平野家のルーツを訪ねて①
私の母方は「平野」という姓でして、家系を調べ始めた5年半前に、除籍謄本によって初めて北海道入植以前の土地が判明した家でした。
現在は北海道オホーツク地方、斜里郡小清水町に居を構えて農家を営んでおりますが、そもそもの地は「東京府北豊島郡大泉村大字小榑」。現在の練馬区西大泉付近に当たります。
なかなか現地に訪れるチャンスが無かったのですが、先月末、2泊3日の東京への出張命令が出ました!これは大チャンスです。逃すわけにはいきません。しかも一人と身軽ですし。
出張自体の目的は2日目の午後の会議です。
初日と3日目は移動日ということになります。せっかくなので朝一番の飛行機で東京へ向かい、最終日は最終の飛行機で帰ることに。
スケジュールをいろいろと勘案した結果、初日は西東京市の田無へ向かうこととしました。
田無。それは北海道に入植した平野家の祖、私から見ると高祖父である平野儀三郎(1866~1939)の実家・新倉家の地であります。
儀三郎は1866(慶応2)年に田無芝久保の新倉治兵衛の次男として生まれ、1886(明治16)年に小榑村・平野家の長女の婿養子となりました。
新倉家とは4年前にお手紙で連絡を取らせていただいた際にご返事をいただきました。儀三郎の実家を発見できたのです。
さらには分家の方にメールでの情報提供をしていただいたり、Facebookでのお付き合いもさせていただいております。
新倉家は、西東京市の図書館に文書を寄贈してくださっていたりしまして、図書館司書の方にいろいろとお世話になって儀三郎の卒業証書などをコピーして送ってくださったり、田無の明治初期の資料を探し出してくれたりしました。
・・・ということで、新倉家については基礎的な部分は、釧路に居ながらにしてある程度把握していたところです。
今回、もちろん西東京市には初めて訪れるわけです。西武線にもはじめて乗りました。
宿泊地の池袋から、西武線で約30分。乗り換えなしで行けました。着いた時にはもう16:20。夕暮れが始まる時間です。
急いで新倉家に向かいますが、道に迷いまくりました。地図も印刷して、ケータイのナビもあるというのに!自分の方向音痴に改めてびっくりです。
しかも、東京は暑い・・・。もちっとライトな服装にすればよかった・・・などと考えながら、知らない道を歩き続けます。
まともに行けば10分もかからないであろう道を30分ほどさまようと、新倉さんから電話が!あまりにも遅いので迷ってると心配いただいたようです。その通りでした。
なんとか誘導してもらい、ヘトヘトで辿りつきました。
ハーブで有名なニイクラファームを営む新倉家のたたずまいは、荘厳たるものでした。こちらの新倉さんは分家なのですが、分家でこんなでかいの?っていう感じです。さすがハーブ界に名をはせる家!サザエさんの家を彷彿とさせました。北海道の造りとまるで違うんですね。
仏間にお邪魔し、新倉さんとそのお父さんと一緒にいろいろなお話をさせていただきました。
北海道に渡ったのち、しばらくして音信不通となった儀三郎はクマに食われたことになっていたこと。
こないだお祖父さんが亡くなってしまったが、儀三郎の子孫である私の連絡がきっかけで、色々昔のことを聞くのになんとか間に合ったということ。
儀三郎の父である治兵衛以前については、よくわからないこと。ただ、次兵衛という名前であったことは判明。
いつのことかわからないが、ニイクラという名から、もともとはおそらく大陸から来たのだろうということ。
家紋は「丸に違い鷹の羽」だが、本家は「五三の桐」だということ。
そして、お祖父さんが亡くなった後、行政書士に依頼して家系図を作成されたのを見せていただきました。
戸籍から判明したことしか記載がありませんでしたので、お墓とかでもう少し情報を引き出せると思いますが、もうその日は暗くなってしまったので墓地調査はあきらめました。
また、儀三郎は次男で、この分家の新倉さんは長男・茂助の系統。
長男が早くに亡くなり、次男が養子に行ってしまったために、三男が本家を継いでいます。
しかし、新倉家の方々は儀三郎が平野家に婿養子に行ったことをご存知ありませんでした。
消息不明となった後も、新倉家の方々は儀三郎のことを気にかけてくださっていたそうです。
消息不明となった儀三郎のために、治兵衛は本家の庭の一角に祠をたてていました。
分家の新倉家を後にし、その祠があるという本家に向かいます。
途中でハーブ畑を横断しましただが、東京都内とは思えない広大な土地でした。すごいなぁ。
そして、最初にお手紙のご返信をいただいたのは本家のおばあちゃん。
本家に到着し、まずは夕闇に包まれてしまったお庭で祠に手を合わせます。
そして造園業をなさっている本家の事務所的なところで本家のおばあちゃんを交えてお話させていただきました。
とにかく新倉家の方々は温かかったです。
こんな怪しい人物に時間を割いていただき、優しく迎えてくださいました。
見知らぬ土地で心細かったところ、本当に嬉しかったです。
おばあちゃんにお別れの挨拶をし、田無駅に向かいます。
途中で新倉家が経営している駐車場などがあったり、驚きの連続でした。
帰りに田無駅前の黒潮というお店で夕飯をごちそうになりながら、またいろいろなお話を伺うことが出来ました。
新倉家の親戚には、ハワイやパリにお嫁に行った人がいるそうです。
「血縁全員調べるの無理」!と感じた瞬間でした。
全部調べるとなると大変なので、新倉さんに「いまのうちにまとめておいてください!あとお墓の写真とって送ってくださいね♪」とお願いしました。
胸がいっぱいで、せっかく御馳走していただいたのにご飯を半分くらい残してしまったのが申し訳なかったです。
最後に田無駅北口のきれいなイルミネーションを見ながら、戦中は田無も大爆撃を受けたという歴史を新倉さんにお聞きしました。
残念ながら新倉家について遡ることは叶いませんでしたけど、田無の空気や、新倉家の温かい人柄に触れられて大満足の一日目が過ぎていきます。
つづく
2012年も暮れていく
いよいよ2012年も終わりの日。
今年もいろいろなことがありました。
家系と関係ないところでは、愛車ルノー・ルーテシアが壊れ、悩んだ結果プジョー307に買い換え。
買った時点ですでに10年落ちだったので、わりに安かったです。それについに念願のマニュアルシフトです!
そして逆流性食道炎の発症。春先は日常生活が送れないほどひどい状態でした~。
つねに吐き気がする状態で、それに伴って激しい体調不良。
救急車で搬送されたり、買ったばっかりのプジョーの中で運転中に嘔吐したり・・・。思い出したくないぃぃ。
未だに完治してないんですが、だいぶ症状は緩和されました。
子どもたちはそれぞれ5歳と1歳に。
娘は幼稚園の年中に進級し、とてもお姉さんになりました。ワガママや口答えもレベルアップ!
息子はやんちゃ盛り。片づけるそばから散らかしてくれたり、なんやかんやひっくり返したり、もう大変です。
大病も無く過ごしてくれたのがなによりです。
仕事のほうは、数年がかりの一大仕事がようやくひと段落した年でした。長かったなぁ。
家系探求もいろいろなことがありました。
夏には初めて祖母の実家である女満別の太田家を訪ねたり、秋には妻の実家・山田家のルーツである青森県のむつ市を訪ねました。
青森は1泊2日の強行軍でしたが、忘れられないことばかり。
情報としては収穫はあまり無かったですが、現地の親戚の方々と触れ合えることができましたし。
あとは、宮城の方から膨大な情報を頂きました。まだ整理しきれてないですが・・・。本当にありがとうございました!です。
さらにはFacebookで改めて遠戚の方々と友達になりました。
そういえば、こないだ妻の母方曾祖母の実家である相木家の子孫の方がこのブログを読んでくださって、Facebookで友達申請してくださったのです!
なかなかコンタクトが取れない家でしたので、非常にありがたいことでした。
・・・と、ぼちぼちな1年だったかなぁ。
来年は良いことばっかりな年になりますように・・・。
みなさまも良い年をお迎えください=*^-^*=
この家紋は・・・?
以前、宮城県の方から有り難くも地籍帳などの膨大な資料をいただいたのですが、未だに整理できないでいる私です。
その資料の中で、わざわざ蔵王町や岩沼市の墓地(妻の祖先)まで赴いてくださり、さらに写真を撮ってきてくださったものがありました。
私のブログ内で見つけた名前や地名を基にお墓を探しだしてくださったのですが、とんでもなく苦労をおかけしたと思います。広大な墓地からお墓を探すのは非常に難しいことは、こないだ青森県のむつ市で経験しましたから・・・。
しかも墓地は数多くありますし、その中からよくぞ見つけてくださった!!と感服するとともに、本当に感謝していたところです。
その方は、自分の探求が行き詰ったところで、力試しで私の家系を調べてくださったそうです。
現地になかなか赴けない身としては、なんという幸運でしょうか。
しかし、私はその方の力になれそうにはないので、歯がゆかったりします・・・。何か恩返ししたいとおもいつつ、日々が過ぎてゆきます。
・・・と、そんな中、初めてみる家紋がありました。
これは、妻の祖母の祖母にあたる佐藤よの(1869~1937)の実家、岩沼市志賀の大久保家の紋です。
初めて見る紋ですが、なんという紋なのでしょう・・・?
何となく藤のような気はするのですけれど。あと、大久保の「大」でしょうかね?
北海道の太田本家からお手紙
以前、突然電話をして、知っていることを手紙に書いて送るよ!と言われていた祖母の実家・太田家の方からついにお手紙をいただけました。
その方は祖母の兄・太田之男氏の長女にあたり、私の父から見るとイトコ。女満別の本家の隣町である美幌町にお住まいです。
しかし、その存在を今まで父ちゃんの口から聞いたことがありません。そもそもかつて網走に住んでいてクルマで30分圏内にこんなに親戚が居たのに、一度たりともお会いすることはありませんでした。何か因縁でもあるんだろうか・・・?なんだか怖くて直接聞けないけど。
お手紙の内容はといえば、曽祖父以降の太田家の系図、そして知る限り茨城県つくば市の総本家の系図を書いてくださいました。
これで知らない親戚がまた膨大に増加しました。存在を確認できたハトコも14人! 私には目標があり、せめてハトコには全員会いたいっ!と目論んでいるんですが、またこれでハードルが急上昇です。
そして、どうやら茨城の本家筋には静岡県沼津で年代も不明ですが、どこかの高校の校長を務めた人物がいらっしゃるそうです。 その名は「太田藤一郎」氏。
はっきりとどういう関係かはわかっていないのですけど。 近いうちに美幌にお邪魔して、もっと詳しいお話を聞いてみたいなぁ。
下の画像は、夏に太田家を訪れた際に見せていただいた曽祖父の名刺。
肩書きが書いてあるものの良くわかりません。しかしこういった当時のモノを見ると、会うことのできなかった曽祖父への色々な思いがこみ上げてきます。一体どんな人だったんだろう・・・。
ありがとう10万カウント(≡^∇^≡)
このブログを始めて約4年半。
ついにカウンターが6ケタになりました~~(‐^▽^‐)パフォパフォ
こんななかなか需要のないブログですが、
ここまでやってくられたのも、
ブログを見て連絡をくださった縁戚の方々、
資料提供をいただいた皆様、
励ましのお言葉をかけてくださった心優しい皆様のおかげでございます。
これからも長い人生、のんびりと少しずつ家系を解明していきたいと思っております。
ただ、各系統の長老筋の方々がご存命なうちに一通りコンタクトは取っていきたいですね。
札幌駅から不慣れな乗り換えを無事に済ませ、やっと最寄りの大麻駅にたどり着いたら結構な雨降り。
ずぶぬれになりながらやっと到着!
思ったよりしょぼくてこじんまりとしててびっくりしました。
これなら釧路の図書館のほうが立派かも・・・。
いやいや、大事なのは所蔵されている史料です。
確かに旧い貴重な史料が山ほどありました。
しかし、だからといって手がかりがあるかといえばそうではありませんでした・・・。
6冊ほど読み漁りましたが手がかりは何も得られずじまい。
ちょっと期待しすぎた感が・・・。
気を取り直して、また違うアプローチで調査を試みてみようo(^-^)o
それでは、これからもこの拙いブログをよろしくおねがいします!
下北半島に渡った!②
前回のつづき・・・。
高梨を後にし田名部へ向かったのですが、せっかく青森まで来て墓地ばかりではつまらないだろうと思い、市街地で妻と娘を降ろしました。
私と1歳の息子だけで杉山家のお墓がある菩提寺、円通寺へ向かいます。
この情報はかつてお手紙をいただいた中に記載されていたものです。
ナビをセットし、いざ円通寺へ向かおうというところ、電話が鳴りました。
電話のお相手は山田本家の次男の方でした。
私たちがむつ市内に来ていると聞いて、「せっかくだから・・・」と、電話をくださったそうです。
目的地の近く、田名部の金谷に住んでいらっしゃるようで、「ひとまず杉山家のお墓参りを済ませてから伺います」と返事をし、再び円通寺へ。
ナビの通り向かうと、北海道では考えられない細い道を案内された挙句、なんかあいまいな場所で「目的地周辺です。おつかれさまでした。ポーン」と案内が終了してしまいました。
周辺をしばらく迷いつつ見回していくと、おぉ!ついにお寺がありました。
円通寺は恐山の管理もしているお寺。大きなスケールのお寺を想像していましたが、なんかこじんまりとしています。
しかしながら墓地もありましたので、何の疑いもせずに、眠ってしまった息子を抱っこしながら墓地を探索します。
しばらく探していると、杉山と書かれたお墓を1基見つけました。家紋も聞いていたのと同じ「丸に三つ柏」です。
しかし戒名が書かれているのみで、何も得ることはできませんでした。
「あぁ、何もわからなかったなぁ」と徒労感を感じながら市街地へ向かうと、なんか川の向こうに膨大な敷地の墓地とお寺らしき建物があります。
「え?もしかして今見てたとこって違うお寺??」とあわててケータイで地図を見てみると、さっき行ったところは「善宗寺」というお寺で、この膨大な敷地のほうが円通寺じゃないですか!
「やべぇ!ロスった!」もう結構な時間が流れています。
時間はもう午後3時半。妻と娘をこの見ず知らずの街に降ろしてから1時間経過しています。
さらにこの広大な円通寺に500基くらいあるお墓から、杉山家の1基を探すのはかなり時間がかかりそうです・・・。
でももう考えているヒマはありません。まだまだ深い眠りについている息子を抱っこしてダッシュ!
付近を歩いている女子高生に不審な目で見られながら、一心不乱に「杉山家」の文字を探します。
そしたら結構あるんですよね、同姓が。墓碑もチラチラ見ながら探し回りますが、なかなか見つからない・・・。
1時間近く経ち、もう諦めようと決めたとき、とつぜん息子が目を覚まして「あ~っあ~っ」と向こうを指さしました。
そちらに行ってみると・・・!
あった~~~~!!!!
すげぇ!これってまさに息子と血のつながった祖先のお導き!血のつながってない私だけだったらきっと見つからなかった!
そこには真新しい墓石と、奥に5基の旧い墓石が鎮座していました。
残念ながら旧い墓石の文字は読み取るのが困難な状態。色々なアングル、フラッシュの有無で可能な限り写真を撮ってきましたが、やっぱり読み取れませんでした。残念。。。
しかし、墓碑に戸籍謄本よりも1世代遡った名前を発見。1850(嘉永3)年に没している「杉山元右エ門」。年代から言って、現在判明している最古の祖先「杉山治郎左衛門」の父と推測されます。
それがわかっただけでも満足!
息子とともにお参りをして急いで市街地へ戻り、妻と娘を拾い、今度は金谷の山田家へ向かいます。
山田さんは道路で待っていてくれていました。
1時間ばかり世間話をし、山田さんが知る限りをまとめてくださっていた資料をいただきました。
突然の訪問となってしまいましたが、温かく迎えてくださった山田さん。ありがとうございました。
そういえば訛りで話が通じるかが不安だったんですが、むつの人たちはあんまり訛ってないですね。ちょっとアクセントが違うけど。
その後、むつ市内の「マエダ本店」という大きなスーパーで晩飯の買い出しとおみやげを少し買い、少し南下して横浜町の宿泊先へ向かいます。
むつ市内のホテルは全然空きが無かったので。
宿泊は「ペンション風の谷」。その離れのコテージを丸々お借りしました。
子どもたちは青森ではここが一番楽しかったそうです。
離れなので、なんぼ騒いでも大丈夫でしたし。
私もこういったところに宿泊するのは初めてでしたが、非常に楽しく過ごせました。
翌日は横浜の道の駅に行っておみやげを探し、さらにむつに戻って下北駅付近でおみやげを探します。
そして最終目的地、グネグネの酔いそうな道を通り、秋詣のお祭り最中である恐山へ。
夏祭りと秋詣の期間限定!イタコが居ました!
もちろん口寄せには興味がありましたが、この行列だとどれほど待つか想像もつかないので、今回は見送りです。
すこしだけ地獄に足を踏み入れましたが、時間が来たので戻ることにします。
途中、大畑のサークルK(北海道にはない)で昼食を買い、慌てて大間に戻ります。
レンタカーの返却時間である午後1時半になんとか間に合いました。
そしてまた揺れるのかなぁ・・・という不安を抱えつつフェリーに乗り込みます。
帰りは思ったよりもぜんぜん揺れませんでした。来た時はずいぶんと波が荒れてたんですね。
きれいな景色を眺めながら、いつもこんなに揺れないんだったらいいのになぁ・・・と。
これにて数々の収穫と、現地の空気を感じた下北の旅は終了!
次回は果たしていつだろうか・・・。