やっぱりここから
家系探求を始めてこの4年間で、私の子どもたちに関わる60以上の家系を辿ってきているわけですが、どうにもこうにももうこれ以上はわかんない!という場面に幾度となく遭遇してきました。
現地に行けさえすればまた違うんでしょうけれども、その想いが叶うのはまだまだ先のことです。
そんな中、この1か月で飛躍的に進捗があった福島県東白川郡矢祭町大字上関河内の近藤家。
・・・以上の探求の歴史があるわけですが、前回の報告におきまして歩みがストップしてしまいました。
しつこくも今一度整理してみます。
・菊地家の6代前の祖先・菊地儀平(1844~1897)の実父である近藤勝右衛門の名前が出てきていない。
・今回ご協力いただいた近藤さんでは、「祖先は数右衛門」と伝わっているものの、その名前も出てきていない。
・近藤さんの戸籍で最も遡れた祖先が、近藤義冨(1811~1890)。近藤さんのひいじいちゃん(1853~1924)は義冨の二男であり、近藤新右衛門の養子となっている。
現状では私の祖先・儀平と、近藤さんの祖先のつながりは見出せません。
やはり、あとは現地の近藤さんに託すしかありませんね・・・。
しかし、今までの情報を踏まえ、3年前の誕生日に妻に買ってもらった「矢祭町史」を繙いてみました。
おぉ、今回の謄本で知った名前が記載されている! 近藤義冨の長男は近藤邦彦(1850~1914)というお名前ですが、その邦彦さんについて、明治9(1876)年時点の上関河内村戸長として記載がありました。
以前、明治2(1868)年の上関河内村の名主が近藤数右衛門だったという文書は見つけましたが、その7年後に戸長となっている同姓の邦彦さんは、数右衛門の子息ではないかという予想をしています。
そうなると、やはり「数右衛門=義冨」となります。
近藤数右衛門義冨は、名主だった明治2年時点で57歳。
その後、明治維新の影響で?退隠し、長男の邦彦が26歳で跡を継いだと考えられます。
26歳という若さで戸長ですから、きっと名主であった父の名跡を世襲したのではないかと思っています。
ちなみに、近藤家の跡を継いだ邦彦さんの長男の長男(義冨の曾孫)の名前も「義富」。
この名前は近藤家にとって特別な名前なのでしょう。
今回の謄本によって現在のご当主も判明しましたので、近藤さんを通じてお話を伺ってみようと思います。
やっぱりまだまだあきらめるわけにはいきません! それでも勝右衛門の名前が出てくる気はしないのですが・・・。