真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

飯島家と牛縊

家系のインデックス

 

昨年10月にお世話になった、曾祖母の実家であるつくば市上里の飯島家

つくば市になる前に発行された豊里町史を読んでいると、以下のような記述を見つけました。

『元禄之時宇、仙台領ニ入ル、吉沼五千石之領中ニ入ル也、文禄之検地之石高、弐百十八石也、一、元禄十五年之検地之石高、四百壱石参升四合也、
 文禄四年の中務大輔当知行目録に「百三十九石九斗壱升九合八匁 うしくひり」とあり、佐竹義久に宛がわれていた。遍照院は真言宗鹿島神社は旧村社。
 「古書ノ写シ 当村発起調 常陸国筑波郡牛頭利村」(上里区・飯島一成家文書)は、牛縊村の古来からの歴史を同家の先祖・飯島与十郎が集めて明治十四(1881)年までのことを記述したものである。
 それによると、寿永年間(1384~92)に牛にかかわる事件があったので、それから牛頭利村となったという伝承を述べている。また戦国時代末の下妻・多賀谷修理大夫支配当時の村高は133石2斗、村名は牛子生村となっていたという。慶長7(1602)年
271石2斗、元和7(1621)年、寛永11(1634)年縄入(検地)は354石7斗6升であった。
 江戸時代初期、中期は天領あるいは旗本・菅谷氏知行所であったが、元禄郷帳の村高は401石3升4合であり、元文5(1740)年以降は一部の天領と数人の旗本の相給支配の村となり、以後、切添新田のような小規模の耕地の増かもなく廃藩置県に至っている。
 遍照院の境内には三基の石造・六地蔵燈籠があり、いずれも室町時代のもので、町指定の文化財になっている。
 「ウシクビ」は「牛首、丑首、牛縊(ウシクビリ)で、牛首状の狭く長い地形、牛の頭と首の象形語」であり、牛縊村(吉沼村大字牛縊、現在の豊里町大字上里)の形も牛首の形をしている。』

 

曾祖母の実家である飯島家は分家で、近くにさらに本家があるらしいので、おそらくこの文中に出てくる与十郎さんが本家の人なのかもしれません。こういった歴史的なことをまとめていることから、おそらく相当前からこの地に住んでいるのでしょう。

そしてうちの飯島家の祖先には、飯島太十郎(1828~96。明治14年時点で53歳)がいるので、そっくり名前がいかにも関係ありそうな雰囲気です。

 

・・・と、そんなことを綴っている今、5年生の娘が所属している部活(金管部)の卒業アルバムと卒業記念DVDを作製している真っ最中でございます。

娘が4年生のときに入部してから、フリーダムに写真を撮りまくっていた結果、そんなことになりましたね。

そんなわけで、今年に入ってからはそちらに全力投球しているところ。

家系に関する動きはしばらく完全に停止です。

今まで引っ張ってくれて来た6年生たちに喜んでもらえるようにけっぱってます!