真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

委任状にかけろ!

家系のインデックス

 

先月、矢祭町を訪れた際にいちばん勇気を出したこと。

それは私の直系ではない(直系と証明できない)除籍謄本請求のために、菊池家の本家と思しき方に委任状を書いていただくことでした。

それにより、ウチの祖先との繋がりが見いだせるかも!

…という、それはそれは儚く、消え入りそうな希望のうちの最有力のもの。

 

菩提寺の若住職より、除籍で追えないところは推測で、かのお宅がウチの本家だという最終的な目星をつけていただきまして、背中を押されるように勢いがついたのです。

でも、そのときはもう18時前でしたから、辺りは真っ暗。

子どもたちを連れ立ち、いざ目的のお宅へ!

間違えてお隣のお宅に行ってしまったりしましたが、無事に本家(予想)のお宅に到着。

 

怯みながらも明かりが灯る玄関を開け、呼吸を整えて「夜分遅くもうしわけありませ~ん!北海道の菊地ともうしま~す!」と中途半端な声量で呼びかけるも、どなたもいらっしゃいません・・・。

もう一度、鎮火寸前の勇気を振り絞って「すみませ~ん!」と情けない声を出すと、横のお部屋から厳しい表情のご主人が!

以前お便りはしていたものの、お会いしたいというのをご遠慮されたお宅。
さらには「委任状を書いていただきたいですっ」というフリもしていなかったので、まさにギャンブルでした。

 

かなり非人道的なことをしているという認識が、心臓を押しつぶしそうになります。

おみやげも受け取ってくださらないご主人。

しかし、なんとか必死に私の自分勝手な想いを伝えます。

 

すると、子どもたちを連れていたのが功を奏したのか、重い腰を上げてくださり、委任状を書いていただけました!

その間は長い長い沈黙の時間でしたが、失礼ながら家の中を眺めているとかなり歴史がありそうで、余計なものが無く、天井が高く、非常に広大なお宅でした。

委任状を書いていただき、何とかお土産を受け取っていただき、私的最高の感謝と丁寧(うざったい)なごあいさつをして、そのお宅を後にしました。

 

相当な安堵、子どもたちへの感謝とともに、「これで本当に発行してもらえるんだろうか?」とか、「これで結局わかんなかったらどうしよう・・・」とか不安が押し寄せました。

 

あぁ、でも栃木の温泉までもう急がなくてはならない時間でしたので、そんな不安をすっかり忘れて、ぜんぜん知らない矢祭から那珂川町への道をやや飛ばしていきました。

 

・・・・・・・


それから約2週間の時を経て、私の手元にある除籍謄本。

ご主人のお父上が筆頭者である除籍以前を発行していただきました。それが計4通。

筆頭者が父、祖父、曽祖父、高祖父のものです。

高祖父のお名前までは、旧土地台帳で確認できていた名。

そして最後の一枚。最も旧い除籍に目をやります。

 

存じ上げているお名前、天保12(1841)年生まれの高祖父・健三さんの父欄には、私の頭の中の引き出し的に初登場である「菊池活次郎」という名が記載されています。

あぁ、僕の祖先、文化7(1810)年生まれである儀右衛門の名がここで出てきてほしかったぁ・・・(>_<)

活次郎さんですか・・・。明治17(1883)年ころに作製された地籍簿にも見えない名前です。もっともその地籍簿には儀右衛門も孝恒も名前はありませんけれど。

儀右衛門とも、儀右衛門の兄弟と思われる友輔孝恒とも名前の共通点は無い・・・。

 

儀右衛門が1810年生まれ、
友輔孝恒が1812年生まれ、
活次郎が1815年くらいの生まれ?

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▲年代が違いますが、最古の除籍謄本に記載されている最もさかのぼれる名前

 

同じ関岡村字飯野という地で同年代を暮らしたこの三人。
果たしてどういう関係だったのでしょう・・・???

 

そして、いちばんショッキングだったのが、「明治32(1899)年○○(本家の番地)に移る」との記載。縦線で消された本籍には、私が最初に間違えて尋ねた隣のお宅の地番が!

 

地籍簿や旧土地台帳ではこの本家の番地の所有は健三さんでした。件の隣宅の地番には、こちらもまた存じ上げない「菊池茂右エ門」さんというお名前が記載されています。

 

はたして戸籍上、明治32年以前は誰がここに籍をおいていたんだろう???

もしそういった家があれば、そこが本家?

それともやっぱり活次郎さんの家が本家?

何にも証拠がありませんが活次郎=儀右衛門?(亡父活次郎とあるので、それはないか…)

 

う~む、進めれど進めれど暗礁に乗り上げる苦難の旅路です。。。