真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

父系近藤家について、いま一度

家系のインデックス

 

菊地儀平(1844~97)。

福島から屈斜路に入植してきた私の高祖父・菊地幸吉(1874~1959)の父親です。
私から見ると「父父父父父」。非常に大事な人物。

 

我が菊地家の戸籍は、東白川郡東舘村で編成されたこの菊地儀平が戸主のものが最古。
その儀平の欄には、「同郡上関河内村 近藤勝右衛門 五男」と記載。

上関河内(かみせきごうど)は、かつて関河内だった地が、江戸期に上下分かれた地。
現在は東舘と同じく矢祭町の大字となっております。

 

その儀平が生まれ育った近藤家

いまは彼の地に3軒の近藤姓がいらっしゃいますが、元をたどるとどのお宅も「近藤数右衛門」という、かつて上関河内の名主(庄屋)だった家をルーツとしています。

 

明治2(1869)年に近辺で打ちこわしがあったのですが、その首謀者処分の公文書中に「上関河内村 名主 數右衛門」の記載が。

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いつから近藤家が名主の立場であったかは不詳ですが、数右衛門は代々世襲のようで、旧い近藤家の墓石には寛政元(1741)年に没した「近藤數右衛門義次」の名があります。
それを鑑みると、少なくとも「近藤數右衛門」という名には120年以上の歴史があったのだと思われます。

なお、享保3(1718)年に「近藤新六藤原義高」なる人物が、父母の墓石を建立しているのが確認できた最古の記録となっています。

「近藤」という苗字だけあり、藤原姓を名乗っていますね。
この地で300年以上の歴史を刻んできている旧家です。

 

その近藤家、確認できる最古の戸籍は、近藤邦彦(1850~1914)が戸主のもの。

そしてその父として近藤義冨(1811~90)が在籍していますが、この義冨こそが前述の公文書に記載のあった近藤數右衛門その人です。

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邦彦は明治9(1876)年に上関河内村長として名があり、その時点では若干26歳でありました。

他の2軒の近藤家については、邦彦の弟が養子となった近藤新右衛門(義冨との関係は不明)家と、邦彦の養子(邦彦よりも17歳上!)が分家した家となっているようです。

 

この時点で、儀平の父として記載がある近藤勝右衛門という名は出てきていません。

儀平は五男。若くても儀平出生時で父親は30歳くらいでしょう。

30歳くらいだったと仮定すると、勝右衛門は文化10(1813)年あたりの生まれかと考えられます。

儀平の戸籍の勝右衛門については「亡」の文字が無いので、明治19年時点(当時73歳くらい?)で存命だと考えられるのですが・・・

 

子孫の方々の協力を仰がせていただき、残っている戸籍はすべて取得しているはずなのですけれどもね。

なお、儀平が菊地家に婿入りした時期は不明ですが、26歳だった明治4(1870)年に長子が生まれているので、それ以前でしょう。

壬申戸籍の編成が明治5(1871)年ですので、きっとそれよりも前となります。

当時、壬申戸籍の編製をどのように行ったのかはわかりませんが、こうなってくるとまた妄想が始まります。

 

①現在は存在しない近藤家に勝右衛門という人物が居たのでは・・・?
→上関河内の墓地では名前を見つけられず、ちょっと弱い。

 

②「かつえもん」ではなく、「かずえもん」だった
→戸籍編製時に口頭で手続きしたとするとありえる?年齢的にも儀平出生時は義冨33歳。めちゃめちゃ自然。もしくは儀平が漢字を間違えたとか・・・。

 

しかし、②については怪しい点もあります。

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儀平が弘化元(1844)年9月15日生まれ。
義冨の長女が弘化2(1845)年3月28日生まれ。

もし儀平が義冨の子であるならば、妹との出生日が半年しか違わないのです。

また、近藤邦彦は義冨の長男として記載されていますが、邦彦は五男のはずの儀平よりも6歳下。

・・・いろいろと無理が生じてきました。

 

強引に推察してみることはもちろんできます。

儀平は五男だけれども、壬申戸籍編成前に養子に出たので、籍に残っていた邦彦が長男として記載された。

妹との出生日の差も、もしも違う母親だった場合ならばありえなくもない。
名主ならばそういったことも・・・?
あるいは、出生日を間違えて登録してしまったとか。
そして、義冨が56歳、妻が48歳の時に五女が生まれているので、五女の母親は妻ではないような気がする。

 

・・・近藤家の墓石には、以下の文字が彫られています。

明治7年2月4日 二男 彦信
明治13年10月13日 三男 彦三
明治15年8月3日 四男 和義・・・

年齢が彫られていないので何とも言えませんが、明治19年戸籍編製前に亡くなった男子3人。

 

戸籍上、邦彦の長男・近藤近彦は明治8(1875)年生まれ。

男子は近彦のみで、明治16(1883)年と19(1886)年に娘が生まれています。

この墓石に彫られている二男~四男は、邦彦の子と考えるのが自然でしょうか。
しかし長男が彫られておらず、近彦は二男が亡くなった日よりもあとに生まれています。

もしかすると、義冨の子の墓石かもしれない・・・ともおもったりしています。

 

菊地家と同じく、この近藤家(というか儀平の出自)についても謎が多く残ったまま、ぜんぜん進まずやきもきしています。

 

ドラえもんのタイムマシンがあればなぁ・・・