北前船と森井家
江戸時代から明治期にかけ、「北前船」という日本国内の交易になくてはならない存在がありました。
端折って言うと、大阪から北海道まで日本海側ルートを航行し、各地の港で特産物などを売買していた船です。
当時は日本各地の特産物についての相場を知ることなぞ一般的には不可能でありましたが、ここで安く買ってあそこで高く売る!ということが、船乗りたちには可能だったんですね。
どうやら海峡を通るのは厳しいとの判断から、この比較的安全な西回りのルートが開発されたそう。
それでも遭難は多かったそうですが、それ以上に一攫千金を夢見て、この世界に入る人は多かったらしいです。
北前船のことを調べてみると、ここに綴るのがもったいない面白い話が多いので、ぜひお時間があれば調べてみてくださいね。
話は変わって、妻の母の実家である森井家。
昭和10年代に妻の曾祖父・森井半次郎(1882~1964)が釧路に来る前は、道南の落部村野田追(現在は八雲町東野地区)で漁業を営んでいたようです。
半次郎の父・半左エ門(1853~1922)が落部の漁業組合で組合長をしていたとの記述を、八雲町史に見つけることができます。
その落部に来る前、森井家の本籍は石川県江沼郡菩提村にありました。
落部への転籍は明治27(1894)年。
菩提村は現在の小松市菩提町ですので、小松市へと除籍の請求をしてみましたが、80年廃棄の罠が発動。。。がっくし。
ちなみに、落部村に来たときに編成された、現存する森井家最古の戸籍がこちら。
なんぼよく見ようとしても、達筆とは言えない・・・(>_<)
なにせ半左エ門の分家した日や、転籍前の地名がよめませんからね。
ここいらあたりはイ・ロ・ハ・・・という小字がつく、石川県特有の地名の箇所。
おそらくは「江沼郡那谷村字菩提 ○(カナ) ○○○番地」と書かれているのでしょうが、んもうさっぱりわかりません。
当時、ここまでの情報を手土産に、義母に「森井家は石川県から来たみたいだよ!」と得意満面で教えたらば、「うん、そうだよ」と。
それまで知らなかったのですが、義母のいとこである神戸在住の森井幹男さんという方が家系図を昔から作っていたそうなのです。聞いてないよ~!
伯父から幹男さんの作製された系図を見せてもらうと、けっこう調べられている!
菩提町にある森井家のお墓や、菩提寺である福井市の牛鼻山興宗寺(浄土真宗)にまで足を運んでいます!
たまらず幹男さんにお便りをしてみると、最新版の調査記録と家系図を快くご提供くださいました。
幹男さんによると、菩提町の森井家は、半左エ門の兄である半四郎が継いだものの、大正時代に山中温泉(今の加賀市)に移住。
そこで子孫の方は喫茶店を営んでいるということでした。でも昭和8(1933)年の生まれだそうで、もうさすがに引退してるかな・・・と思い、コンタクトはとっていない状態で今に至ります。
それが12年くらい前の話。いまとなっては後悔しきり。
その後、幹男さんが同窓会で釧路に里帰りした際、一度だけお会いすることができました。
会社の昼休みにいっしょにソバをすすりながら、「何で調べようと思ったの?」みたいな話をした・・・のかな?もう忘れてしまったのですが。。。
そのうち、またいろいろ聞く機会があるだろうと、なんとなく思っていたのですが・・・
2018年のお正月、一通の寒中見舞いが届きました。
それは幹男さんの息子さんから。
幹男さんが亡くなったことが書かれていました。満71歳。山登りが大好きだったそうです。
幹男さんの頭の中にあった断片的なまとまっていない記憶がこの世から失われたということです。
なんという喪失感。
まさか一度しか会えないなんて考えてもみませんでした。
結局、未だに私は小松に行ったことがないのですが、幹男さんが遺してくれた資料をたまに眺めます。
こういう資料とにらめっこしながらいろいろ聞きたいことがあったんですよね・・・
資料に森井家の本籍地が「江沼郡那谷村字菩提85松番地」って書いてあるんですが、松番地って何??っていうこととか。
菩提町にある森井の墓石に彫られている家紋が、釧路の「丸に五三の桐」とは異なり、「四本骨扇」であることとか。
しかも四本骨扇なぞ、どの家紋図鑑にもネット上にもみつかりません。
しかしもう誰も答えてはくれません。。。
森井家が「但馬興宗寺」と呼ばれている寺を菩提寺としていたということは、もともと但馬地方からやってきたのではないだろうか?
但馬地方の兵庫県豊岡市出石町には、ずばり森井という地名がありますし。
ジャパニーズドリームを夢見て船に乗るようになり、北前船で寄港地であるこの小松付近に住み着いたのではないだろうか?
でもすべては推測でしかありません。
・・・と、あらためて興宗寺のことを調べていると、「但馬」は当て字で、福井市の「田島」地区にあったから「タジマ」とつけただけみたいなことが書いてあるのを見つけてしまいました。
なんじゃそりゃ!たまたまか~!!普通に田島ってついてたら誤解しなかったのに・・・
ところで、半左エ門の兄も父も同じ森井半四郎という名。
そして父・半四郎は、同じ菩提村の坂下家からスヱを妻として迎えています。
いまも菩提町に住んでおられる坂下家の子孫の方から伺ったお話なのですが、坂下家はもともと福井の吉崎御坊に居を構えていて、なんでか菩提村に移り住んだということ。
わざわざ菩提村という辺鄙なところに移住するのには理由があるはずですが、ひとつ思い浮かぶのが、この興宗寺。
菩提村から2里ほど北に、月津村という地があります。
そこは興宗寺の第五世・円慶が隠居した地であり、のちにその隠居した掛所も興宗寺の寺号が与えられたそう。
使い分けとして、但馬興宗寺、加州興宗寺と呼ばれているらしいのです。
そして、菩提村にある花山神社の由来の碑によると、菩提村は平安時代のころ蛙子村(読み方は不明)と呼ばれており、戦国時代には山口宗永の領→1600年に前田家の領→1639年大聖寺藩領となり、その当時は100戸に近いほどの人口があったそうで、当時の石高は453石と記録されています。
しかしながら山村で、土もよくなく、不便な地であったために7戸しか残らないまでに荒廃してしまったそう。
そこで月津村から由右エ門ら何戸かが移住し、13戸まで村を建て直したと。
うむ、関西地方→吉崎御坊→月津→菩提・・・と、このような感じで移住していったのかもしれません。
幹男さんの資料には、「福井の興宗寺には過去帳は無し。月津にあるのかも」との記載があり、月津までは行かなかったことがわかります。
わたし、跡を継ぎますから!!いつか月津に行きます!いまや過去帳を見せてもらうのは高い壁になってしまいましたがね。。。
また、北海道に渡ってきた時期も不明な半左エ門。
転籍は明治27(1894)年ですが、明治19(1886)年に生まれた半次郎の弟・小太郎が、のちに半左エ門の妻となる髙谷タケ(1845~1922)の子として落部で生まれているのです(弟は最初、髙谷家の戸籍に入っていました)。
ですので、少なくともそれ以前には北海道にいたのだと思うのですが・・・
戸籍上では明治15(1882)年生まれの半次郎、どこで生まれたのか知れません。
大正7(1918)年に、父・半左エ門が隠居していまして、その際に編製された同じ落部村の戸籍には、母欄にタケと書かれています。
最古の戸籍には母についての記述は一切ないのですが、隠居の届を出すときにきっといろいろと書かされたと思うので、母が髙谷タケなのはほぼほぼ間違いないのかなと思っております。
そうすると、半次郎が生まれる1年前の明治14(1881)年には落部に移住していたのか?
あるいはもしかすると、出稼ぎ先でのロマンスだったとか・・・?それで移住を決意したとか・・・?
半左エ門の戸籍に半次郎は出生時から入っているようですし、でも弟の小太郎は髙谷の戸籍に入っているし・・・
むむぅ、妄想が暴走気味に💦
半次郎が生まれたとき、半左エ門は29歳、タケは37歳。この年齢差も、なんだか時代背景を考えるだに不思議に思うのです。
ちなみに半左エ門、隠居して2か月後に分家し、さらにその1か月後には森井家を廃家。
タケの子(タケですが、半左エ門と結婚する前は髙谷重太郎氏と結婚していました)である玉藏が継いだ髙谷家に夫婦そろって入籍という、説明がないのでまったく意図がわからないことになっています。
こういう場合は名字も髙谷になるのかな?髙谷半左エ門になっちゃったんでしょうか?
高谷家の戸籍では、続柄「継父」となっています(タケは「母」)。
その後、大正11(1922)年にタケが亡くなり、そのわずか11日後に半左エ門も68歳の生涯を終えました。
きっと仲良し夫婦だったんでしょうね。
少なくとも道立公文書館に所蔵されている明治6(1873)年の落部村戸籍簿(目次みたいなの)に髙谷家は載っていましたが、森井家は載っていないのは確認できました。その時点では半左エ門は菩提村に本籍があったのですから当然なのでしょうが。
ちょいちょいもやもやが残っている森井家。
八雲の髙谷家や加賀の山中温泉にアプローチをしてみたいところですが、時間をおいてしまったためにちょっと及び腰。
北前船についても、調べたい調べたいと思っていて、数年来ほっぽったままです。
以下は、森井家についての調査進捗状況です。