真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

藤田家について混乱する

家系のインデックス

 

家系を探求していくにつれて、この10年間で、今のところ3系統の藤田家が出てきたわけです。しかもいずれも福島県白河地方。

 

一つ目は、高祖父の祖母である菊地ヤス(1813~99)の実家・東白川郡東舘村(現:矢祭町東舘)。

二つ目は、曾祖母である菊地カツ(1895~1996)の実家・西白河郡千田村(現:白河市東千田)→東白川郡下山本村松原(現:棚倉町下山本松原)

三つ目は、前述曾祖母のさらに母である藤田カメ(1872~1942)の実家・西白河郡蕪内村新屋敷(現:白河市東蕪内新屋敷)

 

地図で示すとこのような感じになります。

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上の青いポイントが蕪内新屋敷。

次の赤いポイントが千田孫八。新屋敷から3km(徒歩で約40分)

続いての赤いポイントが下山本松原。孫八から15km(徒歩で約3時間)

一番下の緑ポイントが矢祭東舘。松原から16km(徒歩で約3時間10分)

Googleマップで徒歩での経路を見てみると、このような感じでして、一番遠い新屋敷から東舘は約31km、徒歩で6時間20分と出ました。

 

今とはもちろん比較はできないのですが、30kmという距離。

昔の人にとってはどのくらいの感覚だったのでしょうか?

全ての藤田家が繋がるわけではないと思いますが、蕪内と千田の藤田家はもしかするのでは・・・?と勘繰っちゃったりしています。

東舘の藤田家は、関係ないような気がしますが。

 

あんまり僕の頭だと整理できないので、系図にまとめてみました。

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ふむ、少し整理できた気分♪

 

ちなみに超ステキなサイト、「人名力別館」さまによると、藤田姓の割合は以下のような感じらしいです。

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全国的に見ても、東白川郡大子町が藤田さんまみれのようです。

矢祭町下関河内(しもせきごうど)の追ヶ草に至っては、フジタ100%!

 

白河市の旧東村域でも、

11 福島県 白河市 下野出島万海(71.4% / 約20人)

20 福島県 白河市 千田孫八(62.5% / 約20人)

65 福島県 白河市 下野出島石原(39.3% / 約50人)

67 福島県 白河市 釜子日向(38.9% / 約30人)

82 福島県 白河市 千田明神前(35.7% / 約20人)

・・・と、小地域100位以内に上記がランクイン。孫八も入っています。

 

全国的に見ると30位と、割りに多めの藤田さん。

都道府県別だと福島県は22位なのに!

なぜ、ここいらに集中しているのか?

まだ調べてません(*´з`)

 

また、棚倉町史を読んでいると、下山本村についての古文書中に以下のような記述を見つけました。

文政8(1825)年7月
下山本村
百姓代 林蔵
組頭  清右衛門
組頭  長右衛門
庄屋  忠右衛門

この百姓代として名がある林蔵さんというのは、以前も書かせていただきましたが、字松原の地籍簿に出てくる名前です。この方も藤田姓。藤田林蔵さんです。

そして組頭として清右衛門という名があります。

これは、高祖父・藤田松吉の父の名。

 

姓がないのでなんともいえませんが、文政期には下山本村に住んでいた藤田清右衛門家が、ある時期に15km離れた千田村へ移り、清右衛門亡き後、戸籍上では明治20(1887)年に下山本に戻ったと考えられなくもないですね。

あるいはもしかすると、清右衛門はそのまま下山本村に居たのかもしれません。

そして末吉か松吉の結婚かなにかで千田村に・・・とか、確証がないのでめっちゃ妄想ですけれど。

しかも全然関係ない人かもしれないし。

む~、現地にもう一度行ってみないと、これ以上はわかんない!

元禄7年、越後蒲原郡吉江村検地帳

家系のインデックス

 

先月3日、釧路中央図書館がオープン、さっそく相互貸借で母方祖母の実家・皆川家の本貫地である「味方(あじかた)村誌」を取り寄せていただいて舐めるように読んでいたのですが、残念ながら祖先についての事項を見つけることはできませんでした。

皆川家の本貫地は、現在の新潟市南区吉江。

かつては新潟県西蒲原郡味方村大字吉江でした。

吉江村は明治22(1889)年に吉田新田、山王村、山王新田、大倉村、大倉新田、居宿村と合併して七穂村となり、明治34(1901)年に味方村および白根村と合併した地。

「味方村誌」の内容は、主に合併する前の味方村、そしてもうひとつ合併した白根村についてのことが多く、吉江村についてはわりと少なめの情報量でした。

その中で唯一おそらく祖先であろう名が記載されていた箇所、元禄7(1694)年の吉江村検地帳が以下です。

  名請人
1

権左衛門

(庄屋)

23.2 30.5 53.7 16,110
2 與五衛門 21.8 15.1 36.9 11,070
3 新之丞 21.3 11.8 33.1 9,930
4 新左衛門 17.4 11.2 28.6 8,580
5 善左衛門 19.3 9.2 28.5 8,550
6 七左衛門 17.2 9.2 26.4 7,920
7 庄右衛門 13.1 9.8 22.9 6,870
8 長右衛門 14.6 7.2 21.8 6,540
9 半左衛門 10.9 9.2 20.1 6,030
10 源左衛門 9.9 9.7 19.6 5,880
11 全七 12.8 6.5 19.3 5,790
12 八右衛門 11.8 7.5 19.3 5,790
13 清左衛門 11.7 7.5 19.2 5,760
14 助左衛門 17.0 2.0 19.0 5,700
15 清三郎 12.2 6.4 18.6 5,580
16 高念寺 9.9 8.6 18.5 5,550
17 九郎兵衛 10.2 7.2 17.4 5,220
18 惣助 10.3 6.8 17.1 5,130
19 新右衛門 9.6 7.4 17.0 5,100
20 久三郎 10.8 5.6 16.4 4,920
21 長四郎 11.0 4.6 15.6 4,680
22 惣左衛門 10.3 5.2 15.5 4,650
23 喜三郎 7.1 5.2 12.3 3,690
24 半四郎 6.5 8.5 15.0 4,500
25 久蔵 8.1 5.2 13.3 3,990
26 清八 7.2 6.0 13.2 3,960
27 半三郎 9.0 3.7 12.7 3,810
28 吉兵衛 6.9 5.4 12.3 3,690
29 兵右衛門 7.8 4.2 12.0 3,600
30 與三衛門 6.9 4.5 11.4 3,420
31 仁左衛門 7.0 3.9 10.9 3,270
32 甚蔵 6.8 3.8 10.6 3,180
33 與右衛門 6.5 3.7 10.2 3,060
34 才蔵 6.2 3.9 10.1 3,030
35 清九郎 5.2 4.5 9.7 2,910
36 久作 4.4 5.1 9.5 2,850
37 才三郎 4.5 3.7 8.2 2,460
38 兵七 4.5 3.3 7.8 2,340
39 茂左衛門 5.0 3.5 8.5 2,550
40 勘吉 3.7 3.6 7.3 2,190
41 新吉 3.1 4.1 7.2 2,160
42 三左衛門 3.8 3.3 7.1 2,130
43 甚吉 3.0 4.0 7.0 2,100
44 竹左衛門 0.0 7.0 7.0 2,100
45 全蔵 3.3 3.6 6.9 2,070
46 伴右衛門 6.7   6.7 2,010
47 加平治 4.0 1.8 5.8 1,740
48 孫左衛門 4.0 1.2 5.2 1,560
49 津右衛門   4.0 4.0 1,200
50 七兵衛 2.6 0.4 3.0 900
51 茂右衛門     1.3 390
52 七郎兵衛     1.2 360
53 半右衛門     0.7 210
54 庄次郎     0.6 180
55 金蔵     0.5 150
56 太郎兵衛     0.4 120
57 仁兵衛     0.4 120
58 與次兵衛     0.3 90
59 勘七     0.3 90
60 與助     0.3 90
61 九助     0.27 81
62 藤左衛門     0.27 81
63 惣右衛門     0.27 81
64 兵助     0.22 66
65 喜右衛門     0.21 63
66 切助   68歩   68
67 善右衛門   41歩   41
68 清吉   40歩   40
69 久左衛門   36歩   36
70 佐五え門   33歩   33
71 重蔵   20歩   20
72 與四え門   20歩   20
73 惣兵衛   10歩   10
74 惣次郎   7歩   7
75 半七   4歩   4

この中の19番目に記載されている新右衛門という人物が、祖先である皆川新右衛門かと思われます。

菩提寺である高念寺もその2つ上にありますね。昔はお寺もこういう風に田んぼや畑を所有していたのですね。どういった人が世話をしていたのでしょうか。

また、吉江村の検地という項には、以下のように記述されています。

新発田藩は、慶長3(1598)年に溝口氏が入封して以来、度々検地を行っている。新発田藩の検地の方式は、太閤検地の一反三百歩制でなく、従来の慣習どおり360歩の6分の4の240歩を大、6分の3の180歩を中、6分の2の120歩を小という単位で表した。しかも、農民の年貢の軽減を考慮した「七分掛け」という方式を実行したので、検地の際にも、縦の実測に9掛け、横に8掛けをした数(100歩に対して72歩)を野帳に書き込み、公表する面積を実測より少なくした。これを「縦九、横八の法」といって、新発田藩では代々この方式を用いて検地を行った。
 吉江村の検地帳についてみると、一筆ごとに縦、横を測り、面積を記し、名請人を確定して、終わりに村の総耕地面積を出し、分米として石高が記載されているが、これは新発田藩においては年貢高を表している。しかし、吉江の検地帳には耕作地の地名が書いていないのが特徴といえる。吉江村は、新発田藩の支配時代に総検地を4回(寛永4(1627)年、慶安4(1647)年、寛文6(1666)年、元禄7(1694)年)、幕府領代官所支配には新田検地を四回(元文5(1740)年、寛延3(1750)年、宝暦7(1757)年、文化7(1810)年、文政8(1825)年)受けているし、元禄7(1694)年の時点の耕地面積は74町歩、石高は673石、名請人75人という実績を示している。
 味方と吉江の検地帳の名請人についてみると、吉江村においては二町以上の大農経営者は約3割で一町台の自立経営農家が半数の5割を占め、一町以下の小作(いわゆる水呑といわれる階級)が1割5分しかいないのに比べて、味方村では二町以上の大農者が6割を占め、一町台の自立農家が2割5分、水呑は1割7分となっている。検地帳に名請けされた百姓の中にも所有地の格差があり、本百姓と水呑の階層がみられるから、このほかに名請けされない水呑の階層が相当あったことが推測される。因みに江戸末期における両村の本百姓・水呑の数は、味方村が本百姓113軒、水呑265軒。吉江村が本百姓58軒、水呑30軒である。

新発田藩の検地は、農家にとって優しい方式をとっていたようですね。

吉江は、味方に比べて水呑の割合が少ないので、恵まれていたのでしょうか?

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次はどこの地誌を借りようかしら?

図書館司書の方々にはご迷惑をおかけしております<(_ _)>

平野儀三郎について、一縷の望み断たれる

家系のインデックス

 

未だミステリアスな人物、母方の高祖父・平野儀三郎(1866~1939)。

以前、興部に来村された柳原義光伯爵(1876~1946)のお宅に何か伝わっていないかとお尋ねしたところ、伯爵のひ孫様より「戦災で資料が焼失してしまっているので、興部に行ったことも初めて知りました」とのことでした。

非常に残念ではありましたが、こればかりはしかたがありません・・・。

ということでその線はあきらめたのですが、伯爵とともにもうお一方が興部へお見えになっていたのです。

三室戸敬光子爵(1873~1956)。

柳原家から江戸時代に分かれた三室戸家の方。

藁をもつかむ気持ちで、三室戸家には何か伝わっていないかとお手紙をさせていただきました。

 

本日、三室戸子爵のお孫さまよりお電話をいただくとができまして、やはり三室戸家でも、子爵が本郷にお住まいだった際、家が戦災で焼けてしまったということでした。

憎むべきは戦争。。。

 

そして子爵がお亡くなりになった際、お孫さまは中学一年生。

離れて暮らしていたこともあり、ほとんどそういったお話を聞く機会がなかったそうで、興部についてもやはりご存知ないということ。

今回お送りさせていただいた興部来村時の写真も、初めて目にされたそうでした。

 

このような一般庶民へご連絡くださるなんて、非常に光栄で恐縮で上がりまくってしまい、自分でも何をしゃべっているんだろう・・・という感じで、電話を終えてしまいました(;・∀・)無念。。。

 

三室戸さまは夏場に何度か釧路にお越しになったことがあるそうで、次にお越しになった際は、ぜひともお目にかかりたいと勝手に思うところです。

小4の娘がトランペットを吹いているので、三室戸学園が経営する東邦音楽大学のことを少しうかがうことができたのは嬉しかったです。まだまだ先の話ですけれど。

音楽人口が減っているというお話もされておりました。

確かにその後のことを考えると、音楽で身を立てることができる人はひと握りでしょうし・・・。

 

・・・と、またもや平野儀三郎について進展はありませんでしたが、こうしてひとつひとつ紐を解いていくにつれ、だんだん焦りが出てきました。

今月6日で儀三郎の孫である、私のじいちゃんは満96歳。

なんとか真実を知り、伝えてあげたいという思いが募る一方です。

 

そして、想いが強すぎるのか、身分を顧みずに大それた行動をしているのではないかと改めて思案する39歳、大雪が降る釧路の夜。

まだまだこれから降るみたい。雪かきめんどくさい。

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息子はインフルで学級閉鎖のうえ、明日は悪天候で臨時休園!

あぁ、これでホントに最後の地籍簿

家系のインデックス

 

以前、ご提供いただいた情報のうち、これが最後の地籍簿となってしまいました(*´Д`)

曾祖母の実家のあった福島県東白川郡下山本村字松原(現:棚倉町)。

ここは、高祖父・藤田松吉(1853~1937)が西白河郡千田村から明治20(1887)年に転籍した地。

そして、松吉の妻・カメ(1872~1942)の母・藤田タツ(1846~1917)が西白河郡蕪内村から移り、おそらく娘夫妻と同居していた地。

今のところは千田蕪内の両藤田家については、つながりがわからないので2系統と考えていますが、もう少しさかのぼることができればもしかすると同じ系統になるかもしれません。

 

その松原の明治20(1887)年ころの宅地所有者が以下となっています。

所有者 総坪数
乾源藏 352
金澤利作 330
田村弥市兵衛 308
乾芳藏 270
田村金四郎 264
小林喜四郎 226
堀懿負起 207
藤田喜重 184
加藤教藏 162
藤田林藏 161
乾源吉 157
渡邊直一 156
増子初吉 126
松下大次郎 123

松吉が移住した地番の所有者は、藤田林蔵さん。

同姓ですが、戸籍には出てきていない人物です。

そして、この地は旧土地台帳と地籍簿の編纂時期が異なるのか、旧土地台帳では明治45(1912)年時点で藤田松吉が所有権保存というのが最初となっています。

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そして大正7(1918)年に手放したのち、再度取得しているみたいです。いつなのかが読み取れませんが、おそらく屈斜路入植後なのではないかと・・・。

松吉の後に所有権移転となっている藤田クニさんも、戸籍上未登場。また謎の登場人物が!

10年経っても、まだまだ未解決な事案が増えてきますね(;'∀')

新編武蔵風土記稿、小榑村部分抜粋

家系のインデックス

 

母方平野家について、明治時代に編纂された新編武蔵風土記稿の小榑村(現:東京都練馬区西大泉3~5丁目付近)項で何かわかるかも・・・という思いでちくちく現代仮名に直して入力してみましたが、特に得るものはありませんでした(*´Д`)

せっかく打ち込んだので、読みづらいとは思いますが以下に載せてみます。

つぶれて読みづらい文字がありましたので、間違っている箇所があるかと思いますが~(;・∀・)

 

新編武蔵風土記稿

小榑村
小榑村は廣澤庄と称し、郷名は伝えず郡の東南の隅にありて江戸を隔てること五里余り。
東は上白子村及び白子川を隔て豊島郡土支田村に隣り、西は本郡下保谷村、南は豊島郡関村及び郡内上保谷村に境、北は中沢辻爾村に接し、上白子村の西方より土支田村の境、白子川の流れに沿い斜めに西の方へかけ入り、その形半月の如し。
故に北によりたる所は東西一里余り。南の方は縦に十町許。南より北へは五町もあるべし。
人家320軒。川越街道の内、白子の宿へ人夫の定助をつとむ。このあたり用水の便あしければ水田少なく畑多し。米穀は一里許隔てたる黒目側の河岸へ津出しをなし、荒川を経て江戸までえ川路十六里余り。
この村の飛地、隣郡土支田村に二ケ所、本郡中澤村に一ヶ所あり。北條分限帳に小榑深屋98貫860文。太田大善亮知行とあり。染屋は多磨郡染屋村にて、小榑はこの村なれば北條家の時代までは太田氏の知行なりしか。御打ち入りの後、板倉四郎左衛門勝重の領地となりしことは上新倉村に見えたり。板倉氏この地を領せしは、勝重より子息伊賀守に及び寛政3(1791)年の頃までなりと村人の伝うるところなり。されど板倉家系に勝重の子は周防守重宗とあれば伊賀守といえるは誤りにや。
正保(1645~1648)の頃、御代官野村彦太夫爲重が支配し、それより前にも伊奈半十郎の支配せしことあり。のち寛文年中(1661~1673)に至り稲葉美濃守正則の領地となり、寛文3(1663)年、同人検地せり。その子丹後守正通、貞享2(1685)年、越後國高田へ所替あり。
のちまた御代官所となり、元禄16(1703)年、江川太郎左衛門支配の時、米津出羽守田盛へ賜り、それより累世今も米津氏の領知なり。

小名
・堤村
村の西北の方を云い、この厥(まがり)の辻に高さ3尺8寸、幅1尺4寸3分、厚さ1尺2分。正面に題目を刻み、側に享保元(1716)年に建てたる由を彫る四面の塔あり。
故に土人ここの小名を四面塔ともいえり
・榎戸
榎の古樹が残っており、故に名づく
・水溜
村の南にあり
・小作
村の西にあり
・中島
土支田村の境にあり

山川
・白子川
この村と土支田村との境て北に流る。川幅2間許
・井頭池
この村および土支田村の境南によりてあり。白子川の源なり

原野
・林場
村の東北隅にあり

神社
三十番神
村の鎮守なり。小名中嶋にあり本照寺の背後にあたれり
・稲荷社
小名堤村にあり。鎮座の初め詳しならず。9尺1間許の小稲荷に鳥居あり。村内圓福寺の持なり。

寺院
・妙福寺
村の東、豊島郡土支田村より入口にあり。法華宗。下総國葛飾郡中山法華福寺の末法称山と号す。弘安5(1282)年、法華経寺第二世日高聖人草創の地なれども、のち住める僧もなかりして、又かの寺の三祖日祐聖人再建し、十七日の説法ありしに、村内天台宗修験大覚寺の住持日延聖人もこの法筳に至り、深くその宗意を帰依し遂に改めてこの宗となれり。
日祐も日延聖人の知識にのってならさるを知り、当寺をこの聖人に譲れり。
今は日祐聖人を開山とし、日延聖人を帰伏開山と称す。日延は永和2(1376)年11月11日に寂す。
のち天正年中(1573~93)、御朱印地21石余りを賜りしか、のち回禄(火災)に罹り寺も滅べしに、21世明了院日教聖人、堂宇を再造せしにへ。
これを中興開基とす。この聖人は享保11(1726)年11月1日寂せり。本尊三寶を本堂に安す。
往古大覚寺の本尊は、嘉祥3(850)年創建の時、開眼の釈迦(金佛坐像)今もこの寺に納め置いたりという。金剛は近き頃塗り直し、古色を失うに似たれども容貌この常の像に非ず茜きものと見えたり
三十番神
二間半、四間半、祖師堂に向かって左にあり
・七面妙見相堂
二間半に四間半、祖師堂の丑寅にあり、三間四面この鬼子母神法華経寺に安せる像の本礼なり。往古日蓮聖人、平日の済経佛なりしを日祐聖人へ伝わり、ついに当寺へ納めたり。本寺には卸して○刻の○を安せり嘗て給わるところの御朱印もこの鬼子母神へ寄付せしと云う
・本堂
九間に八間祖師堂の北にあり
・鐘楼
祖師堂に向かって右にあり、鐘は廻り2尺5寸、高さ3尺5寸許。寛文年中(1661~73)の銘を彫る。その文は後にのす是によれば古鐘をこれ○あらため鋳しと見ゆ。文の終に慈東山大覚寺の文字隠然とあれど、これは○うちけしたりと見ゆれば模糊として、正しくは読みがたし。またそれ故も伝えては詳しならず
・本照寺
境内8畝9歩(249坪)。小名中嶋にあり、本堂五間に七間半。了光山と号す。開山日勇上人、文禄2(1593)年3月20日に寂せり。
・実成寺
村内東の方にあり、加賀阿闍梨日正聖人、天正年中(1573~93)創建なり。加藤山実成寺と号すこの寺は、往古より村内妙福寺の末寺にて法性坊と唱えしか。寛政5(1793)年、17世日藤聖人の時、妙福寺の本山法華経寺の末となり、院号を免許せられ今は法性院と云う。

旧跡
・弁天社蹟
井頭池の中洲に建てり。聖人云う、昔、村の童がこの池の魚を捕りしに怒りき、其の祟りありしかはこの村及び土支田村の人と共に村内妙福寺の住持日忠聖人に請い、弁天の祠をこのところへ勧請したる。時に貞享年中(1684~88)のことなりとされと。正保(1645~48)の頃の絵図、既にここの祠を載せたれはいつの頃よりか廃祠となりして、この時再建せしなるべし。それもまた廃祠となり、今の名のみて残せり。

いろいろ不明な森井家年表

家系のインデックス

 

とりあえず年表つくるのはひと段落。妻の母方森井家です。

和暦 西暦 出来事
江戸期

森井家、加賀国江沼郡菩提村(現:石川県小松市菩提町)に居住。菩提寺浄土真宗本願寺派「牛鼻山興宗寺」。もとは月津村(現:小松市月津)の寺だが、昔々に福井市松本地区へ大谷派が同名で分離建立されたらしい。
現在判明の最古の祖先は、森井半四郎(便宜上初代とする)・志な夫妻と、父と同名の長男・半四郎(2代目)。どちらの半四郎かは不明だが、土木関係の仕事をしており、那谷寺から菩提村までの道路を造り、その功績で大きなお墓を建ててもらった。
半四郎(2代目)、坂下スエと婚姻。
半四郎(2代目)、スエの長男・半四郎(3代目)誕生。

嘉永 1853 6月3日、半四郎(2代目)、スエ夫妻の二男・半左エ門誕生。
慶応4 1868 8月12日、半四郎(2代目)逝去。
明治9 1876 6月21日、スエ逝去。
明治10 1877 3月15日、半左エ門(23)、菩提村の別番地へ分家。
明治15 1882 5月25日、半左エ門(28)・髙谷タケ(36・未婚)?の長男・半次郎誕生。
この間? ※小太郎の母がタケであることは恐らく事実であるので、少なくとも明治19年以前に半左エ門は北海道に入植していたと思われる。
明治19 1886 7月15日、半左エ門(33)・髙谷タケ(40・未婚)の二男・髙谷小太郎誕生。
明治26 1893 6月17日、半左エ門(40)、石川県江沼郡那谷村菩提より北海道茅部郡落部村字野田追無番地(現:二海郡八雲町東野)に転籍届出。
明治39 1906 1月25日、半次郎(23)・相木ユキ(19・未婚)の長男・相木勝次郎誕生。
10月23日、半左エ門(53)・タケ(60)が婚姻届出。二男・小太郎(20)も森井姓となる。タケは前夫・髙谷重太郎との間の長男・髙谷福松(42)戸籍からの入家。
明治41 1908 10月1日、半次郎(26)・相木ユキ(21・未婚)の二男・相木勝美誕生。
明治43 1910 10月11日、小太郎(24)・髙野タキ(19・未婚)の長男・幸十郎誕生。
明治44 1911 1月25日、半次郎(28)・相木ユキ(24・未婚)の長女・相木ミサヲ誕生。
明治45 1912 半左エ門(59)、明治40年に発足した落部村漁業組合の3代目組合長に就任。
大正2 1913 3月15日、半次郎(30)・相木ユキ(26・未婚)の三男・相木勝雄誕生。
5月8日、小太郎(26)・タキ(24)の長女・チヨ誕生。

半次郎一家、茅部郡落部村野田追から山越郡八雲村大字山越内村字ガンビ岱無番地(後にガンビ岱52番地→八雲町大字山越内村字野田生へ地名改正)へ転居。

石川県の森井本家、那谷村菩提より山中町山中温泉(現:加賀市山中温泉)に移住。

大正4 1915 9月9日、小太郎(29)・タキ(23)の次女・ツナ誕生。
大正5 1916 2月1日、半次郎(33)・相木ユキ(29・未婚)の次女・相木イサヲ誕生。
3月17日、ツナ(0)、落部村字野田追29番地において夭折。
7月26日、チヨ(3)、落部村字野田追29番地において夭折。
大正6 1917 1月24日、小太郎(30)、髙野タキ(26)と婚姻。落部村字野田追1番地に分家。
大正7 1918 1月14日、半次郎(35)・相木ユキ(31)が婚姻届出。同時に勝次郎(11)、勝美(9)、ミサヲ(6)、勝雄(4)、イサヲ(1)の5人も森井姓となる。
2月28日、半左エ門(64)隠居。半次郎(35)が家督相続。
4月30日、隠居したばかりの半左エ門(64)・タケ(72)が分家し、翌日廃家届出とともにタケの前夫・髙谷重太郎との二男・髙谷玉蔵(42)家に入家。
7月24日、半次郎(36)・ユキ(31)の四男・貞雄誕生。
大正10 1921 2月12日、半次郎(38)・ユキ(34)の五男・義雄誕生。
大正11 1922 2月6日、タケ(76)、茅部郡落部村字野田追29番地・髙谷家にて逝去。
2月17日、半左エ門(68)、茅部郡落部村字野田追29番地・髙谷家にて逝去。
大正12 1923 4月11日、半次郎(40)・ユキ(36)の三女・トヨ誕生。
大正13 1924 8月15日、勝次郎(18)、山越郡八雲町大字八雲村字遊楽部108番地にて逝去。
昭和2 1927 1月5日、半次郎(44)・ユキ(40)の六男・武義誕生。
昭和4 1929 3月10日、半次郎(46)・ユキ(42)の七男・秀雄誕生。
昭和6 1931 9月22日、ミサヲ(20)、石川県金沢市成瀬町・浅川榮治と婚姻。
昭和7 1932 1月7日、半次郎(49)・ユキ(45)の八男・武雄誕生。
昭和10 1935 10月2日、勝美(27)・田中キクノ(19・未婚)の長女・澄子、山越郡八雲町大字八雲村字砂蘭部無番地において誕生。
10月2日、勝美(27)、田中キクノ(19)が婚姻届出。田中家のある山越郡八雲町大字八雲村字砂蘭部無番地に居住。
昭和12 1937 7月18日、勝美(28)・キクノ(21)の長男・訓治誕生。
    12月17日、半次郎(55)一家、落部村字野田追29番地より釧路市春採231番地へ転籍。ともに勝美(28)一家も釧路市へ転住。
昭和14 1939 8月15日、勝雄(26)、釧路市春採259番地・柿﨑チヨ(18)と婚姻。
勝雄夫妻、八雲町大字山越内村字野田生へ転住。
昭和16 1941 1月17日、勝雄(27)・チヨ(19)の長女・美智子誕生。
5月25日、美智子(0)、亀田郡亀田村字赤川通にて夭折。
昭和17 1942 8月13日、勝雄(29)、チヨ(21)の次女・トシ子、八雲町大字山越内村字野田生にて誕生。
昭和18 1943 6月18日、貞雄(25)、河東郡士幌村中音更・小林タカオ(21)と婚姻。
9月18日、イサヲ(27)、栃木県下都賀郡寺尾村・細川麻三と婚姻。
昭和19 1944 2月19日、トヨ(20)、釧路市・井上光雄(23)と婚姻。
4月26日、義雄(23)、南方方面にて戦死。
11月12日、勝雄(31)・チヨ(23)の三女・照子、釧路市春採231番地にて誕生。この時点で勝雄一家は釧路市に再度転住している。

石川県には森井姓がごく少ないことから、本貫地は他所であると考えていますが、それがどこなのか・・・、関西地方ではないかと推測しておりますが。

加賀時代は土木もやっていたようですが、妻の高祖父にあたる半左エ門は漁組の組合長になるほどだったので、おそらく船乗りの素養があったのでしょう。

以前も記述しましたが、北前船があやしいのではないかと睨んでいるからこそ、そう思っているのですけれど。

兵庫県豊岡市出石町に森井という地名がありますが、ほかにも消えてしまった小字などで森井という地が存在したりするのかしら?

下北時代の山田家年表

家系のインデックス

 

前々回の菊地家前回の母方平野家に続いて、今日は妻方山田家の年表を・・・

和暦 西暦 出来事
慶長20 1615 大坂夏の陣で豊臣方について敗れた山田、畑中、舘(たて)、田中、安藤、倉田の諸氏が、陸奥国下北半島の高梨地区(現:青森県むつ市高梨川目)に落ち延び、集落を形成。主に稲作を生業とする。
文政7 1824 7月5日、山田三之亟の二男・善四郎出生。
年代順序不明
この間の出来事
善四郎、舘半右エ門の長女・みのと婚姻。
善四郎、畑中由蔵を養子に迎える。
由蔵、舘半六の養女・みゑと婚姻。
明治元 1868 7月12日、善四郎(44)・みの(44)の長男・留蔵出生。善四郎夫妻にとっては望外の跡取り男児出生だったため、養子である由蔵の立場が微妙になる。
明治8 1875 4月15日、由蔵・みゑ(18)の長男・菊松出生。
明治12 1879 4月25日、善四郎(54)、三之亟家より分家。
10月8日、由蔵・みゑ(22)の長女・きくの出生。
この間に由蔵が死別、もしくは離縁
明治17 1884 4月7日、善四郎(59)が退隠。長男・留蔵(15)が家督を継ぐ。
明治18 1885 5月7日、鳥山丑松(28)・みゑ(28)の長男・万次郎出生。
明治19 1886 現存最古の戸籍作製される。戸主は山田留蔵。本籍地は青森県下北郡関根村150番戸。
明治20 1887 8月5日、鳥山丑松(30)・みゑ(30)の二男・伊與松出生。
12月13日、みゑ(31)が奥内村・鳥山万右エ門の二男・丑松(31)を婿養子として迎える。
明治22 1889 明治の大合併により、関根村は田名部村大字関根となる。
明治26 1893 5月7日、丑松(37)・みゑ(37)の三男・多三郎出生。
明治27 1894 2月28日、留蔵(25)が畑中丑松の長女・しゆん(16)と婚姻。
明治28 1895 11月10日、留蔵(27)・しゆん(18)の長男・善太郎出生。
明治29 1896 3月31日、菊松(20)が田名部町金谷・杦山治郎左衛門の二女・をれ(19)と婚姻。
4月19日、きくの(16)が田中善之助の長男・福太郎と婚姻。
明治30 1897 8月6日、善四郎(67)逝去。
明治31 1898 10月1日、留蔵(30)・しゆん(21)の長女・セン出生。
明治32 1899 1月15日、菊松(23)・をれ(22)の長女・イソ出生。
8月1日、イソ(0)夭折。
明治33 1900 8月25日、菊松(25)・をれ(23)の長男・市太郎出生。
8月29日、市太郎(0)夭折。
10月25日、留蔵(32)・しゆん(24)の二女・マン出生。
明治34 1901 9月27日、菊松(26)・をれ(24)の二女・つな出生。
明治36 1903 6月13日、留蔵(34)・しゆん(26)の三女・オノ出生。
明治37 1904 8月3日、菊松(28)・をれ(27)の二男・綱吉、高梨にて出生。
9月22日、オノ(2)夭折。
明治38 1905 10月、丑松(49)一家、菊松(30)一家、北海道釧路郡鳥取村ヒラトマナイ2番地(現:釧路市北斗)に入植。
明治40 1907 4月10日、菊松(31)・をれ(30)の三男・綱次郎、鳥取村にて出生。
大正元 1912 11月26日、万次郎(27)が田名部中通の柳澤辰五郎の三女・キソ(15)と婚姻。
11月28日、万次郎(27)・キソ(15)の長女・マサ、柳澤家にて出生。
大正4 1915 5月7日、万次郎(30)・キソ(17)の長男・政太郎、高梨にて出生。
大正5 1916 12月1日、丑松(60)一家、北海道釧路郡鳥取村ヒラトマナイ2番地へ分家届出。
大正7 1918 8月15日、菊松(43)一家、丑松と同番地へ分家届出。
大正8 1919 8月14日、万次郎(34)一家、丑松と同番地へ分家届出。

赤文字部分は推測、もしくは口伝となっております。

 

釧路市で発刊された「山花・美濃80年誌」という集落の冊子には、美濃に移住した山田伊與松について記載された項があり、それによると入植したのは明治38年10月となっています。伊與松は当時12歳ですので、おそらく丑松とともに入植したのは間違いないでしょう。菊松は一緒ではなかったかもしれませんが。

 

そして畑中由蔵、妻から見て高祖父・山田菊松(1875~1934)の父という非常に重要な人物なのですが、今のところ名前しか判明しておりません。

おなじ集落の人物ではあるとは思うのですが、畑中家とは未だにコンタクトを取っておりませんので、推察するのにもそれが叶ってからとなりますね。

高祖父の母・みゑ(1856~?)についても、丑松が大正12(1923)年に隠居した際の戸籍が釧路市では80年廃棄されており、隠居後相続した多三郎の戸籍にはみゑが居ないことから、大正7~12(1918~1923)の間に没していると思いますが、詳細は不明となっています。

万次郎の息子の奥さん、多三郎の息子さんにうかがっても、お墓すらわからない状況。

丑松夫妻はいったいどこに眠っているのか・・・?

万次郎だけは、両親が北海道に渡った後も何年かは下北に居たようです。

 

あと、初っ端にある慶長時代の部分は、山田本家に伺ったお話を、私が拡大解釈したものですので、妄想入ってます。