真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

除籍の80年廃棄と樺太移住のコンビネーション

家系のインデックス

 

妻の祖母は、その父・佐藤今朝二郎(1892~1963)と母・みよ(1903~1991)が昭和5(1930)年頃に北海道から樺太元泊郡知取町北遠古丹に渡ったのち、昭和6(1931)年に同町大鵜取で生まれています。

 

無事に樺太時代を乗り切り、戦後は釧路市に戻ってきた佐藤家

12年前に私が最初に取得できた除籍謄本は、妻から見て曾祖父となる佐藤今朝二郎のものです。

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最初にこの戸籍を見たとき、「ヤバイっ!」と思いました。

樺太から帰ってきた後の戸籍なのですが、樺太以前がまったく記載されていないのです。

 

釧路市は聞くところによると平成20(2008)年まで除籍の80年廃棄を行っていますので、昭和3(1928)年以前に除籍となったものは廃棄されています。

 

この除籍を取得する前に、「今朝二郎さんが駆け落ちで宮城から釧路に来た」・・・という、当時としてはわりに珍しい理由で釧路市に来たという伝承はあるものの、宮城のどこだとかはわからない感じでしたので、もしそれがわからないとなるととても痛手です。

 

・・・と思ったら、ペラペラとがっかりしてめくっていくと、なんと今朝二郎の弟一家について記載があったのです!

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いちばん左がそうなのですが、しっかりと出生地の記載があります。

円田村は、現在の蔵王町

ダメ元で蔵王町へと「佐藤今朝二郎もしくはその父・栄吉の除籍を、さかのぼることができるだけ欲しい」旨を望んで請求してみたらば、

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しっかりと今朝二郎以前の除籍を取得できたのです!!

 

栄吉の没後、長男であった今朝二郎は、釧路に居住のまま弟たちも入ったままで円田村に籍を置き、おそらくは勝手に樺太知取町に転籍したのでしょう。

 

その後、釧路市に戻ってきたあとも留五郎さん一家はそのまま長兄の籍に入ったままだったのですが、昭和33(1958)年の戸籍法改正で家単位から家族単位の戸籍へと変わった際、やっと留五郎一家は本来の宮城県に籍が戻ったのです。

 

留五郎さんにとっては、なんの縁もゆかりもない釧路や樺太に籍があったわけですね。

でもそのおかげでこうして私が佐藤家ルーツの地を突き止めることが出来たので、きっとそういうことに無頓着だった今朝二郎・留五郎兄弟に感謝です。

 

今朝二郎は大正6(1917)年、24歳のときに小村崎からほど近い村田町菅生出身の太田さたへ(21)と婚姻届けを出しています。上記の言い伝えの通り、駆け落ちだったのでしょう。

しかし、釧路市茂尻矢(現在の大川町、住吉付近?)で新生活をスタートさせた今朝二郎・さたへ夫妻でしたが、2人の女児をもうけるものの、結婚して5か月後に生まれた長女・きみ子ちゃんは3か月で夭折。

そしてその後に生まれた二女・八重子ちゃんが1歳5か月というとき、理由は伝わっていませんが、さたへはわずか25年の生涯を閉じました。

幼くして遺された八重子ちゃんでしたが、さたへが世を去ってから3か月後、母の後を追うように逝ってしまいました。

 

・・・今朝二郎は、駆け落ちまでして一度は掴んだ幸せをすべて失ったのです。

婚姻届を出してから八重子ちゃんが亡くなるまでは、わずか4年10か月。

当時の今朝二郎の心境を推し量ることはできませんが、故郷と遠く離れた地で絶望の極みであったろうことは想像に難くありません。

 

それから1年2か月後、30歳となった今朝二郎は釧路にて新たな伴侶を見つけます。釧路郡鳥取村の湯谷家の長女・みよ。当時19歳でした。

釧路市→小清水→樺太と渡って6人の子宝に恵まれた今朝二郎・みよ夫妻。

今朝二郎は樺太では現場監督的な仕事をしていたと伝わっています。

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中央が佐藤今朝二郎(おそらく昭和30年頃)

妻にとって曾祖母となる佐藤みよは、樺太移住や引き揚げ、釧路での新生活などの激動の時代を過ごし、妻が中学校1年生となる平成3(1991)年に88歳で亡くなるまでたいへん元気で、妻の記憶にもしっかりと「ばばちゃん」として、残っています。

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ばばちゃんの喜寿祝い(おそらく昭和54年)

・・・と、話が脱線しまくりましたが、このように弟が戸籍に入っていてルーツの地が判明!というケースはまれです。

古くからの釧路市民の多くは、80年廃棄のあおりを食ってルーツの地がわからないままになってしまい、戸籍で分からない情報を持つ人も当然ながら少なくなってきています。

さらに樺太が絡むと、樺太の戸籍は知床・富内・遠淵・内路・散江・元泊の6村(しかもその6村も全部ではない)を除いてほぼ全滅ですので、さらに事態は悪化することになります。

 

特徴的な名字でしたら見当をつけることもできるかもしれませんが、今回の場合は「佐藤」ですので、日本一特定が難しかったと思います。

 

ちなみに元同僚の後輩が私にむりやり調査開始させられたのですが、その最古の除籍が以下のものでした。

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もう、まったくてがかりが無い除籍です。

たまたま佐藤家と同じ知取の北遠古丹から釧路に戻ってきたようです。ご近所さんだったかもですね。

妻・キノの出身地である現在の新潟県三島郡出雲崎町馬草付近、それどころか出雲崎町自体に三原姓は存在しないので、きっと妻とは釧路で出会ったのかな?という様子です。

三原といえば広島・・・?とか想像しますが、分布が広すぎるので、なにか文献がないと特定不能です。

唯一の望みは妻・キノの元籍である山田家の籍ですが、それは後輩がそんな気分になったら・・・ということで。

郵便での請求は、乗り気にならないとめんどくさいですからね。

 

あと、三原利吉氏は昭和21(1946)年暮れに知取で亡くなっていますが、この知取町は同年にソ連によりマカロフという名で都市として認められています。しかし、昭和24(1949)年までは、日本の樺太庁知取町でもありました。なかなか複雑な戦後の4年間。人々はどういった生活をしていたのでしょう。

すでに私の周りの樺太在住経験者は鬼籍に入ってしまったため、知る術が文献しかありません。

そして、だいたい樺太からの引き揚げの場合、昭和24(1949)年に樺太から本土に転籍しています。これも何か決められたことがあったのでしょうか・・・?

樺太の歴史については、まだまだ調べなくてはならないことがたくさんありそうです。