。

 

話はまったく変わりますが、この少ない例にもかかわらず、長男なのに酉次郎、才次郎、半次郎、運次郎という名があります。

この名前に入っている数字には、どういった意味が込められているのでしょうね・・・?

上に夭折した兄がいたとか、上に姉が居るとかかもしれませんが、戸籍で確認できる範囲では、全員長子でした。


なんだかまた中途半端な調査ですが、隠居にもいろいろあって、家の都合やいさかいとかもあったりするのでしょうね。

あと、明治期は戸主や60歳以上の者の嗣子・養子、そして北海道の人は徴兵されなかったということもあったそうなので(いろいろ制度が変わっているので不確か)、そういったことも隠居に関わってきたのかもしれません。


私たちの時代は、生涯現役を貫いていかないと隠居どころか普通の生活すらあやういですけども(-_-;)