真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

こういうのがいっぱいあればいいのに

家系のインデックス

74回目の終戦記念日

私の周りで終戦を語ることができるのは、当時20歳で兵隊だった94歳の大叔父のみ。

その年齢を考えると、戦争体験者が少なくなってきているのも頷けますね。

 

・・・と話は変わりますが、私の母方曾祖母・平野とよみ(1893~1978)の出身地、宮城県東松島市矢本。

 

矢本町史に明治5(1872)年に編成された桃生郡矢本村壬申戸籍の目次が載っています。

かつていろいろお助けいただいた宮城の増子さんより、情報をいただいたもの。

 

せっかく収録されているので、統計みたいなものをとってみました。

 

世帯数~278軒(平民268軒、士族10軒)

職業~士族10軒、農業238軒、工業6軒、商業27軒、商業+農業1軒

 

姓ごとの軒数

軒数 うち士族
佐藤 28 1
菅原 22  
石垣 20  
桜井 16  
及川 15  
大江 10  
奥田 9  
千葉 8  
土井 7  
木村 6  
熊谷 6  
武田 6  
浅野 5  
遠藤 5  
石森 4  
伊藤 4  
大野 4  
高橋 4  
新田 4  
松谷 4  
森山 4  
八木 4  
石川 3  
内海 3 1
片岡 3  
菊地 3  
佐々木 3  
三浦 3  
相沢 2  
熱海 2  
阿部 2 1
尾形 2  
男沢 2  
小野寺 2  
神山 2  
亀山 2  
斎藤 2  
鈴木 2  
津野田 2  
長江 2  
奈良坂 2 2
日野森 2  
松本 2  
赤坂 1  
姉歯 1 1
大枝 1  
大久保 1  
大須 1 1
太田 1  
小野 1  
加賀 1  
梶塚 1 1
片平 1  
片山 1  
菊田 1  
及田 1  
葛岡 1  
久保 1 1
後藤 1  
庄司 1  
菅野 1  
高山 1  
玉河 1  
長南 1  
手代木 1  
茄子川 1  
野田 1 1
長谷川 1  
畠山 1  
1  
林田 1  
針生 1  
日野 1  
平塚 1  
星名 1  
本田 1  
目々沢 1 1
盛岡 1  
横沢 1  

 

私の祖先は、このうちの石垣家及川家奥田家が該当します。

この3家は村では多数派の姓。明治に至るまでに長く土着していたことを感じさせます。

このうち、曾祖母の母方祖父にあたる奥田亀吉(1844~1921、当時は28歳)に「商」との記載がありました。いったい何の商売をしていたかが気になるところ。

及川は及川留之助(1827~1898、当時は45歳)、石垣は石垣竹蔵(1823~1898、当時は49歳)と、曾祖母から見て曾祖父の名が記載されていますが、奥田家は一世代下の人物名が記載されております。どうやら、亀吉の義父・傅吉が壬申戸籍編成前の明治3(1870)年に世を去っているからのようです。

 

なお、人口は2,899名(男1,430、女1,469)。一世帯あたりの平均人数は10.4名。

今とは違ってお妾さんや使用人さんも戸籍に記載されているので、すこし多めになっているのかもしれません。

あと、このうちの5軒は戸主が女性名となっています。

 

一部だけでもいいので、どこの村でもこういった情報がゲットできるようになると嬉しいのですけどね・・・

 

 

<余談>

きょうは妻の誕生日~(*^-^*)

いっしょにお祝いするようになってから、21回目の誕生日です!

誕生日が9日しか違わないので、私がたった9日だけですが年上でした。

仕事から帰ってこれないのが残念ですけれど~

 

<余談2>

そういえば娘たち、吹奏楽コンクール釧路地区1位で北海道大会に駒を進めました!

9月1日に札幌市のコンサートホールKitaraで、3年連続金賞を目指します(#^.^#)

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Kitaraがある中島公園内の弥彦神社にて

まだお盆じゃありませんなぁ

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ひさしぶりに家族全員が休みだったきのう、私の父方・菊地家弟子屈町)&母方・平野家小清水町)へとお墓参りと顔見せに行くことができました。

 

最初は、菊地家の長老である祖父の末弟宅へ顔見せに。

戸籍上は大正14(1925)年正月生まれ、御年94歳の大叔父。

ホントはその前年生まれだったそうですが、冬だし役場が遠かったので、翌年生まれにされちゃったと言うことを初めて聞きました。

腰の骨を折っちゃったようですが、それ以外はまだまだ元気!

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▲94歳にタブレットの使い方を教える8歳の図

毎年1~2度しか会えませんが、いつも元気で迎えてくれるのでうれしいです(*^-^*)

しかもきのう訪問している間に、八王子に住むお孫さん(私の再従姉妹)から、四男(第四子)が元気に産まれたとの吉報(LINEで)!

大叔父に曾孫が増えたと知る瞬間に立ち会えました(≧▽≦)

 

次に、父の長姉・野呂家(前回のブログで書かせてもらった、国学院久我山高マネージャーの祖父母)を訪問するもお留守。

 

そしてお墓参り以外の目的だった、友人の娘さんの入学祝いを渡すというミッション。

短大の友人ですが、のちに私のはとこ(祖父の次弟の孫)を妻として迎えたため、今や近しい親戚。

娘さんが入学して、もはや4か月以上が経過してしまいましたが・・・

 

家に行ってもいなかったので電話してみると、旧勤務地の摩周丘幼稚園にいるとのことで向かってみました。

 

 

長年摩周丘幼稚園に勤務していましたが、認定こども園化により保育園に統合されてしまい、もうすぐ摩周丘幼稚園の建物は取り壊すとのこと。

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弟子屈の多くの子どもたちが巣立った幼稚園。寂しいでしょうね。

 

続いてお墓参りへ。

もともと屈斜路村民だった菊地家は屈斜路にお墓がありますが、祖父が家を出てしまっているため、新たに鐺別にお墓を建てています。まずは鐺別へ。

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なんて書いてあるの?と聞かれて、「なむしゃかむにぶつだよ」。

どういう意味なの?と聞かれて、「・・・(わかんない)」。

 

さぁ、次は屈斜路です。

いつもスズメバチやアブの襲来でクルマのドアや窓すら開けられない状況ですが、今年はイケました!

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▲みんなが子どもの時分に遊んだであろう、母なる屈斜路湖が丸見え

 

そして小清水へと向かいます。町に入ってすぐにあるお墓をお参りに行ったあと、平野家へ。

今はイトコが後を継いで畑作農家を営んでいますが、今年は天気が良くて小麦の刈り取りが予定通り進んだそう!

お盆は休めそうな感じらしいですが、きのうは佳境だったためイトコとは会えませんでした。

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▲早生のじゃがいもを掘らせてもらっている図

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▲ニンジンはまだSサイズ

いつも野菜をたかってしまっておりますが、おじさんやおばさんやイトコががんばってくれているおかげで、私も「田舎」がある人間でいられる気がします。

 

イトコの娘(2歳)とじいちゃんの葬式の時以来で会ったのですが、歩いてる(あたりまえ)~!

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今度はのんびりとイトコに会いたいものです。

 

明日からがお盆ですが、カレンダーの都合でみんな今年はお墓参り早いんでしょうね。

 

 

<きょうの家紋>

私の6代前ばあちゃん、菊地ヤス(1813~99)の父は藤田傳五右衛門。菊地家と藤田家は矢祭東舘にてお隣同士で住んでおりました。

その藤田家の家紋は「丸に剣片喰」だと思っていたんですが、写真を改めて見返すとなんだか雰囲気が違う気がしてきたのです。

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剣の部分が細い・・・

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▲参考:丸に剣片喰

調べてみると、どうやら「丸に姫路剣片喰」という紋があるらしいのです。

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剣の部分が細いですね。

この紋については、ネットで見てみても情報が拾えない!情報ギブミー!

 

・・・あたらめて調べてみると、この姫路片喰紋からは、酒井氏という一族が浮かび上がってきました。

そして、太田亮氏の姓氏家系大辞典のサカイ項の7によると、

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片喰紋を使用していた新田氏流の酒井氏についてなのですが、九州に行って菊池武光と行動を共にしたような記述が!

 

肥後の菊池氏は矢祭菊地家のルーツと伝わっていますが、早くから武士団を結成した菊池氏の分流として、藤田という一族もあったとの記述もネット上に見つけました。

もしかすると、肥後時代から菊地家と藤田家は繋がりがあったのかも・・・

なんだかスケールが大きくなってしまった。。。

大子町の名士・櫻岡家にコンファメーション

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前回、高祖母・スイ(1874~1931)の実家である茨城県久慈郡大子町小生瀬の石井家についてつづらせていただきました。

 

果たして、桜田門外の変を謀った関鉄之介と接触していた「石井重衛門」なる人物は、私と関係があるのか?というお話。

 

どうにもこうにも堪らなかったので、石井重衛門の伯父である櫻岡源次衛門氏の子孫の方に確認をとらせていただいたのです!

 

ありがたいことにすぐさまご返事をいただけまして、結果的にはむむむ・・・という感じですが、まとめておこうと思います。

 

 

まず、石井家が生瀬の旧家であることは伝わっているようですが、戸籍名しかわからない私の祖先・石井庄衛門(1837~1902)とその父・重四郎については櫻岡さんの資料には名前が出てこないようです。

 

そうですか・・・というところですが、気を取り直しましょう。

 

石井重衛門←石井源次兵衛義房(義国)←石井久治衛門義教。

重衛門の祖父まで、私が初めて目にする名です。通字は「義」みたいですね。

なお、庄衛門の一族には義の字を使用している人はおりません(¯―¯٥)

 

重衛門には、菊池佐一兵衛に嫁いだ妹・「とり」と、佐藤五郎衛門に嫁いだもう一人の妹が居り、石井伝重郎(平八郎)なる弟も居るようです。

そして妻・ますとの間には兵衛門、忠蔵、権五郎、百太郎といった子どもたちをもうけています。

 

んもう、みなさん初めまして!というお名前ばかりが判明!

 

ただ、江戸時代ということもあり、名前が変化したということもあるかもしれません(しつこい)ので、まだまだ予断を許さない状況だと思っておきたいところです。

 

 

また、櫻岡さんより菊地家についておまけの情報をいただきました。

私の6代前の祖先・菊地儀右衛門(1810~90)ですが、かつて「天狗党の乱」の資料の中に、「菊池儀衛門」という名を見つけて、これは同一人物ではないかと勘繰っていたところでした。

その菊池儀衛門についての補足情報!

「元治元(1864)年十一月多人数降参セル時、帰村ヲ願出候処、入牢ノ上帰村セル者」の中に
「南多気 菊池儀衛門」

 

・・・南田気(みなみたげ)は、現在の大子町市街にほど近い場所。

天狗党の乱の時分、儀右衛門は54歳。婿にその頃入っていたかは不明ですが、義息子の儀平は20歳でした。

 

私が知る限りだと、その20余年後に作製された明治19年式戸籍が最古。

菊地儀右衛門は福島県東白川郡東舘村(矢祭町大字東舘)字舘本40番地に籍をおいています。当時76歳。

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南田気と舘本は、距離にして約5里。

当時も今も矢祭⇔大子は行き来が頻繁のようですから、あながち無くはないといった感じなのですが・・・

江戸時代の菊地家についても、謎が解けないです(/・ω・)/

 

ご教示いただいた櫻岡さん、ありがとうございました!

 

以下余談。

おとといの甲子園第3試合にて、強豪・前橋育英を破って春夏通じての初勝利を手にした西東京代表の國學院久我山高。
イトコ(父の長姉の二男)の息子さんである野呂直大(3年)がマネージャーを務めています。
NHKの中継では、チーム紹介の大役を務めました!

姿を見るのは小学生だった時以来。ここまでくるのにいろんなことがあっただろうけど、チーム紹介でハツラツとした元気な姿を見ることが出来て、そして血縁者が甲子園の土を踏んだことがとっても感慨深いっ!!(#^.^#)


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桜田門外の変と石井家

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時の大老井伊直弼が刃に散った歴史上の大事件、桜田門外の変

安政7(1860)年の小雪が降る日にその事件は発生しました。

 

事変の指揮を執ったのは、水戸藩を脱藩した志士・関鉄之介。

文政7(1823)年生まれの当時37歳でした。

 

(菊地家)の高祖母・菊地スエ(1874~1931)はまだその頃は生まれていませんでしたが、スエの実家である茨城県久慈郡大子町小生瀬寺地の石井家が、事変前後の関鉄之介と接触していたということが伝わっています。

 

当時、南田気村や久野瀬村(現在はともに大子町)の庄屋であった櫻岡源次衛門氏。

関と旧知の仲であった櫻岡氏は、関らに資金を提供していました。

 

そしてその資金を江戸まで届けていたうちの一人が、櫻岡氏の甥である「石井重衛門」。

 

事変後は近畿地方四国地方へ逃げた関。しかし、頼ろうとしていた薩摩藩が関所を封じてしまい、他藩の者を通さないようにしていたことから、やむなく水戸藩領へ戻ります。 

 

なお、櫻岡氏は文化元(1804)年9月生まれで、事変当時55歳。

スエの父・石井庄衛門は天保8(1837)年生まれの当時23歳。

もしかすると重衛門と同一人物かもしれない庄衛門は、櫻岡氏の甥としては自然な年齢です。

 

なお、石井家の子孫(庄衛門の次男・鐡之助の子孫)の方によりますと、石井家は小生瀬村の横目を務めていたと伝わっております。

また、石井庄衛門は戸籍が変わるたびに庄衛門→庄右衛門→正右衛門と名前が変わっていったのですが、庄衛門の父は一貫して重四郎と記されています。庄衛門は重四郎の長男です。

戸籍上では、櫻岡氏の甥といわれる「重衛門」の名は出て来ないのですが、重四郎と庄衛門の名を混ぜると、重衛門になります・・・(*´ω`*)

 

事変の当時、江戸時代は名前なぞ頻繁に変わったでしょうけれど、この重衛門が庄衛門と同一人物なのか、はたまた全然関係ない人物なのか、いまのところは確証がありません。

 

ただ、庄衛門の家督相続は事変前の1853(嘉永6)年、17歳の時なので、その時点で横目は庄衛門が継いでいたのかもしれません。

大子町史には「(関鉄之介は)大子を離れる3日前に寺地坪の重衛門宅に宿泊した。」との記述があります。まさに、寺地は石井家があった地。

 

関は1年以上櫻岡家に匿われておりましたが、追手が来たと悟ると、大子を離れて越後方面へ逃げます。

しかし捕らえられた関鉄之介は、文久2(1862)年に日本橋でその生涯を閉じました。

脱藩していたこともあり、関の家族は監視の下にはあったようですが、巻き添えを食うことはなかったようです。

 

その5年後に生まれた次男に、庄衛門は鐡之助という名を付けます。庄衛門は関にあやかって同じ読みの名前をつけたのかもしれません。

奇しくも、関鉄之介の仇であった井伊直弼の幼名も鉄之介であったそうです。

 

以下は、私が知る限りの石井家年表です。石井家の子孫の方の聞き伝えも含まれております。

年表を作製してみることによって、年代の整理がつき、祖先の生きた激動の時代を感じることが出来るような気がします。

 

和暦 西暦 出来事
江戸期 石井家、常陸国久慈郡小生瀬村248番屋敷(現:大子町小生瀬寺地)に居住。石井家は小生瀬村の横目を長年務めていたと伝わる。屋敷跡は現在竹藪となっている。
現在判明の最古の祖先は重四郎
天保8年 1837 5月1日、重四郎の長男・庄衛門誕生。
嘉永6年 1853 10月20日庄衛門(16)が家督相続(事由不明)。
安政4年 1857 4月6日、庄衛門(19)と、外大野村・齊藤善治エ門の長女・ふゆ(17)が婚姻。
安政5年 1858 翌年にかけて井伊直弼大老等による「安政の大獄」が起こり、日米修好通商条約調印や徳川家茂の将軍就任に反対する100名以上が弾圧される。
安政7年 1860 2月、弾圧を強めていた井伊直弼を暗殺するという計画のため、水戸藩を脱藩した関鉄之介ほか十数名が江戸に潜伏。関の旧知である常陸久慈郡袋田村の櫻岡源次衛門が資金を提供。櫻岡の甥である石井重衛門も資金を届ける役目を担った。
3月3日、関鉄之介(35)の指揮により「桜田門外の変」発生。井伊直弼大老が刃に倒れる。44歳没。安政の大獄以来の弾圧が収束。
文久元年 1861 5月17日、庄衛門(24)・ふゆ(21)の長男・酉次郎誕生。
7月、関鉄之介(36)、京都や四国を逃走したものの水戸藩領に戻り、袋田村の櫻岡源次衛門(57)家へ潜伏。
文久2年 1862 関鉄之介、大子を離れる3日前に石井重衛門宅に宿泊。後に越後地方へ逃亡するも捕らえられ、5月11日に江戸で斬首される。37歳没。
元治元年 1864 天狗党の乱」。父・重四郎は諸生派(幕府側)、長男・庄衛門(26)は天狗派(尊王攘夷派)と、親子で分かれたことから、庄衛門一家は家を飛び出すが、諸生派の襲撃に逃げ切れないと観念。妻・ふゆ(24)と酉次郎(3)を連れて谷底に身投げしようとしたところ、酉次郎が泣くので乳を含ませるとニッコリ笑ったので、子どもを道連れに死ぬことを思いとどまり、磐城東舘村に潜伏。天狗党の乱は同年中に収束。おそらくはそのまま東舘にとどまったと思われる。
慶応3年 1867 12月23日、庄衛門(30)・ふゆ(28)の次男・鐵之助誕生。
明治7年 1874 8月1日、庄衛門(37)・ふゆ(34)の次女・すゐ誕生(長女は不詳)。
明治11年 1878 2月23日、酉次郎(16)と、福島県東白川郡真名畑村・金沢勇吉の次女・きく(14)が婚姻。
明治15年 1882 1月2日、酉次郎(20)・きく(18)の三女・いち誕生(長女、次女は不詳)。
明治16年 1883 11月20日庄衛門(46)・ふゆ(43)の三女・かね誕生。
明治17年 1884 2月8日、庄衛門(46)が隠居。酉次郎(22)が家督相続。
9月1日、福島県東白川郡伊香村、鈴木あきへ婿入り(婿入り時期は不明)していた鐵之助(16)が離婚し、石井家に復籍。
明治18年 1885 12月21日、酉次郎(24)・きく(22)の四女・いの誕生。
明治26年 1893 11月24日、すゐ(19)と、福島県東白川郡豊里村大字東舘字舘本、菊地儀平の次男・幸吉(19)が婚姻し、石井家を離れる(20年後に北海道屈斜路村へ移住)。
明治29年 1896 12月26日、隠居していた庄衛門(59)が、妻・ふゆ(57)、次男・鐵之助(29)、三女・かね(13)を伴い、福島県東白川郡豊里村大字東舘字舘本53番地へ分家。小生瀬には長男・酉次郎(35)一家(妻、いち、いの)が残る。
明治30年 1897 1月21日、鐵之助(29)が、東白川郡高城村関岡、大垣亀太郎の妹・アキ(25)と婚姻。
8月6日、鐡之助(29)・アキ(25)の長男・誕生
明治31年 1898 7月12日、庄衛門(61)が、次男・鐵之助(30)に家督を譲り、二度目の退隠。
明治32年 1899 9月12日、鐡之助(31)・アキ(28)の次男・誕生
明治33年 1900 7月21日、鐵之助(30)、豊里村大字東舘字石田11番地の土地(332坪)を購入し、転居。
明治34年 1901 11月4日、鐵之助(31)一家、舘本から石田11番地へ転籍。
明治35年 1902 11月10日、庄衛門(65)が逝去。墓所は東舘東慶寺(のちに鐡之助が移り住んだ常陸大宮市へ移動)。
明治38年 1905 1月18日、鐡之助(38)・アキ(33)の三男・武男誕生
明治39年 1906 1月8日、鐡之助(39)・アキ(34)の四男・正清誕生
3月26日、鐡之助(39)が東舘で営んでいた鱗屋旅館が破産。石田の土地を売り渡し、夜逃げ同然で大八車を押して水戸市南町の借家へ引っ越す。
12月10日、酉次郎(45)・きく(43)の長男・正之誕生。
明治40年 1907 8月15日、かね(23)が静岡県駿東郡菅沼村851番地の1で逝去。
明治42年 1909 4月9日、鐡之助(39)、東白川郡高野村大字大梅字大岩、藤成寅吉の妹・トメ(19)と養子縁組。
10月18日、ふゆ(70)が逝去。
明治43年 1910 (12)、三の丸尋常小学校を卒業し、水戸市内の総合食品卸問屋に奉公へ出る。
明治45年 1912 3月1日、いち(30)と西茨城郡岩間町大字岩間下郷246番地・貝毛福太郎の間に貝毛きん誕生。貝毛家に籍を置く。
大正2年 1913 11月9日、茨城県那珂郡大宮町147番地において、鐡之助(46)・アキ(41)の五男・三郎誕生。
大正5年 1916 5月8日、いの(20)が東京市小石川区餌差町31番地・柏原正哉と婚姻。石井家を離れる。
大正6年 1917 8月1日、正之(10)が長野県上水内郡芹田村において夭折。
(20)が那珂郡大宮町において商店を開業する。
大正9年 1920 4月17日、鐡之助(53)一家、茨城県那珂郡大宮町147番地へ転籍。以降は現在まで子孫が常陸大宮市に居住。
大正13年 1924 4月27日、酉次郎(63)・きく(60)、孫・きん(12)を貝毛家より養子として迎える。
昭和13年 1938 2月4日、きく(74)が西茨城郡岩間町大字岩間下郷246番地において逝去。届出者は酉次郎
12月2日、酉次郎(77)が西茨城郡岩間町大字岩間下郷246番地において逝去。届出者は三女・いち(56)。
昭和21年 1946 8月13日、いち(64)が西茨城郡岩間町大字岩間下郷246番地において逝去。届出者は同居者・貝毛德次郎。この時点で、石井酉次郎家はいちの娘・きん(34)のみとなり、絶家。

 

歴史的な大事件に関わっていた石井重衛門は、果たして私との繋がりがあるのでしょうか。まだまだ謎は解けません。

やっぱり女性は強いのかしら

なんだか思い立って、ちょっと統計をとってみたのです。

 

すでに鬼籍に入ってしまっている、私と妻の祖父母~高祖父母の未亡人(男性は未亡人というのかわかりませんけど)期間。

わずか28例ですが、興味深い結果がでましたので綴ってみます。

 

まずは、夫が先に旅立ってしまったパターン。28例中の16例、約57%です。

髙山市助1928/12/19 フシノ1930/9/7 627 1年8か月19日
佐藤栄吉1935/2/6 よの1937/8/23 929 2年6か月17日
千葉菊太郎1969/11/30 サワ1973/12/31 1492 4年1か月
山田菊松1934/4/4 をれ1938/8/20 1599 4年4か月16日
藤田松吉1937/3/14 カメ1942/8/13 1978 5年4か月30日
森井半次郎1964/4/14 ユキ1973/10/2 3458 9年5か月18日
平野儀三郎1939/2/22 いち1953/9/5 5309 14年6か月14日
湯谷金蔵1935/4/18 まち1959/3/18 8735 23年11か月
小出福松1937/9/29 ノヤ1964/9/6 9839 26年11か月8日
太田安造1899/7/5 せい1927/12/5 10379 28年5か月
佐藤今朝二郎1963/3/30 みよ1991/12/18 10490 28年8か月18日
柿﨑作次郎19667/7/17 サクエ1997/10/19 11417 31年3か月2日
皆川征露久1954/3/20 カツ1989/1/17 12722 34年9か月28日
菊地幸松1970/9/18 よし2008/1/19 13637 37年4か月1日
平野留五郎1937/10/3 とよみ1978/5/27 14846 40年7か月24日
菊地幸太郎1936/4/10 カツ1996/3/22 21896 59年11か月12日
平均 8085 22年1か月10日

未亡人期間最長は、私の曾祖母・菊地カツが記録。100歳で大往生するまで、実に60年弱ずっと操を立てていた?のですね!

未亡人期間は平均で22年。妻の方が年下の場合が多く、平均寿命も女性の方が長いですから、このような結果でした。

 

それでは逆に、妻に先立たれてしまったパターン。28例中の12例。約42%です。

森井タケ1922/2/6 半左エ門1922/2/17 11  
山田ハルノ1939/1/13 綱吉1939/2/26 44 1か月13日
皆川イツ1930/4/3 新吉1932/4/21 749 2年0か月18日
柿﨑タケノ1941/5/5 運次郎1943/7/24 810 2年2か月19日
森井チヨ1981/10/9 勝雄1984/12/19 1167 3年2か月10日
平野ゆき2014/1/28 政次2018/3/13 1505 4年1か月13日
飯島さた1916/11/29 龍介1922/8/10 2080 5年8か月12日
及川ちよみ1928/3/8 清之進1935/10/24 2786 7年7か月16日
山田洋子1988/12/29 幹2008/1/24 6965 19年0か月26日
太田ふて1940/5/5 代次郎1962/3/26 7995 21年10か月21日
菊地スイ1931/7/26 幸吉1959/6/27 10198 27年11か月1日
相木タケ1890/8/28 萬九郎1926/10/11 13192 36年1か月13日
平均 3959

10年10か月4日

未亡人?期間は平均10年!逆パターンの半分以下の期間となってしまいました。

やっぱり男というのは愛する女性が居ないと生きていけない、弱い生き物なのかもしれません。

妻の高祖父・森井半左エ門は、わずか11日後、伴侶の後を追うように逝ってしまいました。

妻の曽祖母・山田ハルノは祖先の中でいちばん若い28歳で世を去っていますが、出産時のことだったようです。昔は命がけでの出産だったのですね・・・。忘れがちですが、医術が進歩した現在でもリスクはゼロではありませんものね。その44日後に逝去した夫・綱吉は、流行り病だったと伝わっています。

 

ということで、いろいろなシチュエーションが考えられる中、例も少なくあまり統計的には参考にならないかもしれませんが、こんな感じでした。

愛する人に先立たれ、幼い子どもたちを必死に守らないと!とか、毎日寂しいなぁ・・・とか、どのような気持ちを抱きながらこの日数を過ごしたのかと思うと胸がいっぱいに・・・。

自分がどうなるかはわかりませんが、とりあえずは考えないように楽しく元気に生きていきたい!

森井家の石川県時代について整理してみたりしきれなかったり

家系のインデックス

 

妻の母方、森井家

 

数十年来、森井家系の調査をしてくださっていた義母のイトコさんが急逝されてから、もうすぐ2年になります。

その間、妻の高祖父・森井半左エ門(1853~1922)の母・スエの実家である小松市菩提町の坂下家にコンタクトをとらせていただいた結果、福井県吉崎御坊との繋がりが見いだせたことにより、さらに謎が混迷してしまった状況。

 

さかのぼることは尋常じゃない難易度だと悟ったことから、ひとまず石川県在住時代の森井家について、もう一度整理してみようと思った次第。

 

まず、私がもっともさかのぼることのできた除籍謄本が以下のものでした。

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落部村の戸籍係を恨みたくなる除籍謄本

妻の高祖父・半左エ門が戸主のものですが、記載を解読してみると、

「明治●年三月五日 石川県江沼郡菩提村 森井半四郎弟半左エ門分家願済●●分籍ス 明治二十六年六月十七日 石川県江沼郡那谷村字菩提●●●●番地ヨリ転住入籍ス」

なんということでしょう。肝心なところが読めません。

 

少なくとも、那谷村より落部村へ転籍したのが明治26(1893)年であることから、来道したのがそれ以前であることはわかります。

しかし、兄・森井半四郎より分家したのがいつなのか。なぜ分家したのか。年がわからないことから、推察が困難です。

 

半左エ門の長男・森井半次郎(1882~1964)は明治15年に生まれていますが、半左エ門が大正7(1918)年に65歳で隠居した後、半次郎の戸籍には以下のように記されています。

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父・半次郎、母・タケ。

 

この母・タケ(1845~1922)の実家、髙谷家についても、なかなかにミステリアスな状況。

 

タケは弘化2(1845)年に髙谷萬兵衛とユリの長女として出生しております。

高谷家については、札幌市に落部村の明治6(1873)年2月の戸籍簿目録を明治40(1907)年に調査したものを昭和3(1928)年に書き写した文書が残されておりまして、札幌の家系仲間に調査していただけました。

その中には「郷国空欄 漁業 髙谷萬兵衛 齢56。妻・郷国陸奥津軽 ゆり 齢43。家族数 男4女3。氏神 八幡社。菩提寺 真宗浄玄寺。明治7年 男1出生」と記載されております。

数え年で記載されていると仮定して勘定すると、髙谷萬兵衛は文政元(1818)年生まれ。ゆり(戸籍上はユリ)は天保2(1831)年、津軽地方の生まれと思われます。

萬兵衛の「郷国」は空欄ですが、おそらく周りの人々を見ると、空欄の場合は野田追生まれなのかと推察されます。

野田追という地ですが、八雲町の資料によると「1596(慶長年間)年ころ、ユーラップ場所とノタオイ場所が開設される。 1764(宝暦14)年、津軽・南部から落部に漁業経営の最初の移住があった。

髙谷家は「ノタオイ場所」への最初の移住者から、ほどなくして住み着いたのかと思われます。

計算すると、長女のタケは父27歳、母14歳(!?)の時の子ども。きょうだいも4~5人居そうですね。

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そしてタケが記載されている最古の戸籍。髙谷萬兵衛のイトコにあたる髙谷福松が戸主のものです。

これを見るに、高谷萬兵衛の長女としてユリが居て、その弟として(便宜上2代目の)萬兵衛が存在。

前述の明治6(1873)年以降に2代目萬兵衛が家督相続をしているようですが、その間にタケは重太郎なる人物と結婚しております。ただ、萬兵衛の戸籍に入っていたという事実が読み取れることから、重太郎氏は婿養子なのでは?と推察しています。

そして元治元(1864)年、高谷重太郎とタケ(19)の間に長男・福松が生まれます。

さらに明治2(1869)年に長女・タマ、明治8(1875)年に次男・玉蔵、明治14(1881)年に玉太郎が生まれております。

高谷福松が分家をした明治18(1885)年1月時点、すでに重太郎氏は「亡父」とあり故人となっているようですが、名前からして玉太郎は玉蔵と同じく重太郎の息子であると考えます。

そして重太郎氏が故人となり、福松が分家をした後の明治19(1886)年に小太郎誕生。のちに認知した父は久しぶりに登場の森井半左エ門。このとき半左エ門33歳、タケ40歳。

 

ながながと綴ってしまいましたが、ここまでで少なくとも小太郎が生まれた明治19(1886)年には森井半左エ門が野田追に居たということがわかります。

 

なお、前述の明治6年戸籍簿に森井の名はありませんので、明治6年~19年のあいだに野田追に来たというところまで絞り込むことができました。

 

あとは、落部村での半左エ門の長男・森井半次郎の戸籍に母・タケとの記述。

高谷家と同じ落部村の戸籍ですし、母の名は半次郎本人が申告したのでしょうから、半次郎の母はタケということで間違いないのではないかと思っております。

・・・ということで、半次郎が生まれた10か月前の明治14(1881)年までは絞り込んでも良いのかな…?

そうなると、半左衛門は未亡人となって間がないタケを…ということに(^^ゞ

玉太郎と半次郎は父違いの年子…

 

<結論>

森井半左エ門が石川県江沼郡菩提村より来道したのは、明治6年~14年のどこか。

おそらく単身での来道。

長男・半次郎は野田追の生まれ。

 

 

そして、森井家は現在は小松市菩提町となった旧・菩提村には存在しません。

大正期に山中温泉(現在の加賀市)に移住したためです。

これは、先に調査されていた神戸市の故・森井幹男さんの資料によります。

幹男さんの資料の中には、以下のようなものもありました。

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半左エ門の兄・半四郎の子孫についての家系図なのですが、そこに住んでいたと思われる番地が記載されております。

石川県江沼郡那谷村字菩提85松番地

・・・なに?その番地!

 

ソースは何なのか、結局聞けずじまいだったのがとんでもなく悔やまれるわけですが、85松番地。半左エ門の除籍の記載を見てもそうは読めないので、半四郎の住所なのかもしれませんけれど、そんな番地があっていいものか!?

 

地図サイトで見てみると、通常の番地のほかには「リ」とか「井」とか「ロ」があったりします。石川県特有の地番のようですが、「松」は登場しません。

もしあったとしても「菩提町リ1番地」とかですので、「松85番地」となるはずです。あんまりにも謎過ぎるので、今尾恵介さん著の「番地の謎」を買って読んでみました。

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残念ながら、石川県の地番についてはさらっとしか触れられておらず、結局わからずじまい。

 

むぅ・・・菩提地区・・・手強い。

 

菩提という地名にはもちろん由来があるわけですが、幹男さんが写真を撮ってくれていました。

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菩提町の花山神社にある碑。

 

花山神社之由来

菩提町は大昔蛙子村と称された。平安時代には三枝郷に属して、白山比咩神社の勢力圏にあった。戦国時代には一向一揆の勢力下にあり、信長、秀吉の征伐によって山口宗永の領有となり、慶長5(1600)年から前田家の領となった。寛永16(1639)年大聖寺藩領になり、那谷組22か村の一として肝煎が村を治めていた。当初は戸数100戸に近く、如何なる山頭を開拓しつくし、草高も453石に及んだが、山村のこととて地味も悪く生活も困難となり、遂には僅かに7戸となり、田野は荒廃甚だしく、遂には一村退転に及ばんとした。藩主のすすめで、月津の由右エ門らがきて復興につとめ、その子孫が13戸になった。

 

花山神社の御神体に関する記述要旨

一、菩提村花山神社に奉安される御神体は4体の本像であり、皆僧形にて内1体は頭巾を冠しており、これ花山法皇様で、他の3体は待臣、藤原實定、藤原義懐、藤原惟成ならずやと。
二、花山法皇様奉葬の後、侍臣等、陵傍に草盧を結びその冥福を祈りたり、その子孫繁栄し、村を成すに至る。
三、菩提村の起源、法皇様の王柩を、法皇が丘に奉葬せる時、河原村より菩提院を此の地に移築せり、その後この地を菩提と呼ぶにいたると。


菩提の花山神社は明治の神社庁では白山神社になっていたが、明治以後菩提の心有る人は神社名の改称に努力して来たが、其の甲斐あって昭和52(1977)年正式に花山神社と命名された。

平成2(1990)年9月吉日

 

・・・原文ママです。

100戸もあった村がわずか7戸になるなんて余程のことだと思いますが、月津村(現・小松市月津地区)からの移住者の中に森井家の祖先がいるのか、それとも全然別の所から来ているのか、そこまでは突き止めたいなぁと思っています。

ただ、手次寺(浄土真宗で言うところの菩提寺)が月津の興宗寺なので、一度は月津に住んでいたことがあるのでは・・・と、さらに興宗寺はもともと福井の但馬興宗寺から分かれた寺院。

吉崎御坊、但馬朝倉氏、北前船・・・。

幾度か綴ったような気がしますが、ここら辺のワードが関わってくるのではないかと睨んでおります。坂下家も同じく・・・。

ちょびっとだけ

自分の家系について、さいきんアクションを起こせていないためにまったく進展がありません。

ネタがないけど欲求不満だったことから、同僚に頼み込んでむりっくり市内の除籍を遡ってもらいました。これってなんとかハラスメントかしら?

 

そうすると、彼女の祖先は明治45(1912)年に白糠郡尺別村(現在の釧路市音別町)へ転籍してきていました。

その後、樺太の中でも本土に近い留多加(るうたか)町へ転籍。戦後はまた音別へ戻り、現在は釧路市内に籍があるという流れの家。

そして、明治45(1912)年にこちらに来るまでは、雨竜郡一已村に籍がありました。

一已(いちゃん、いちやん)といえば、現在は北海道の米どころ深川市一已ですが、もともとは屯田兵村として成立した地。

私の家系には屯田兵村と関わりがある家はなかったので、がぜん勝手に気持ちが盛り上がります。

 

そして、もっとも遡ることができた名前が「塚田秀藏」。

現在は国分寺町を経て高松市となっていますが、当時は「香川県綾歌郡端岡村新居(にい)」。明治22(1889)年までは「香川県阿野郡新居村」の人でした。


塚田秀蔵の六男として明治25(1882)年に生を受けた塚田憲一氏は、生後わずか8日で猪原甚吉氏の養子となり、猪原憲一となります。

そして、3歳のときに「原因不詳」で家督を相続。

3歳なのでもちろん自分の意思ではないでしょうから、猪原甚吉氏の意思、もしくは甚吉氏に何かがあったのかもしれません。

ただ、一已の屯田兵村が形成されたのが明治28(1895)年あたりなので、その年代と合致するのが気になるところ。

 

その情報をもとに、図書館で屯田兵名簿を確認すると、北一已兵村に端岡村の塚田半次郎という人がいました。憲一、ひいては塚田秀蔵の縁故者かもしれませんが、確定できるまでの情報を得ることはできませんでした。

なお、すべての屯田兵の中でも、猪原姓の方はおられません。

深川市に除籍が残っていれば何かがわかるかもしれませんが、自家分ではないので・・・ここまで!

 

猪原姓は岡山県の井原が発祥。井原市広島県福山市に多く分布していますが、山陽地方の多くは「いのはら」とお読みするようです。

ただ、同僚の猪原さんは「いはら」と読みます。全国的にはわりに珍しく、大分市に多い読み方のようでした。

しかしながら高松市の電話帳(冊子版)を確認すると、数は10数件と少ないながら市内の「猪原」さんはほとんどが「いはら」と読むようで(しかも多くが新居在住)、「いのはら」さんが1件のみということが判明。

ネットの電話帳だと読みまでは解からないのですが、冊子だと一発です。

このことから、猪原家も新居の家であろうことが推察されます。

電話帳と地図で確認すると端岡駅南部にこれらの姓が固まっており、東部に塚田家、西部に猪原家が多く集まっていました。


調べてみて意外だったのですが、塚田姓は四国には非常に少ない姓であるのですね。

2000年のネット電話帳によると、全国には約13,000軒の塚田姓の方がいらっしゃって、四国に限ると高知県に1軒、徳島県に2軒、愛媛県に13軒、そして香川県に63軒。

高知や徳島にはほとんど存在しないようです。その少ない中、新居地区に13軒が固まっているというのは興味深い点でした。四国では一番多く分布しています。

さらにインターネットを利用して調査を進めてみると、どうやら歴史的背景があることがおぼろげにわかってきたのです。


とつぜん話は関東地方に飛びます。

初代水戸藩主であった徳川頼房。頼房は徳川家康の息子です。

その子をおなかに授かった側室・久昌院は、頼房に堕胎を命じられます。しかし、どうやら他の側室でとても権力のある人がいたようで、だれか側室が受胎すると堕胎を迫っていたそうです。その側室には頼房も敵わないそうでした。

しかし頼房の母に相談の上、江戸で秘密裏に出産。この男児がのちの松平頼重


弟の光圀が生まれる際は、頼重は存在を隠すために京都へ送られました。

なお、光圀出生の際も久昌院は堕胎を命じられていたようです。

 

そして頼重が15歳のとき、ついに父・頼房に認められました。が、その時点ですでに弟の光圀が水戸の2代目藩主として決定していました。

結果、寛永16(1639)年に頼重は常陸国下館藩(現在の茨城県筑西市)を、当初治めていた水谷氏が備中に転封になったのちに与えられます。

しかし、3年後に讃岐高松藩へ移封。その際、多くの家臣が頼重とともに讃岐に渡ったのですが、その家臣団の中に「塚田新平」の名が見えます。

おそらくは、この下館藩士である塚田氏が新居郷に住み着き、現在に至っているのではないでしょうか。

この推察が合っていれば、香川に渡る前は常陸の人だったということとなります。


新居の塚田氏、猪原氏については特につたわっておらず(もちろん自家ではないのでコンタクトもとっていませんが)、相互貸借でお借りした国分寺町史にも名前を見つけることは叶いませんでした。

これからも自家とともに、思いついたら調べてみようと思っております(勝手に)。