川上郡屈斜路村 菊地家跡地
今から97年前、大正2(1913)年3月。
まだまだ寒さも厳しい季節に、高祖父・菊地幸吉一家が磐城よりこの屈斜路原野に移住。
当時、御料地であったこの地で、
農業を営みながら、桶屋も兼ねていた高祖父・幸吉。
大柄な体躯を生かし、草相撲の名手であったと伝えられる。
また、無類の酒好きでもあり、酒と商品の桶を交換してしまうこともあったらしい。
家族はほとほと困っていたのではないだろうか。
大正の後期には、屈斜路菊地家は三世代16人の大家族となる。
厳しい環境である中でも、さぞや賑やかな毎日だっただろう。
昭和に入った頃、祖父と祖父の弟が火遊びをしていて、家を全焼させてしまったこともあるらしい。
そのとき大家族の菊地家はどのように凌いだのか。
曽祖父である、幸吉の長男・幸太郎は昭和11(1936)年に厳しい開拓作業と酒で体を壊し、42歳の若さで9人の子供を遺して他界。無念であったろう。一番下の娘はまだ1歳の乳飲み子だった。
その後、長男ながらも家を継ぐことを嫌い、東京へ旅立った祖父。
その間、戦争が始まり、菊地家からも何人もが戦地に赴くこととなる。
この屈斜路の地を守ることになった家族はどんな気持ち、どんな表情で二度と会えないかもしれない愛する者を送り出したのだろうか。
戦争が終わった後、独立し、屈斜路を離れるもの多数。
幸吉が帯広の三男に引き取られたのち、家業を継いだのは幸太郎の次男。
菊地家は昭和30(1955)年に屈斜路を離れ、弟子屈町美留和に移り、
屈斜路菊地家はわずか41年間で幕を閉じた。
現在、その跡地にはその面影を残すものは何も無く、元の原野に戻っている。
この地で暮らした記憶も、もう幾人しか持つものはいない。
しかし、厳しい開拓で培われた菊地家の基礎は、
気づかないうちに脈々と我々子孫に受け継がれているのだろう。