真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

福島時代の菊地家年表

家系のインデックス

 

きのうは平昌オリンピック、女子団体パシュートで金メダル!

これでフィギュアの羽生選手、スピードスケート500mの小平選手とともに3つの金メダルをリアルタイムで見ることができました(#^.^#)

時差が無いのが嬉しいですね!

おそらく生中継でオリンピックの金メダル獲得を観戦したのは、1988年のソウルでバサロ鈴木大地選手の時以来、30年ぶりです(!)

 

女子パシュートの髙木姉妹は浦幌町豊頃町を挟んで3つ隣の幕別町出身。佐藤綾乃選手は釧路町を挟んで2つ隣の厚岸町出身。しかも佐藤選手は釧路北陽高出身ということで、妻の後輩にあたります(#^^#)

そして女子カーリングロコ・ソラーレは青春時代を過ごした網走市から女満別町美幌町を挟んで3つ隣の北見市出身。

もちろんわが釧路市出身者が多い女子アイスホッケーも、オリンピック初勝利などの大健闘!

身近な地の選手ばかりなので、うれしさもひとしおっす(*^▽^*)

そしてパシュート菊池彩花選手は同姓のうえ、祖先の家のひとつである相木家が発祥したと伝わっている長野県南相木村。なんかすごい~!

 

そんな折、未だに多くの謎が残されている矢祭時代の当菊地家

年表にしてみればなにか整理できるかも・・・と思い、まとめたものが以下の表です。

 

和暦 西暦 出来事
文化7 1810 9月25日、儀右衛門孝昭、菊池友元の二男(第三子)として関岡村飯野に誕生。
年代順序不明
この間の出来事
儀右衛門が関岡村もしくは東舘村、菊地本家・藤兵衛の養子となる。
少なくとも儀右衛門は東舘村に移住。
儀右衛門、東舘村・藤田傳五右衛門の長女・ヤスと婚姻。
藤兵衛逝去。
嘉永 1852 6月27日、儀右衛門(41)・ヤス(39)の長女・ハツ誕生。
文久 1862 東舘愛宕神社祭の連名簿に儀右衛門の署名あり。当時51歳
元治元 1864 儀右衛門(54)、天狗党の乱に尊攘派の大発勢として参加。投降後は下総関宿藩久世氏へ他250名余りとともに預けられる。
慶応2 1866 11月16日、儀右衛門(56)・ヤス(53)の三女・シモ誕生。
ハツ、上関河内村仲町・近藤數右衛門義冨の五男・儀平を婿養子に迎える。
明治3 1870 9月7日、儀平(25)・ハツ(18)の長男・初太郎誕生。
明治7 1874 1月13日、儀平(29)・ハツ(21)の二男・幸吉誕生。
儀右衛門隠居。儀平が家督相続。
明治19 1886 現存最古の戸籍作製される。戸主は菊地儀平。本籍地は福島県東白川郡東舘村字舘本40番地。同時期に作製された土地台帳の記載は「菊池儀平」。宅地を5畝11歩(161坪)所有。地租(税額)は26銭。
明治22 1889 明治の大合併により、東舘村は豊里村大字東舘となる。
明治23 1890 4月20日、初太郎(19)が茨城県久慈郡袋田村久野瀬・植田庄三郎の養女・シモ(21)と婚姻。
12月6日、儀右衛門(80)逝去。喪主は儀平(46)。
明治24 1891 6月25日、儀平(46)・ハツ(38)の長女・シナ誕生。
9月25日、初太郎(21)・シモ(22)の長女・サク誕生。
明治26 1893 11月24日、幸吉(19)が茨城県久慈郡生瀬村小生瀬寺地・石井庄衛門の二女・スイ(19)と婚姻。
12月10日、幸吉(19)・スイ(19)の長男・幸太郎誕生。
明治28 1895 12月13日、シモ(29)、茨城県久慈郡小里村徳田、菊池市之右エ門に嫁ぐ。
明治29 1896 12月26日、スイ(22)の父・石井庄衛門(59)一家が小生瀬から東舘字舘本53番地(土地所有者は小室守夫)に転籍。
明治30 1897 5月24日、幸吉(23)・スイ(22)の二男・髙雄誕生。
9月28日、儀平(53)逝去。喪主は初太郎(27)。
明治31 1898 2月18日、初太郎(27)が菊地家の家督相続。
11月24日、初太郎(27)が舘本40番の土地を藤田嘉市郎に売却。
明治32 1899 9月3日、ヤス(86)逝去。喪主は初太郎(28)。
明治33 1900 7月、石井庄衛門(62)一家が東舘字石田11番地の土地を購入し転籍。旅館を開業。
明治34 1901 8月17日、初太郎(30)・シモ(32)の長男・新太郎誕生。
明治35 1902 9月17日、新太郎(1)夭折。
この間に、初太郎一家が東舘を離れる?
明治39 1906 5月11日、ハツ(53)逝去。喪主は幸吉(32)。
9月20日、初太郎(36)・シモ(37)の二女・タツ誕生。
明治41 1908 4月21日、幸吉(34)・スイ(33)の長女・キク誕生。
明治42 1909 3月25日、幸吉(35)・スイ(34)の三男・勝一誕生。
明治44 1911 8月2日、幸吉(37)・スイ(37)の四男・義郎誕生。
大正元 1912 12月23日、鈴木清次郎・サク(21)の長女・タキ誕生。
12月30日、幸吉(38)一家が豊里村東舘字舘本33番地(土地所有者は上田豊松)に分家。
大正2 1913 3月、幸吉(39)一家が、東舘の他9戸とともに北海道川上郡屈斜路村御料地29番通西第105号地に入植。
大正4(1915)年
3月以前
初太郎一家が幸吉一家と一番違いの北海道川上郡屈斜路村御料地29番通西第106号地に入植。転籍は大正6(1917)年3月17日。
大正4 1915 3月5日、屈斜路村御料地29番通西第107号地乙において、鈴木清次郎・サク(23)の二女・ハナ誕生。

 

以上のうち、元治元(1864)年の「天狗党の乱」の項は、とあるサイトにて「菊池儀衛門」と記載されていたのを拡大解釈したものです。

明治35(1902)年、新太郎が夭折した地は東舘ですが、その4年後にハツが逝去した際の喪主は儀平。初太郎はその間どこにいたのか?

国会図書館デジタルライブラリーの「茨城県公民要艦(M35)-上」という、選挙権を持った人たちをまとめた本には、茨城県久慈郡宮川村の項に「菊池初太郎」とあったりするのが気にかかりますが、「初太郎」という名は1ページに二人は居るような非常に多い名前のようですので、ちょっと参考にはならないか?

そして、やはり慶応2(1866)年のシモ出生については年齢的に戸籍のとおりでは無いのかと推察したいところ。まだ未婚だった当時14歳、ハツの子ではないのかしら?

・・・と、いろいろ思いを巡らせるものの、やっぱりモヤモヤは晴れません。そだねー

福島県西白河郡東村史を改めて読んでみる

家系のインデックス

 

6年前にも記しているのですが、曾祖母・菊地カツ(1895~1996)の両親系統(千田村藤田家蕪内村藤田家岡部家角田家)が固まっている福島県西白河郡東村(現:白河市東地区)の村史を相互貸借で借りたことがあります。

このたび、改めて読み直してみて、気になった部分を抜粋してみます。

 

千田館(孫八館)
大字千田字孫八にあり、結城孫八郎左兵衛義綱(結城家第12代)住すという。法名は明舟院と号し、第11代顕頼の長男といい、また一説に仙台白河政頼の子ともいう。大永4(1524)年、仙台の藤田(伊達郡ならん)から来たともいわれている。字の名を孫八と云い、一族藤田を姓として現存している。

高祖父、藤田松吉(1853~1937)の実家がおそらく孫八かと推察しています。だとすると、もとは伊達郡(やっぱり福島ですね)だったのかも。

調べてみると、今は伊達郡国見町になっておりますが、過去に藤田村という村があったようですね。今も国見町藤田は国見の中心部として名前は健在なのですね。

 

嘉永2(1849)年の庄屋
『・千田 喜右衛門
 ・蕪内 次左衛門』

・・・うむ、誰ともつながらない。

 

姓氏について

明治5(1872)年、戸籍簿が作成され必ず苗字(姓と名前)をつけることになった。庄屋、名主が廃止され、太陽暦が採用された。同じ苗氏だから同族かといえば、そうでもない。苗氏が異なっていても、血のつながる分家もある。もう一つ、たと同族部落のようでも、祖先がただ一戸移り住んできて開発定住し、そこから漸次分家して、現在何戸かの村もある。
 旧釜子村は大字釜子字北町の野崎、我妻姓や、若栗新田、舘新田、大字千田字孫八の藤田姓、大字形見字宿の佐藤姓、字東地の我妻姓、大字栃本字尺阿見の水野谷姓、字下寺内の斉須姓、大字蕪内の岡部、飛知和姓、大字深仁井田の小松、吉田姓、大字上野出島字大竹の鈴木姓、中ノ作の深谷姓、大字下野出島字坂本の佐久間姓、字板倉の本宮姓、字石原の大平姓、藤田姓、字岩井戸の藤沢、上遠野姓、藤田姓、字坂口の遠藤、菊地姓など血族関係のなかにも同志をつのり土地を分配して、集団開発していると思われる同族の多くは、分家、ワカサレ、マケともいうが、また隠居分家、全く血縁がなくとも長く奉公をしていた人に世帯をもたせ、独立させたような場合もある。そのようなときには、苗氏のちがう「ワカサレ」も出来る。
 また結婚により同じ村に住みついているものもある。また同族部落のように見えても漸次移り住む人も戸数も増していったが、土地所有、分配の関係から系統の異なった数族がある。このような同族的組織は村落社会のなかに根強い形態をもっている。
 古い村の開発の家の系統は、たとえ一部に系図書のようなものが残っていても、その最初に村に落着いた祖先までたどれる場合がまれえ、多くは後世に作製された系図が多いようであり、実際には明確でない。従って完全な同族部落とは断じられない。また、不明(1783~88)の凶作やその他の洪水や火災の災害などで興亡をたどった処もあろうと思われる。

家臣の関係
・結城義綱公の家臣
 鈴木、我妻、市川、佐川、藤田、渡辺
・釜子長者として
 吾妻、豊田、市川、斉須、辺見、藤田、緑川、鈴木、佐川、中根、渡辺
・榊原の家臣
 吉田、石野、富田、富山、高橋、矢吹、山田、緑川、島村、藤田、関口、久保田、橋本
・白河結城の家臣
 辺見、深沢、深谷、佐藤、白岩、鈴木、大越、青木、渡辺、高橋、富山、岡部、穂積、芳賀、秋山、角田、大塚、森
・古代八十姓
 渡辺、穂積、山辺
・石川昭光の家臣
 近内、矢吹、辺見、坂本
・平家
 小松、小野、熊谷
・源氏
 辺見、飛知和、菊池、宍戸
上杉景勝の臣
 有賀、河合、外山、山口
白河城
 林、深沢、志賀、大谷、高野
藤原氏の後裔
 遠藤、近藤、佐藤、斉藤、加藤、武藤、山田』

藤田は結城義綱家臣として挙がっていますね。岡部、角田は白河結城家臣となっています。なにが違うのか?

 

東村の姓と氏
『古代に関する本村の姓氏については現在の処、調査困難であるが、姓氏紋章等を研究すれば更に判明するであろうが、徳川時代より明治初年までは、公儀即ち藩の役所へ提出する書面には農民一般には姓氏を名乗ることを許されず、明治4(1871)年に至って、姓氏を名乗ることが出来ることになった。しかし姓氏は許されていないとは云え姓氏を持っていた。またその当時他郷から来たものには、故郷の名を忘れ難く出生の土地の名を記念して姓としたもの、また移転して来たその土地や、ある人は親分子分の関係や主家の姓を貰って改めたもの、ある人は屋敷養子となって変えたものなどがあり、現在の子孫はこれらの姓を受け継いでいる。
 終戦前の民法による本家分家による姓氏の継承が行われていた。昭和23(1948)年の改正民法と戸籍法等により、結婚すると直ちに一家創立して本籍より離脱して別に本籍を取得することになって居り、此の結果姓氏の数は年々増加を見ることになった。
 本村における昭和45(1970)年12月31日現在の「姓氏」について調べた処、村全体で1,083の「姓氏」があり、この内鈴木姓が162で最も多く、藤田53、我妻40、野崎35、小松33、本宮32、佐藤31、矢吹25、大平25、菊地24、斉須21、藤沢21、八代17、角田16、飛知和16、吉田16、大竹15、橋本15、等が主な姓の順位となっている。従って今後学術的に詳細に調査研究すれば興味ある問題とも云える。

これはなかなかリアルな調査ですね。このまま突き進んでほしかった!

 

大正3(1914)年 釜子村議会議員
 角田儀三郎 大字千田
 岡部慶蔵  大字蕪内
 岡部丑蔵  大字蕪内

大正8(1919)年 釜子村議会議員
 岡部嘉蔵  大字蕪内
 藤田文治郎 大字蕪内
 藤田栄寿  大字千田

やはりこの年代になるとつながりは見出せないです。

 

ブラジル移民
昭和の初期は第一次世界大戦後の不況時代で、特に農村は戦時中、米一俵20円まで上昇したが6円台に暴落したので、多くの農家は多額の負債になやまされた。
 政府は人口問題と農村不況対策として、民族の海外雄飛を旗印にブラジル移民を奨励した。
 昭和6~9(1931~34)年にかけて、旧釜子村より多くのブラジル移民を送った。この移民は渡伯後、種々の困難に出会ったが、悲惨な結末を告げた満州移民と異なり、現状では皆順調に発展し、現在もブラジル国の住民として活動している。
 特にパラナ州アサイ市近在には、釜子出身者が集まり、毎年12月中旬頃に踊大会が催され、故郷をしのんで釜子盆踊が盛大に行われている程である。

①藤田千代治家
 大字釜子字北町出身 パラナ州アサイ市グルカイア地区在住、妻ヨシ、六男二女あり。昭和6(1931)年10月、ブエノス丸にて渡伯。グルカイア日本人会の学務委員及び組合理事をつとむ。
②藤田米吉家
 大字千田字孫八出身 昭和22(1947)年死亡。妻ミヤ 昭和16(1942)年死亡。昭和7(1932)年、ラプラタ丸にて渡伯。サンパウロ州で農業を営む。
③藤田恒要家
 大字千田出身(藤田頼光弟)、妻トミヨ。昭和7(1932)年、ラプラタ丸にて渡伯。ソロカバナ線オウリンニオス在住。精肉販売を営む。
⑥藤田佐平次家
 大字釜子字北町出身。パラナ州アサイ市グルカイア地区で死亡。妻コヨ 昭和9(1934)年8月リオ丸にて呼び寄せ渡伯。①の千代治氏は長子。藤田家一族の世話はもとより、アサイ地区に集合した釜子出身者の相談相手としてその発展に尽くす。

けっこう多くの藤田さんが東村からブラジルに渡ったようです。今もブラジルに藤田の血族がいらっしゃるのでしょうか?

 

・・・と一通り読み直してみましたが、ピンポイントに祖先を探すのではなく、改めて視野を広く時代背景なども考慮して読んでいくと、いろいろなことがわかってきた気がします。

さらに蕪内村

家系のインデックス

 

先日、福島県西白河郡蕪内村(現:白河市東蕪内)字新屋敷の地籍簿について統計をとってみたところですが、同じ蕪内の字南屋敷というところについてもご提供いただいておりました。

ここは、ひいばあちゃんのばあちゃんである藤田タツ(1846~1917)の実家、岡部家があった地ではないかと推察している場所です。

戸籍上判明しているのは、タツが蕪内村の岡部弥七(文献によっては岡部彌七という記述もあり)の次女であることのみ。弥七といえば、水戸黄門に出てくる風車の弥七を思い浮かべてしまいます。

おそらく隣の字であろう新屋敷の藤田家に嫁いだタツは、夫・藤田定藏(1840~1903)との間に少なくとも四男二女の子どもたちがいます。

 

ちょっと話は逸れますが、新屋敷の藤田家。

定藏の没後は長女・リヨ(1867~1911)と、その夫である千田村の角田家から婿養子に迎えた藤田忠吉(1861~1944)に任せたのでしょう。

タツは、少なくとも二男の藤田延太郎(1880~?)とともに東白川郡近津村大字下山本字松原へ転住して、そこで晩年を過ごしたようです。

その下山本松原の没地は、次女・カメ(1872~1942)の夫である藤田松吉が千田村から移り、屈斜路に渡る前の本籍地。

千田村の藤田家も同姓なため、なかなか複雑な状態ですので、ちょっと表にしてみます。

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松吉一家と、義母にあたるタツは同居していたフシがありますね。松吉にとっては、19歳下の妻よりも義母であるタツのほうが歳が近い…

いまのところ、清右衛門と定左エ門、もしくは定藏との間に今のところ関係が見いだせないですね。

 

千田村孫八と蕪内村新屋敷というのは、地理的には▼こんな感じですね。

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上の赤い部分が新屋敷で、下の赤い部分が孫八。孫八めっちゃ広い!

徒歩で約3km、40分弱あれば着く距離です。

親族かどうかの判定は、これ以上さかのぼることができるかどうかにかかっています。

 

・・・と、話を戻して、今も岡部家があるであろう南屋敷。

以下が宅地の所有者一覧です。

所有者 総坪数
橋本久七郎 884
岡部冨藏 619
飛知和忠左エ門 570
渡辺勇吉 471
小松平十 458
渡辺作治郎 440
渡辺廣右エ門 352
岡部林蔵 336
飛知和重左エ門 331
渡辺龍藏 271
観成院 156
一村総持 100
岡部重吉 95

一番土地持ちの橋本家は、蕪内の庄屋さんです。

岡部さんが3人。まだ岡部弥七との関わりは見出せません。

ちなみに4坪ですが、初めて見る地目「掲示場」というのがありました。村のいろいろな情報が共有されていたのでしょう。井戸端会議をしている村民たちの風景が目に浮かぶようです。

岡部姓に関しては過去にも記述しましたが、「東村史」によると「加茂を以て氏神とす。加茂県主氏にして遠祖は鴨の武津身の命なり師朝なるもの遠州敷島の郡浜松の庄岡部の郷に居り姓を岡部という」

・・・とのことで、さっぱり理解ができません。ググってもピンポイントではヒットしませんが、鴨武津身命は山城国鴨長明とか、あとは静岡の浜松?

どういうことかしら?と思って「浜松市 岡部」で検索してみると、浜松市中区にある「伊場」という地名がでてきました。

Wikipedia曰く、「東伊場はかつて、山城国相良郡の賀茂神社の荘園で岡部郷と呼ばれていた。伊場と呼ばれるようになった時代や理由は定かではないが、賀茂神社領の斎場(いみば)であったところから「いば」に転じた。この領地を所有していた岡部氏はかつて京都上賀茂神社の神官をしていた賀茂成助にはじまり、成助の子孫にあたる賀茂師重の長女筑前局が文永年間に岡部郷を領地として賜り、筑前局の弟の孫にあたる賀茂定朝が京都からこの地に赴き土着した。国学者賀茂真淵はこの一族である。」

ここ浜松、そして京都がさらにルーツなのかも?賀茂だけに。<(_ _)>

まだ地籍簿があった!~西白河郡蕪内村字新屋敷~

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また統計をとっていない地籍簿がありました。

ひいばあちゃんのお母さんである藤田カメ(1872~1942)の実家、福島県西白河郡蕪内村字新屋敷(現:白河市東蕪内新屋敷)のものです。

こちらの藤田家は2008年に訪れてご当主とお会いできたのですが、お忙しそうだったので、ご挨拶とお菓子をお渡しできたくらい。あまり情報が得られなかったのが残念でした。

以下が新屋敷の宅地所有者をまとめたものです。

所有者 総坪数
鈴木長右エ門 532
大谷吉之助 487
飛知和吉平 473
藤田円吉 438
大谷重藏 400
飛知和辰五郎 385
飛知和惣左エ門 366
山田直右エ門 303
藤田定藏 239
渡辺勇助 170
藤田三治右エ門 157
渡辺サツ 156
橋本勇右エ門 70
飛知和清治郎 58

 

鈴木、大谷、飛知和、藤田という家が大勢を占めています。

その中の藤田定藏(1840~1903)が、カメの父になります。

藤田家は、カメの姉であるリヨ(1867~1911)が、千田村の角田文吉家より婿養子の忠吉(1861~1944)を迎えて跡を継ぎました。

忠吉とリヨの間の初子・ソメ(1888年生まれ)は、字岩沢の飛知和勝四郎さんに嫁いでいますが、飛知和という姓はここ蕪内に多い姓のようですね。東京都出身の女優・吉井怜さんの本名でもあるようです。

「東村史」には飛知和姓について、『八幡を以て氏神とす。源氏の後裔たること明らかなり』とあります。

話は戻りますが、新屋敷の藤田家は、カメの夫・藤田松吉(1853~1937)の実家である前回の千田村藤田家との関連を感じさせます。角田家ともまたここでつながっています。

もともと親戚であったと考えるのが自然なのかもしれません。

ついに最後の地籍簿~西白河郡千田村~

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ここ数回、ブログにて地籍簿の解析をさせていただいてきました。

これは、宮城の増子さんよりご提供をいただいた資料。

今まで本格的に手を付けていなかったのですが、それはそれは非常に有用なものでありました。

 

明治15(1882)~25(1892)年くらいの時期に各村によってまとめられた福島県内の地籍簿はほぼ現存しており、全国的にも貴重な資料だそうです。福島グッジョブ!

 

そしてご提供をいただいたうち、地籍簿はこれが最後。

曾祖母の実家である西白河郡千田(せんだ)村(現在の白河市東千田)、藤田家があったとおもわれる字孫八。

かつて訪れた際は、あまりに時間のなさと広大な農地により、1軒だけ尋ねて、あとは探すのをあきらめた経緯があります。

 

以下が孫八の宅地所有者をまとめたもの。

所有者 坪数
藤田佐代吉 522
総持 375
藤田寅次 372
藤田清左エ門 334
藤田半之助 330
藤田半平 262
藤田勘左エ門 246

おぉ、フジタ100%!

総持というのは、村(孫八)内のみんなで保有しているということかしら?


高祖父・藤田松吉(1853~1937)は、明治20(1887)年に千田を離れて東白川郡下山本村松原(現在の棚倉町下山本)へ転籍。

松吉の父は藤田清右衛門。清右衛門の没後に長男の藤田末吉が家督を継いだようですが、明治19年式戸籍編成時点で世を去っています。

この時点で松吉もしくは末吉が土地所有者に名前が連なっていないので、清右衛門は分家して本家から土地を借りていたか、もしくはこの総持の土地が清右衛門家の土地だったのかもしれないですね。

左右が逆の清左エ門さんという名があるのが気にかかりますが・・・

 

なお、字正札(しょうふだ)部分の地籍簿もご提供いただいておりまして、正札の宅地は以下の通りでした。

所有者 坪数
角田久治 478
角田己之吉 465
矢田部吉太郎 375
矢田部寅之助 357
矢田部源藏 317
角田専太 250
矢田部粂吉 140

そう、ここは確証はないものの、藤田松吉の母である藤田タケ(1825~1904)の実家である角田(つのだ)家の実家があったと思しき地。

 

タケについては謎が多く、父母の名前も不明。弟が角田清蔵という名だということしか判明しておりません。

 

そして時期が不明ですが、現在の二本松市東新殿にある本田伴十郎の妻に嫁いだのち、ふたたび松吉の籍に戻ってきています。

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▲左が明治19年式戸籍編成時点、右が松吉の戸籍に戻ってきたあと。

 

角田家より藤田清右衛門へ嫁いで末吉・松吉兄弟を授かったのち、清右衛門の没後に本田家へ嫁ぎ、離婚して藤田家へ戻ったという感じです。

なぜそんなに遠くへ嫁いだのか?これもまたミステリー。

なお、かつて相互貸借で読んだ「東村史」には、寛政10(1798)年の千田村組頭として、「清右ヱ門」の名があります。

 

まだまだ増子さんよりご提供いただいて、解析していない資料は残っています。

宮城の増子さん、あなたは私にとっての伊達直人です<(_ _)>

福島県東白川郡矢祭町あたりの姓

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姓(苗字)といえば、地域によって特色があるのが面白いところです。

 

たとえば、私のイトコは「上野山」という姓。

わりに珍しい姓なのではと思っておりましたが、電話帳サイトなどを確認してみると、イトコの居住地である和歌山県有田市では一番多い姓だったりします。

 

また、私の伯母の旧姓は「雪下」。

かなり珍しい姓のようで、伯母の父の出身地である北海道弟子屈町、そして隣の小清水町に数件あります。

どうやら由来は鎌倉市雪ノ下だという由緒正しいきれいな姓。

今は鎌倉を離れて多くは福島県大沼郡金山町にお住まいのようで、おそらく伯母の家も北海道入植前はそこいら辺りに住んでいたのでしょうね。

 

そして、菊地家のルーツである矢祭町にも特色が。

一番多いのは「鈴木」さんなのですが、まず多いのが「菊池」さん。町では2番目に多い姓で、約12%を占めております。

そして「金沢」さん、「藤田」さん、「佐藤」さんと続くベスト5。

 

県をまたいで、お隣の茨城県久慈郡大子町にも似たような傾向があり、矢祭の1位である「鈴木」さんは4位、2位の「菊池」さんはトップ。3位の「金沢」さんは21位ですが、4位の「藤田」さんは3位、5位の「佐藤」さんは7位となっています。

 

そして矢祭の特徴的な姓を挙げていくと、

古市、古張、陣野、陳野、塙、斑目(まだらめ)、緑川、圷(あくつ)といったところでしょうか。

古張姓は矢祭町長、そしてお笑いタレントである「あばれる君」の本名だったりします。

上記の姓は、町会議員さんにも多いですね。町史にもよく出てくるお名前ですし。

 

変わって、矢祭と大子で共通しているやや多めの姓を挙げていくと、

益子、増子、高信、小室、佐川、石井、本田、本多といったところ。

苗字研究科の高信幸男先生は、ここ大子のご出身です。

石井という姓は高祖母の実家ですが、かつて探求で訪れた際、大子町の小生瀬付近に多すぎてあきらめた経緯があります。

 

そして益子さんは、大子の益子民部左衛門という方が菊池家の戸籍上に出てきます(高祖父の伯父にあたる菊池政恒の妻・ウタの父)が、徳川光圀公(水戸黄門)が歌の会を開催する会場となった家だそうです。

以下大子町史の引用ですが、

「元禄九(1696)年八月にも光圀は飯村家を訪れ、清音楼において詩歌の会を催した。十九、二十日と両日にわたって行われたが、このときは光圀が示した題にしたがって詩歌をつくるという趣向を凝らしたものであり、楼上の雅会さかんなさまがしのばれる。このあと二十四日には八溝山について詩歌をつくるという会を催し、二十六日には再び清音楼で詩歌の会が開かれている。翌二十七日には大子村益子民部左衛門宅で詩歌の会が催され、光圀は武弓山(水府村武生山)の神霊をたたえる詩をつくっている。」

・・・とのこと。年代が150年ほど隔たりがありますが、おそらく世襲の名なのかと思われます。ウタの父である民部左衛門は、慶応元(1865)年時点で大子村の山横目を務めていますが、明治元(1868)年10月、弟の勘介とともに天狗党との戦闘で戦死を遂げています。

 

すこし話が逸れましたが、私の知る戸籍では矢祭と大子は婚姻や養子縁組が多いので、県そして国(磐城と常陸)、さらには藩(棚倉藩と水戸藩)が違えど、あまり関係なかったのかな?という感じを受けました。

 

以上は各種電話帳サイトを参考とさせていただきました。感謝いたします<(_ _)>

どこの町にもこういった特色のある姓があるのでしょうから、ちょっと調べてみると面白いかもしれません(#^.^#)

 

なお、ここいらの地域から、菊地家や藤田家と同じくして屈斜路に入植したと思しき家があります。

屈斜路墓地には小浜さん、益子さん、鴨志田さん、金沢さんといった、矢祭や大子に多い姓のお墓がありますので、おそらく同志ではなかったかと想像しています。

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またもや地籍図解析~上関河内村仲町~

家系のインデックス

 

きのうは、菊地家のあった東舘村舘本の地籍簿を見てみましたが、今日は高祖父の父である菊地儀平(1844~1897)の実家、近藤家のある上関河内村仲町の地籍簿を見て見ることにします。

 

以下がまさに明治20年頃の土地所有者の羅列。

地番  所有者 地目 総坪数
1 石川傳 宅地 0 9 13 283
2 佐藤庄吉 宅地 0 8 11 251
3 佐藤与右エ門 宅地 0 6 21 201
4 滑川藤七 宅地 0 8 26 266
5 滑川平作 0 2 0 60
6 滑川平作 宅地 1 7 0 510
7 佐藤助太良 宅地 0 8 12 252
8 小滝浅右エ門 宅地 1 8 0 540
9 滑川利重 宅地 0 4 9 129
10 鈴木利右エ門 宅地 0 3 29 119
11 滑川利重 宅地 0 5 7 157
12 鈴木利右エ門 宅地 2 1 12 642
13 石川傳 宅地 0 6 12 192
14 佐藤助太良 宅地 0 7 24 234
15 佐藤平左エ門 宅地 0 7 24 234
16 石井助治郎 宅地 1 1 24 354
17 本田倉藏 宅地 1 3 7 397
18 近藤邦彦 宅地 1 4 3 423
19 鈴木文左エ門 宅地 0 6 6 186
20 鈴木巳之松 宅地 1 3 6 396
21 鈴木喜三郎 宅地 0 6 9 189
22 鈴木甚之右エ門 宅地 0 9 13 283
23 鈴木金之助 宅地 0 6 13 193
24 鈴木定右エ門 宅地 0 6 8 188
25 小滝吉兵衛 宅地 1 7 19 529
26 小滝吉兵衛 0 3 4 94
27 大滝松治郎 宅地 1 0 17 317
28 近藤邦彦 宅地 0 2 2 62
29 近藤邦彦 宅地 0 1 28 58
30 鈴木金之助 宅地 0 2 11 71
31 鈴木定右エ門 宅地 1 1 2 332
32 鈴木庄四郎 宅地 1 8 8 548
33 鈴木兵左エ門 宅地 1 2 18 378
34 本田子之吉 宅地 2 2 0 660
35 近藤邦彦 宅地 1 0 15 315
36 近藤彦雄 宅地 1 0 15 315
37 近藤邦彦 宅地 2 6 26 806
38 石井七兵衛 宅地 0 9 22 292
39 鈴木利右エ門 宅地 0 0 23 23
40 鈴木利右エ門 0 1 0 30
41 近藤邦彦 1 6 25 505
42 鈴木甚之右エ門 0 8 22 262
43 近藤邦彦 0 7 7 217
44 近藤邦彦 0 7 26 236
45 近藤邦彦 0 7 3 213
46 近藤邦彦 1 0 0 300
47 小滝吉兵衛 0 2 10 70
48 鈴木庄四郎 1 6 17 497
49 鈴木甚之右エ門 0 4 8 128
50 鈴木甚之右エ門 0 8 7 247
51 鈴木甚之右エ門 荒田 0 2 0 60
52 小滝吉兵衛 0 0 24 24
53 鈴木喜三郎 0 2 24 84
54 鈴木兵左エ門 0 4 1 121
55 鈴木利右エ門 0 3 12 102
56 鈴木庄四郎 0 6 0 180
57 鈴木定右エ門 0 0 8 8
58 鈴木庄四郎 0 0 14 14
59 鈴木定右エ門 0 0 3 3
60 鈴木庄四郎 0 1 24 54
61 近藤邦彦 山林 1 4 24 444
62 小滝吉兵衛 山林 1 5 1 451
63 近藤邦彦 山林 18 9 6 5676
64 鈴木文左エ門 山林 8 2 4 2464
65 滑川利重 山林 1 2 8 368
66 滑川利重 山林 10 3 15 3105
67 近藤邦彦 山林 21 8 20 6560
68 官有 柴山 1 6 15 495
69 - 墓地 1 5 0 450
70 鈴木定右エ門 柴山 1 3 0 390
71 官有 村社 0 6 20 200
72 大滝松治郎 山林 0 5 6 156
73 小滝吉兵衛 山林 1 5 10 460
74 近藤邦彦 山林 11 1 28 3358
75 鈴木定右エ門 山林 0 5 7 157
76 鈴木金之助 山林 1 1 6 336
77 鈴木甚之右エ門 山林 1 7 20 530
78 鈴木喜三郎 山林 1 0 0 300
79 鈴木巳之松 山林 1 8 23 563
80 鈴木文左エ門 山林 1 2 24 384
81 近藤邦彦 山林 1 8 24 564
82 本田倉藏 山林 1 8 0 540
83 石井助治郎 山林 1 9 2 572
84 佐藤平左エ門 山林 0 9 16 286
85 佐藤助太良 山林 1 0 12 312
86 石川傳 山林 1 0 12 312
87 鈴木利右エ門 山林 3 4 25 1045
88 滑川利重 山林 0 8 15 255
89 鈴木利右エ門 山林 0 8 15 255
90 滑川利重 山林 0 6 24 204
91 小滝浅右エ門 山林 2 6 2 782
92 佐藤助太良 山林 1 2 11 371
93 佐藤文右エ門 山林 0 7 4 214
94 佐藤庄吉 山林 0 8 13 253
95 石川傳 山林 0 0 24 24
96 滑川平作 山林 3 3 0 990
97 佐藤庄吉 山林 1 3 10 400
98 小滝浅右エ門 山林 3 0 20 920
99 佐藤平左エ門 山林 2 8 27 867
100 近藤邦彦 山林 16 0 18 4818
101 本田子之吉 山林 0 2 0 60
102 本田倉藏 山林 0 2 0 60
103 鈴木利右エ門 山林 0 3 10 100
104 佐藤平左エ門 山林 0 5 0 150
105 佐藤平左エ門 山林 0 4 10 130
106 近藤邦彦 山林 7 8 16 2356
107 石川傳 0 6 12 192
108 滑川藤七 0 3 10 100
109 鈴木利右エ門 0 2 15 75
110 滑川平作 0 0 10 10
111 近藤邦彦 0 3 16 106
112 鈴木甚三郎 0 1 1 31
113 鈴木甚三郎 草野 0 0 22 22

 

儀平の父ではないかと推理している庄屋・近藤數右衛門義冨(1811~1890)の戸籍上長男である近藤邦彦(1850~1914)が多くの土地を保有しています。次男の近藤彦雄(1853~1924)は宅地の一区画のみ。

邦彦さんは、明治9(1876)年時点で上関河内の村長も務めていたりするので、部落の有力者であったであろうことが容易に想像できます。

 

そして、宅地のみをまとめたものが以下。

 所有者 地目 総坪数
近藤邦彦 宅地 1664
鈴木利右エ門 宅地 784
本田子之吉 宅地 660
鈴木庄四郎 宅地 548
小滝浅右エ門 宅地 540
小滝吉兵衛 宅地 529
鈴木定右エ門 宅地 520
滑川平作 宅地 510
石川傳 宅地 475
佐藤平左エ門 宅地 435
本田倉藏 宅地 397
鈴木巳之松 宅地 396
鈴木兵左エ門 宅地 378
石井助治郎 宅地 354
大滝松治郎 宅地 317
近藤彦雄 宅地 315
石井七兵衛 宅地 292
滑川利重 宅地 286
鈴木甚之右エ門 宅地 283
滑川藤七 宅地 266
鈴木金之助 宅地 264
佐藤助太良 宅地 252
佐藤庄吉 宅地 251
佐藤助太良 宅地 234
鈴木喜三郎 宅地 189
鈴木文左エ門 宅地 186

近藤家の強大な力が一目瞭然!1,664坪って・・・(;'∀')

儀平は「近藤勝右衛門五男」なので、勝右衛門=數右衛門義冨だとすると、子どもも多かったのでしょう。

でも、儀平が1844年生まれで五男、邦彦が1850年生まれで長男なのは、母が違うからとかなのかなぁとか、戸籍から儀平以前が抜けていたからなのかなぁとか、勝右衛門と數右衛門はやっぱり別人なのかなぁとか、まだまだ謎は残ったままです。

上関河内の近藤家は、この邦彦家と分家の彦雄家だけというお話を彦雄さんの子孫から聞いたことがあるので、ますますミステリアス。