じいちゃん47回目の命日
なかなか台風なんぞ来ない釧路でしたが、きのうは久しぶりに台風が直撃してしまいました。怖かった(*´Д`)
そのおかげで、予定していた小清水平野家のイトコの出産祝いにも、じいちゃんに会いに行ったりも、弟子屈にある菊地のじいちゃんの墓参りにも行けずじまい。
そんなきのうは、祖父・菊地幸松(1916~70)が世を去ってから丸47年の日でした。
じいちゃんについては、実はあまり知らないのです。
なにせ、生まれた時にはもう居ませんでしたから・・・。
聞いた話では、
・幼いころに屈斜路エントコマップにあった菊地家を弟(今も健在の大叔父)とともに火遊びで全焼させてしまった。
・家を継ぐのが嫌で、小学校を出てから東京に行ってしまった。
・どういうわけか、写真学校に通っていた(場所は小石川だったという大叔父の話だが、該当するところがない・・・)。
・日中戦争、太平洋戦争ともに出兵。太平洋戦争時は写真班で中国に渡り、ヤバい写真を大量に撮影してきたらしい(が、すでに処分されていて見たことはない)。
・終戦時は根室防衛戦線(独立歩兵第460大隊第1中隊)に居た。
・その後は弟子屈の町で「光写真館」を経営も、知り合いの保証人になったのが仇となり、借金をこさえて清里町に逃げる。
・再び弟子屈の町に戻り、「菊地写真館」を現在のドコモショップ弟子屈店のあたりで開業。
・酒はめっぽう弱いのに大好き(そのせいで早世)。
・・・と、こんな感じのじいちゃんのようです。
そんな中で、じいちゃんが通っていたという写真学校がどこかが気になっています。
昭和一桁のころ、東京にあったという写真学校は、
〇渋谷区・東京写真専門学校(現:東京工芸大。大正12年、じいちゃん7歳の時創立)
〇中野区・オリエンタル写真学校(昭和4年、じいちゃん13歳のとき創立)
・・・むむ、どちらも小石川からはわりかし遠いし、距離的にはどちらもそんなに変わらない感じ?土地勘がないのでわからないですが。。。
いったいどこが学び舎だったのか、いずれ歴史を漁ってみたいっす!
▲どれがじいちゃんかわからない(*_*;
▲左から2番目がじいちゃん。戦時中の写真。
▲組合に入ると、お金がかかるのですね。この「北海道写真師商業組合」っていう組合、ググっても出てきませんぜ。