真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

戸籍地=住所とは言えない?

家系のインデックス

 

娘の吹奏楽コンクール北海道大会(小学校)が終わりまして銀賞をいただきました。

もちろん過去2年連続で金賞を受賞してきたのですから、みんなのがっかり感やショックはハンパないわけです。

でも、むしろその重圧に打ち勝ってここまでこれたのだから、これは素直にすごいこと。これからのみんなにとって意味のある銀賞だと信じています(*^-^*)

 

・・・と、いろいろあったところで、ぼんやりと考えていたのが表題のことについてです。

 

今回のお話の核となるのが、高祖父・菊地幸吉(1874~1959)の兄である菊地初太郎(1870~1942)。

 

菊地家福島県東白川郡豊里村大字東舘字舘本40番地に置いていた明治19年式戸籍は、初太郎の父である菊地儀平(1844~1897)が戸主でした。

明治30(1897)年に儀平は53歳で亡くなり、東舘の大寄にある曹洞宗東慶寺」で葬儀が行われています。

儀平の戒名は「儀山良心居士」。儀平の人となりが伝わってくる戒名です。

でももしかすると、儀平は江戸時代の生まれであり、上関河内村の近藤勝右衛門家からの婿養子でありますので、出生時は「儀平」とは違う名前があったのかもしれません。

養父の菊地儀右衛門と一文字同じなので、婿に入る際に変名したりしたのかも。

 

そんな儀平ですが、東慶寺に遺されている過去帳には「菊池初太郎父」と記載されております。

ここで「菊地」と「菊池」の混同が見られますが、我が家は文書によって混在しているのであまり気にし過ぎないようにしています。戸籍だけ「菊地」で、土地台帳や過去帳は「菊池」だったり。

言い伝えでは本家とケンカして字を変えたとか聞かされましたが、ホントのところは不明。

このころ儀平の妻であるハツ(1852~1906)は存命ですが、喪主は今とは違って家督相続人が務めたりしたのかもしれませんね。

なお、初太郎は儀平が亡くなる8か月前に、袋田村大字久野瀬の植田庄三郎家よりシモを妻として迎えております。

 

その2年後、明治32(1899)年に儀平の養母(ハツの母)である菊地ヤス(1813~1899)が86歳で大往生。その過去帳にも「菊池初太郎祖母」と記されています。

 

・・・と、ここまでは良かったんです。調べる方としては。

 

次に起こったイベントは、初太郎と幸吉兄弟の母である菊地ハツ。

明治39(1906)年に夫・儀平と同じく53歳で逝去し、同じく東慶寺で葬儀。ここまでは自然なんですけれど、その次に記載されていた「鈴木菊池孝吉母」に尋常ではない違和感を覚えるわけです。

 

「鈴木」とは?

「幸吉」ではなく「孝吉」?

なんで初太郎ではなく幸吉の名が?

 

さらには、儀平の戒名は

「儀山良心居士」なのに対し、

ハツの戒名は

「恵光妙順清信女」。

 

「居士」と対になるのは「大姉」のはず・・・。

こういっては語弊があるやもしれないのですが、夫よりも戒名的にはランクが下の「清信女」がつけられたのはいったいなぜなのか。

 

墓石でもあればいろいろ推察できたかもしれませんが、今のところ見つけられてはいないのです。

少なくとも東慶寺には現存していないことが確認できています。

いったい儀平夫妻はどこに埋葬されているのだろう・・・?

 

そんなわけで、いろいろミステリアスな状況なのが整理できたところで、もう少し考察してみます。

 

過去帳(縦書)の「鈴木」は墨書きを縦棒で消しているので、単純に間違えたのではないかと思います。

もしやして、ハツと幸吉やその子どもたちが、どこぞの鈴木家に厄介になっていたということも絶対ないとは言い切れないですけれど。

「孝吉」になっているのは、おおよそ間違いでしょうね。なんかのゲン担ぎとかで、そう名乗っていたということもあるかもですが。

 

そして喪主?が、初太郎ではない。

これはホントに???です。

 

ただ、情報を集めていくと、なんとなくの想像が・・・

 

まず土地台帳ですが、儀平の没後に初太郎が161坪の宅地(40番地)を相続しています。

しか~し!そのわずか7か月後の明治31(1898)年11月に隣家(39番地)の藤田嘉市郎(1862~?)へ売却しているのです。

この藤田 嘉市郎ですが、当時まだ存命だった儀平の義母・ヤスの兄貴の孫。初太郎からするとハトコですね。

 

この時点で、菊地家の土地が無くなってしまいました。

隣の藤田家に売却してしまってはいるものの、縁故者の手に渡っていることから、そのまま住み続けることができていたということも考えられます。

 

このまま翌年のヤスの葬儀までは、初太郎と幸吉一家は同居していた?

初太郎は明治24(1891)年、幸吉はその2年後の明治26(1894)年に親となっています。

きっと家も手狭になってきたのでしょう。

 

その次に変化があるのが、戸籍上の日付で大正元(1912)年、幸吉一家が舘本33番地へ分家。

届け出の時期しかわかりませんけれど、少なくとも福島居住の時点で兄弟は離れて暮らしていたようです。

その翌年、幸吉一家は北海道屈斜路村の御料地へ渡りました。これは郷土史による情報。

初太郎一家はその4年後に幸吉とほど近い場所へ転籍していますが、これは戸籍上の日付ですので、あるいは弟と同時に屈斜路へ渡ったのかもしれません。

 

北海道へ渡るまでの間、兄弟の暮らしぶりや場所は知れません。

 

幸吉が北海道に渡る7年前、ハツが亡くなった際に喪主が初太郎ではなかったということは、同居していなかったということになるのでしょうか。

 

ちょっと疑っているのが、たびたび登場する国会図書館デジタルコレクションに「衆議院議員選挙有権者名鑑」という明治45(1912)年の書物がありまして、その中に「宮川村 菊池初太郎」との記載があることから。

f:id:dotouttan:20190902195454j:plain

宮川村というのは、現在の茨城県久慈郡大子町にある大字矢田、川山、冥賀、高田、下野宮に当たる地区。

 

この中の下野宮という地は、初太郎が二女・タツ(1906~37)の婿として迎えた菊地酉松(1898~1964)の実家がある地であるのです。

 

酉松は大森寅松(1871~1914)の長男ですが、寅松が大森與三郎の三男であり、與三郎の長男である大森亥之吉(1863~1921)が家督を継いでいたうえ、寅松が若くして亡くなっていることから、酉松は家を継ぐ立場ではありませんでした。

 

しかし、例えば初太郎がその大森家と旧知であり、ヤスの没後からハツの没前の間に宮川村内の近くに転居したということも、かなり無理がありますが無いとは言えないんじゃないかとちょぴっと思ったり。土地売っちゃってるし。ふつうにまったくの別人であるという説が私の中で有力ですが。

 

酉松に関しては、「下野宮で大工を始めて函館に移住。函館大火後に美幌に移り住んで大工を務めあげた。タツとは恋愛結婚。」ということが伝わっております。

下野宮時代に菊地家と繋がりがあったかはまったくわからないですね。

 

なお大森家なのですが、戸籍を眺める限り明治37(1904)年に亥之吉の三女・すみが同じ下野宮の小室亥之介家へ養子に入ったあとはしばらく動きが無く、その次のイベントが大正10(1921)年に戸主である亥之吉が大宮町(今の常陸大宮市)で亡くなっているという記述。家督は長男の大森貞之丞が継いでいますが、のちに大宮町へ転籍しています。

大森家も居なくなってしまったのか・・・。

 

ちなみに初太郎の戸籍には、屈斜路転籍の2年前、大正4(1915)年に屈斜路で初太郎の孫が生まれるまでまったく地名の記載は無し。

 

初太郎の明治31(1898)年の家督相続以降、初太郎や幸吉には数名の子どもが産まれていますが、誰にも出生地の記載が無いので、みんな本籍(舘本40番地)で産まれたのかなぁ・・・?

 

まぁ・・・、何かと創造力ばかりが膨らんでしんどいっす(/・ω・)/

f:id:dotouttan:20190903193240j:plain

▲上記に綴った状況をわかり易いように系図へ落とし込んだものの、余計ごちゃごちゃして失敗した例