真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

久しぶりに

きのうは釧路もなかなかの雪が降りました。

すると、私と妻が仕事をしているうちに、子どもたちが家の周りを雪かきしてくれたのです!

なかなかしっかりと除雪されておりまして、こんなに頼りになるくらいに成長したんだなぁと、感慨深い思いでございました。

 

さて、さいきんは家系の調査に関してはめっきりモチベーションが下がっていたのですが、ちょびっとだけ調べてみたことがあるので綴ってみます。

妻の曾祖母・佐藤みよ(1903~91)の実家である、鳥取県鳥取市国府町荒舟の湯谷家。

といっても荒舟の湯谷のことということはないのですが、戦国時代に湯谷を名乗っていた人物について。

 

さかのぼること室町時代以前に武蔵国の広沢郷(今の埼玉県朝霞市あたり)を領していた廣澤氏という一族が居りました。

廣澤氏は、武功によって備後国三谿郡を賜りました。

その中に「和知」という地があり、そこを居所とした廣澤氏が和智姓を名乗ったようです。

 

和智一族は、その後は300年以上にわたり、足利氏、山名氏、そして尼子氏や毛利氏の家臣、そして同盟を結ぶ家として一定の地位を築きました。

 

しかし、時は戦国。第9代の当主となる和智左衛門誠春の時代になり、事件が起きます。

誠春が開いた饗宴で、大名であった毛利隆元が不審な死を遂げてしまうのです。

毒殺を疑われた誠春は、嘆き悲しんだ隆元の父である毛利元就によって厳島に押し込められましたが、ともに誠春の実弟も押し込められたのです。

その実弟こそ、湯谷又八郎久豊。なんでかわかりませんが「湯谷」を名乗っていた人物です。

 

厳島へ押し込められて半年後、和智誠春と湯谷久豊の兄弟は脱出の機会を伺い、厳島神社本殿に立て籠るという強硬策に出ます。

それにともなって神社での神事が行えないという事態に。

 

それから約1か月後、堪忍袋の緒が切れた毛利元就により、誠春も久豊も始末されてしまいました。

 

和智誠春は愛息の仇だったのがほぼ間違いなかったようですが(積極的に嫌疑を晴らそうとしなかったらしい)、誠春の息子は元就に対して誠春との親子の縁を切ることや自分は関係ないと訴えて見逃されています。和智家は見事に存続したのです。

 

しかし湯谷久豊の息子は、元就に抗ったことから誅殺されてしまいました。

悲しいことに、湯谷はここで滅ぼされております。

 

久豊が隆元謀殺に関係していたのかは不明です。兄を慕っていたのでしょうか。それとも謀殺に加担していたのでしょうか・・・。

 

この廣澤→和知→湯谷の流れが現在の荒舟湯谷家と繋がるかは不明ですが、興味深い話ではありました。

 

なお、この湯谷久豊ですが、姓は「柚谷」、名は「元家」とも云われているようです。

いったいどういう由来で「ゆたに」を名乗っていたのかが気になるところですが、和智と同じく地名由来でしょうかね?

 

ちなみに以下は、太田亮先生の「姓氏家系大事典」の和知項と湯谷項の抜粋と、勝手な意訳です。

・和知は、初め武蔵の廣澤を領して廣澤を名乗る。備前藤戸の軍功により、和知を含む12郡を賜る。和知に住んだことから、和知を名乗る

・永禄の末、和知隆實のころは毛利家に従うも厳島に押し込められ、毛利を憤らせて弟湯谷とともに滅ぼされる

 

備後国三谿郡の豪族、和知左衛門隆實の弟が湯谷又八郎久豊を名乗る

・萩原山は家原村、大谷村(広島県三次市三良坂町大谷)にかかる。享禄のころは湯谷又八郎の居所。灰塚山の福山は萩原城の子城

・鳥巣山は三玉村(三次市吉舎町三玉)にあり、赤松山城則久、また加板原佐渡の別所。一説に加板原は湯谷又八郎のこと。廣澤元家も同人なりという

・安西軍策に「高橋大九郎家臣湯谷氏」を収める