真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

10年ぶり&初めまして

家系のインデックス

 

2018年10月26日。

かねてより計画していた「ANCESTRAL QUEST」発動。

菊地家は15時過ぎのフライトで、釧路から羽田に飛びました。

 

今回の探求対象は以下の赤文字の部分。私の父方の系統ほぼすべてです。

f:id:dotouttan:20181103071055j:plain

初っ端の目的地はつくば市

つくばエクスプレスに乗車するため、東京モノレールと山手線を乗り継ぎ秋葉原へ。

時刻は18時。

ちょうど仕事を終えられ、へとへととなった企業戦士たちが帰途につく時間。

ちょっ!ガチやべぇ!

朝よりはマシなんでしょうが、このくらいの時間でも大概です(・・;)

でも首都圏のみなさんはこんなの平気の平左。

すんごいわやな体勢なのに、涼しい顔でスマホをちょしています。

これは・・・田舎の人間とは異なる進化を遂げている!

 

つくばエクスプレスも序盤こそ似たようなラッシュでしたが、埼玉を抜けたあたりからゆとりがでてきました。安堵です。

 

つくば駅には19時半前に到着。タイムズさんから891kmしか走っていないフィットをお借りします。

つくばナンバーの字面が可愛いっ!と、全娘に大評判でした。

f:id:dotouttan:20181102205855j:plain

そこからイーアスつくばで晩ごはんと買い出しをし、ホテルに着いたのは21時過ぎ。

つくばは1985年のつくば万博から一気に開発された新しいマチ。

全体的にきれいで、道が走りやすい!

なんか頭のいい人が都市計画たてたんだろうか?

そしてロボットや宇宙関係でも有名な研究都市でもあるため、マチの人たちが全体的に知的な感じを受けました。

 

翌27日の土曜日。

朝一で筑波山へ向かいます。

紅葉になりかけの筑波山をハイキングしたいところでしたがそんな時間もなく、筑波山神社への参拝のみです。

日本で最も古く、約2000年前の創建と伝えられる筑波山神社

きっとここの生まれであるばあちゃんも、子どもの時分にお参りをしたことでしょう。

f:id:dotouttan:20181102205720j:plain

そして、ばあちゃんである菊地よし(旧姓・太田。1914~2008)の故郷である上里地区へ向かいます。

 

ばあちゃんは当時の筑波郡吉沼村大字牛縊(うしくびり)出身。

牛縊という地名があんまりだったのか、昭和30年頃に上里という地名に変わっています。

ひいじいちゃんである太田代次郎(1878~1962)一家は、1921(大正10)年頃に北海道網走郡女満別村本郷へ入植。

代次郎は長男の身であるうえ、入植の時分は既に父親である太田安造(1852~1899)も故人となっていたので、北海道になぜ渡ったのかミステリアス。理由が見つからないのです。

 

まずは10年程前からコンタクトをとり、Facebookでやりとりをしていた飯島家

ばあちゃんの母親・太田ふて(1881~1940)の実家です。

上里の飯島家はひいばあちゃんの兄・飯島才次郎(1878~1948)が跡を継ぎ、現在は子孫の方が守って下さっています。

まるでサザエさん家のような立派なお宅にお邪魔させていただき、暖かいおもてなしをいただいてしまいました。

f:id:dotouttan:20181103071448j:plain

どうやらひいばあちゃんは体が弱かったそうで、飯島家ではなぜ北海道へついていった(連れて行った)かが不思議だと伝わっている様子。

そして、一番戸籍に記載されている旧い名前である飯島太左エ門より、もっと前の世代から隣に本家があるということ。

太田代次郎・ふて一家が北海道へ向かう際、近所の鹿島神社に木を植えて行ったのが、大きくなり過ぎて今は切り株になってしまったということ(でも新しい芽がでているそう)。

 

・・・実は旅行の計画を練っているとき、時間をタイトに設定しすぎて、1軒あたり30分くらいしか設けていなかったのです。

が、どだいムリな話。飯島家で楽しくおしゃべりさせていただいている間に1時間以上経ってしまいました。

f:id:dotouttan:20181102205900j:plain

もうじきお昼にさしかかってしまう!あわてて近所にあるひいじいちゃんの実家、太田家へ向かいます。

太田さんはずっと旦那さんとやりとりをしていたのですが、なんとびっくり、奥さんが直系の血族でした。

旧いアルバムを持って来て下さり、昔の写真を見ながら思い出話をしてくださいました。

その間、子どもたちは隣にお住まいのお孫さんと楽しくボール遊び。

 

戸籍上、ひいじいちゃんの父・安造のさらに父は太田勇一郎(1825~1903)。

勇一郎は戸籍上最古の祖先である太田勇右エ門の娘であるきさ(のちに確認すると、墓碑上は「きよ」と!)の婿であり、その実家である砂山家はほぼお向かい。

 

砂山家にはお手紙を事前にしていたものの、「詳しいことはわかんないから」ということで、アポをとることができませんでした。

しかしチャンスはここしかありません。

仲良しだという太田さんの威をお借りし、除籍謄本取得のための委任状を!

「なんもわかんねぇんだ~」と仰る砂山さんの奥さん(こちらもお婿さんが来てくれたお宅で、直系は奥さんでした)より、太田さんのお力添えによって無事に委任状をいただくことができました!

これで砂山家の除籍をさかのぼる請求をすることができるようになりました。

 

最後は、太田家の庭でたわわに実っていた柚子を、高枝切ばさみで子どもたちに収穫させていただけるという大サービスまでいただきました。柚子の枝にあんな豪快なトゲがあるのを初めて知った40歳。

f:id:dotouttan:20181102205741j:plain

楽しい時間はあっという間。

太田家を後にするころには、もうすっかり予定の時間を激しくオーバーしています。

大慌てで上里集落の墓地へ行き、太田さんや飯島さんだらけの中からわが太田家と砂山家のお墓は見つけられてお参りできたのですが、飯島家は見つからないような・・・?

太田家の家紋は、聞き及んでいた通り「丸に桔梗」。

砂山家の家紋は「丸に五三の桐」。

そして確証はないのですが、太田家で判明している最古の女性である太田ふか(1812~88)の実家である岡田という姓のお墓が2基あり、片方は家紋が彫られていない墓石でしたが、もう片方には「丸に隅立て四ツ目結」と、飯島家と同じ家紋が彫られておりました。

写真だけは撮りまくってきたから、家に帰ったらゆっくり見よう。ということで上里に別れを告げました。

 

安造の妻・太田せゐ(1851~1927)の実家である中山家があった上郷の歓喜院墓地はGoogleマップで確認すると広大なため、時間切れで仕方なくパス。

 

ひいばあちゃんである太田ふての母と祖母の実家・齊藤家がある上河原崎の墓地だけでも・・・と思い寄ったところ、齊藤さんばかり!墓碑を見ている時間もなく、ロクに確かめずに写真だけ撮りまくってきてしまいました。お参りも何もあったもんじゃありません。

家紋も「丸に隅立て四ツ目結」、「丸に橘」、「丸に梅鉢」、「丸に根笹」とバリエーション豊か。

水汲み場では井戸水を使っているようで、これは私にとっては驚きの光景。内地では珍しくない?

f:id:dotouttan:20181103072225j:plain

 

次は家族サービス。
昼食はモスバーガーでドライブスルーして、つくばエキスポセンターで食べる予定・・・が、モスが水道故障のため臨時休業!

しかたなくファミマ(ちなみに釧路にファミマはありません)で昼食を買い、エキスポセンターへ。

万博の頃にばあちゃんが筑波へ行き、コスモ星丸のグッズをおみやげに買って来てくれたのを思い出し、涙が・・・

f:id:dotouttan:20181102205755j:plain

2階は難しすぎて私にもよくわからないコンセプトでしたが、1階は遊ぶものがたくさんあってめちゃめちゃ楽しめました。

コスモ星丸は青いイメージだったんですが、ピンクの星丸の方がメインっぽくて驚いたものです。

f:id:dotouttan:20181102205920j:plain

星丸のリバイバルを期待しております。

その日は一気に茨城の最北端大子町まで走り、道の駅で夕食(名物の軍鶏カレー)をいただき温泉を浴びて終了・・・と思ったんですが、子どもたちに風呂上がりの柚子シャーベットを味わいさせてあげたく、ユーパル矢祭までひとっ走り。

もう柚子シャーベットの販売は終了していた時間だったんですが、無理言って売っていただけました。矢祭の人は心優しい(#^.^#)

大子の宿で、矢祭の柚子シャーベットを存分に味わってもらいました(=^・^=)

f:id:dotouttan:20181103072606j:plain

 

翌28日の朝。

朝4時半に目覚めた私は、予定通り単独行動で矢祭町関岡飯野へ向かいます。お日さまが出てくるタイミングにたどり着けるように。

 

さかのぼること11年前。

その頃取得した菊地家最古の戸籍は、東舘村(現在の矢祭町東舘。関岡とは久慈川を挟んで隣村)の菊地儀平(1844~97)が戸主のものなのですが、そこに儀平の養父として名前があるのが菊地儀右衛門(1810~90)。

f:id:dotouttan:20181103072813j:plain

その儀右衛門の欄には「関岡村 菊池友輔三男」と記されていたため、当時は菊池友輔の子孫の方とコンタクトを取っておりました。

そして2008年に関岡の菊池家を訪問し、お世話になったのが友輔の子孫である菊池玄さん。
その際は、友輔との関連が見いだないまま。

2016年に玄さんは92歳で再会を果たせることなく世を去ってしまったのですが、玄さんにいただいた資料を元に、ずっといろいろと真相をぐるぐる考えていました。

 

医師である友輔孝恒(友甫とも)は明治18(1885)年に享年74と彫られているので、墓石から逆算すると文化9(1812)年の生まれで儀右衛門の2歳下。少なくとも儀右衛門の父ではありません。

友輔の父は菊池友元道恒。医師としての初代で、おそらく友元の代で分家しています。

友元は天明元(1781)年の生まれなので、儀右衛門の父だとすると当時29歳。つじつまは合います。

そして友元の碑に事績が記されているのですが、そこには長男・孝恒が友輔となり友元の跡を継いで、二男・孝昭が本家の跡を継いだと刻まれています。

f:id:dotouttan:20181103073003j:plain

私の想像では、この孝昭が儀右衛門なのではないかと。

「友輔の三男」と戸籍に記されているのは何か数え方が異なるのではないかと。

しかしそうなると、兄の友輔が儀右衛門の2歳下となってしまい、兄弟の年齢が逆転してしまいますが・・・

 

そしてそこからです。その裏付けがさっぱり取れません。

儀右衛門の養父は藤兵衛という名ですが、どこにもその名は出てきません。

本家と思しき番地の最古の名は明治20年頃の「菊池健三」さん。その後も代々「健」の字を脈々と引き継いでいます。

儀右衛門とか孝昭から考えると、名付けの法則的なものも見出せません。

 

そんな状況で、再び飯野の墓地へと向かいますが、案内いただいた10年前と異なり、一人だとめちゃめちゃ迷子になり、タイムロスしまくってやっと見つけました。

f:id:dotouttan:20181102205925j:plain

本家と友元家の墓地は、同じ場所にあります。

友元家の墓石を、お参りしつつまじまじと観察するも、新たなことは見いだせず。

そしていよいよ本家のお墓を・・・と思ったら、風化しまくっており、あまり解読できる石がない!

なんとか読めそうな部分を読解してみます。

まず、石灯籠①には「奉献」「願主 菊池縫殿助」、横に「萬延元庚申(1860)年十月十三日」と、石灯籠②には「奉献」「??村 永沼覺之助」「当村 菊地友甫」、横に「萬延2酉年」と彫られています。

f:id:dotouttan:20181103074807j:plain

そして戒名と建立日が彫られた多くの墓石の中に俗名が彫られたものがあったのですが、「赤津政次之墓」・・・誰だろう?明治12(1879)年と彫られています。

あともうひとつ「小田川村 佐川平左衛門」・・・。

菊池さんが居ないっす。

 

ちなみにひいひいじいちゃん達が大正2(1913)年に屈斜路に入植する前に住んでいたのは東舘村舘本の番地。

現在は佐川さんという方が住んでおられます。10年前に来た時に、「確かここも親戚のはずだわ」と言われたのを思い出しました。

飯野を後にして、次は上関河内。

 

菊地家最古の戸籍に戸主として記載されている菊地儀平の実家です。

菊地儀平は「上関河内村 近藤勝右衛門五男」。

上関河内の墓地も、迷いに迷ってやっとこさたどり着きます。
すると、近藤家の墓地がすぐ見つかりました。

かつて近藤誠さんという矢祭町議の方とコンタクトを取らせていただいており、10年前に訪れた際は入れ違いでお会いできず。

その後もお会いできることなく、2014年に世を去ってしまいました・・・。

電話でお話しさせていただいた内容としては、祖先は「近藤数右衛門」という人で庄屋をやっていた。菩提寺は「積泉寺」という寺だったが、明治の初めころに燃えてしまって古いことはわからないということ。

勝右衛門と数右衛門。名前が似ている・・・。同一人物だけど間違って記載されちゃったのかしら?

その謎を解くべく、かつて誠さんに委任状をいただいて近藤家の戸籍をさかのぼって取得したことがあります。

すると最古の名前は近藤義富(1811~90)。父欄は空っぽ。

この義富が数右衛門なのだろうか?

仮に儀平が数右衛門の五男であるとすると、33歳の時の子となり、年齢的には不自然ではありません。

果たしてこの墓地で確証が取れるか!?

 

すると、見つけました!

明治3(1870)年に没した数右衛門の妻の墓石があったのですが、そこには「小田川村 佐川平左衛長女」と!そして「近藤数右衛門義富室」の文字。

f:id:dotouttan:20181103075430j:plain

義富と数右衛門がこれで同一人物だということが判明しました。

そしてこの小田川の「佐川平左衛(門が抜けてる?)」という名は、先ほど飯野の墓地で見た名です。

佐川さんが親戚だというのは、ここから来ているのか!?

 

他にも関係は不明ながら「近藤數右衛門藤原義次」や、「近藤新六藤原義高」という名も見つかりました。藤原氏であることを現代にも受け継いでいるようで、墓碑にあった誠さんのお名前にも「藤原」の名が刻まれていました。

そしてもう一基。二男・彦信、三男・彦三、四男・和義が一つの墓石に刻まれているものが!
おそらく夭折したのであろうこの3人の男子。

五男である儀平の兄たちではないかと想像されます。 

無事に成人した儀平は菊地家へ婿入りし、長男が近藤家を継いだのでしょう。

そして家紋がこちら。

f:id:dotouttan:20181103080012j:plain

ここまででタイムアップ。

 

もう7時ちょっと前。

ホントは大子町内大野にある実相寺にありそうな齊藤善治エ門家のお墓を探索したかったのですが、大子の宿に家族を迎えに行かなくてはなりません。

この日は前日よりもさらにタイトなスケジュールなのです。

 

まずは袋田の滝を観光。一番滝に近い菊池みやげ店に駐車させていただき、いざ滝へ!

さすが日本三名瀑のひとつ。もんのすごい迫力でした!

f:id:dotouttan:20181103081333j:plain

紅葉は2~3分ほどでしょうか。まだ激混みする前で良かったです。

f:id:dotouttan:20181102205948j:plain

子どもたちは鮎の塩焼きを初めていただきます。どうやらお好みの味だったそう。

f:id:dotouttan:20181103081501j:plain

 

次に同じ大子町内小生瀬の石井家へ。

石井家は高祖母・菊地スイ(1874~1931)が生まれた地ですが、その父である石井庄衛門(1837~1902)と二男・鐵之介(1867~?)は常陸太田へ移住。長男は岩間へ移っており、現在は高祖母の実家は存在しません。

この地に伝わるいろいろなお話を石井さんより伺うことができましたが、ビビッと繋がるようなことは今のところありませんでした。

f:id:dotouttan:20181103080312j:plain

最後に石井家の墓地へ連れて行っていただいたのですが、新しいお墓の地には石井さんたちの親御さん達が眠っておりました。

しかしもうひとつ。庄屋だったという家の墓地にも連れて行っていただきまして、そこでまたもやもやもやミステリアスなことを発見。

f:id:dotouttan:20181103080455j:plain

庄屋さんは「益子」という姓で、現在は東京の千駄ヶ谷で病院を経営。毎年お墓詣りに見えているそうです。

その墓石に「益子庄エ門」という名が刻まれていたのです!

f:id:dotouttan:20181103080925j:plain

さらには、以前にここ大子町のご出身である苗字研究家の髙信幸男先生に石井家のお墓について伺った際、こちらの墓地の写真をお送りいただいたということもあり、ここは石井家のお墓とも認知されているのかとも思われます。

 

以前、常陸太田にお住いの石井鐵之助家の子孫の方に伺ったのが、「横目を務めていた」「天狗党の乱のときに親子で対立した」といったエピソード。

もしかすると、庄衛門は襲名で、もともと石井ではなく益子という姓だったのでは?

天狗党の乱の際に袂を分け、姓も変えてしまったのでは?

・・・推測に過ぎませんが、謎が増えてしまいました。

 

・・・そんなことをぼんやり考えながら、小生瀬を後にして矢祭山にある「鮎の吊り橋」へ。
ここも10年ぶりの来訪です。

f:id:dotouttan:20181103081030j:plain

久慈川は相変わらず清流で、水底が見える素晴らしい川です。
このままずっと変わらず在ってほしいと願っています。

そして矢祭山駅で10年前と同じ構図で写真を撮りました。あぁ、なんか幸せですね(*^_^*)

f:id:dotouttan:20181103081048j:plain

あぁ、でももうすっかりスケジュールが絶望的におしている・・・。

 

急いで白河ラーメンを食すべく「あずま食堂」さんへ向かいます。

・・・が、棚倉付近から白河への道路がなんかすんごく混んでいる(T_T)

やっとあずま食堂さんへ着いたものの、大行列~

f:id:dotouttan:20181103081530j:plain

もう諦め半分で待ちますよ(*´Д`)

 

10年ぶりに食べた白河ラーメンはやっぱりあの頃の味のまま。

f:id:dotouttan:20181103081718j:plain

麺の太さは全然違うものの、あっさりスープは釧路ラーメンとなんとなく似ているので、親近感がわきます。

うまいし安いし、ホント言うことないですね!

 

次は白河小峰城へ。子どもたちは松前城には行ったことがありますが、まともなお城は初めてです。小峰城は復元ですけれど。

 

そしたら棚倉~白河間の渋滞原因が判明。

白河小峰城付近で「白河戊辰ラーメン合戦」なる近隣の県から人気ラーメン店が集まり、東西に分かれて戦うという力の入ったイベントが行われていた様子。

なんてこった(/・ω・)/

f:id:dotouttan:20181103081929j:plain

小峰城を20分ほどで満喫し、次は白河市の旧東村へ。

ここはじいちゃんの母方の実家が集まっている地区。

まずは蕪内集落の墓地へ向かい、じいちゃんの母方祖母である藤田カメ(1872~1942)の実家・藤田定藏家のお墓と、カメの母の実家・岡部家のお墓を捜索します。

 

さかのぼることは叶いませんでしたが、藤田家は家紋が「丸に梅鉢」。

f:id:dotouttan:20181103082244j:plain

岡部家が「丸に橘」ということが判明。

f:id:dotouttan:20181103082349j:plain

岡部家の子孫の方もこれで分かりそうです。

ここで蕪内は終了。

 

そして千田集落へ向かい、ひいじいちゃんである藤田松吉(1853~1937)の母・タケ(1825~1904)の実家である角田(つのだ)家へ向かいます。

角田さんのお宅は玄関開けたらいきなり居間!という北海道では見られない間取り。お孫さんやたくさんのかわいい猫ちゃんに迎えられ、またもや楽しい時間を過ごさせていただきました。

f:id:dotouttan:20181103082522j:plain

こちらの角田さん、タケの兄である清蔵さんの子孫でありますが、清蔵・タケ兄妹の親については情報は得ることはできませんでした。

墓地の場所を教わりましたが、もちろん迷いながら到着。

 

千田の墓地は、やっぱり藤田さんや角田さんだらけ。

墓碑ををひととおり見て回る時間もなく、写真だけパシャパシャ撮りまくりました。でももう日暮れが近かったのでブレまくり(T_T)

やっとこさ角田さん家のお墓を発見し、家紋が「丸に松皮菱」であることは確認できましたが、藤田家についてはここには無さそうなので諦めます。

 

いよいよ家系についての最終目的地、ふたたび矢祭町へ向かいます。

途中で棚倉の八槻都々古別神社と如意輪寺へ。如意輪寺は藤田松吉が住んでいた地域の菩提寺だと思われるのですが、お墓はここにも無いようでした。

 

17時近くになり、やっとこさ関岡天神沢の真言宗泉福寺さまへ。

予定よりも1時間も遅れてしまったのにも関わらず、仏のような心でお迎えくださったご住職さま。奥様がお仕事でご不在のため、2歳と1歳のお子さんの面倒を見ながらお相手くださいまして、非常に申し訳なかったですが、いろいろなお話を伺うことが叶いまして、非常に有意義な時間でした。

「江戸期の関岡村の絵図には菊池家が3軒しかなく、いまは大勢いらっしゃる関岡の菊池家はそこから派生していったのだと考えられます」とのこと。

 

そして最後のチャレンジ。本家と思しきお宅に委任状をいただきに行きます。

最後は子どもたちを連れ立ち、子どもパワーでなんとか・・・と思ったのですが、非常に厳しい雰囲気。

でもいただくことができましたよ!

これが最終兵器だ!

 

その日は栃木の馬頭温泉に宿泊し、10年前に会津若松以来で貸切露天風呂を満喫。

娘の年頃を考えると、これが人生最初で最後の一家四人での露天風呂かなぁ、と考えるとおセンチになっちゃったりします。

f:id:dotouttan:20181103082751j:plain

 

翌日は益子町西明寺で笑い閻魔を拝顔し、

f:id:dotouttan:20181103082856j:plain

御朱印もいただきました!

f:id:dotouttan:20181103083202j:plain

 

そして茂木町まで行き、ツインリンクもてぎで遊びまくりました。

f:id:dotouttan:20181103083925j:plain

 

そしてふたたびつくばエクスプレス(今回は座れた)で東京に戻り、

夜の浅草寺や、

f:id:dotouttan:20181103083640j:plain

もんじゃ焼きを満喫。

 

最終日はスカイツリーに登り、

f:id:dotouttan:20181103083615j:plain

予約戦争で勝ち取ったカービィカフェを堪能。

f:id:dotouttan:20181103083532j:plain


そして現実に戻ってきたという4泊5日の旅でした。

 

大勢の縁戚の方々にお世話になり、本当に心に残る旅行となりました。

子どもたちにも楽しんでもらえたようですし。

 

これからまたいろいろと推察の日々が始まります!