狂おしいほど僕には悩ましい
あぁ、どの系統もさっぱり調査がすすまないよ~!
トニー!助けて~!
それならケロッグコーンフロスト!
・・・と、勢いだけの不安な書き出しで始めてしまいましたが、またいつものようにモヤモヤした記事を書き綴らせてください。
しつこいですが、私の父の父の父の父の父である菊地儀平(1844~97)は、近藤家より東舘村(福島県東白川郡矢祭町東舘字舘本)の菊地家へ婿養子として迎えられています
戸籍には「上関河内村 近藤勝右衛門 五男」とだけ書いてあり、婿入りした時期もわかりません。
長子は明治3(1870)年に生まれていますので、少なくともそれ以前ではあるでしょう
そうかぁ、ルーツをさかのぼると上関河内(かみせきごうど)の近藤という家になるんだなぁ、と初めて見たときには「ほほ~っ」と思ったものでした。
それから干支がひと廻りし、現地にも2度赴き、上関河内にお住いの2軒の近藤さんとコンタクトもとった現在・・・
いまだに7代前の祖先・近藤勝右衛門なる人物は秘密のヴェールに包まれたまま、姿を現そうとはしてくれません。
まさかこんなに苦労することとなろうとは!
以下に、今わかっていることをまとめてみます。
・上関河内の庄屋として、江戸末期~明治初期の古文書に近藤數右衛門なる人物が登場する
・かつて矢祭町の副議長を務めていた近藤誠さんの協力のもと、戸籍をさかのぼったらば文化8(1811)年生まれの「近藤義冨」という人物が最古(父欄は空欄)
・近藤誠さんのお宅は、義冨の次男・彦雄さんの系統。近藤新右エ門なる人物の養子となっている
・義冨の長男・邦彦(1850~1914)は、明治9(1876)年に上関河内の村長を務めており、現在も子孫の方が健在(いまのところコンタクトとれず)
・上関河内にもう1軒ある近藤家は、邦彦の養子・清兵衛(実家不明。1830~96)が分家して興した家。邦彦の養子ではあったが、20歳も年上!昔はそんなこともあったのかしら
ここまでわかっていたところで、ついにおととしの秋、家族旅行の合間を縫って単身で上関河内の墓地を訪ねることができたのです。
まだ家族は大子町の宿で寝静まっている朝5時20分。なんとか朝日で明るくなってきました。
そこには近藤家の墓地が3区画。上関河内に現住している3軒の近藤家のもの。
総本家である邦彦家のお墓を探ると「近藤數右衛門藤原義冨」と刻まれた墓石を発見。
戸籍にあった最古の名前である義冨は、庄屋だった數右衛門と同一人物であることが確認できました!
さらには、寛保元(1741)年没の「近藤數右衛門藤原義次」や、享保3(1718)年に父母の墓石を建立した「近藤新六藤原義高」という名も。
他にも墓石があったのですが、読み切れませんでした。無念。もう少しでも時間があればぁっ・・・!
ここまでで勝右衛門さんは未登場。もはや架空の人物ではないのかと勘ぐりはじめました。
儀平は、菊地儀右衛門家の婿養子。
たまたま名前の一字が養父と同じになったのでしょうか。
それとも近藤家に居たときは違う名前で、お婿に行ったときに儀右衛門から一字もらったのでしょうか?
儀平の戒名は「儀山良心居士」。「儀」の字が大切にされていたものだと推測されます。
子どもは「初太郎」と「幸吉」という名ですけれどね。
なお、その後も菊地家では「儀」の字を使用している様子はないです。
話を戻して、近藤家の五男。昔はもっと多くの近藤家があったのでしょうか?
もはや知る術はありません。
ただ、ずっと「上関河内の近藤家」と言いながら、上関河内「字仲町」の近藤家を調べていたのです。
もしかすると、仲町の近藤家以外にも、上関河内に近藤家があったのかもしれません。
少なくとも明治18(1885)年に編纂された仲町の地籍簿には、上記の近藤家のみが存在。
しかし、近藤邦彦の養女に下関河内・藤田清助さんの長女であるチヤウさん(邦彦と同い年で、誕生日はチヤウさんのほうが早い)という方がいらっしゃるのですが、「明治41(1908)年 上関河内字上ノ臺34番地 近藤庄吉方へ入家」と記載されているのです。
ゼンリン地図を見てみると、いまは上ノ台には近藤家は存在しないので、かつては仲町以外にも近藤家が在ったのでしょう。
捜索範囲を広げればもしかして・・・という希望と、腰の重さが同時に来る感じですね。
また、「數右衛門義冨=勝右衛門」という説もまた考えていたわけです。
なぜなら、いちばん楽に終われるから。
儀平が上関河内村から東舘村へお婿に来たのは、まだ戸籍制度ができていないころ。
東舘村では曹洞宗東慶寺で宗門人別帳的なものに追記されたりしたのでしょう。
なお、上関河内での菩提寺は「久向山積泉寺」という曹洞宗のお寺でしたが、明治9(1876)年に火事で焼失し、そのまま廃寺になっております。
そのときに、福島(ほとんど常陸ですが)の人間ですので訛って伝わったかもしれません。
「おらのとっちゃんはこんどうかんづうぇもんってんだぁ~」みたいな感じで。
「かづ→かつ」と聞き取られ、勝右衛門になっちゃったのではないだろうか?
もうこの結論でいいんじゃないか。もうやれるだけやったじゃないか。という自問自答の日々(大げさ)。
しかし、事はそんな簡単には終われないものです。
近藤邦彦の謄本には「父」としてギリギリ記されていた義冨。
邦彦の母は既に謄本におらず、墓石に小田川村・佐川平左衛門の長女である義冨の妻は、明治3(1870)年に51歳で亡くなったと彫られておりました。
儀平が生まれた弘化元(1844)年9月時点では、義冨33歳、妻24歳。
とても自然な年齢に思えます。
しかし、儀平は「五男」なのです。
後に村長となる邦彦が、儀平よりも6歳下で「長男」。
さらに追い打ちをかけるのが、義冨の長女で邦彦の姉であるユキ。
ユキさんは弘化2(1845)年3月生まれ。
先に生まれた儀平と、誕生日がたった半年しか違わないのです。
例えどんなに早産でも、さすがにこれはありえないでしょう。
余談ですがユキさんがお嫁に行ったのは45歳のとき。当時の感覚だとずいぶん遅い気がします。余計なお世話ですけど。
この感じだと、儀平の上に4人の男子がいるとは考えづらいです。
跡継ぎが邦彦だということが不自然になってしまいますし。
邦彦の前に違う母がいた、あるいはお妾さんがいたということも無いとはいえません。
なにぶん庄屋さんですし(打ち毀しにあったこともあるらしいです)。
義冨が33歳になるよりも以前に4人の男子が絶対いなかったとも言い切れません。
しかし、勝右衛門の墓石などの証拠が見つからない以上、これが結論!とはいえないのが現実。しんどい。
もしかすると戸籍の何かが間違ってるかもしれませんが、どこが違うのかは誰も教えてくれません。
たすけてカツえも~ん!なんか道具出してよ~!