真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

今年も(きっと)モヤモヤしっぱなし?

家系のインデックス

 

みなさま、あけましておめでとうございます。

元旦、近所の鳥取神社へ初詣へ行った際、娘に菊地家の運命を懸けておみくじを引いてもらったらば、見事に大吉でございました。

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今年も穏やかにすごしたいですね。

 

お休み中、去年はいろいろ家系の探求に動きがあったものの、ぼんやりと我が菊地家の謎についてはまるで進捗がないことに気づいてしまいました。

 

そこで、ここに断片的な情報を記してみて、まとまるかどうかを実験してみます。

 

〇入手できる最古の戸籍は、現在の福島県東白川郡矢祭町(当時は豊里村東舘)、高祖父の父・菊地儀平(1844~97)が戸主のもの

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〇儀平は上関河内村近藤家からの婿養子(近藤勝右衛門家も未だ不明)。

〇儀平の養父・儀右衛門も関岡村・菊池家からの養子。

〇儀右衛門の実父は菊池友輔と記されているが、異なるような気がしている。

 

そして以前も書かせていただいた記憶がありますが、2008年に菊池友輔の子孫とお会いすることができました。

その子孫とは、矢祭町関岡、大正13(1924)年生まれの菊池玄さん。棚倉小学校の校長など、教育に生きてきた方です。

玄さんにはそのときいろいろな資料をいただきました。

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▲菊池友輔の絵。裏には「神医の如し」と書かれていました。

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▲菊池友輔の父・友元(菊池道恒)についての記事。

友元の記事については、以下のように記されています。

<先賢をたずねて>
菊池友元の医術済生

 菊池友元先生は、天明元(1781)年に陸奥国白川郡関岡村字飯野102番地菊池家に生まれました。家業は農業であったが済世の志をたて、和漢の学をおさめ、特に不屈の研究によって漢法医学に通じました。後に生家の隣り飯野80番地に医師として開業、郷土の医術済生の基礎を築きました。
 安政2(1855)年、病のため75才の生涯をとじたのでありますが、先生の医術は一代で終わることなく、長男・友輔(ゆうほ)先生に引きつがれ、徳川末期から明治にかけて、はなばなしい開花結実を見ました。
 明治中期には令孫・政恒、政恒の弟・一得など、東都済生学舎に学び西洋医術を導入してきました。内科・外科・産科・耳鼻咽喉科等、可ならざるは無く乾唱堂医院の隆昌を見ました。曾孫・仁一先生また地方きっての外科名医としてうたわれましたが、昭和に至って病没。一世紀有半にわたる医術済生を閉じました。しかしながら一門多数の門弟、またその流れをくむ開業医・助産婦等各地にあって宗家の徳を今なおたたえています。
 関岡字飯野145番地の旧墓地に菊池友元先生の墓碑があります。その碑文を書きくだしてみましょう。

■ 友元菊池先生墓の碑文

 「先生菊池氏の諱(いみな=実名)は道恒、字(あざな=呼び名)は三寿、友元と称す。陸奥白川郡関岡村の人なり。其の先は蓋(けだし=おおかた)肥後の菊池氏の族ならんと云う。
 十世祖某、始めて関岡に来たり、世農を業とす。関岡六氏の一祖なり。友元の君、済世の志あり。因って黄岐の術(こうぎのじゅつ=黄帝を祖とする神仙術を黄といえ、それからわかれた漢法医術)を治む。
 考(こう=亡父)は知仙の君、母は鈴木氏なり。知仙の君早く没し。先生王父(おうふ=祖父)の後を承襲(うけつ)ぎ、友元と称し其業を継げり。人と為り剛毅物に屈せず。而して技術に恵志たり。是を以て門を踵(たず)ね、治を請う者日に益す多し。
 初め先生の家甚だ貧なりしも後に頗る饒富(じょうふ=財産がゆたかになる)たり。而して自ら菲薄(ひはく=貧しいもの)に奉(ほう=衣食の一切を自分でととのえる)じ、能く小民の自在なること能わざるものを済(さい=すくう)す。人も亦馬に頼りて倚る。
 安政2年3月13日疾に没す。享年七十有五なり。葬るに宅を距る百歩の先とす。塋(えい=美しい)の側(そく=妻)は高沢氏より娶り、二男二女を生む。女の一(ひとり)は菊池某に適(とつぎ)、一(ひとり)は湯岐(ゆじまた)村大森某に適(とつ)ぐ。長男孝恒は友輔と称し箕裘(ききゅう=家督)を継ぎ、次男孝昭は出でて本宗(ほんそう=一族中の本家)の嗣(し=跡継ぎ)となる」。

 この碑文の選者は不詳ですが、男孝恒立石とありますので、或は友輔先生の選文かとも思われます。
 墓碑のかたわらに薬師様の御堂があって、薬師如来が安置されています。年代も古く立派な尊像と見受けました。おそらく乾唱堂隆昌のころこの御堂は、医院の境内にあって衆生の除病や安産の祈願がこめられた昔を語る史跡でありましょう。

昭和43(1968)年8月25日発刊の「広報やまつり」より

 

・・・この文章を鵜呑みにすると、友輔は菊池孝恒という名。父・友元の本名である菊池道恒から「恒」の文字を引き継いでいます。そして友輔の弟・菊池孝昭(兄と「孝」の字が同じ)は、総本家を継いだことになっております。

なお、玄さんが持っていた政恒の戸籍謄本▼には、政恒の父欄に「菊池友甫」と書かれています。墓石には友輔なので、どちらが正式なのかしら?

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以前、推察させていただいた際はこの孝昭が私の祖先である儀右衛門だという結論に達しました。

しかしながら、友輔(友甫とも)の墓石には、「明治18年12月13日 享年74歳」と書かれており、明治18年は1885年。それから73を引くと、生まれ年は1812(文化9)年。弟・儀右衛門が1810(文化7)年生まれですから、兄弟の年齢が逆転してしまう・・・。

そんなわけで、確信まで至らずになんとなく迷宮入りしていたのです。

ちなみにご教示くださった玄さんは、友元(道恒)→友輔(孝恒)→政恒(1843~1897)→仁一(1868~?)→友輔(?~?)→玄と繋がる系統です。

そんな折、玄さんが2016年5月に逝ってしまい、もはや矢祭に頼れる人がいなくなってしまいました・・・。結局、血族なのかはわからないままでした。

 

最近、2008年に矢祭で撮影してきた写真を眺めていると、友輔の墓石にちょっとした発見をしました。

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日付が没日だと思い込んでいたのですが、日付の後に「立」という字。

これは、もしかすると友輔の没日ではなく、お墓を立てた日?

もしも没日がこれよりも2年以上前ならば、友輔孝恒と儀右衛門孝昭の生年月日逆転が解消できるかも!という希望がでてきました。

 

しかし、没日はわからないままですから、これ以上はなんとも・・・

 

ちなみにその逆側には

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「軍医総監 松本順 書」と刻まれています。

菊池友輔が軍医であったことを示すものかと思いますが、どういった人がこのような文字を彫られていたのか。これもまた謎のままです。

 

菊池道恒の二人の息子が、玄さんの祖先と私の祖先だと仮定し、これからも調査をすすめていこうと思います。

でも現地に行かないと何も進まない・・・(;・∀・)

友輔さんがもう少し長生きしててくれれば、明治19年式の戸籍に記されていて、こんなにも悩まなかったのに~(ノωノ)

とか、どうしようもないことを思ってみたり。

 

そんなわけで、今年も拙ブログをよろしくお願いいたします<(_ _)>