真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

森井家の移動経路を思う

家系のインデックス

 

妻の母が生まれ育った森井家

 

明治19(1886)年式戸籍編製時点では、石川県江沼郡菩提村。現在の小松市菩提町に居住していました。

その頃の戸籍筆頭者は、妻の高祖父である森井半左エ門(1853~1922)の兄である森井半四郎であったと思われます。

・・・というのも、明治19年式戸籍が80年廃棄されていたものですから、詳細が不明なのです。

 

その後、高祖父である森井半左エ門(1853~1922)の代で明治26(1893)年に北海道茅部郡落部村野田追へ転籍。

そして昭和12(1937)年に曾祖父である森井半次郎(1882~1964)の代で釧路市へと転住し、いまに至ります。

 

この石川県小松市→北海道八雲町→北海道釧路市というのが、公文書で追える森井家の移動経路。

この無機質な情報に、さまざまな肉付けをしていくのが家系探求の醍醐味ですね。

 

まず、森井という姓は小松市でいえば菩提にはおらず、ただ1軒、半四郎の子孫が市内の他の町に住んでおられます。

半四郎の本家は、大正時代に約3里離れた加賀市山中温泉へ移住し、喫茶店を営んでいたと聞き及んでいます。

 

その菩提という地。

角川地名大辞典を抜粋しますと、

大聖寺藩領。天保2(1831)年の村高454石。初期には戸数が100戸もあったが、山村のため生活が困難で逃亡者が多く、ついには7戸となり荒廃。」

・・・おぉ、ずいぶんと険しい土地であったのですね。村に残ったのが7戸とは・・・。

「月津村の由右衛門らにより復興、その子孫は13戸になったという。」

約2里ほど離れた月津(現在の小松市月津)から助っ人が来てくれたようです。ずいぶんとがんばってくれたのですね。

「『江沼志稿』(※弘化元(1844)年刊行)によれば、家数27、鍬数37。鎮守は白山社。」

やはり由右衛門さんとその子孫がががんばってくれたものの、戸数は少ない村だったようです。2000年時点でも電話帳による戸数は37戸ほどですし。

また、角川地名大辞典に鎮守として記載のある「白山社」。義母のイトコの方が、いまは花山神社となっているその社の由来を写真に収めてくれていました。

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曰く「菩提町は大昔蛙子村と称された。平安時代には三枝郷に属して、白山比咩神社(※しらやまひめじんじゃ。白山市にある加賀国一之宮)の勢力圏にあった。戦国時代には一向一揆の勢力下にあり、信長、秀吉の征伐によって山口宗永(1545~1600)の領有となり、慶長5(1600)年から前田家の領となった。寛永16(1639)年大聖寺藩領になり、那谷組22か村の一つとして肝煎が村を治めていた。当初は戸数100戸に近く、如何なる山頭を開拓しつくし、草高も453石に及んだが、山村のこととて地味も悪く生活も困難となり、遂には僅かに7戸となり、田野は荒廃甚だしく、遂には一村退転に及ばんとした。藩主のすすめで、月津の由右エ門らがきて復興につとめ、その子孫が13戸になった。」

・・・角川地名大辞典の内容をほぼ含み、さらにより詳細な事柄が彫られております。非常に貴重な資料です。

さらには花山神社の御神体に関する記述要旨も彫られていまして、

一、菩提村花山神社に奉安される御神体は4体の本像であり、皆僧形にて内1体は頭巾を冠しており、これ花山法皇(968~1008)様で、他の3体は侍臣藤原実定(1139~91)、藤原義懐(よしちか。958~1021)、藤原惟成(953~89)ならずやと。
二、花山法皇様奉葬の後、侍臣等、陵傍に草盧を結び、その冥福を祈りたり。その子孫繁栄し、村を成すに至る。
三、菩提村の起源。法皇様の王柩を法皇が丘に奉葬せる時、河原村(※加賀市河原町?)より菩提院を此の地に移築せり、その後この地を菩提と呼ぶにいたると。

かつて蛙子村だったのを、花山天皇を葬った際に菩提村と名を変えたようです。もう千年以上も前の話ですね。

 

そもそも森井の発祥は関西地方であるらしく、日本姓氏語源事典を参考にさせていただくと、県別の人口でいうと兵庫の2,800人を筆頭に、大阪1,800人、東京1,300人、三重1,200人、奈良1,100人と、トップ5のうち4つが近畿地方となっています。

また、兵庫県西部の豊岡市出石に、森井という地名があります。
兵庫に多いのは、ここが発祥だからなのかなぁと想像したり。

 

そして、太田亮氏の姓氏家系大辞典には、以下のような記述がなされています。

「神宮内宮社家。能登の社家等に見え、また伊勢、志摩、美濃、尾張、武蔵、摂津等にあり。」

ふむ、神宮内宮ということは伊勢神宮の社家。そして能登の社家。三重に多いのはこの絡みか・・・。

伊勢の神社から請われて分霊でもしたのかな?輪島市に伊勢神社があったり、サイト「八百万の神」さまによると、石川県には34もの伊勢神宮系列の神社があるようですし。ただ、小松市には無いようですが。

 

話は変わりますが、小松や加賀のあたりは「北前船」という上方(大阪)と北海道の物流を結ぶ航路の拠点でありました。

森井家は北前船となんらかの関係を持ち、関西から加賀付近に移り住んだのではないかと想像できます。

 

菩提村の歴史を見るだに、森井家が菩提村にやってきたのは荒廃から復興したのち、由右エ門の子孫が繁栄した後であるのかと思っています。

もうひとつ。北海道に来たのちの話ですが、「八雲町史」によると、明治43(1910)年に当時57歳だった森井半左エ門が落部村漁業組合の組合長となっています。

この事実が、極めて高い確率で漁業を生業にしていたということをうかがわせますね。

漁民であった森井家は、関西から加賀地方へ北前船がらみで転住し、その後に北海道の落部へ一攫千金を狙って移り住んだ。

昭和に入り、さらに上を狙って当時日本一の漁港を争っていた釧路へ来たのではないかという妄想ができるわけです。

ただ、釧路に来てからは漁業ではなく、馬喰などを生業にしていたようですが・・・

 

ふたたびさかのぼって、半四郎の妻(半左エ門の母)であるスエは、坂下家の出ということがわかっています。

かつて菩提の坂下さんにお手紙をした際、もともとは吉崎御坊福井県あわら市吉崎)に住んでいたとの情報を教えていただきました。

そして坂下の項を前述の姓氏家系大辞典で調べてみると、

「伊賀、尾張、武蔵、美濃、信濃等にこの地名あり」
「摂津島上部(名族)。武蔵都筑郡に坂下長右衛門山あり。また伊勢、志摩等に存すと。」

・・・森井と同じような地名の記述が!

もしかすると、森井家と坂下家は、ともに関西地方からやってきた旧知の仲だったのでは・・・?

森井家も吉崎を経由してきたのではないのかなど、さまざまな憶測が頭の中を暴れまわります。

こんな感じで毎日が過ぎていくわけですね~(◎_◎;)