皆川の大叔母との邂逅など
先日、職場の夏休みを利用し、空知地方へ墓地探索に行かせてもらうことができました。
なにせ、墓地ばかりを周るものですから、家族旅行の際には果たせない事案でした。
子どもたちも大きくなり、ついに単独行動が叶ったのです。
実に、2013年1月の虎ノ門出張以来、7年9か月ぶりの一人旅。
2泊3日で美唄、砂川、深川の各墓地を周ってきました。
しかし、成果はほとんど無し・・・
関係あるかもしれない!くらいの収穫しかありませんでした。
そして最終日、せっかくチャンスをもらったのに、このまま帰るのは悔しい。
そう思い、宿泊していた新十津川町の宿から伯父(母の兄)に電話。
ほど近い月形町に住む母方祖母の妹の連絡先を聞いてコンタクトをとった結果、初めて大叔母に会うことができる運びと相成ったのです。
大叔母は、御年87歳。
祖母・平野ゆき(1929~2014)の4歳下の妹であり、曾祖父・皆川征露久(1905~1954)の四女。
曾祖父の兄・皆川富次の二男(2004年に没)といとこ同士で結婚したため、姓は皆川のままとなっています。
大叔母はやっぱり亡くなったばあちゃんに雰囲気が似ており、とても懐かしい雰囲気に包まれていました。
大叔母の話を羅列してみると、
・新潟から北村(現在の岩見沢市北村)に移住してきたが、その頃のことは忘れてしまった。
・北村から釧路の別保炭鉱に移住。別保小学校に入学した。
・小学校1年生のころに長姉とともに新潟へ遊びに行っていたが、その間に家族は樺太(恵須取町上恵須取の布禮)に移住してしまい、姉とともに3週間かけて新潟~函館~稚内を経て布札に辿り着いた。
・そのころ、ゆきが嫁入りすることとなる平野家の近く(とはいえ遠かったらしい)に住んでいたが、「平野家の方がうちよりも街だった」とのこと。
・平野も皆川も農業だったが、祖父・平野政次(1922~2018)は、近所の青年たちを鍛える?役目を担っていた。
・ばあちゃんはおとなしい女の子だった(大叔母はにぎやかだった)。
・平野の曾祖父は熊にやられたが、住んでるあたりでは熊なんて見たことなかった。
・北村の実家も本家も、農業を辞めてしまっている。
・新潟にはお墓を守ってくれている人がいるが、存命なら100歳くらいなので、いまはどうなっているか・・・
・・・と、体調がすぐれない中で30分ほど、いろいろお話していただけました。
「ウチの人達は1月にけっこう亡くなるから、私も気を付けないとね」と。
帰りに手を握らせていただくと、何故か涙があふれ、泣きながら「お元気で!」とお別れ。
最後の最後で素晴らしく有意義な出来事でありました。
・・・そんな折、我が家に1通の封筒が届きました。
8月に厚生労働省へ照会をかけていたもの。
○ロシア連邦政府等から提供された資料の写しの請求について
.当室では、旧ソ連邦に抑留された方について、ロシア政府から提供された旧ソ連邦抑留中死亡者名簿、個人別の資料(ロシア語により記載された資料)、また日本側資料の「身上申告書」(終戦後、外地より帰還した軍人軍属が上陸地において原則として自ら調製提出したもの)などの資料を保管しております。これらの資料についてのご照会は、個人情報に関わるものであり、プライバシー保護の観点から、抑留者のご遺族、抑留された方ご本人、もしくはご家族であることの身元を確認した上で、文書によりお答えすることとしております。」
シベリア抑留を経験している祖父・平野政次についての資料があるのではないかと思い、期待をもって照会していたものです。
しかし、回答は「該当資料はありませんでした」というもの。
・・・2か月待ってこれかぁ(>_<)
ん?後ろに何かついてる?
「中国残留邦人等支援室」からの、
・乗船者名簿
・義勇隊指導員在籍表(昭和25年7月)
・・・この2点が添付されていました。
???中国???
乗船者名簿には、船名「白竜丸」。昭和24年7月20日に真岡を出港し、22日に函館入港。25~26日にかけて上陸したとの記載が。あとは「男農」「上恵須取」。
落ち着き先住所として、高祖母が身を寄せていた祖父の叔母の家の住所が記されています。
そして義勇隊指導員在籍表には、「恵須取町 平野政次」とあるのみ。
さっぱり??でしたが、じいちゃんが樺太から引き揚げてきた日と、義勇隊指導員という立場であったことが判明。
注釈に、「義勇隊」とは「満蒙開拓青年義勇隊」のことであると記載されていました。
Wikipediaによると、「満蒙開拓青年義勇軍」(「義勇隊」ではない?)とあります。
引用させていただくと、「日本内地の数え年16歳から19歳の青少年を満州国に開拓民として送出する制度であり、満蒙開拓団に代表される満蒙開拓民送出事業の後半の主要形態である」
しかし、この制度は昭和7~20年で終わっています。満州が日本ではなくなったのですから、そうですよね。
この名簿は昭和25年7月ですから、終戦後5年経っています。
???
いったいどういった経緯で作成された名簿なのか?
謎が深まります・・・。
7か月近くもほっぽってしまった
前回の更新から、はや半年以上。
この間にいろんなことがありました。
伯父、伯母を相次いで亡くし、
母の脳腫瘍再々発、
そしてコロナ禍により、みなさんとおなじように生活が一変し、さらに仕事量が激増。
ぜんぜん日常が戻ってくる気配はありませんでした。
日が変わるくらいのタイミングで帰っても、中一の娘がまだ宿題をやっていることもしばしばあり、学生も随分と影響を受けているんだなぁとかわいそうになってきます。
カレンダーどおりに休めたこの週末。
お盆ということもあり、ひさしぶりにこうして家のパソコンに向かい合ってキーボードを叩く気になりました。
とはいえ、さいきんは釧路でも道外ナンバーを多く見るようになりました。
観光客のかたがたが多くいらっしゃっているんですね。
そういう時期ですから、もうなかなかの高齢になってきた親戚たちにはいっさい会えない、会わないことにしました。自分たちのせいでコロナに罹ってしまったら・・・と思うと。
なお、ここさいきんの家系探求に関するトピックスは・・・なにも無し!
いずれまた、趣味に没頭できる時間が訪れるまでは、みんなで辛抱ですね!
そんな折にぜんぜん関係ない話ですが、先週の日曜日に十勝スピードウェイでお祭りがあったので辛抱たまらず行ってきたんです。
ケンメリスカイラインとサイバーCR-Xが同じくらいのサイズでびっくりしました。ヴィッツの方がはるかに大きいです。
子どもの頃のイメージに反して、昔のクルマは小さいんですね。
なんだかグランツーリスモのリプレイ画面みたいな写真。
あと、子どもの頃に強烈なインパクトを遺したスカイラインシルエットを模した鉄仮面も!
イベントに赴いたおかげで、ひさしぶりに楽しい気持ちになりました。
リフレッシュは大事ですね!
そうだ!たいへんなことを思い出した!
おととし訪れた福島県矢祭町関岡の菊池本家のお墓なんですが、もともとはこんな感じでした。
しかし!Googleマップでオンライン墓参りをしようと、こないだひさしぶりに見てみると・・・
ぬぁぁぁぁぁあ!!!!!!!
土砂崩れがぁぁぁぁ・・・・・・・(ノД`)・゜・。
今はどうなってるんだろう・・・飛んでいきたい。。。
ハッピーバースデイ♪
後厄の今年、正月からあまり良いこと無く過ぎてきました。
滑り台につっかかって転んだり、
あぐらをかいていて、足がしびれているのに気づかず立ち上がって足の甲で着地して捻挫したり、
Windows7を10へとグレードアップするのに丸々4日費やしたり、
数少ない釧路市内の親族だった叔父(父の姉の旦那さん)が急逝したり、
娘が吹奏楽で全道大会を逃したり、
ステップワゴンの車検でけっこう持っていかれたり、
・・・まぁ、それなりにいろいろ心身にダメージを負った1月でした。
そんな1月も間もなく終わろうとしていますが、今朝ふと「あぁ、今日はばあちゃんの誕生日だなぁ・・・」と思ったわけです。
菊地のばあちゃんは2008年の1月19日に亡くなったので、今年でちょうど13回忌。
いまもし生きていたら、今日が106歳の誕生日(1914年1月30日生まれ)でした。
そういえば小学生の頃、ばあちゃんがかの沢村栄治(戦死した伝説の巨人軍投手)よりも年上だと知って、「ばあちゃんすげえっ!」と思ったものでした。
そんな折、釧路はあいにくの大雪。
今まで降らなかったことの帳尻あわせのように、やけくそな降り方でした。こんちくしょう!ってなもんです。
風が強いので学校も臨時休校。ホワイトアウトしたら何にも見えませんからね。
朝から家のまわり、そして職場の駐車場を雪かき。
何とか踏ん張って職場に辿り着き、ほうっと安堵。
お昼になりおにぎりを食べていると、函館の母さんから電話が!
また身内に何かあったのかしら・・・(;'∀')
ドキドキして電話に出ると、「さっき11時15分に(妹の子どもが)産まれたから~♪」という予想外の嬉しい報告でした。
昨年、函館(の端っこ)の実家からほど近い七飯町の杉本青年と結婚した妹に、初子が生まれたのです!
予定日は2月20日前後だったので、ぜんぜん心の準備ができていませんでしたが、超うれしい知らせでした(*^-^*)
私にとっては初めての甥っ子。
元気に育ってほしいと心から願っております。
うちの両親は、うちの子ども達とは年に1~2回しか会えない状況(釧路と函館とでは離れすぎていて)でしたので、妹の子どもは初めての身近な孫。
今まで何の刺激もなく生活していた両親でしたが、彼が両親のポジティブライフに一役買ってくれるのではないかと、秘かに期待していたりします。
ロクなことがなかった1月でしたが、最後に逆転ホームランな出来事でチャラかな♪
久しぶりに
きのうは釧路もなかなかの雪が降りました。
すると、私と妻が仕事をしているうちに、子どもたちが家の周りを雪かきしてくれたのです!
なかなかしっかりと除雪されておりまして、こんなに頼りになるくらいに成長したんだなぁと、感慨深い思いでございました。
さて、さいきんは家系の調査に関してはめっきりモチベーションが下がっていたのですが、ちょびっとだけ調べてみたことがあるので綴ってみます。
妻の曾祖母・佐藤みよ(1903~91)の実家である、鳥取県鳥取市国府町荒舟の湯谷家。
といっても荒舟の湯谷のことということはないのですが、戦国時代に湯谷を名乗っていた人物について。
さかのぼること室町時代以前に武蔵国の広沢郷(今の埼玉県朝霞市あたり)を領していた廣澤氏という一族が居りました。
その中に「和知」という地があり、そこを居所とした廣澤氏が和智姓を名乗ったようです。
和智一族は、その後は300年以上にわたり、足利氏、山名氏、そして尼子氏や毛利氏の家臣、そして同盟を結ぶ家として一定の地位を築きました。
しかし、時は戦国。第9代の当主となる和智左衛門誠春の時代になり、事件が起きます。
誠春が開いた饗宴で、大名であった毛利隆元が不審な死を遂げてしまうのです。
毒殺を疑われた誠春は、嘆き悲しんだ隆元の父である毛利元就によって厳島に押し込められましたが、ともに誠春の実弟も押し込められたのです。
その実弟こそ、湯谷又八郎久豊。なんでかわかりませんが「湯谷」を名乗っていた人物です。
厳島へ押し込められて半年後、和智誠春と湯谷久豊の兄弟は脱出の機会を伺い、厳島神社本殿に立て籠るという強硬策に出ます。
それにともなって神社での神事が行えないという事態に。
それから約1か月後、堪忍袋の緒が切れた毛利元就により、誠春も久豊も始末されてしまいました。
和智誠春は愛息の仇だったのがほぼ間違いなかったようですが(積極的に嫌疑を晴らそうとしなかったらしい)、誠春の息子は元就に対して誠春との親子の縁を切ることや自分は関係ないと訴えて見逃されています。和智家は見事に存続したのです。
しかし湯谷久豊の息子は、元就に抗ったことから誅殺されてしまいました。
悲しいことに、湯谷はここで滅ぼされております。
久豊が隆元謀殺に関係していたのかは不明です。兄を慕っていたのでしょうか。それとも謀殺に加担していたのでしょうか・・・。
この廣澤→和知→湯谷の流れが現在の荒舟湯谷家と繋がるかは不明ですが、興味深い話ではありました。
なお、この湯谷久豊ですが、姓は「柚谷」、名は「元家」とも云われているようです。
いったいどういう由来で「ゆたに」を名乗っていたのかが気になるところですが、和智と同じく地名由来でしょうかね?
ちなみに以下は、太田亮先生の「姓氏家系大事典」の和知項と湯谷項の抜粋と、勝手な意訳です。
・和知は、初め武蔵の廣澤を領して廣澤を名乗る。備前藤戸の軍功により、和知を含む12郡を賜る。和知に住んだことから、和知を名乗る
・永禄の末、和知隆實のころは毛利家に従うも厳島に押し込められ、毛利を憤らせて弟湯谷とともに滅ぼされる
・備後国三谿郡の豪族、和知左衛門隆實の弟が湯谷又八郎久豊を名乗る
・萩原山は家原村、大谷村(広島県三次市三良坂町大谷)にかかる。享禄のころは湯谷又八郎の居所。灰塚山の福山は萩原城の子城
・鳥巣山は三玉村(三次市吉舎町三玉)にあり、赤松山城則久、また加板原佐渡の別所。一説に加板原は湯谷又八郎のこと。廣澤元家も同人なりという
・安西軍策に「高橋大九郎家臣湯谷氏」を収める
名字の読み方
名字には同じ漢字でも、違う読み方をするものがめちゃめちゃありますね。
「山崎」が「やまざき」なのか「やまさき」なのか。
「二木」が「ふたつぎ」なのか「にき」なのか「ふたき」なのか。
漢字を見ただけではわかりません。
あるいは「石井」という名字は、ほぼ誰が見ても「いしい」ですが、中には「いわい」と読む人がいたり、同じく「山田」が「やまだ」ではなく「ようだ」だったり、何でそうなった!?的な名字も数多くあります。
私の祖先でも「角田」姓がありまして、「かくた」、「つのだ」、「すみだ」と、どう読むかはこれだけでは不詳でした。
現在、賛否両論あるわけですが、ネット上で電話帳を見ることができます。家系を手繰っている私たちにとっては、非常に助かっています(同時に相手方にはご迷惑になっているわけですが・・・)。
その電話帳サイトの全ては、漢字の概念しかなく、読みまではわかりません。
そこで、古来からある紙の電話帳が登場です。
紙の電話帳は50音順で記載されておりますので、読みがほぼ判明するのです(「やまざき」と「やまさき」は区別されているのか不明)。
祖先の角田家は福島県白河市に在ります。白河市の電話帳を開くと、「かくた」が1軒あるだけで、その他は全て「つのだ」でした。「すみだ」は無し。
ちなみに、かのメリージェーン「つのだ☆ひろ」さんも、ここいらの出身だそうです。
逆に、宮城県には「角田(かくだ)市」がありますので、「かくた」、「かくだ」さんが多かったりするのかもしれません。
・・・ということで、紙の電話帳に頼る場面はまだあるわけですね。
こういった漢字は同じでも読みが違う名字について、ルーツの違いや分布を確認できる術ってなかなかないものですね。
最初に挙げた「山崎」に関しては、東日本に「やまざき」、西日本に「やまさき」のように、西日本のほうが濁らないというような統計があります。
これについては「中島」や「浜崎」も同じですね。
実際、妻の祖先である鳥取県の「中島」家は「なかしま」と濁らないですし。
こういった読みごとの集計があれば非常に助かるのですが、他力本願すぎてごめんなさいです~。
なぜこんなことを綴ったかというと、同僚の「猪原」姓。
同僚は「いはら」と読みますが、「いのはら」読みのほうが多勢なんですね。
猪原の発祥は広島県井原市だといわれており、大多数が発祥の地にいらっしゃいます。
井原ではほぼ全て「いのはら」読みのようでした。
「いはら」読みは大分市や、同僚のルーツである香川県高松市国分寺町が今のところ解っているところ。
先日、国分寺の猪原さんにお手紙をさせていただき、残念ながら繋がりを見出すことは叶わなかったのですが、非常に興味深い情報を教えていただくことができました。
おそらく平安時代まで京都に住んでいた猪原家の祖先は、崇徳天皇の刀鍛冶として仕えていたそうです。
しかし保元の乱で敗れた崇徳天皇は、讃岐に流されます。猪原の祖先も、共に讃岐へと移住したとのことでした。
後にいろいろあって最強の怨霊と云われることになる崇徳天皇は、讃岐の坂出で亡くなり、現在も坂出の白峰寺を菩提寺としています。
猪原の祖先は、この白峰寺に刀を奉納していたとのこと。崇徳天皇との関係が密接であったことを感じさせます。
猪原の祖先も坂出に菩提寺があったものの、現在は近隣のお寺に移籍したそうです。
・・・と、そんな「いはら」家ですが、果たしていつから、どういういきさつで「いはら」を名乗ったのか。
京都にも「猪原」姓の方がある程度いらっしゃるようですが、「いはら」か「いのはら」かは今のところ不明。
京都にいた頃から「いはら」を名乗っていたのであれば、もう900年以上になります。
なかなかのロマンではないですか!
ぜひともここは解明してあげたいところ。
そこまでの道のりは困難を極めそうな気がしますけれど(*´Д`)
あ、あけましておめでとうございます!
今年は元旦に鳥取神社へ初詣に行きまして、菊地家を代表して息子が小吉のおみくじを引きました。控えめな一年になりそうです。
そして、おとといはおとなり釧路町(釧路市とは別の自治体)の昆布森神社へとお参りへ。
海のほとりの高台にあるだけあって、絶景でございました。
同じ名前の存在
戸籍を手繰っていると、一族で同じ字を使っている家によく遭遇します。
うちの菊地家は「幸」の字を多用していたり、母方平野家では長男に「治」、次男以降に「次」の字を使用するようになっていたりしました。
そんな中、「ありゃ?同じ名前だ~」ということもあります。
それは親御さんにとって、いろいろな意味が含まれているのでしょう。
たとえば、妻の高祖母の父・杉山治郎左衛門(1843~1911)は、父・治郎左衛門と同じ名です。
ただ、これは明治5(1872)年に壬申戸籍が編成された際の名前かと想像しますので、その時、息子の治郎左衛門は29歳。
きっと幼少時もしくは実名は異なる名前で、戸籍編成時に治郎左衛門で登録したのではないかと思います。
そして、祖先の名をつけるケースもあります。
左の健三(1841~1904)さんのひ孫が右の健三(1913~1969)さん。
おそらく康孝さんは、尊敬するおじいちゃんの名前を長男につけたのではないかと感じますね。
戸籍ではないですが、母方祖母の新潟皆川家は江戸時代のころ、代々皆川新右衛門を名乗っておりました。屋号も兼ねていたようですし、そういうお宅も多かったでしょうね。
そして、ちょっと雰囲気が異なるのがこの森長右エ門さん。
栄助さんの父・森長右エ門は、長右エ門さんの長女・キヨさんのお婿さんというように読み取れます。
お婿さんに来た時、襲名したのかもしれませんね。婿の長右エ門さんは戸籍編成以前に亡くなっているので想像でしかないですけれど。
そんな折、ひとつの疑問が浮かんできました。
同じ名前の別人のことです。
明治22(1889)年に町村制が施行される前、日本には71,314の村があったと伝わっています。
いまでいう大字や「○○市○○町」といった小規模、今でいうと町内会の大きさくらい?の区域でした。
そんな狭いコミュニティで、同姓同名の人が居たのかなぁ?という疑問です。
たとえば明治28年に○○甚吉という人が亡くなっている(この方については名前と没日しかわからないですが、結婚はしている年齢で、亡くなった時点で妻は24歳)のですが、明治38年に生まれた同じ村落の同姓(この地区では珍しい姓)の子どもに同じ甚吉という名がつけられているのです。
これは、同じ一族(兄とか弟とか甥とか)が甚吉のことを惜しがって、またはあやかって同じ名をつけたのかなぁ?といったところ。
まったく違う家の人で、もともと甚吉のことを知っていて付けたのであればそれほどの人物だったのかもしれませんが、甚吉が(おそらく)若くして亡くなっていることから、縁起を担いで甚吉と命名するかは素直に無いかなぁと思っているところです。
もちろん事情は千差万別でしょうし、今の感覚で推し量ることは難しいですね。
タイムマシンができたら当時の方々に命名の由来を聞いてみたいです。
戸籍への記載事項が変化する不思議
令和最初の年の暮れ。いよいよ今日は仕事納めの日です。
今年は数え42歳の本厄だったので、年を越せることになんだかほっとしています。
さいきん、自腹で同僚の家系をさかのぼらせてもらっていたのですが、その中で特筆?すべき事項がありましたのでご紹介させていただきます。
同僚の母系は、釧路に来る前は利尻島に居たとの話でして、実際に釧路市の戸籍を見ると、利尻富士町(当時は東利尻町)から転籍しておりました。
そこで利尻富士町に、さかのぼることができるまで除籍を請求。
当時は鴛泊(おしどまり)村だった利尻富士町の最古の戸籍には、明治34年「利尻郡仙法志村より転籍」とありました。
ちなみに利尻島というのは、北海道のここです。
この小さな島ですが、東側は利尻富士町、西側は利尻町と別れております。
仙法志村は現在の利尻町の地区。
島がひとつの町であれば一発でいけたのですが、ここは利尻町に請求です。
すると、今度は「明治30年利尻郡本泊村番外地より転籍」との記載。
仙法志には4年しか居なかったのですね。
本泊村は現在の利尻富士町。
またもや利尻富士町に請求しなくてはなりません。
ちなみに、利尻島へ行く方法はフェリーしかありません。
海が時化るとその日は諦めないとならないのです。
もちろん郵便物も同じです。
なので、時間がかかるんですね。
同時に、ここまでで判明している戸主(同僚の高祖母)の父親の籍と名前が判明したので、請求をしてみました。
なお、その父親については「福井県坂井郡坂井浦 北山仁助」となっています。
ところが、調べてみると「坂井浦」なんていう地名はありません。
いまでいうと三国港のあたりがあやしいと思い、坂井市に請求をかけてみましたが、北山仁助については存在しないとの返答でした。
むむぅ、なんだか怪しくなってきたぞ。
しかも、仙法志の戸籍には「明治19年入籍、明治10年相続」と書かれています。
戸主は「薮野シモ」。前戸主は「亡夫 薮野佐太郎」。
時系列で並べようとしても、非常に困難な状況です。
シモさんが佐太郎さんと結婚して入籍。佐太郎さんが亡くなってから相続。
そういう流れが自然なのですが、入籍と相続が逆転していますし・・・。
そして利尻富士町よりついに届いた本泊村の戸籍。
あっさりと謎が解かれました。
「明治10年相続」
・・・この戸籍が出てくるまでに1か月以上かかりました。
本泊村には4か月ほどしか居らず、すぐに仙法志に転籍していました。
在籍4か月だけの戸籍でしたが、これがないとどうにもなりませんでしたね。
仙法志村に転籍した際、どのように手続きをしたかは想像しかできませんが、口伝えとかで行ったのであれば、こんなことも起こりうるのかもしれないですね(´Д`)
そしてこれを見ると、シモさんは佐太郎さんと結婚してわずか9か月で未亡人になってしまったようです。さぞやつらかったでしょう。
姓はそのまま薮野を名乗っています。ただ、戸籍では薮野、藪野、籔野の三通りの書き方が見られるため、どれがホントなのか混乱します。
なお、この薮野家。
これも想像ですが、米ケ脇浦という地はその名のとおり海沿いの地区。
薮野姓は関西に割と多めに分布しているため、もともとは関西住まいで、北前船をきっかけとして越前に移住し、北前船でブイブイいわせていたのではないでしょうか。
北前船が衰退してきた明治中期、夫は既に亡く、もしかすると誰かを頼ってニシンで潤っていた利尻島へと移住を決意したのかもしれませんね。
左の記載が右のように変化!