真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

森井家の石川県時代について整理してみたりしきれなかったり

家系のインデックス

 

妻の母方、森井家

 

数十年来、森井家系の調査をしてくださっていた義母のイトコさんが急逝されてから、もうすぐ2年になります。

その間、妻の高祖父・森井半左エ門(1853~1922)の母・スエの実家である小松市菩提町の坂下家にコンタクトをとらせていただいた結果、福井県吉崎御坊との繋がりが見いだせたことにより、さらに謎が混迷してしまった状況。

 

さかのぼることは尋常じゃない難易度だと悟ったことから、ひとまず石川県在住時代の森井家について、もう一度整理してみようと思った次第。

 

まず、私がもっともさかのぼることのできた除籍謄本が以下のものでした。

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落部村の戸籍係を恨みたくなる除籍謄本

妻の高祖父・半左エ門が戸主のものですが、記載を解読してみると、

「明治●年三月五日 石川県江沼郡菩提村 森井半四郎弟半左エ門分家願済●●分籍ス 明治二十六年六月十七日 石川県江沼郡那谷村字菩提●●●●番地ヨリ転住入籍ス」

なんということでしょう。肝心なところが読めません。

 

少なくとも、那谷村より落部村へ転籍したのが明治26(1893)年であることから、来道したのがそれ以前であることはわかります。

しかし、兄・森井半四郎より分家したのがいつなのか。なぜ分家したのか。年がわからないことから、推察が困難です。

 

半左エ門の長男・森井半次郎(1882~1964)は明治15年に生まれていますが、半左エ門が大正7(1918)年に65歳で隠居した後、半次郎の戸籍には以下のように記されています。

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父・半次郎、母・タケ。

 

この母・タケ(1845~1922)の実家、髙谷家についても、なかなかにミステリアスな状況。

 

タケは弘化2(1845)年に髙谷萬兵衛とユリの長女として出生しております。

高谷家については、札幌市に落部村の明治6(1873)年2月の戸籍簿目録を明治40(1907)年に調査したものを昭和3(1928)年に書き写した文書が残されておりまして、札幌の家系仲間に調査していただけました。

その中には「郷国空欄 漁業 髙谷萬兵衛 齢56。妻・郷国陸奥津軽 ゆり 齢43。家族数 男4女3。氏神 八幡社。菩提寺 真宗浄玄寺。明治7年 男1出生」と記載されております。

数え年で記載されていると仮定して勘定すると、髙谷萬兵衛は文政元(1818)年生まれ。ゆり(戸籍上はユリ)は天保2(1831)年、津軽地方の生まれと思われます。

萬兵衛の「郷国」は空欄ですが、おそらく周りの人々を見ると、空欄の場合は野田追生まれなのかと推察されます。

野田追という地ですが、八雲町の資料によると「1596(慶長年間)年ころ、ユーラップ場所とノタオイ場所が開設される。 1764(宝暦14)年、津軽・南部から落部に漁業経営の最初の移住があった。

髙谷家は「ノタオイ場所」への最初の移住者から、ほどなくして住み着いたのかと思われます。

計算すると、長女のタケは父27歳、母14歳(!?)の時の子ども。きょうだいも4~5人居そうですね。

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そしてタケが記載されている最古の戸籍。髙谷萬兵衛のイトコにあたる髙谷福松が戸主のものです。

これを見るに、高谷萬兵衛の長女としてユリが居て、その弟として(便宜上2代目の)萬兵衛が存在。

前述の明治6(1873)年以降に2代目萬兵衛が家督相続をしているようですが、その間にタケは重太郎なる人物と結婚しております。ただ、萬兵衛の戸籍に入っていたという事実が読み取れることから、重太郎氏は婿養子なのでは?と推察しています。

そして元治元(1864)年、高谷重太郎とタケ(19)の間に長男・福松が生まれます。

さらに明治2(1869)年に長女・タマ、明治8(1875)年に次男・玉蔵、明治14(1881)年に玉太郎が生まれております。

高谷福松が分家をした明治18(1885)年1月時点、すでに重太郎氏は「亡父」とあり故人となっているようですが、名前からして玉太郎は玉蔵と同じく重太郎の息子であると考えます。

そして重太郎氏が故人となり、福松が分家をした後の明治19(1886)年に小太郎誕生。のちに認知した父は久しぶりに登場の森井半左エ門。このとき半左エ門33歳、タケ40歳。

 

ながながと綴ってしまいましたが、ここまでで少なくとも小太郎が生まれた明治19(1886)年には森井半左エ門が野田追に居たということがわかります。

 

なお、前述の明治6年戸籍簿に森井の名はありませんので、明治6年~19年のあいだに野田追に来たというところまで絞り込むことができました。

 

あとは、落部村での半左エ門の長男・森井半次郎の戸籍に母・タケとの記述。

高谷家と同じ落部村の戸籍ですし、母の名は半次郎本人が申告したのでしょうから、半次郎の母はタケということで間違いないのではないかと思っております。

・・・ということで、半次郎が生まれた10か月前の明治14(1881)年までは絞り込んでも良いのかな…?

そうなると、半左衛門は未亡人となって間がないタケを…ということに(^^ゞ

玉太郎と半次郎は父違いの年子…

 

<結論>

森井半左エ門が石川県江沼郡菩提村より来道したのは、明治6年~14年のどこか。

おそらく単身での来道。

長男・半次郎は野田追の生まれ。

 

 

そして、森井家は現在は小松市菩提町となった旧・菩提村には存在しません。

大正期に山中温泉(現在の加賀市)に移住したためです。

これは、先に調査されていた神戸市の故・森井幹男さんの資料によります。

幹男さんの資料の中には、以下のようなものもありました。

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半左エ門の兄・半四郎の子孫についての家系図なのですが、そこに住んでいたと思われる番地が記載されております。

石川県江沼郡那谷村字菩提85松番地

・・・なに?その番地!

 

ソースは何なのか、結局聞けずじまいだったのがとんでもなく悔やまれるわけですが、85松番地。半左エ門の除籍の記載を見てもそうは読めないので、半四郎の住所なのかもしれませんけれど、そんな番地があっていいものか!?

 

地図サイトで見てみると、通常の番地のほかには「リ」とか「井」とか「ロ」があったりします。石川県特有の地番のようですが、「松」は登場しません。

もしあったとしても「菩提町リ1番地」とかですので、「松85番地」となるはずです。あんまりにも謎過ぎるので、今尾恵介さん著の「番地の謎」を買って読んでみました。

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残念ながら、石川県の地番についてはさらっとしか触れられておらず、結局わからずじまい。

 

むぅ・・・菩提地区・・・手強い。

 

菩提という地名にはもちろん由来があるわけですが、幹男さんが写真を撮ってくれていました。

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菩提町の花山神社にある碑。

 

花山神社之由来

菩提町は大昔蛙子村と称された。平安時代には三枝郷に属して、白山比咩神社の勢力圏にあった。戦国時代には一向一揆の勢力下にあり、信長、秀吉の征伐によって山口宗永の領有となり、慶長5(1600)年から前田家の領となった。寛永16(1639)年大聖寺藩領になり、那谷組22か村の一として肝煎が村を治めていた。当初は戸数100戸に近く、如何なる山頭を開拓しつくし、草高も453石に及んだが、山村のこととて地味も悪く生活も困難となり、遂には僅かに7戸となり、田野は荒廃甚だしく、遂には一村退転に及ばんとした。藩主のすすめで、月津の由右エ門らがきて復興につとめ、その子孫が13戸になった。

 

花山神社の御神体に関する記述要旨

一、菩提村花山神社に奉安される御神体は4体の本像であり、皆僧形にて内1体は頭巾を冠しており、これ花山法皇様で、他の3体は待臣、藤原實定、藤原義懐、藤原惟成ならずやと。
二、花山法皇様奉葬の後、侍臣等、陵傍に草盧を結びその冥福を祈りたり、その子孫繁栄し、村を成すに至る。
三、菩提村の起源、法皇様の王柩を、法皇が丘に奉葬せる時、河原村より菩提院を此の地に移築せり、その後この地を菩提と呼ぶにいたると。


菩提の花山神社は明治の神社庁では白山神社になっていたが、明治以後菩提の心有る人は神社名の改称に努力して来たが、其の甲斐あって昭和52(1977)年正式に花山神社と命名された。

平成2(1990)年9月吉日

 

・・・原文ママです。

100戸もあった村がわずか7戸になるなんて余程のことだと思いますが、月津村(現・小松市月津地区)からの移住者の中に森井家の祖先がいるのか、それとも全然別の所から来ているのか、そこまでは突き止めたいなぁと思っています。

ただ、手次寺(浄土真宗で言うところの菩提寺)が月津の興宗寺なので、一度は月津に住んでいたことがあるのでは・・・と、さらに興宗寺はもともと福井の但馬興宗寺から分かれた寺院。

吉崎御坊、但馬朝倉氏、北前船・・・。

幾度か綴ったような気がしますが、ここら辺のワードが関わってくるのではないかと睨んでおります。坂下家も同じく・・・。

ちょびっとだけ

自分の家系について、さいきんアクションを起こせていないためにまったく進展がありません。

ネタがないけど欲求不満だったことから、同僚に頼み込んでむりっくり市内の除籍を遡ってもらいました。これってなんとかハラスメントかしら?

 

そうすると、彼女の祖先は明治45(1912)年に白糠郡尺別村(現在の釧路市音別町)へ転籍してきていました。

その後、樺太の中でも本土に近い留多加(るうたか)町へ転籍。戦後はまた音別へ戻り、現在は釧路市内に籍があるという流れの家。

そして、明治45(1912)年にこちらに来るまでは、雨竜郡一已村に籍がありました。

一已(いちゃん、いちやん)といえば、現在は北海道の米どころ深川市一已ですが、もともとは屯田兵村として成立した地。

私の家系には屯田兵村と関わりがある家はなかったので、がぜん勝手に気持ちが盛り上がります。

 

そして、もっとも遡ることができた名前が「塚田秀藏」。

現在は国分寺町を経て高松市となっていますが、当時は「香川県綾歌郡端岡村新居(にい)」。明治22(1889)年までは「香川県阿野郡新居村」の人でした。


塚田秀蔵の六男として明治25(1882)年に生を受けた塚田憲一氏は、生後わずか8日で猪原甚吉氏の養子となり、猪原憲一となります。

そして、3歳のときに「原因不詳」で家督を相続。

3歳なのでもちろん自分の意思ではないでしょうから、猪原甚吉氏の意思、もしくは甚吉氏に何かがあったのかもしれません。

ただ、一已の屯田兵村が形成されたのが明治28(1895)年あたりなので、その年代と合致するのが気になるところ。

 

その情報をもとに、図書館で屯田兵名簿を確認すると、北一已兵村に端岡村の塚田半次郎という人がいました。憲一、ひいては塚田秀蔵の縁故者かもしれませんが、確定できるまでの情報を得ることはできませんでした。

なお、すべての屯田兵の中でも、猪原姓の方はおられません。

深川市に除籍が残っていれば何かがわかるかもしれませんが、自家分ではないので・・・ここまで!

 

猪原姓は岡山県の井原が発祥。井原市広島県福山市に多く分布していますが、山陽地方の多くは「いのはら」とお読みするようです。

ただ、同僚の猪原さんは「いはら」と読みます。全国的にはわりに珍しく、大分市に多い読み方のようでした。

しかしながら高松市の電話帳(冊子版)を確認すると、数は10数件と少ないながら市内の「猪原」さんはほとんどが「いはら」と読むようで(しかも多くが新居在住)、「いのはら」さんが1件のみということが判明。

ネットの電話帳だと読みまでは解からないのですが、冊子だと一発です。

このことから、猪原家も新居の家であろうことが推察されます。

電話帳と地図で確認すると端岡駅南部にこれらの姓が固まっており、東部に塚田家、西部に猪原家が多く集まっていました。


調べてみて意外だったのですが、塚田姓は四国には非常に少ない姓であるのですね。

2000年のネット電話帳によると、全国には約13,000軒の塚田姓の方がいらっしゃって、四国に限ると高知県に1軒、徳島県に2軒、愛媛県に13軒、そして香川県に63軒。

高知や徳島にはほとんど存在しないようです。その少ない中、新居地区に13軒が固まっているというのは興味深い点でした。四国では一番多く分布しています。

さらにインターネットを利用して調査を進めてみると、どうやら歴史的背景があることがおぼろげにわかってきたのです。


とつぜん話は関東地方に飛びます。

初代水戸藩主であった徳川頼房。頼房は徳川家康の息子です。

その子をおなかに授かった側室・久昌院は、頼房に堕胎を命じられます。しかし、どうやら他の側室でとても権力のある人がいたようで、だれか側室が受胎すると堕胎を迫っていたそうです。その側室には頼房も敵わないそうでした。

しかし頼房の母に相談の上、江戸で秘密裏に出産。この男児がのちの松平頼重


弟の光圀が生まれる際は、頼重は存在を隠すために京都へ送られました。

なお、光圀出生の際も久昌院は堕胎を命じられていたようです。

 

そして頼重が15歳のとき、ついに父・頼房に認められました。が、その時点ですでに弟の光圀が水戸の2代目藩主として決定していました。

結果、寛永16(1639)年に頼重は常陸国下館藩(現在の茨城県筑西市)を、当初治めていた水谷氏が備中に転封になったのちに与えられます。

しかし、3年後に讃岐高松藩へ移封。その際、多くの家臣が頼重とともに讃岐に渡ったのですが、その家臣団の中に「塚田新平」の名が見えます。

おそらくは、この下館藩士である塚田氏が新居郷に住み着き、現在に至っているのではないでしょうか。

この推察が合っていれば、香川に渡る前は常陸の人だったということとなります。


新居の塚田氏、猪原氏については特につたわっておらず(もちろん自家ではないのでコンタクトもとっていませんが)、相互貸借でお借りした国分寺町史にも名前を見つけることは叶いませんでした。

これからも自家とともに、思いついたら調べてみようと思っております(勝手に)。

渡辺宗貴センパイからの贈り物(#^.^#)

先日、釧路市白樺台の同郷で、現在は札幌にて家系図作成代行センターを切り盛りしている渡辺宗貴センパイに、当ブログをご紹介いただいたのですよ。

familytree-blog.com

 

そんな光栄な・・・と思いながらも、遠慮なくお願いをしたわけですが、渡辺さんがなんにも得をしたわけでもないのに、プレゼントをいただいたのです。

なんだかぎっしり詰まっているレターパック開封してみたらば、

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そうそうたる教科書たち

渡辺さんのお仕事道具なのかと思ったら、こんなふうに商品として扱っておられるものでした!

 

恥ずかしながら、私もいままで12年ほど家系について調べてきて、実はけっこうハナタカさんだったのです。うざいパターンの人です。

 

しかし、このマニュアルを読ませていただいたらば、私の知っていることなんぞほんの一部。スーパーマリオでいうと1-1をクリアしたくらいなのだと思い知らされました。なにせ、知らないことばっかり書いてあるのです。

 

やはり対価をいただき、仕事として数をこなしているプロフェッショナル。

あらためて、この世界が底なし沼だということを感じたわけですね。

 

かといって、一般人の私が自分の家以外で豊富な経験を積めることがないわけで、それはそれでもどかしいところではあります。

 

渡辺センパイの活躍を胸に、私もいろいろとけっぱらんといかんなぁと思った次第。

 

とりあえず、28日に控えている娘の吹奏楽コンクール釧路大会突破を願っている日々。10校中2校が全道大会の札幌のコンサートホールKitaraへ進めるのです。

過去全道大会では2年連続金賞をいただいている小学校の副部長として、メインのトランペットとして、自分の事だけではないので娘のプレッシャーはかなりのものでしょうが、そういう姿を見ていると誇らしいです。悔いなく演ってきてほしいです。

明治42年、釧路最古の電話帳

明治42(1909)年、釧路にも電話が開通しました。

遺されていた最初期の電話帳を、勝手にデジタル化。

屋号は表現できなかったので、ある文字でなんとなく再現しています。

 

電話
番号
住所 氏名 備考
1 洲崎町 釧路町役場  
2 真砂町49 釧路興業㈱ 海運業
3 茂尻矢 名古屋木材㈱ 木材海運業
4 入舟町3番地 釧路新聞社  
5 真砂町 豊島合資会社 倉庫
6 真砂町 根室銀行釧路支店  
8 真砂町 前田定太郎 漁場
9 西幣舞 笠井病院出張所  
10 真砂町49 釧路興業㈱ 製材販売所
11   安田銀行  
12 西幣舞 津田出張所 木材輸出業
14 西幣舞 三輪写真館  
15 入舟町3番地 釧路新聞社  
16 洲崎町 釧路共立笠井病院  
17 真砂町82 ㈱二十銀行釧路支店  
18 洲崎町 釧路銀行  
19 入舟町3番地 釧路興業㈱ 海運
20 洲崎町 <カネ岩>水口常吉 雑穀
21 真砂町21 <○京>高野紙店  
22 真砂町 <◇ニ>釧勝興業 製材所
24 茂尻矢 <◇ニ>釧勝興業茂尻矢搾乳所 牛乳
25 停車場前通 <□イ>中沢商店 米穀
26 西幣舞町14 <○日>日野運送店  
27 茂尻矢9 <山○>納庄国助 土木・木材
29 米町130 <◇ニ>山中艀部 運送
30 西幣舞町 豊島庄作 海運
31 浦見町 <川一>広川鉾治商店 米・雑貨・酒
32 真砂町 大井
33 真砂町 喜峰楼 遊郭
34 西幣舞町 更科 そば
35 西幣舞 <○一>橋本清助商店  
36 真砂町 <大吉>大村酒店  
37 真砂町102 <○川>長谷川商店  
38 浦見町 万沢晋 笠井病院長
39 西幣舞 共立笠井病院  
40 真砂町 根室銀行支店  
41 真砂町84 <又○>佐々木忠作 漁具・船具・石炭
42 浦見町 釧路税務署  
43 知人 <山六>斎藤商店 海産物仲介
44 真砂町 <山三>前田船舶部 漁業部
45 真砂町 <山三>前田船舶部 回漕部
46 真砂町 <山久>中川呉服店  
47 米町 菊泉 酒問屋
48   <キト>谷旅館  
49 真砂町 原田 雑穀商
50 洲崎町 原田 住宅
51 真砂町 <○三>越後屋呉服店 洋・小間物・織物
52 茂尻矢 釧路製材造船合資会社  
54 真砂町88 <カネサ>佐々木忠八  
55 真砂町 <サ一>村上支店  
57 西幣舞4 <山ヨ>松村与三郎 雑穀
59 真砂町 岩堀薬舗  
60 局内 電話試験室  
61 真砂町 旅館  
62 真砂町 <カネ平>山口平蔵 海産物
63 真砂町 <○十>福井邦雄 酒問屋
64 真砂町 <山二>光村商店 万金物・硝子
65 真砂町 <カネヨ>進藤安次郎 金物
67 真砂町18 <○上>安藤西洋酒・食料品店  
68 真砂町19 <入〆>馬場吉郎商店 米・石油
69 真砂町87 <○キ>和田万助  
70 西幣舞町 中戸川搾乳所  
71 真砂町中央 <又十>藤野商店 衣料品
73 真砂町 <中>中川茶店  
75 浦見町 局長官舎  
76 浦見町 技術官官舎  
77 真砂町 伊藤精一郎 歯科
100   釧路郵便局  
101 浦見町 博済病院  
103 西幣舞 安倍 海産商
104 浦見町 虎屋旅館  
105 浦見町 志やも虎 料理
106 茂尻矢 大井薪販売部  
108 真砂町51 <・一>奥田呉服店 呉服・靴
109 真砂町 電気会社  
110 真砂町 <カネ吉>三浦屋旅館  
111 入舟町 山田駿三郎 医院
112 真砂町64 しのぶ 料理
113 真砂町休坂 森本金之丞 歯科医
114 洲崎町32 <山キ>児玉嘉助 工具店
115 真砂町101 <○高>臼井商店 キリンビール特約店
117 米町 <□西>中西本店 土木運輸
118 波止場 <□西>中西出張所  
119 真砂町9 <カネ○>太田雑貨店  
121 停車場前 <○甲>茅野運送店  
122 釧路港桟橋前 <三>美喜商店 肥料・飼料
123 停車場通り <□キ>岡喜一郎商店 雑穀
124 浦見町 連隊区司令部  
126 真砂町 <○六>中西支店 雑穀・石油スタンダード㈹
127 入舟町9 伊藤直次郎 共同倉庫
128 支庁坂下 吉村貞貴 医院
129 苧足糸4 <○印>共立魚菜市場  
130 西幣舞 <カネ岩>水口常吉出張所 海産物
131 入舟町 <三>釧艀組 運輸
132 米町波止場前 <○九>森儀八 海産問屋
133 浦見町 釧路共融㈱ 金融・質
134 休坂通り <カネ林>梅月庵 天婦羅
135 西幣舞 <○太>土田呉服店  
136 米町134 尾崎常次郎 酒造
137 西幣舞15 <○長>嵯峨久商店 毛皮
138 真砂町 <○ト>千葉商店 削節
139 真砂町80 <○中>釧路回漕店  
140 停車場前四ツ角 <久二>高岡屋旅館  
141 停車場前 <○〆>内地物産(号)  
142 駅構内 村上運送店  
143 西幣舞 <○コ>亀鶴楼  
146 真砂町86 <○天>渡部商店  
147 洲崎町1 <山八>佐々木米太郎  
149 停車場前 山形屋 旅館
150   福富一雄釧路本店 煙草
151 真砂町 鍵本靴店  
152 米町 聞名寺  
153 頓化 聞名寺  
154 浦見町6 <山三>佐藤政平  
156 停車場踏切角 <○カ>加賀谷直治  
157 茂尻矢 丸二牧場  
159 真砂町 浜野薬舗  
160 真砂町 輪嶋屋 旅館
161 真砂町 武富本店 倉店
164 西幣舞12 <○八>熊谷石五郎  
166 西幣舞 <○大>越後屋 衣料
167 洲崎町 岡田伊之助  
168 真砂町21 <○京>高野紙店  
169 停車場駅構内 <○京>高野運送店  
170 真砂町21 <一・>高橋作兵衛 金物
171 浦見町 中川岩次 登利屋・料理
172 駅前通 太田便利屋  
173 西幣前 中川倉庫(合)  
200 入舟町 釧路局庶務室  
201 真砂町 <山大>橋本商店 サイダー
202 西幣舞 <山小>木村商店 苦汁
204 入舟町4 <一久>馬場商店 和洋菓子
206 真砂町 <サ>佐藤金賞堂 時計
207 真砂町 <山キ>菊地商店 靴、馬具
208 真砂町 <・一>奥田呉服店  
209 米町74 原長蔵 酒問屋
210   <山サ>佐々木商店 雑貨商
211 真砂町 <山リ>名西商店 酒・荒物
212 米町14 <○ヨ>布本与吉商店 米穀
213 真砂町 <山カ>金子兵吉商店  
218 苧足糸 <○大>大塚仙五郎 木材輸出商
219 米町 法華寺  
221 真砂町 <カネ△>富士屋 旅館
223 真砂町 <山∴>西村織物店  
225 築港埋立 中山惣次郎出張事務所 土建
226 幣舞町 <山五>斉藤喜代吉商店 米穀
228 真砂町 <○越>堀井肉店  
229 幣舞町 <カネヲ>磯部定蔵 米穀商
232 休坂下 高嶋薬舗  
233 真砂町 <カネ岩>菅野商店 飲料
234 真砂町 <○大>荻野陶器店  
235 米町 昇月楼  
236 真砂町 <山み>密田商店 防寒用紙帳
237 真砂町 <山キ>木村呉服店  
238 真砂町 太洋亭 西洋料理
239 真砂町 荒井崎之助 歯科医
240 真砂町 <○い>江縫呉服店  
241 浦見町 松山良臣 法律事務所
242 米町76 <山サ>渡辺虎蔵商店  
243 西幣舞 <○ト>斎藤 食料品
245 真砂町43 竹中多美造出張所  
247 西幣舞78 <×>小平円治商店 雑穀、肥料
248 米町133 <○ホ>細川組 馬車運搬業
250 真砂町32 <ヤ一>福富商店  
251 真砂町27 <○三>明治商会(合)  
252 幣舞橋詰 池田初太郎
257 真砂町97 <山リ>松並商店 家具
258 西幣舞24 吉田善助 建築
259   <○小>小泉菓子店  
260 入舟町4 <山カ>浜田勝五郎  
262   小松伝三 金物
263 真砂町 <|キ>牛肉店  
264 役場前 浜中民蔵医院  
265 真砂町 <○大>近江屋
266 西幣舞 村井澄 医院
267 洲崎町 <カネ菅>菅野重之助 鮮魚
268 真砂町43 鹿嶋家 うなぎ料理
270 米町 <カネマ>武蔵楼  
271 西幣舞町4 <山三>吉田卯之吉  
272 浦見町 三ツ巴味噌製造所  
273   <山キ>木村呉服店  
276   釧路興業無尽会社  
300 局内 技術官駐在所  
301 幣舞橋通り <カネイ>村上旅館  
303 西幣舞 白石医院  
304 真砂町53 <○サ>佐久間倉吉 車屋
306 真砂町102 <○金>大橋呉服店  
309 真砂町16 <○正>松月庵 そば
310 米町 種ケ嶋楼  
311 浦見町 地方裁判所  
312 真砂町 水産物検査所  
313 西幣舞町 運輸事務所  
314 西幣舞町 運輸事務所  
315 西幣舞町 釧路駅  
316 真砂町 <一ヨ>金井喜八郎商店 果物、乾物
317 幣舞町 釧路支庁  
318 米町 定光寺  
319 西幣舞町 <○み>山崎 肉店
320 幣舞町 専売局  
322 真砂町83 釧路電話㈱  
323 洲崎町 <○亀>小船井亀次 仲仕
324 米町 北海楼  
325 米町 福嶋楼  
329 米町 本行寺  
330 真砂町 成瀬時計店  
331 停車場前 <○三>三浦運送店  
333 入舟町3 <○金>川村三雄釧路出張所 木材
335 真砂町77 <×>小寺与惣吉商店 呉服
336 浦見町 工藤恒吉 土建
337 洲崎町 釧路電気会社散宿所  
338 真砂町 <カネ定>金沢定市商店  
339 米町 山田楼  
340 真砂町18 小林洋服店  
341 米町 八幡楼  
342 西幣舞 辻徳夫 整骨院
343 茂尻矢 釧路製材造船合資会社  
344 茂尻矢 釧路製材造船合資会社  
346 知人 築港事務所  
347 幣舞町 釧路営林署  
349 真砂町郵便局前 <○中>真喜庵 そば
352 米町 山喜楼  
353 西幣舞 <カネ西>中西頓化出張所  
357 浦見町 はつね 料理
359 米町 立花楼  
360 西幣舞橋通り <山元>丸山庄次郎 金物
361 茂尻矢 蔵本喜蔵
366 浦見町 釧路営林署  
368 頓化 <カネ平>細川一平 馬車荷造業

 

最初は以上の228軒に電話が通じたようです。

一目見ると、あらゆる業種が揃っていたようですね。楼閣も多いです。

除籍の80年廃棄と樺太移住のコンビネーション

家系のインデックス

 

妻の祖母は、その父・佐藤今朝二郎(1892~1963)と母・みよ(1903~1991)が昭和5(1930)年頃に北海道から樺太元泊郡知取町北遠古丹に渡ったのち、昭和6(1931)年に同町大鵜取で生まれています。

 

無事に樺太時代を乗り切り、戦後は釧路市に戻ってきた佐藤家

12年前に私が最初に取得できた除籍謄本は、妻から見て曾祖父となる佐藤今朝二郎のものです。

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最初にこの戸籍を見たとき、「ヤバイっ!」と思いました。

樺太から帰ってきた後の戸籍なのですが、樺太以前がまったく記載されていないのです。

 

釧路市は聞くところによると平成20(2008)年まで除籍の80年廃棄を行っていますので、昭和3(1928)年以前に除籍となったものは廃棄されています。

 

この除籍を取得する前に、「今朝二郎さんが駆け落ちで宮城から釧路に来た」・・・という、当時としてはわりに珍しい理由で釧路市に来たという伝承はあるものの、宮城のどこだとかはわからない感じでしたので、もしそれがわからないとなるととても痛手です。

 

・・・と思ったら、ペラペラとがっかりしてめくっていくと、なんと今朝二郎の弟一家について記載があったのです!

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いちばん左がそうなのですが、しっかりと出生地の記載があります。

円田村は、現在の蔵王町

ダメ元で蔵王町へと「佐藤今朝二郎もしくはその父・栄吉の除籍を、さかのぼることができるだけ欲しい」旨を望んで請求してみたらば、

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しっかりと今朝二郎以前の除籍を取得できたのです!!

 

栄吉の没後、長男であった今朝二郎は、釧路に居住のまま弟たちも入ったままで円田村に籍を置き、おそらくは勝手に樺太知取町に転籍したのでしょう。

 

その後、釧路市に戻ってきたあとも留五郎さん一家はそのまま長兄の籍に入ったままだったのですが、昭和33(1958)年の戸籍法改正で家単位から家族単位の戸籍へと変わった際、やっと留五郎一家は本来の宮城県に籍が戻ったのです。

 

留五郎さんにとっては、なんの縁もゆかりもない釧路や樺太に籍があったわけですね。

でもそのおかげでこうして私が佐藤家ルーツの地を突き止めることが出来たので、きっとそういうことに無頓着だった今朝二郎・留五郎兄弟に感謝です。

 

今朝二郎は大正6(1917)年、24歳のときに小村崎からほど近い村田町菅生出身の太田さたへ(21)と婚姻届けを出しています。上記の言い伝えの通り、駆け落ちだったのでしょう。

しかし、釧路市茂尻矢(現在の大川町、住吉付近?)で新生活をスタートさせた今朝二郎・さたへ夫妻でしたが、2人の女児をもうけるものの、結婚して5か月後に生まれた長女・きみ子ちゃんは3か月で夭折。

そしてその後に生まれた二女・八重子ちゃんが1歳5か月というとき、理由は伝わっていませんが、さたへはわずか25年の生涯を閉じました。

幼くして遺された八重子ちゃんでしたが、さたへが世を去ってから3か月後、母の後を追うように逝ってしまいました。

 

・・・今朝二郎は、駆け落ちまでして一度は掴んだ幸せをすべて失ったのです。

婚姻届を出してから八重子ちゃんが亡くなるまでは、わずか4年10か月。

当時の今朝二郎の心境を推し量ることはできませんが、故郷と遠く離れた地で絶望の極みであったろうことは想像に難くありません。

 

それから1年2か月後、30歳となった今朝二郎は釧路にて新たな伴侶を見つけます。釧路郡鳥取村の湯谷家の長女・みよ。当時19歳でした。

釧路市→小清水→樺太と渡って6人の子宝に恵まれた今朝二郎・みよ夫妻。

今朝二郎は樺太では現場監督的な仕事をしていたと伝わっています。

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中央が佐藤今朝二郎(おそらく昭和30年頃)

妻にとって曾祖母となる佐藤みよは、樺太移住や引き揚げ、釧路での新生活などの激動の時代を過ごし、妻が中学校1年生となる平成3(1991)年に88歳で亡くなるまでたいへん元気で、妻の記憶にもしっかりと「ばばちゃん」として、残っています。

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ばばちゃんの喜寿祝い(おそらく昭和54年)

・・・と、話が脱線しまくりましたが、このように弟が戸籍に入っていてルーツの地が判明!というケースはまれです。

古くからの釧路市民の多くは、80年廃棄のあおりを食ってルーツの地がわからないままになってしまい、戸籍で分からない情報を持つ人も当然ながら少なくなってきています。

さらに樺太が絡むと、樺太の戸籍は知床・富内・遠淵・内路・散江・元泊の6村(しかもその6村も全部ではない)を除いてほぼ全滅ですので、さらに事態は悪化することになります。

 

特徴的な名字でしたら見当をつけることもできるかもしれませんが、今回の場合は「佐藤」ですので、日本一特定が難しかったと思います。

 

ちなみに元同僚の後輩が私にむりやり調査開始させられたのですが、その最古の除籍が以下のものでした。

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もう、まったくてがかりが無い除籍です。

たまたま佐藤家と同じ知取の北遠古丹から釧路に戻ってきたようです。ご近所さんだったかもですね。

妻・キノの出身地である現在の新潟県三島郡出雲崎町馬草付近、それどころか出雲崎町自体に三原姓は存在しないので、きっと妻とは釧路で出会ったのかな?という様子です。

三原といえば広島・・・?とか想像しますが、分布が広すぎるので、なにか文献がないと特定不能です。

唯一の望みは妻・キノの元籍である山田家の籍ですが、それは後輩がそんな気分になったら・・・ということで。

郵便での請求は、乗り気にならないとめんどくさいですからね。

 

あと、三原利吉氏は昭和21(1946)年暮れに知取で亡くなっていますが、この知取町は同年にソ連によりマカロフという名で都市として認められています。しかし、昭和24(1949)年までは、日本の樺太庁知取町でもありました。なかなか複雑な戦後の4年間。人々はどういった生活をしていたのでしょう。

すでに私の周りの樺太在住経験者は鬼籍に入ってしまったため、知る術が文献しかありません。

そして、だいたい樺太からの引き揚げの場合、昭和24(1949)年に樺太から本土に転籍しています。これも何か決められたことがあったのでしょうか・・・?

樺太の歴史については、まだまだ調べなくてはならないことがたくさんありそうです。

つれづれなるまま戸籍名

これまで100通をはるかに超える量の戸籍を取得してきまして、その中には名前という重要な情報が記載されているわけです。

ここに記載されている名前ですが、江戸期の人物ですと、明治初頭に戸籍制度ができた時に役場に届け出た名前となっています。

この戸籍の名前というのは、それまでの慣習を大きく変えるものでありました。

たとえば戦国時代の人物にたとえますと、私の好きな武将・真田幸村だと「真田源次郎信繁」、のちに「真田左衛門佐信繁」という名前で、いちばん後ろにある「信繁」というのが真田幸村の本名みたいなものになります。

ただ、聞きかじりなので詳しくは省きますが、昔の慣習でその本名(諱=忌み名)は通常使われないものとなっていました。

周りの人たちは「源次郎さん」とか、部下の人たちだと「左衛門佐どの」とか呼んでいたと思います。

 

それなのに、明治4(1871)年に戸籍制度ができたとたん、どれか選ばないといけなくなったのですね。

真田信繁さんがもし明治の時代を迎えたならば、「真田源次郎」、「真田信繁」、「真田左衛門佐」、「真田幸村」と4つの中からどれかに絞らなきゃなんなかったのだと思います。

 

そんなわけで、私の祖先たちもめいめい悩み考えて?戸籍名を届けたのでしょう。※明治4年にすぐさま届けたわけではないようですけれど、便宜上これから先は明治4年に届け出たものとして年齢を換算します。

 

その時代を迎えた祖先の名前を眺めていると、やはりいろいろパターンがありますね。

6代前の祖先である菊地儀右衛門(1810~90)は、江戸時代にはおそらく「儀右衛門孝昭」という名だったと推察していますが、当時61歳の儀右衛門は「孝昭」の名を選びませんでした。

儀右衛門の兄と思われる「菊池友甫孝恒」も、「菊池友甫」を戸籍名としています。

天保14(1843)年生まれである友甫の息子は当時28歳でしたが、「政恒」という名で登録されています。伝説によると、父の名・友甫を継いでいたとのことなので、紛らわしいことからなのかなぁと思っています。

儀右衛門の娘婿は、近藤家から迎えた儀平(1844~97)ですが、儀平はほかに名前があったか不明です。戒名も「儀山良心居士」なので、推察不能

その儀平の実家は、福島県東白川郡上関河内村の庄屋さんでした。代々數右衛門をなのっており、文化8(1811)年生まれである最後の數右衛門の墓石には「近藤數右衛門藤原義冨」と記されており、戸籍名は代々の名ではなく「近藤義冨」(当時60歳)となっています。

 

話はかわりますが、戸籍に記載されている生年月日。

これが正解なのかはおそらく親か、聞かされていれば本人しかわからないものです。

北海道のオホーツク小清水町で生まれた私の母は、戸籍上6月10日が誕生日。

しかし、本当は5月の20日前後が本来の誕生日だったとのこと。

農繁期で役場になかなか行けず、やっと役場に行けた際に届けた便宜上の日が6月10日だったとのことでした。

 

そして高祖父の甥っ子である、北海道菊地本家の酉松という人物。

茨城県久慈郡宮川村下野宮出身ですが、てっきり酉年生まれなのかと思ったら、明治31(1898)年は戌年でした。でもその前年が酉年ですので、この酉松さんもホントは前年生まれで、役場に届けるのが遅くなったパターンなのかもしれません。

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そして転籍するたびに名前が変わるパターンもあります。

茨城県久慈郡生瀬村小生瀬出身である高祖母の父・石井庄衛門(1837~1902)。

私の持つ最古の明治19年式戸籍には長男・酉次郎(こちらは文久元年生まれのガチ酉年)のご隠居として記されています。当時59歳。

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しかし、明治29(1896)年に菊地家の近所(福島県東白川郡豊里村東舘舘本)に転籍してきた際には庄右衛門と変化。当時62歳。

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その2年後に退隠し、同じ本籍地のまま次男・鐡之助の戸籍に入ったのですが、同じ役場だったのにも関わらず「正右衛門」に変化。ここで65年の生涯を閉じています。

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そして、妻の祖母が生まれた山形県最上郡大蔵村の柿﨑家は、なぜか長男に「〇次郎」とつける習慣があった?ようです。

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妻曰く、もしかしてこれ以前に「〇太郎」と名付けていろいろ良くないことがあったのでは・・・?との推察。なるほど、そういうことあるかもしれません。

 

・・・と、いろいろつれづれなるままに書き綴らせていただきました。特に意味はないのです。朝早く起きてしまったので、せっかくだから。

 

そんなきのうは小学校の運動会!

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極寒だったので、本州のみなさまには不思議な光景かもしれない防寒フル装備での観戦でした。

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興奮の極みだったが・・・何か変(;・∀・)

家系のインデックス

 

お、落ち着いて聞いてください(大げさ)!

 

私の知る限りである菊地家の最古の戸籍。

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この除籍謄本はいままで幾度となく載っけていますが、私の高祖父のさらに父・菊地儀平(1844~97)が戸主のものです。

いままで、儀平の実家・近藤家儀右衛門の実家・菊池家についてはかな~りがんばって調査をしてきましたが、なんとなく確固たる繋がりや真実が見いだせないまま現在に至っております。めちゃめちゃ無念です。

 

そのほかに、この除籍にはもうひとつの家のことが記載されています。

それが菊地ヤス(1813~99)の実家・藤田傳五右衛門家。

 

もちろんこの除籍を取得した12年前、この藤田家と上関河内の近藤家、関岡の菊池両家とともに、さらにさかのぼるべく矢祭町へと除籍謄本の請求を行いましたが、こちらの明治19年戸籍よりもさかのぼることは叶いませんでした。

 

それから干支が一周するというタイミングで、藤田家について予想外の展開を見せます。

 

この除籍に記載されている儀平の二男・菊地幸吉(1874~1959)が私の高祖父でして、大正2(1913)年に妻子とともに東舘から北海道屈斜路へ入植しております。

そしてもう一人の男子である長男の初太郎(1870~1942)も同じく妻子とともに屈斜路へ。幸吉と同じタイミングだったかはわからないのですが。

 

初太郎一家ですが、昭和に入ったころに美幌峠を越えて美幌町に移住。

その後は初太郎・幸吉兄弟が健在のころは行き来があったそうですが、初太郎が亡くなったころから疎遠になり、そのままお互いの子孫同士は存在を知らずにいたようです。

 

そんな折、最近このブログを読まれてご連絡をくださった方がいらっしゃいました。

なんだか過去帳か何かで見たことのある名前がこのブログに記載されていると。

 

突っ込んで伺ってみると、なんと初太郎の子孫の方でした!

 

しかも、その方は札幌在住ですが、実家は私と同じ釧路市とのこと!

なんてこと!まさに灯台下暗しじゃないですか!

 

さっそく、釧路にお住まいのお父さまにコンタクトを取っていただき、何十年ぶりかの初太郎・幸吉兄弟の子孫同士、時を超えた邂逅の時を迎えたのです(*´▽`*)

 

その際に委任状を書いていただきまして、初太郎の奥さんであるシモ(1868~1946)系統についての除籍を請求することができました。

 

シモは大子町(当時は袋田村)久野瀬の植田という家から嫁いできてくれているのですが、その植田家の除籍に、気になる記載をみつけたのです。

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シモの母・植田まさ(1848~1897)についての記述なのですが、もともとは東舘の藤田嘉平の妹さんだったと。

この藤田嘉平という名に見覚えが・・・

 

 そうか!私にとってのスーパーマン、宮城の増子さんからかつていただいた資料!

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東舘村の明治10年代後半の地籍帳、舘本のページに儀平のお隣さんとして載っていた名です!

 

いま一度、初太郎の子孫の方にお会いし、矢祭町用に委任状を書いていただきました。

 

そして、ダメ元で藤田嘉平の除籍を請求したらば・・・

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んもう、卒倒しそうでしたね。

私には請求することのできない、藤田傳五右衛門の記載が続柄欄にしか無い除籍謄本が届きました。

 

傳五右衛門の妻がハツさんだということも判明。菊池家とおなじく関岡から嫁いできています。

これで一世代さかのぼることができたことになります。

 

ふぅ・・・と一息つき、愛用の家系図ソフト「Personal Ancestral File(通称PAF)」にこの謄本に記載がある事項を入力していきます。

 

するとどうでしょう。

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儀右衛門の妻・ヤスだけ生まれ年がどひゃーんほえほえです。

うすらのばぼ~ん。

 

実は、この除籍には記載のないハツの没日。

2008年に矢祭町の東慶寺を訪れた際に、たまたま撮影していた墓石の中に嘉平の息子・嘉市郎が建立したものがありまして、「嘉市郎祖父母」として没年月日が記載されていたものを入力したのです。家紋は「丸に剣片喰」でした。

 

話は戻って、この年齢・・・考えられることとしては、

①ヤスの父は傳五右衛門の父・傳五右衛門である。嘉平は甥っ子。

②ヤスの母は中野ハツではなく、傳五右衛門の前妻。

 

・・・このどちらかでしょうか。

 

少なくともヤスと年齢が6歳しか離れていない中野ハツさんは、私の直系ではないと考えられますね。とっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっても残念っす。。。

矢祭の家は、どこも謎が残ったままで消化不良もはなはだしい(´Д`)

 

ひとまず、少なくとも無関係ではないことは判明しました。

時系列は不明ですが、儀右衛門は妻の実家の隣に住んでいたことになりますね。

私も実家は函館で釧路からは遠いですが、妻の実家はほど近いので、150年前の菊地家と似た様子で親近感増し増しです(*^▽^*)

 

次なる作戦としては、嘉平の母・ハツが健在のまま嘉平が亡くなっておりますので、嘉市郎が戸主となっている除籍謄本にも祖母としてハツが記載されているはず。それを取得することですね。また委任状が必要ですが。

 

現在、この番地に藤田の子孫はいらっしゃらないので、子孫の方を見つけ出したいところです。

 

余談。きょうは私と妻が付き合い始めて丸21年!

いま40歳なので、人生の半分以上を一緒に過ごしてきたことになりました。

まだまだ元気で仲良くいたいですね(*^^)v