真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

森の家紋はやっぱり鶴の丸!

家系のインデックス

 

10月12日、台風19号が南海に及び、小雨がそぼ降る山形・大蔵村

「日本で最も美しい村連合」に加盟している村といえども、こんなに暗雲がたれこめている雰囲気では、残念ながら美しさを堪能することができませんね。

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前日につたや肘折ホテルさんで、郷土料理の芋煮や米沢牛を堪能させていただいた菊地家一行。

 

「金兵衛」を屋号とするホテルの若旦那・柿﨑雄一氏の思し召しにより、義母の母の父の母・柿﨑タケノ(1883~1941)の実家である、南山字木遠田の森家へ伺うことが叶いました。

 

この森家。10年以上前にお便りをさせていただき、奥様よりご返事をいただいたお宅です。

そのご返事には、

・ご当主が若くして亡くなり、奥様と息子さん夫婦+お孫さんで暮らされていること

・住居はタケノの父・森栄助(1853~1928)本人が建てたらしく、大工に弟子入りして一人前になってからの最初で最後の仕事(!)

・家紋は鶴の丸、宗派は曹洞宗

・亡くなった当主は、祖先の名であり、屋号でもある「長右衛門」という名

・それ以上詳しいことはわからない

 

・・・と、このようなことまではご教示いただいておりました。

 

今回、その奥様と10年越しの初対面と相成ったわけです!しかも朝の8時半というこっぱやい時間でお会いいただけるということで、キツキツスケジューラーにとっては非常にありがたいことです。

 

まずお宅に到着して驚いたのが、だだっ広い土間。

北海道では土間というのは一般的じゃないですから、子どもたちも「なんじゃあこりゃあ!」と、ジーパン刑事的なリアクションですよ。

そして150年の歴史を感じる風合いの広い居間、仏間!

ついに妻のひいひいひいじいちゃんが建てた家を拝むことができました!

 

大蔵村といえば本州屈指の豪雪地帯。

その雪に150年も耐えてきたなんて、なんて頑丈に造られているのでしょう。

栄助さん、この一軒だけで大工を辞めてしまったなんてもったいない!

 

なお、森さんは薪ストーブをもう焚いてらっしゃいました。ちなみに私は半袖Tシャツです。

 

いろいろとお話を聞いていくうえで、大きな情報を得ることはできませんでしたが、備忘録的に箇条書きをしてみます。

 

・森家は(お寺の)過去帳を紐解くと、300年以上前から木遠田に住んでいたようだ

・森という家は南山にもう一軒あるが、どうやら親戚ではないらしい(村内の5%以上が柿崎姓なのと対照的に、村には森姓は4~5軒しかない)

・息子さんはもがみ農協、一番下のお孫さんは村役場に勤めている

・栄助の妻・マツ(1854~1925)は南山の小関家から嫁いできたが、この小関家についてはどこだかわからない。ただ、近くに小関九郎右衛門を祖とする小関という家がある

カメムシが大量発生し、家の中も外もカメムシだらけ。この地方では「ヘクサンボ」というらしい。捕まえてストーブにくべていた

 

・・・といったところでしょうか。最後のは私的に衝撃を受けた事柄ですが。

 

森という姓は大蔵村が属していた新庄藩の資料にも散見されまして、山形県内では最上地方に多くみられる姓のようです。

電話帳サイトで2007年の森家分布を数えてみたらば、635軒中407軒と、約6割強が最上地方に集中しています。

大蔵村からすぐ北の新庄市に最も多い107軒、隣の舟形町にも39軒が密集していますが、大蔵村にはたった4軒・・・

果たしてこれが何を意味しているのか!!?はたまたたまたまなのか!?どうなんでしょうね~(;'∀')

 

森家は前述しましたが、屋号は長右衛門。

大蔵村史によると、明治9(1876)年の時点で木遠田の土地を所有していたのは、

・森長右衛門
・小関九郎右衛門
・柿崎権兵衛

この3名であったようです。柿崎権兵衛についてはきのうのブログに綴りましたが、タケノの義父(夫・運次郎の父)にあたりますし、小関九郎右衛門という名を発見して、これが栄助の妻・マツの実家じゃないかしら!?近いところに住んでるし!と疑ったりしていたのですが、森さんの奥様はご存じではないようでした。

 

いろいろと興味深いお話をさせていただき、大蔵村名産のトマトやドーナッツなどでおもてなしを受けたりと、非常に密度の濃いわずか約50分の滞在。

もっともっとお話を伺いたかったのですが、私がギッチギチのスケジュールを立てた張本人なので、仕方なく後ろ髪を引っ張られながらも次のスケジュールへと転換しなくてはなりませぬ。

またぜひともお目にかかりたい、暖かいご家庭でございました。

 

その後、雨が本降りとなった塩集落の墓地にて、森家のお墓と対面が叶ったのです。

10年前に教わった家紋、鶴の丸。

ひとくちに言っても、家紋にはいろいろなバリエーションがありますから、いったいどんな鶴の丸かと思って10年来過ごしてきました。

そしたらば、なかなかに朽ちていますが、これはまごうことなきオーソドックスな鶴の丸。

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これは、織田信長の家臣だった森可成と同じ紋。

可成の一族は、源義家の7男・義隆が森姓を名乗って以来の流れにあります。たぶん。

この森氏は美濃に始まり、播磨や備中のあたりに所領があったようなのですが、山形方面どころか東北の地名はさっぱり出てきません。

 

いったい、この森家はどのようないきさつでここ南山に土着したのか。

まずは新庄藩の資料を漁ってみるところからはじめようかしら・・・。

 

やっぱりそう簡単には歩をすすめることができないものです。

そう思っていても、釧路にいたんじゃあなかなかそんな資料にお目にかかることなんぞ叶いませんぜ!

せいぜい国会図書館のデジタルライブラリーが精いっぱいですが、あんまり新庄藩でヒットしない・・・(*´з`)

 

いや!少しでも望みがあるのであれば・・・ぼちぼちがんばろう。