真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

菊地の本家はあるのか?

家系のインデックス

 

現在、謎が多く残ったままの菊地家

1913(大正2)年に北海道屈斜路に入植する前は、現在の福島県東白川郡矢祭町東舘字舘本に在りました。

 

手がかりを求め、かつて福島の矢祭を訪れた際の様子は、以前記したところです。

 

しかしながら、6代前のご先祖さまの出自は釈然としないまま終わってしまったのです。

その後もあんまりにも進展がないので、いま一度考察してみようと思います。

 

6代前:菊地儀右衛門:1810(文化7)~1890(明治23)

関岡村・菊池友輔の三男→東舘村・菊地藤兵衛の養子へ。

 

3年前に関岡の菊池家にお邪魔させていただき、友輔(ゆうほ:子孫の方がお持ちだった謄本には菊池友甫と記載)の子孫の方とお会いさせていただいた際、

友輔は1812(文化9)年に「神医の如し」と呼ばれた菊池友元の長男として生まれていたということが判りました。

 

儀右衛門の父は、儀右衛門の2歳年下?

父親が年下のわけがありませんので、私が戸籍謄本で得た情報とは合致しません・・・。

 

かつてこの謎について皆様に考察いただいたことがありました。

 

その菊池家は、いつのころからか肥後より関岡に移り、農業を営んでいたそうです。

友元は通称であり、本名は「菊池三寿道恒」。

1781(天明元)年に関岡村飯野に生まれ、1855(安政2)年に同地で没。

医学を学び、関岡で医師として多大な功績を残されたという記録が大変立派な墓石に刻まれていました。

 

その友元および墓石に刻まれた文について、子孫の方より資料をいただきましたので、転載させていただきます。

 

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その記録中、「友元は二男二女を授かり、長男・菊池孝恒が「友輔」を称して友元の跡を継いで医師となり、女子二人はそれぞれ菊池家と湯岐村・大森家に嫁いだ。そしてもう一人の男子・菊池孝昭は、「本宗の嗣」(一族の本家の跡継ぎ)となった」ということが書かれています。

 

儀右衛門は友輔の三男と記載されていますが、父は友輔ではなく友元の間違いではないか?

『男→女→男→女』の順とかであれば、三男として戸籍上扱われていたのでは?との推測を、かつてコメントしていただきました。

また、兄・友輔の生年と逆転していることについては、儀右衛門の生年に疑問を抱き、元号が文化ではなく文政ではないか?

文化ではなく文政7年ならば1824年となり、12歳離れた弟になります(離れすぎ?)。

 

あるいは、文化「七」年ではなく、「十」年ではなかったか。間違えそうな字ではありそうですが。

もしそうだとすると、兄・友輔孝恒が文化9年、弟・儀右衛門が文化10年生まれとなり、兄弟の年齢が自然となります。

しかし、間に女子が入らないと三男になりませんので、年子の間にもう一人居るというのはまた不自然・・・。

当時の戸籍は今よりは適当だったでしょうから、何かが間違っているのでしょうが、もうそれを知る術はありません。

 

また、友元の墓に刻まれていた中で、「本宗の嗣」となった菊池孝昭が儀右衛門にあたるのではないか、

儀右衛門が養子に入った東舘の菊地藤兵衛家が一族の総本家だったのではないかという推測も・・・。

 

矢祭を訪れた際、友輔の子孫である(おそらく)遠縁の方にお世話になったのですが、

その方の家には大量の古文書「菊池文書」が伝わっていて、

「時間があるとき手がかり探してみるよ」とおっしゃっていただきました。

ただ、古文書なのでかなり読むのに時間がかかるとも・・・。

 

あれから音沙汰はなく、こちらから連絡するのもためらっている次第です。

 

矢祭滞在の最後のときには、東舘にある曹洞宗東慶寺を訪れました。

ご住職は、どこの馬の骨ともわからない私の急なお願いを聞き入れてくださって、

過去帳を探してくださいました。

 

しかし車に妻子を残したままでしたので、無礼にも住職を急かしてしまう形に。

その短時間の中で藤兵衛の名は見つかりませんでしたが、

儀右衛門夫妻と、儀右衛門の長女の婿養子(私の5代前のご先祖)儀平夫妻の戒名は見つけることができました。

 

儀右衛門の戒名は『光雲慈明居士』

院号などはありませんでしたが、なにか清々しさを感じる戒名です。

先に推測した中の「孝昭」の「孝」の字が「光」の字に、「昭」の字が「明」に当たるのではないかとも思ったりしています。だとすると、読みは「たかあき」ですね。

 

その妻・ヤス(1813~99)は『秋雲智光大姉』

夫婦ともに「雲」の字が共通。戒名の中の「雲」の字にはどのような意味が込められているのでしょうか。「ヤス」に対応する文字が戒名に無いので、戸籍名とは異なる名前を名乗っていたかもしれません。「秋」で「アキ」とか、「光」で「ミツ」とか。

 

また、娘婿・儀平(1844~97)の戒名は『儀山良心居士』

どんな人柄であったかが如実に表れているような気がします。

 

その妻であり、儀右衛門の長女・ハツ(1852~1906)は『恵光妙順清信女』

7文字の戒名・・・。しかも「信女」だと、儀平の「居士」と対にならない・・・?。

 

最後に、儀右衛門の養父・藤兵衛から始まる菊地家は、戸籍上だと儀平の息子である高祖父世代以降はみんな屈斜路に渡っています。

儀平以前はみんな東舘で没しています。

本家が確認できない状態なのです。

 

しかしながら、私が知らないだけで、戸籍に出てこない藤兵衛の実の子供たちが本家を継いでいているかもしれません。

 

昔、祖父の弟が菊地家のことを調べ、何度か本家を訪れて歓迎されたという話も伝わっています。

ただし、20年ほど前に亡くなった際に資料がすべて捨てられてしまったため、詳細は分からなくなってしまいました。

 

もし子孫の方が俗名を知らなくとも、上に記した戒名ならば何か手がかりとなってくれるのでは・・・という気持ちもあります。

 

再来年(2013年)の2月、菊地家は屈斜路に入植して100周年を迎えます。

その記念すべき年に向け、また本格的に探求すべくアクションを起こしていこうと考えているところです。