真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

藤田家について混乱する

家系のインデックス

 

家系を探求していくにつれて、この10年間で、今のところ3系統の藤田家が出てきたわけです。しかもいずれも福島県白河地方。

 

一つ目は、高祖父の祖母である菊地ヤス(1813~99)の実家・東白川郡東舘村(現:矢祭町東舘)。

二つ目は、曾祖母である菊地カツ(1895~1996)の実家・西白河郡千田村(現:白河市東千田)→東白川郡下山本村松原(現:棚倉町下山本松原)

三つ目は、前述曾祖母のさらに母である藤田カメ(1872~1942)の実家・西白河郡蕪内村新屋敷(現:白河市東蕪内新屋敷)

 

地図で示すとこのような感じになります。

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上の青いポイントが蕪内新屋敷。

次の赤いポイントが千田孫八。新屋敷から3km(徒歩で約40分)

続いての赤いポイントが下山本松原。孫八から15km(徒歩で約3時間)

一番下の緑ポイントが矢祭東舘。松原から16km(徒歩で約3時間10分)

Googleマップで徒歩での経路を見てみると、このような感じでして、一番遠い新屋敷から東舘は約31km、徒歩で6時間20分と出ました。

 

今とはもちろん比較はできないのですが、30kmという距離。

昔の人にとってはどのくらいの感覚だったのでしょうか?

全ての藤田家が繋がるわけではないと思いますが、蕪内と千田の藤田家はもしかするのでは・・・?と勘繰っちゃったりしています。

東舘の藤田家は、関係ないような気がしますが。

 

あんまり僕の頭だと整理できないので、系図にまとめてみました。

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ふむ、少し整理できた気分♪

 

ちなみに超ステキなサイト、「人名力別館」さまによると、藤田姓の割合は以下のような感じらしいです。

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全国的に見ても、東白川郡大子町が藤田さんまみれのようです。

矢祭町下関河内(しもせきごうど)の追ヶ草に至っては、フジタ100%!

 

白河市の旧東村域でも、

11 福島県 白河市 下野出島万海(71.4% / 約20人)

20 福島県 白河市 千田孫八(62.5% / 約20人)

65 福島県 白河市 下野出島石原(39.3% / 約50人)

67 福島県 白河市 釜子日向(38.9% / 約30人)

82 福島県 白河市 千田明神前(35.7% / 約20人)

・・・と、小地域100位以内に上記がランクイン。孫八も入っています。

 

全国的に見ると30位と、割りに多めの藤田さん。

都道府県別だと福島県は22位なのに!

なぜ、ここいらに集中しているのか?

まだ調べてません(*´з`)

 

また、棚倉町史を読んでいると、下山本村についての古文書中に以下のような記述を見つけました。

文政8(1825)年7月
下山本村
百姓代 林蔵
組頭  清右衛門
組頭  長右衛門
庄屋  忠右衛門

この百姓代として名がある林蔵さんというのは、以前も書かせていただきましたが、字松原の地籍簿に出てくる名前です。この方も藤田姓。藤田林蔵さんです。

そして組頭として清右衛門という名があります。

これは、高祖父・藤田松吉の父の名。

 

姓がないのでなんともいえませんが、文政期には下山本村に住んでいた藤田清右衛門家が、ある時期に15km離れた千田村へ移り、清右衛門亡き後、戸籍上では明治20(1887)年に下山本に戻ったと考えられなくもないですね。

あるいはもしかすると、清右衛門はそのまま下山本村に居たのかもしれません。

そして末吉か松吉の結婚かなにかで千田村に・・・とか、確証がないのでめっちゃ妄想ですけれど。

しかも全然関係ない人かもしれないし。

む~、現地にもう一度行ってみないと、これ以上はわかんない!