真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

まだ地籍簿があった!~西白河郡蕪内村字新屋敷~

家系のインデックス

 

また統計をとっていない地籍簿がありました。

ひいばあちゃんのお母さんである藤田カメ(1872~1942)の実家、福島県西白河郡蕪内村字新屋敷(現:白河市東蕪内新屋敷)のものです。

こちらの藤田家は2008年に訪れてご当主とお会いできたのですが、お忙しそうだったので、ご挨拶とお菓子をお渡しできたくらい。あまり情報が得られなかったのが残念でした。

以下が新屋敷の宅地所有者をまとめたものです。

所有者 総坪数
鈴木長右エ門 532
大谷吉之助 487
飛知和吉平 473
藤田円吉 438
大谷重藏 400
飛知和辰五郎 385
飛知和惣左エ門 366
山田直右エ門 303
藤田定藏 239
渡辺勇助 170
藤田三治右エ門 157
渡辺サツ 156
橋本勇右エ門 70
飛知和清治郎 58

 

鈴木、大谷、飛知和、藤田という家が大勢を占めています。

その中の藤田定藏(1840~1903)が、カメの父になります。

藤田家は、カメの姉であるリヨ(1867~1911)が、千田村の角田文吉家より婿養子の忠吉(1861~1944)を迎えて跡を継ぎました。

忠吉とリヨの間の初子・ソメ(1888年生まれ)は、字岩沢の飛知和勝四郎さんに嫁いでいますが、飛知和という姓はここ蕪内に多い姓のようですね。東京都出身の女優・吉井怜さんの本名でもあるようです。

「東村史」には飛知和姓について、『八幡を以て氏神とす。源氏の後裔たること明らかなり』とあります。

話は戻りますが、新屋敷の藤田家は、カメの夫・藤田松吉(1853~1937)の実家である前回の千田村藤田家との関連を感じさせます。角田家ともまたここでつながっています。

もともと親戚であったと考えるのが自然なのかもしれません。

ついに最後の地籍簿~西白河郡千田村~

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ここ数回、ブログにて地籍簿の解析をさせていただいてきました。

これは、宮城の増子さんよりご提供をいただいた資料。

今まで本格的に手を付けていなかったのですが、それはそれは非常に有用なものでありました。

 

明治15(1882)~25(1892)年くらいの時期に各村によってまとめられた福島県内の地籍簿はほぼ現存しており、全国的にも貴重な資料だそうです。福島グッジョブ!

 

そしてご提供をいただいたうち、地籍簿はこれが最後。

曾祖母の実家である西白河郡千田(せんだ)村(現在の白河市東千田)、藤田家があったとおもわれる字孫八。

かつて訪れた際は、あまりに時間のなさと広大な農地により、1軒だけ尋ねて、あとは探すのをあきらめた経緯があります。

 

以下が孫八の宅地所有者をまとめたもの。

所有者 坪数
藤田佐代吉 522
総持 375
藤田寅次 372
藤田清左エ門 334
藤田半之助 330
藤田半平 262
藤田勘左エ門 246

おぉ、フジタ100%!

総持というのは、村(孫八)内のみんなで保有しているということかしら?


高祖父・藤田松吉(1853~1937)は、明治20(1887)年に千田を離れて東白川郡下山本村松原(現在の棚倉町下山本)へ転籍。

松吉の父は藤田清右衛門。清右衛門の没後に長男の藤田末吉が家督を継いだようですが、明治19年式戸籍編成時点で世を去っています。

この時点で松吉もしくは末吉が土地所有者に名前が連なっていないので、清右衛門は分家して本家から土地を借りていたか、もしくはこの総持の土地が清右衛門家の土地だったのかもしれないですね。

左右が逆の清左エ門さんという名があるのが気にかかりますが・・・

 

なお、字正札(しょうふだ)部分の地籍簿もご提供いただいておりまして、正札の宅地は以下の通りでした。

所有者 坪数
角田久治 478
角田己之吉 465
矢田部吉太郎 375
矢田部寅之助 357
矢田部源藏 317
角田専太 250
矢田部粂吉 140

そう、ここは確証はないものの、藤田松吉の母である藤田タケ(1825~1904)の実家である角田(つのだ)家の実家があったと思しき地。

 

タケについては謎が多く、父母の名前も不明。弟が角田清蔵という名だということしか判明しておりません。

 

そして時期が不明ですが、現在の二本松市東新殿にある本田伴十郎の妻に嫁いだのち、ふたたび松吉の籍に戻ってきています。

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▲左が明治19年式戸籍編成時点、右が松吉の戸籍に戻ってきたあと。

 

角田家より藤田清右衛門へ嫁いで末吉・松吉兄弟を授かったのち、清右衛門の没後に本田家へ嫁ぎ、離婚して藤田家へ戻ったという感じです。

なぜそんなに遠くへ嫁いだのか?これもまたミステリー。

なお、かつて相互貸借で読んだ「東村史」には、寛政10(1798)年の千田村組頭として、「清右ヱ門」の名があります。

 

まだまだ増子さんよりご提供いただいて、解析していない資料は残っています。

宮城の増子さん、あなたは私にとっての伊達直人です<(_ _)>

福島県東白川郡矢祭町あたりの姓

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姓(苗字)といえば、地域によって特色があるのが面白いところです。

 

たとえば、私のイトコは「上野山」という姓。

わりに珍しい姓なのではと思っておりましたが、電話帳サイトなどを確認してみると、イトコの居住地である和歌山県有田市では一番多い姓だったりします。

 

また、私の伯母の旧姓は「雪下」。

かなり珍しい姓のようで、伯母の父の出身地である北海道弟子屈町、そして隣の小清水町に数件あります。

どうやら由来は鎌倉市雪ノ下だという由緒正しいきれいな姓。

今は鎌倉を離れて多くは福島県大沼郡金山町にお住まいのようで、おそらく伯母の家も北海道入植前はそこいら辺りに住んでいたのでしょうね。

 

そして、菊地家のルーツである矢祭町にも特色が。

一番多いのは「鈴木」さんなのですが、まず多いのが「菊池」さん。町では2番目に多い姓で、約12%を占めております。

そして「金沢」さん、「藤田」さん、「佐藤」さんと続くベスト5。

 

県をまたいで、お隣の茨城県久慈郡大子町にも似たような傾向があり、矢祭の1位である「鈴木」さんは4位、2位の「菊池」さんはトップ。3位の「金沢」さんは21位ですが、4位の「藤田」さんは3位、5位の「佐藤」さんは7位となっています。

 

そして矢祭の特徴的な姓を挙げていくと、

古市、古張、陣野、陳野、塙、斑目(まだらめ)、緑川、圷(あくつ)といったところでしょうか。

古張姓は矢祭町長、そしてお笑いタレントである「あばれる君」の本名だったりします。

上記の姓は、町会議員さんにも多いですね。町史にもよく出てくるお名前ですし。

 

変わって、矢祭と大子で共通しているやや多めの姓を挙げていくと、

益子、増子、高信、小室、佐川、石井、本田、本多といったところ。

苗字研究科の高信幸男先生は、ここ大子のご出身です。

石井という姓は高祖母の実家ですが、かつて探求で訪れた際、大子町の小生瀬付近に多すぎてあきらめた経緯があります。

 

そして益子さんは、大子の益子民部左衛門という方が菊池家の戸籍上に出てきます(高祖父の伯父にあたる菊池政恒の妻・ウタの父)が、徳川光圀公(水戸黄門)が歌の会を開催する会場となった家だそうです。

以下大子町史の引用ですが、

「元禄九(1696)年八月にも光圀は飯村家を訪れ、清音楼において詩歌の会を催した。十九、二十日と両日にわたって行われたが、このときは光圀が示した題にしたがって詩歌をつくるという趣向を凝らしたものであり、楼上の雅会さかんなさまがしのばれる。このあと二十四日には八溝山について詩歌をつくるという会を催し、二十六日には再び清音楼で詩歌の会が開かれている。翌二十七日には大子村益子民部左衛門宅で詩歌の会が催され、光圀は武弓山(水府村武生山)の神霊をたたえる詩をつくっている。」

・・・とのこと。年代が150年ほど隔たりがありますが、おそらく世襲の名なのかと思われます。ウタの父である民部左衛門は、慶応元(1865)年時点で大子村の山横目を務めていますが、明治元(1868)年10月、弟の勘介とともに天狗党との戦闘で戦死を遂げています。

 

すこし話が逸れましたが、私の知る戸籍では矢祭と大子は婚姻や養子縁組が多いので、県そして国(磐城と常陸)、さらには藩(棚倉藩と水戸藩)が違えど、あまり関係なかったのかな?という感じを受けました。

 

以上は各種電話帳サイトを参考とさせていただきました。感謝いたします<(_ _)>

どこの町にもこういった特色のある姓があるのでしょうから、ちょっと調べてみると面白いかもしれません(#^.^#)

 

なお、ここいらの地域から、菊地家や藤田家と同じくして屈斜路に入植したと思しき家があります。

屈斜路墓地には小浜さん、益子さん、鴨志田さん、金沢さんといった、矢祭や大子に多い姓のお墓がありますので、おそらく同志ではなかったかと想像しています。

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またもや地籍図解析~上関河内村仲町~

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きのうは、菊地家のあった東舘村舘本の地籍簿を見てみましたが、今日は高祖父の父である菊地儀平(1844~1897)の実家、近藤家のある上関河内村仲町の地籍簿を見て見ることにします。

 

以下がまさに明治20年頃の土地所有者の羅列。

地番  所有者 地目 総坪数
1 石川傳 宅地 0 9 13 283
2 佐藤庄吉 宅地 0 8 11 251
3 佐藤与右エ門 宅地 0 6 21 201
4 滑川藤七 宅地 0 8 26 266
5 滑川平作 0 2 0 60
6 滑川平作 宅地 1 7 0 510
7 佐藤助太良 宅地 0 8 12 252
8 小滝浅右エ門 宅地 1 8 0 540
9 滑川利重 宅地 0 4 9 129
10 鈴木利右エ門 宅地 0 3 29 119
11 滑川利重 宅地 0 5 7 157
12 鈴木利右エ門 宅地 2 1 12 642
13 石川傳 宅地 0 6 12 192
14 佐藤助太良 宅地 0 7 24 234
15 佐藤平左エ門 宅地 0 7 24 234
16 石井助治郎 宅地 1 1 24 354
17 本田倉藏 宅地 1 3 7 397
18 近藤邦彦 宅地 1 4 3 423
19 鈴木文左エ門 宅地 0 6 6 186
20 鈴木巳之松 宅地 1 3 6 396
21 鈴木喜三郎 宅地 0 6 9 189
22 鈴木甚之右エ門 宅地 0 9 13 283
23 鈴木金之助 宅地 0 6 13 193
24 鈴木定右エ門 宅地 0 6 8 188
25 小滝吉兵衛 宅地 1 7 19 529
26 小滝吉兵衛 0 3 4 94
27 大滝松治郎 宅地 1 0 17 317
28 近藤邦彦 宅地 0 2 2 62
29 近藤邦彦 宅地 0 1 28 58
30 鈴木金之助 宅地 0 2 11 71
31 鈴木定右エ門 宅地 1 1 2 332
32 鈴木庄四郎 宅地 1 8 8 548
33 鈴木兵左エ門 宅地 1 2 18 378
34 本田子之吉 宅地 2 2 0 660
35 近藤邦彦 宅地 1 0 15 315
36 近藤彦雄 宅地 1 0 15 315
37 近藤邦彦 宅地 2 6 26 806
38 石井七兵衛 宅地 0 9 22 292
39 鈴木利右エ門 宅地 0 0 23 23
40 鈴木利右エ門 0 1 0 30
41 近藤邦彦 1 6 25 505
42 鈴木甚之右エ門 0 8 22 262
43 近藤邦彦 0 7 7 217
44 近藤邦彦 0 7 26 236
45 近藤邦彦 0 7 3 213
46 近藤邦彦 1 0 0 300
47 小滝吉兵衛 0 2 10 70
48 鈴木庄四郎 1 6 17 497
49 鈴木甚之右エ門 0 4 8 128
50 鈴木甚之右エ門 0 8 7 247
51 鈴木甚之右エ門 荒田 0 2 0 60
52 小滝吉兵衛 0 0 24 24
53 鈴木喜三郎 0 2 24 84
54 鈴木兵左エ門 0 4 1 121
55 鈴木利右エ門 0 3 12 102
56 鈴木庄四郎 0 6 0 180
57 鈴木定右エ門 0 0 8 8
58 鈴木庄四郎 0 0 14 14
59 鈴木定右エ門 0 0 3 3
60 鈴木庄四郎 0 1 24 54
61 近藤邦彦 山林 1 4 24 444
62 小滝吉兵衛 山林 1 5 1 451
63 近藤邦彦 山林 18 9 6 5676
64 鈴木文左エ門 山林 8 2 4 2464
65 滑川利重 山林 1 2 8 368
66 滑川利重 山林 10 3 15 3105
67 近藤邦彦 山林 21 8 20 6560
68 官有 柴山 1 6 15 495
69 - 墓地 1 5 0 450
70 鈴木定右エ門 柴山 1 3 0 390
71 官有 村社 0 6 20 200
72 大滝松治郎 山林 0 5 6 156
73 小滝吉兵衛 山林 1 5 10 460
74 近藤邦彦 山林 11 1 28 3358
75 鈴木定右エ門 山林 0 5 7 157
76 鈴木金之助 山林 1 1 6 336
77 鈴木甚之右エ門 山林 1 7 20 530
78 鈴木喜三郎 山林 1 0 0 300
79 鈴木巳之松 山林 1 8 23 563
80 鈴木文左エ門 山林 1 2 24 384
81 近藤邦彦 山林 1 8 24 564
82 本田倉藏 山林 1 8 0 540
83 石井助治郎 山林 1 9 2 572
84 佐藤平左エ門 山林 0 9 16 286
85 佐藤助太良 山林 1 0 12 312
86 石川傳 山林 1 0 12 312
87 鈴木利右エ門 山林 3 4 25 1045
88 滑川利重 山林 0 8 15 255
89 鈴木利右エ門 山林 0 8 15 255
90 滑川利重 山林 0 6 24 204
91 小滝浅右エ門 山林 2 6 2 782
92 佐藤助太良 山林 1 2 11 371
93 佐藤文右エ門 山林 0 7 4 214
94 佐藤庄吉 山林 0 8 13 253
95 石川傳 山林 0 0 24 24
96 滑川平作 山林 3 3 0 990
97 佐藤庄吉 山林 1 3 10 400
98 小滝浅右エ門 山林 3 0 20 920
99 佐藤平左エ門 山林 2 8 27 867
100 近藤邦彦 山林 16 0 18 4818
101 本田子之吉 山林 0 2 0 60
102 本田倉藏 山林 0 2 0 60
103 鈴木利右エ門 山林 0 3 10 100
104 佐藤平左エ門 山林 0 5 0 150
105 佐藤平左エ門 山林 0 4 10 130
106 近藤邦彦 山林 7 8 16 2356
107 石川傳 0 6 12 192
108 滑川藤七 0 3 10 100
109 鈴木利右エ門 0 2 15 75
110 滑川平作 0 0 10 10
111 近藤邦彦 0 3 16 106
112 鈴木甚三郎 0 1 1 31
113 鈴木甚三郎 草野 0 0 22 22

 

儀平の父ではないかと推理している庄屋・近藤數右衛門義冨(1811~1890)の戸籍上長男である近藤邦彦(1850~1914)が多くの土地を保有しています。次男の近藤彦雄(1853~1924)は宅地の一区画のみ。

邦彦さんは、明治9(1876)年時点で上関河内の村長も務めていたりするので、部落の有力者であったであろうことが容易に想像できます。

 

そして、宅地のみをまとめたものが以下。

 所有者 地目 総坪数
近藤邦彦 宅地 1664
鈴木利右エ門 宅地 784
本田子之吉 宅地 660
鈴木庄四郎 宅地 548
小滝浅右エ門 宅地 540
小滝吉兵衛 宅地 529
鈴木定右エ門 宅地 520
滑川平作 宅地 510
石川傳 宅地 475
佐藤平左エ門 宅地 435
本田倉藏 宅地 397
鈴木巳之松 宅地 396
鈴木兵左エ門 宅地 378
石井助治郎 宅地 354
大滝松治郎 宅地 317
近藤彦雄 宅地 315
石井七兵衛 宅地 292
滑川利重 宅地 286
鈴木甚之右エ門 宅地 283
滑川藤七 宅地 266
鈴木金之助 宅地 264
佐藤助太良 宅地 252
佐藤庄吉 宅地 251
佐藤助太良 宅地 234
鈴木喜三郎 宅地 189
鈴木文左エ門 宅地 186

近藤家の強大な力が一目瞭然!1,664坪って・・・(;'∀')

儀平は「近藤勝右衛門五男」なので、勝右衛門=數右衛門義冨だとすると、子どもも多かったのでしょう。

でも、儀平が1844年生まれで五男、邦彦が1850年生まれで長男なのは、母が違うからとかなのかなぁとか、戸籍から儀平以前が抜けていたからなのかなぁとか、勝右衛門と數右衛門はやっぱり別人なのかなぁとか、まだまだ謎は残ったままです。

上関河内の近藤家は、この邦彦家と分家の彦雄家だけというお話を彦雄さんの子孫から聞いたことがあるので、ますますミステリアス。

引き続き地籍簿の解析~舘本~

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私の祖先・菊地家について、最古の戸籍は福島県東白川郡東舘村舘本のもの。

その舘本は、古くから村の中心部であったようで、地籍簿を見てみるとほぼ宅地となっています。

現在も矢祭町役場があるあたり、それは今も変わっていないのだと感じているところ。

 

先日に続き、宮城の増子さんよりご提供いただいた明治20年前後の地籍簿で名前を拾ってみたところ、以下のようになりました。

持主名 総坪数
髙信甚右エ門 2 5 37 787
金沢藤右エ門 1 14 27 747
金沢鶴吉 2 4 19 739
鈴木又兵エ 2 4 0 720
小室卯之吉 2 3 28 718
鈴木太市 1 7 17 527
鈴木政助 1 5 17 467
髙信平次郎 1 4 8 428
斑目喜左エ門 0 12 28 388
松本兵右エ門 1 2 10 370
鈴木源右エ門 1 1 25 355
本多庄太郎 1 1 24 354
藤田助十 1 1 22 352
菊池吉之右エ門 1 0 29 329
塩沢新之助 1 0 20 320
菊池冨次郎 0 9 41 311
髙信吉松 1 0 0 300
金沢七左エ門 0 9 23 293
鈴木四方之助 0 9 12 282
小室子之吉 0 9 1 271
佐藤義仙 0 8 31 271
鈴木徳太郎 0 9 1 271
鈴木源次兵エ 0 8 27 267
髙信甚蔵 0 8 27 267
小室利右エ門 0 8 20 260
金沢重右エ門 0 8 11 251
髙信甚平 0 7 26 236
斑目寅之助 0 7 24 234
落合八十吉 0 7 18 228
髙信政四郎 0 7 17 227
髙信初太郎 0 7 3 213
斎藤太藏 0 7 0 210
鈴木忠右エ門 0 6 17 197
藤田嘉平 0 6 16 196
菊池慶藏 0 5 23 173
落合夘平 0 5 12 162
菊池儀平 0 5 11 161
髙信平治右エ門 0 5 6 156
髙信五左エ門 0 5 0 150
金沢弥市郎 0 4 0 120
石井長左エ門 0 3 20 110
鈴木ヨテ 0 3 20 110
鈴木佐吉 0 3 18 108
宇佐美祐之 0 3 13 103
丹羽成章 0 2 25 85

苗字研究家の高信幸男先生と同じ苗字の高信さんが一番多くの宅地を保有しています。

私の祖先である菊地儀平(1844~97)は161坪。地籍簿では菊池姓になっています。今の感覚からするととても広いですが、ランキングにしてみると、上には上がいっぱいいる様子です。

菊池さんがあまり多くないところを見ると、やっぱり本貫は隣村の関岡であるのかなぁ、と考えちゃったり。

ちなみに、高祖父である菊地幸吉(1874~1959:儀平の次男)は、結婚後に舘本の別地番へ転籍していますが、その地番の持ち主は小室さんでした。借りてたんですね。

なお、この儀平の土地は、儀平の明治30(1897)年の没後に長男・初太郎(1870~1942)が相続したのち、わずか半年で藤田嘉市郎なる人物に譲渡しています。

藤田姓の人物なので親戚とかかもしれませんが、菊地家がそのあとどうしていたのか(戸籍は変わっていないので、譲渡後賃貸?それともほかの土地へ移住?)は、現状知れておりません。

ただ、儀平の過去帳には「初太郎父」とあるのに、儀平の妻・ハツ(1852~1906)の過去帳には「幸吉母」とあり、もしかすると初太郎一家はその時点で舘本には居なかったことも視野に入れているところです。

 

ふぅ、まだ読みやすい地籍簿で助かります~。

祖先の名字、読み方が判明!

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きのう2月3日、釧路市中央図書館がオープン!

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昨年9月に釧路市立図書館が閉館し、この5か月の間は分館のみで運用されておりました。

蔵書も増えたし、キレイになったし、すごくこれからが楽しみです(#^.^#)

前の図書館はトイレ和式だったし・・・

 

そして、かねてより図書館が復活したら調べようと思っていたことがありました。

私の高祖母(父父父母母)の母である藤田タケの実家・角田家の読み方です。

 

福島県西白河郡千田村、現在の白河市東千田の家なのですが、私は思い込みでずっと「かくた」さんだと思っていました。

なんでだったのかなぁ、格闘家の角田(かくだ)信朗さんとか、あと思い浮かぶのが、こち亀に出てくる両さんの上司、大原部長の娘さんの夫が角田(かくた)英男という名だったりしたからかも?

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しかし、最近やっと気になって調べ始めてみると、例えば「つのだ☆ひろ」さんが白河に近い塙町の出身だったりするので、

あら?ここいらは「つのだ」さんが多いのかしら?と思い始めたのです。

ただ、兄であるつのだじろうさんのWikipediaによると、

東京府東京市下谷区で床屋を営む家に生まれ育つ。小学2年生のころ空襲を避けるため一家で福島県疎開

・・・とあるので、もしかするとつのだ兄弟は白河ではない?

でも疎開先に選ぶほどなので、両親のどちらかは白河地方にゆかりがあるのかもしれません。

 

そして、今はネットで電話帳が見ることができるステキなサイトがあります。

これならわかるかも!と思いましたが、あくまでも漢字のみのもので、並びも漢字がベースなので、読み方まではわかりませんでした。

 

やっぱり本物の電話帳じゃないと!ということで、きのうの図書館リニューアルオープンでさっそく白河地方の電話帳をチェック!

 

すると、結果は明白でした。

かくたさんは数件なのに対し、つのださんは100件以上!東千田の方も大勢いらっしゃったのです。

なお、いちおう確認したところ「すみだ」さんはゼロ。

 

すんなり解決!ずっと「かくた」だと思っていた祖先の名字は、実は「つのだ」でした~(*^^)v

 

でも今はもうハローページはペラッペラですね。白河地方版ですら中綴じでしたし。

きっといろいろなこと(私のような輩とか)を警戒して、載せる家が激減しているのでしょう。

NTTと契約していなかったり、携帯電話しかないというお宅も多いでしょうしね。

電話帳がどんどんこんな感じになっていくと、いずれお手紙作戦もできなくなってしまうかもしれません。

 

う~む、ぼんやりと危機感を感じる。。。

福島菊地家の本家を、釧路の机上で想像

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幾度となく書いている気がしますが、私の祖先は福島県の一番南に位置する矢祭町をルーツとしております。

菊地家は高祖父・幸吉(1874~1959)の代、大正2(1913)年に北海道弟子屈の屈斜路へ入植するのですが、福島時代のことは秘密のベールにつつまれております。

 

かつて、このブログをご覧いただき、ご自分のことではないのにもかかわらず、かなりの時間を割いてくださっていろいろ私の祖先についての資料を送ってくださった恩人がいらっしゃいます。

その宮城の増子さんが送ってくださった資料を、久しぶりに本腰を入れて解析してみようと思っている次第。

 

手始めに、6代前の祖先である菊地儀右衛門孝昭(1810~1890)の実家である菊池家があった関岡村字飯野(現:矢祭町関岡字飯野)の地籍簿に手を付けてみました。

関岡村の土地所有者の一覧なのですが、製作は明治15(1882)年ころのようで、非常に貴重な資料かと思います。

以下は、字飯野の宅地のみをまとめた一覧です。

  所有者  総坪数
 菊池 健三  472
 菊池 仁一  462
 菊池 政恒  279
 菊池茂右エ門  260
 菊池喜四之助  232
 斎藤 房吉  198
 菊池 豊吉  153
 篠田 庄八郎  151
 菊池 多門  142
 丸山 辰吉   60

一番多く宅地を所有しているのは、菊池健三さん。

健三さんは、儀右衛門の父である菊池友元(1781~1855)の実家とされている地番にお住まいでした。

地籍簿の記載には、友元やその息子である友輔の墓地がある地番も含まれており、おそらく友元の家よりも本家筋に近い家だと目論んでいるお宅です。

想像では、たとえば友元に兄が居り、年代的に健三さんはその兄の孫くらいなのでは・・・とか勘繰ったりして。

そうなると、健三さんは儀右衛門の娘であるハツからみてハトコに当たります。あくまで想像ですけど。

 

続いて、菊池仁一と政恒の親子も多く土地を持っています。政恒のほうが父親です。

友元→友輔(儀右衛門の兄)→政恒(1843~97)→仁一(1868~?)と、代々医師を生業としている立派なお宅。おそらくこの数字の中に、地域の重要な医療機関であった乾唱堂医院も含まれているかと思います。

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国会図書館デジタルライブラリ「日本医籍録. 昭和9年版 奥羽版」の、仁一についての記述。非常に多くの肩書を持っていたようで、さぞかし大変だったでしょう。でもまた「菊」になっている・・・(*´Д`)

 

2008年に矢祭へ行った際、このお宅の子孫(仁一の孫)である菊池玄(1924~2016)さんにお世話になり、資料をいただいたり、言い伝えを教えていただいたりしました。

 

そのあとの菊池さんである茂右エ門さん、喜四之助さん、豊吉さんは存じ上げないお名前ですが、多門さんという方は、10年以上前にお手紙作戦をした際にご返事をいただけた方のご先祖さまです。繋がりは見出せませんでしたが・・・。

 

こうやって、改めて眺めてみると、いろいろな思いが込み上げてきました。

よし!次の行動に移す決心がついたぞ~!

 

話は突然変わりますが、福島の大学の仲間で結成した「GReeeeN」というグループが、2016年に「始まりの唄」という歌のミュージックビデオを作った際、関岡小学校の閉校をドキュメントとして残してくださっています。非常に心打たれるMVとなっておりますので、多くの方に一度ご覧いただきたいです。

www.youtube.com