さらに蕪内村
先日、福島県西白河郡蕪内村(現:白河市東蕪内)字新屋敷の地籍簿について統計をとってみたところですが、同じ蕪内の字南屋敷というところについてもご提供いただいておりました。
ここは、ひいばあちゃんのばあちゃんである藤田タツ(1846~1917)の実家、岡部家があった地ではないかと推察している場所です。
戸籍上判明しているのは、タツが蕪内村の岡部弥七(文献によっては岡部彌七という記述もあり)の次女であることのみ。弥七といえば、水戸黄門に出てくる風車の弥七を思い浮かべてしまいます。
おそらく隣の字であろう新屋敷の藤田家に嫁いだタツは、夫・藤田定藏(1840~1903)との間に少なくとも四男二女の子どもたちがいます。
ちょっと話は逸れますが、新屋敷の藤田家。
定藏の没後は長女・リヨ(1867~1911)と、その夫である千田村の角田家から婿養子に迎えた藤田忠吉(1861~1944)に任せたのでしょう。
タツは、少なくとも二男の藤田延太郎(1880~?)とともに東白川郡近津村大字下山本字松原へ転住して、そこで晩年を過ごしたようです。
その下山本松原の没地は、次女・カメ(1872~1942)の夫である藤田松吉が千田村から移り、屈斜路に渡る前の本籍地。
千田村の藤田家も同姓なため、なかなか複雑な状態ですので、ちょっと表にしてみます。
松吉一家と、義母にあたるタツは同居していたフシがありますね。松吉にとっては、19歳下の妻よりも義母であるタツのほうが歳が近い…
いまのところ、清右衛門と定左エ門、もしくは定藏との間に今のところ関係が見いだせないですね。
千田村孫八と蕪内村新屋敷というのは、地理的には▼こんな感じですね。
上の赤い部分が新屋敷で、下の赤い部分が孫八。孫八めっちゃ広い!
徒歩で約3km、40分弱あれば着く距離です。
親族かどうかの判定は、これ以上さかのぼることができるかどうかにかかっています。
・・・と、話を戻して、今も岡部家があるであろう南屋敷。
以下が宅地の所有者一覧です。
所有者 | 総坪数 |
橋本久七郎 | 884 |
岡部冨藏 | 619 |
飛知和忠左エ門 | 570 |
渡辺勇吉 | 471 |
小松平十 | 458 |
渡辺作治郎 | 440 |
渡辺廣右エ門 | 352 |
岡部林蔵 | 336 |
飛知和重左エ門 | 331 |
渡辺龍藏 | 271 |
観成院 | 156 |
一村総持 | 100 |
岡部重吉 | 95 |
一番土地持ちの橋本家は、蕪内の庄屋さんです。
岡部さんが3人。まだ岡部弥七との関わりは見出せません。
ちなみに4坪ですが、初めて見る地目「掲示場」というのがありました。村のいろいろな情報が共有されていたのでしょう。井戸端会議をしている村民たちの風景が目に浮かぶようです。
岡部姓に関しては過去にも記述しましたが、「東村史」によると「加茂を以て氏神とす。加茂県主氏にして遠祖は鴨の武津身の命なり師朝なるもの遠州敷島の郡浜松の庄岡部の郷に居り姓を岡部という」
・・・とのことで、さっぱり理解ができません。ググってもピンポイントではヒットしませんが、鴨武津身命は山城国の鴨長明とか、あとは静岡の浜松?
どういうことかしら?と思って「浜松市 岡部」で検索してみると、浜松市中区にある「伊場」という地名がでてきました。
Wikipedia曰く、「東伊場はかつて、山城国相良郡の賀茂神社の荘園で岡部郷と呼ばれていた。伊場と呼ばれるようになった時代や理由は定かではないが、賀茂神社領の斎場(いみば)であったところから「いば」に転じた。この領地を所有していた岡部氏はかつて京都上賀茂神社の神官をしていた賀茂成助にはじまり、成助の子孫にあたる賀茂師重の長女筑前局が文永年間に岡部郷を領地として賜り、筑前局の弟の孫にあたる賀茂定朝が京都からこの地に赴き土着した。国学者賀茂真淵はこの一族である。」
ここ浜松、そして京都がさらにルーツなのかも?賀茂だけに。<(_ _)>