真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

村史を貪る

家系のインデックス

 

この間、図書館の相互貸借で、曽祖母・菊地カツ(1895~1996)の実家である藤田家が明治20(1887)年まで居た福島県西白河郡東村(現在は白河市)の村史を上下巻借りて、貪り読んでおりました。

しかしながら、こういった地誌に祖先の名を見つけることは難しいもので、私が知っているのは明治中期以降の戸籍謄本の情報のみに過ぎません。

いままで様々な地誌を読んできましたが、祖先のうちで知っている名が地誌に登場するのは、余程目立ったことをしていないと難しいんだなぁと感じています。

なにせ、せっかく江戸時代の人別帳が掲載されていたりしても、その時代を生きていた祖先の名を知りませんので、まったく特定できなかったりします。

似た名前だなぁ・・・ということはよくあるのですが。

この点在した情報を繋ぐのは容易ではないですよね・・・。

かつて当地(東村の千田というところ)に赴き、そこいらの藤田家を当てもなく尋ねつづけたことがありました。

その際、祖先である藤田清右衛門についての情報を得ることは叶いませんでしたが、「ここいらの藤田は、だいたい親戚で、家紋は下がり藤だぁ」と教えていただきました。

今回、東村史を読み進めてみても、なかなかはっきりとしたことは判りませんでしたが、各姓の由来のようなことが書いてあり、藤田の欄には「結城義綱、伊達の藤田に居り、千田に来て藤田を名乗る。」との記述を見つけました。

結城義綱(1500?~59?)。以下Wikipediaの転載。

白河結城氏10代当主。結城顕頼の嫡男で結城晴綱、小峰義親の父(義親については異説もある)。左兵衛佐。1522年に左兵衛佐に任ぜられた。 白河結城氏は、一時期佐竹氏の内紛に乗じて勢力を拡大し、佐竹氏の本拠近くまで所領を広げたが、義綱の代には佐竹氏の反攻に遭い、次第に勢力を削られていった。 天文3年(1534年)、岩城重隆の娘と嫡男晴綱との婚姻をめぐって伊達氏と対立し、伊達氏と伊達側についた蘆名・石川・二階堂・相馬氏らと争う(滑井合戦)が敗北し、岩城氏との婚儀は果たせず、所領の一部も失った。そのためか、次代の晴綱は天文の乱で伊達晴宗から田村隆顕を背後から牽制するように要請を受けたが、晴綱はそれに応じず、積極的にこの乱に参加しなかった。 天文13年(1544年)、鹿島神社別当寺である鹿王山最勝寺に銅鐘(梵鐘)を奉納した。この銅鐘は現存し、福島県内では数例、白河市内では唯一の中世の銅鐘として、歴史的価値と併せて貴重な史料となっている。鐘銘に義綱・晴綱父子の他、奉行の和知直頼と斑目広基、一族の南恵綱、新小萱篤綱、鋳物師の早山清次などの名が記されている。 1558年の書状を最後にその後の動向は不明であり、この頃に病死したと思われる。

この最後の行を鵜呑みにすると、おそらくは東村史の記述は推測や伝承の類なのかもしれませんね。