真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

森井家の石川県時代について整理してみたりしきれなかったり

家系のインデックス

 

妻の母方、森井家

 

数十年来、森井家系の調査をしてくださっていた義母のイトコさんが急逝されてから、もうすぐ2年になります。

その間、妻の高祖父・森井半左エ門(1853~1922)の母・スエの実家である小松市菩提町の坂下家にコンタクトをとらせていただいた結果、福井県吉崎御坊との繋がりが見いだせたことにより、さらに謎が混迷してしまった状況。

 

さかのぼることは尋常じゃない難易度だと悟ったことから、ひとまず石川県在住時代の森井家について、もう一度整理してみようと思った次第。

 

まず、私がもっともさかのぼることのできた除籍謄本が以下のものでした。

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落部村の戸籍係を恨みたくなる除籍謄本

妻の高祖父・半左エ門が戸主のものですが、記載を解読してみると、

「明治●年三月五日 石川県江沼郡菩提村 森井半四郎弟半左エ門分家願済●●分籍ス 明治二十六年六月十七日 石川県江沼郡那谷村字菩提●●●●番地ヨリ転住入籍ス」

なんということでしょう。肝心なところが読めません。

 

少なくとも、那谷村より落部村へ転籍したのが明治26(1893)年であることから、来道したのがそれ以前であることはわかります。

しかし、兄・森井半四郎より分家したのがいつなのか。なぜ分家したのか。年がわからないことから、推察が困難です。

 

半左エ門の長男・森井半次郎(1882~1964)は明治15年に生まれていますが、半左エ門が大正7(1918)年に65歳で隠居した後、半次郎の戸籍には以下のように記されています。

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父・半次郎、母・タケ。

 

この母・タケ(1845~1922)の実家、髙谷家についても、なかなかにミステリアスな状況。

 

タケは弘化2(1845)年に髙谷萬兵衛とユリの長女として出生しております。

高谷家については、札幌市に落部村の明治6(1873)年2月の戸籍簿目録を明治40(1907)年に調査したものを昭和3(1928)年に書き写した文書が残されておりまして、札幌の家系仲間に調査していただけました。

その中には「郷国空欄 漁業 髙谷萬兵衛 齢56。妻・郷国陸奥津軽 ゆり 齢43。家族数 男4女3。氏神 八幡社。菩提寺 真宗浄玄寺。明治7年 男1出生」と記載されております。

数え年で記載されていると仮定して勘定すると、髙谷萬兵衛は文政元(1818)年生まれ。ゆり(戸籍上はユリ)は天保2(1831)年、津軽地方の生まれと思われます。

萬兵衛の「郷国」は空欄ですが、おそらく周りの人々を見ると、空欄の場合は野田追生まれなのかと推察されます。

野田追という地ですが、八雲町の資料によると「1596(慶長年間)年ころ、ユーラップ場所とノタオイ場所が開設される。 1764(宝暦14)年、津軽・南部から落部に漁業経営の最初の移住があった。

髙谷家は「ノタオイ場所」への最初の移住者から、ほどなくして住み着いたのかと思われます。

計算すると、長女のタケは父27歳、母14歳(!?)の時の子ども。きょうだいも4~5人居そうですね。

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そしてタケが記載されている最古の戸籍。髙谷萬兵衛のイトコにあたる髙谷福松が戸主のものです。

これを見るに、高谷萬兵衛の長女としてユリが居て、その弟として(便宜上2代目の)萬兵衛が存在。

前述の明治6(1873)年以降に2代目萬兵衛が家督相続をしているようですが、その間にタケは重太郎なる人物と結婚しております。ただ、萬兵衛の戸籍に入っていたという事実が読み取れることから、重太郎氏は婿養子なのでは?と推察しています。

そして元治元(1864)年、高谷重太郎とタケ(19)の間に長男・福松が生まれます。

さらに明治2(1869)年に長女・タマ、明治8(1875)年に次男・玉蔵、明治14(1881)年に玉太郎が生まれております。

高谷福松が分家をした明治18(1885)年1月時点、すでに重太郎氏は「亡父」とあり故人となっているようですが、名前からして玉太郎は玉蔵と同じく重太郎の息子であると考えます。

そして重太郎氏が故人となり、福松が分家をした後の明治19(1886)年に小太郎誕生。のちに認知した父は久しぶりに登場の森井半左エ門。このとき半左エ門33歳、タケ40歳。

 

ながながと綴ってしまいましたが、ここまでで少なくとも小太郎が生まれた明治19(1886)年には森井半左エ門が野田追に居たということがわかります。

 

なお、前述の明治6年戸籍簿に森井の名はありませんので、明治6年~19年のあいだに野田追に来たというところまで絞り込むことができました。

 

あとは、落部村での半左エ門の長男・森井半次郎の戸籍に母・タケとの記述。

高谷家と同じ落部村の戸籍ですし、母の名は半次郎本人が申告したのでしょうから、半次郎の母はタケということで間違いないのではないかと思っております。

・・・ということで、半次郎が生まれた10か月前の明治14(1881)年までは絞り込んでも良いのかな…?

そうなると、半左衛門は未亡人となって間がないタケを…ということに(^^ゞ

玉太郎と半次郎は父違いの年子…

 

<結論>

森井半左エ門が石川県江沼郡菩提村より来道したのは、明治6年~14年のどこか。

おそらく単身での来道。

長男・半次郎は野田追の生まれ。

 

 

そして、森井家は現在は小松市菩提町となった旧・菩提村には存在しません。

大正期に山中温泉(現在の加賀市)に移住したためです。

これは、先に調査されていた神戸市の故・森井幹男さんの資料によります。

幹男さんの資料の中には、以下のようなものもありました。

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半左エ門の兄・半四郎の子孫についての家系図なのですが、そこに住んでいたと思われる番地が記載されております。

石川県江沼郡那谷村字菩提85松番地

・・・なに?その番地!

 

ソースは何なのか、結局聞けずじまいだったのがとんでもなく悔やまれるわけですが、85松番地。半左エ門の除籍の記載を見てもそうは読めないので、半四郎の住所なのかもしれませんけれど、そんな番地があっていいものか!?

 

地図サイトで見てみると、通常の番地のほかには「リ」とか「井」とか「ロ」があったりします。石川県特有の地番のようですが、「松」は登場しません。

もしあったとしても「菩提町リ1番地」とかですので、「松85番地」となるはずです。あんまりにも謎過ぎるので、今尾恵介さん著の「番地の謎」を買って読んでみました。

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残念ながら、石川県の地番についてはさらっとしか触れられておらず、結局わからずじまい。

 

むぅ・・・菩提地区・・・手強い。

 

菩提という地名にはもちろん由来があるわけですが、幹男さんが写真を撮ってくれていました。

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菩提町の花山神社にある碑。

 

花山神社之由来

菩提町は大昔蛙子村と称された。平安時代には三枝郷に属して、白山比咩神社の勢力圏にあった。戦国時代には一向一揆の勢力下にあり、信長、秀吉の征伐によって山口宗永の領有となり、慶長5(1600)年から前田家の領となった。寛永16(1639)年大聖寺藩領になり、那谷組22か村の一として肝煎が村を治めていた。当初は戸数100戸に近く、如何なる山頭を開拓しつくし、草高も453石に及んだが、山村のこととて地味も悪く生活も困難となり、遂には僅かに7戸となり、田野は荒廃甚だしく、遂には一村退転に及ばんとした。藩主のすすめで、月津の由右エ門らがきて復興につとめ、その子孫が13戸になった。

 

花山神社の御神体に関する記述要旨

一、菩提村花山神社に奉安される御神体は4体の本像であり、皆僧形にて内1体は頭巾を冠しており、これ花山法皇様で、他の3体は待臣、藤原實定、藤原義懐、藤原惟成ならずやと。
二、花山法皇様奉葬の後、侍臣等、陵傍に草盧を結びその冥福を祈りたり、その子孫繁栄し、村を成すに至る。
三、菩提村の起源、法皇様の王柩を、法皇が丘に奉葬せる時、河原村より菩提院を此の地に移築せり、その後この地を菩提と呼ぶにいたると。


菩提の花山神社は明治の神社庁では白山神社になっていたが、明治以後菩提の心有る人は神社名の改称に努力して来たが、其の甲斐あって昭和52(1977)年正式に花山神社と命名された。

平成2(1990)年9月吉日

 

・・・原文ママです。

100戸もあった村がわずか7戸になるなんて余程のことだと思いますが、月津村(現・小松市月津地区)からの移住者の中に森井家の祖先がいるのか、それとも全然別の所から来ているのか、そこまでは突き止めたいなぁと思っています。

ただ、手次寺(浄土真宗で言うところの菩提寺)が月津の興宗寺なので、一度は月津に住んでいたことがあるのでは・・・と、さらに興宗寺はもともと福井の但馬興宗寺から分かれた寺院。

吉崎御坊、但馬朝倉氏、北前船・・・。

幾度か綴ったような気がしますが、ここら辺のワードが関わってくるのではないかと睨んでおります。坂下家も同じく・・・。