真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

青森県むつ市関根小学校百周年記念誌

家系のインデックス

妻の実家である山田家は、高祖父・菊松(1875~1934)の代であった明治38(1905)年ころに青森県下北郡田名部町大字関根字高梨川目(現在の青森県むつ市内)より、北海道釧路郡鳥取村ヒラトマナイ(現在の釧路市北斗)へ入植。

いちどはその土地を感じたく、6年前に実家の函館より大間にフェリーで渡り、レンタカーで高梨の集落を訪れました

山田家のご子孫にお会いすることができ、かつて山田家は稲作をやっていたとのお話を伺いました。

昭和の中頃?くらいに集落での稲作は終えてしまったようで、多くは会社勤めに移行しておられるようです。

その高梨を含む関根全体をカバーしているのが関根小学校。明治9(1876)年の開校といいますから、もはや142年もの歴史を刻んでいます。

かつて図書館の相互貸借で、関根小学校の百周年記念誌をお借りすることができました。昭和51(1976)年発行の冊子です。

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その中で、関根地区全体に関しての記述がありました。関根小学校で教鞭をとられていた鳴海先生による文章で、おそらくは非常に貴重な資料かと思いますので、誠に勝手ながら転記させてください。

 

わがふるさと関根のあゆみ 鳴海健太郎
 わがふるさと関根の地域は、日本の歴史の線上から特別にはぐれてはいません。
 近年の発掘によって、古代集落の形成がわかるようになってきました。
 ビツケの関根浜納屋遺跡・北関根遺跡いずれも散布地ではありますが、文化庁の遺跡台帳に掲載されている遺跡です。
 関根の歴史は古代社会の歴史からはじまることを再認識しなければなりません。
 住居に適した環境をえらんだ古代人の生活の知恵が、現在住んでいる集落を支えてきたといっても過言ではないと思います。
 そのむかし、二道の関・大関・根古木等の小集落がありましたが、この村々が一緒になって「関根村」と呼ぶようになったといわれています。
 根古木の村には、元禄(1688~1703)のころまで住家があり、正覚院と名乗る山伏修験者が住んでいました。
 江戸時代の中ごろから、関根村の枝村として出戸・川代・烏沢・高梨・新田がありました。枝村の歴史調査はだいぶ遅れておりまして、今ようやく手がけられたといってもよいと思います。
 関根の村は享保年間(1716~36)の調べによりますと、馬202頭・牛172頭を飼育していました。当時、陸上交通の運輸は牛馬にたよらねばならず、「駄賃場」という苗字の家なんかは民衆の生活の一端を如実に物語っています。
 ところで、下北で牛馬を買う程の資本に乏しい人々の多くは小作人でした。
 貧窮に追いつめられて、小作料も滞りがちの者が多かったので、牛小作や馬小作により利上げした残る半分も小作料として徴収され、結局は牛馬の収入の全部が地主である旦那に行くようになりました。
 旧樺山の飛行場の一地帯を「名古平」という地名で呼んでいます。
 地名は生きたものでありますから、おそらく南部藩時代の「名子」と関わるものと思います。これは近世的な雇用労働の存在形態の一つとしてとらえられるものです。
 今、私は田名部の「菊池家文書」を調べていますが、寛政年間(1789~1800)に、菊池成章という人が樺山の地頭をつとめております。場合によって、古記録の中に「名子」があらわれるのではないかと注意をはらって解読しています。
 さて、近世的な意味での名子というのは、近世の各段階において没落した者が、その没落していく過程で、身柄を含めて土地・財産などをある家に売り渡し、その家を本家として仰ぎ、年に一定量の労働力を無償で提供する代わりに、本家の経済的な庇護を受けるという契約を結ぶのが一般的通例でした。
 江戸時代―関根村には、肝入(キモイリ)・乙名(オトナ)という役職をもった人が住んでおり、政治的な役割をはたしました。
 古い記録をみますと、最初の肝入は掃部という人です。もとは郷士であったのでしょう。普通の百姓でないことは確かです。
 肝入というのは、つまり庄屋のことで村長格にあたります。
 次に関根村総百姓と明記され、各枝村の老名の名がズラリと連ねられています。
  ●寛政11(1799)年関根村肝入・乙名一覧
   ・高梨村吉右衛門
   ・出戸村清五郎
   ・川代村助之亟
   ・烏沢村作右衛門
   ・同上 弥兵衛
   ・南関根村金太
   ・関根村助藏
   ・同上 安右衛門
   ・関根村肝入与佐衛門

 田名部には南部藩代官所がありましたが、寛政(1789~)から文化(1804~)にかけて、津軽海峡で黒船さわぎがおきました。そのとき、関根の肝入が百姓を伝馬役(てんまやく)に命じました。
 つまり人馬の継ぎ立て・休泊の準備等重い事をさせました。
 文化10(1813)年のあたりに、関根街道で普請料として駄銭(にぶり)をとっております。関根はやはり南部藩の宿場的役割をはたしたところです。人足も一軒から三人づつ肝入の名で命じております。
 文化4(1807)年には、大畑を中心に伝馬(民間の輸送)過量を理由に、百姓一揆を起こしましたが、結果的に失敗しました。
 文化5(1808)年大畑には三度目の代官所をもうけ、北方の警備にあたりましたが、大畑代官所の統轄圏は関根から佐井まででした。
 江戸時代―下北一円を田名部通といい、南部藩牛馬の飼育政策の中で暮らしを立てていました。「邦内郷村誌」という史料をみますと、関根の家のすべてが春から秋にかけては牛馬を放牧していました。そして冬分だけは厩舎(うまや)飼をしていました。
 牧畜と生活―そこから生まれた信仰・習俗・人間としての生き方・ものの考え方など、今後皆さま方のご協力によって民俗調査をしたいと思います。
 つぎに関根の農業のようすを述べてみます。下北一円が天明の大飢饉で試みに水田耕作をした所もありましたが、一握りの収穫ではどうしようもなかったので、田んぼには大部分が稗を植えたといわれます。
 遊歴文人菅江真澄は、次のような歌を書き残しています。
  おりたちて
  いな田ひえ田の
  わかなへも
  とりとりうたふ
  声聞ゆなり
 明治13(1880)年ごろにようやく稗田がなくなって、全部水田耕作となったようです。このあたりのことは古老の方々より聞き取りをしたいと思います。
 ここで稗田の作り方の過程を述べてみます。
 ①ナエシロ
 ②種まき
 ③水を張る
 ④水を抜いて稗を植える。
 7月初めからはじめ、土用までかかり、そして10月初めに刈り入れをしました。
 稗を植えおわると浜の仕事に精を出したといわれます。
 さて、浜関根89戸のうち、63戸は北関根からの分家であります。明治の末期に定住した者が多いようです。
 イワシ網は、明治17(1884)年、北関根の住民3名によって共同経済がなされたのが最初でした。イワシカス(シメカス)肥料として越後・函館の商人に売りさばきました。
 ところがカワサキ船は5~6丁の櫓とともに帆を張って航行し、特にイカ釣漁業に技術的変革がおき、越前、越後より津軽海峡に来航するものが多くありました。
 北関根の人々が、川崎船を入手したのは、大正4(1915)年、8名の共同出資で、越前から来た中古船を購入してからでした。
 船歩(フナメ)は、オヤカタ4分・乗り子6分であり、八戸や北海道方面に出漁するときは五分五分であったということです。
 話もおしまいに近づいてきましたので、出稼ぎのことについて触れてみたいと思います。
 寛政元(1789)年5月5日―北方領土クナシリでアイヌの反乱がおき、和人が71人も殺されました。この殺されたもののうち、大畑・正津川・関根・下風呂・安渡(現・大湊)・脇野沢の出稼ぎ者が42人もの犠牲者を出してしまいました。
 関根の出稼ぎ者の名前をあげてみますと、助之丞・作助・助治・平右衛門・六助の5人があげられます。
 大畑から渡海した商人飛騨屋久兵衛のクナシリ場所で働いた人ばかりです。
 アイヌに殺された原因は何であったでしょうか。端的にいって南部藩から出稼ぎに行ったものが、治外法権下にあることをよいことにして風紀は紊乱に陥り、アイヌメノコを強姦あるいは人妻を犯すときは頭に墨を塗って悪事を働きました。
 また搾取をし、ごまかし、アイヌたちの反抗にあい、アイヌによる血祭りがクナシリ島でおきてしまいました。
 今日、北海道根室のノサップ岬には、71人の墓碑が北方領土であるクナシリに向かって風雪にさらされ、その悲しくもあわれな歴史が息づいているのであります。
 本日は関根小学校が創立してから栄光の一世紀を迎えた記念のお話ということです。
 明治9(1876)年11月10日に創立したとき、関根小学と呼んでおりました。
 当時の首席教員は今村杢治先生で、会津の流れを汲み、教育に燃えた方でした。
 明治25(1892)年6月25日、烏沢に分教場を設置。烏沢・川代・新田の子どもたちはそれまで正津川小学の依託受業生でありました。
 ではこれでお話をおわります。

 

江戸から遠く離れた下北地方。中央府の影響は及ばず、北海道への出稼ぎや、アイヌとの関わり。独特の風土であったことが感じられます。

畑も稲作もおそらくは厳しい土地で、牛馬で日銭を稼いでいたことがわかります。

釧路に入植した山田家も、耕作はほぼ不可能な土地(現在も釧路市北斗付近は荒地が広がっています)であったたことから、下北での知識を生かして馬で生計を建てていたそうです。

今は馬をやっている山田一族もいなくなってしまいましたが、厳しい気候や乏しい物資の中、これまでの繁栄を見たのは、下北で得た生活の知恵や飼育や商売の知識があったからこそでしょう。

釧路にとどまってくださった祖先のおかげで、妻とも出会えたわけですし・・・とか言って(*´ω`*)

飯島家と牛縊

家系のインデックス

 

昨年10月にお世話になった、曾祖母の実家であるつくば市上里の飯島家

つくば市になる前に発行された豊里町史を読んでいると、以下のような記述を見つけました。

『元禄之時宇、仙台領ニ入ル、吉沼五千石之領中ニ入ル也、文禄之検地之石高、弐百十八石也、一、元禄十五年之検地之石高、四百壱石参升四合也、
 文禄四年の中務大輔当知行目録に「百三十九石九斗壱升九合八匁 うしくひり」とあり、佐竹義久に宛がわれていた。遍照院は真言宗鹿島神社は旧村社。
 「古書ノ写シ 当村発起調 常陸国筑波郡牛頭利村」(上里区・飯島一成家文書)は、牛縊村の古来からの歴史を同家の先祖・飯島与十郎が集めて明治十四(1881)年までのことを記述したものである。
 それによると、寿永年間(1384~92)に牛にかかわる事件があったので、それから牛頭利村となったという伝承を述べている。また戦国時代末の下妻・多賀谷修理大夫支配当時の村高は133石2斗、村名は牛子生村となっていたという。慶長7(1602)年
271石2斗、元和7(1621)年、寛永11(1634)年縄入(検地)は354石7斗6升であった。
 江戸時代初期、中期は天領あるいは旗本・菅谷氏知行所であったが、元禄郷帳の村高は401石3升4合であり、元文5(1740)年以降は一部の天領と数人の旗本の相給支配の村となり、以後、切添新田のような小規模の耕地の増かもなく廃藩置県に至っている。
 遍照院の境内には三基の石造・六地蔵燈籠があり、いずれも室町時代のもので、町指定の文化財になっている。
 「ウシクビ」は「牛首、丑首、牛縊(ウシクビリ)で、牛首状の狭く長い地形、牛の頭と首の象形語」であり、牛縊村(吉沼村大字牛縊、現在の豊里町大字上里)の形も牛首の形をしている。』

 

曾祖母の実家である飯島家は分家で、近くにさらに本家があるらしいので、おそらくこの文中に出てくる与十郎さんが本家の人なのかもしれません。こういった歴史的なことをまとめていることから、おそらく相当前からこの地に住んでいるのでしょう。

そしてうちの飯島家の祖先には、飯島太十郎(1828~96。明治14年時点で53歳)がいるので、そっくり名前がいかにも関係ありそうな雰囲気です。

 

・・・と、そんなことを綴っている今、5年生の娘が所属している部活(金管部)の卒業アルバムと卒業記念DVDを作製している真っ最中でございます。

娘が4年生のときに入部してから、フリーダムに写真を撮りまくっていた結果、そんなことになりましたね。

そんなわけで、今年に入ってからはそちらに全力投球しているところ。

家系に関する動きはしばらく完全に停止です。

今まで引っ張ってくれて来た6年生たちに喜んでもらえるようにけっぱってます!

委任状にかけろ!

家系のインデックス

 

先月、矢祭町を訪れた際にいちばん勇気を出したこと。

それは私の直系ではない(直系と証明できない)除籍謄本請求のために、菊池家の本家と思しき方に委任状を書いていただくことでした。

それにより、ウチの祖先との繋がりが見いだせるかも!

…という、それはそれは儚く、消え入りそうな希望のうちの最有力のもの。

 

菩提寺の若住職より、除籍で追えないところは推測で、かのお宅がウチの本家だという最終的な目星をつけていただきまして、背中を押されるように勢いがついたのです。

でも、そのときはもう18時前でしたから、辺りは真っ暗。

子どもたちを連れ立ち、いざ目的のお宅へ!

間違えてお隣のお宅に行ってしまったりしましたが、無事に本家(予想)のお宅に到着。

 

怯みながらも明かりが灯る玄関を開け、呼吸を整えて「夜分遅くもうしわけありませ~ん!北海道の菊地ともうしま~す!」と中途半端な声量で呼びかけるも、どなたもいらっしゃいません・・・。

もう一度、鎮火寸前の勇気を振り絞って「すみませ~ん!」と情けない声を出すと、横のお部屋から厳しい表情のご主人が!

以前お便りはしていたものの、お会いしたいというのをご遠慮されたお宅。
さらには「委任状を書いていただきたいですっ」というフリもしていなかったので、まさにギャンブルでした。

 

かなり非人道的なことをしているという認識が、心臓を押しつぶしそうになります。

おみやげも受け取ってくださらないご主人。

しかし、なんとか必死に私の自分勝手な想いを伝えます。

 

すると、子どもたちを連れていたのが功を奏したのか、重い腰を上げてくださり、委任状を書いていただけました!

その間は長い長い沈黙の時間でしたが、失礼ながら家の中を眺めているとかなり歴史がありそうで、余計なものが無く、天井が高く、非常に広大なお宅でした。

委任状を書いていただき、何とかお土産を受け取っていただき、私的最高の感謝と丁寧(うざったい)なごあいさつをして、そのお宅を後にしました。

 

相当な安堵、子どもたちへの感謝とともに、「これで本当に発行してもらえるんだろうか?」とか、「これで結局わかんなかったらどうしよう・・・」とか不安が押し寄せました。

 

あぁ、でも栃木の温泉までもう急がなくてはならない時間でしたので、そんな不安をすっかり忘れて、ぜんぜん知らない矢祭から那珂川町への道をやや飛ばしていきました。

 

・・・・・・・


それから約2週間の時を経て、私の手元にある除籍謄本。

ご主人のお父上が筆頭者である除籍以前を発行していただきました。それが計4通。

筆頭者が父、祖父、曽祖父、高祖父のものです。

高祖父のお名前までは、旧土地台帳で確認できていた名。

そして最後の一枚。最も旧い除籍に目をやります。

 

存じ上げているお名前、天保12(1841)年生まれの高祖父・健三さんの父欄には、私の頭の中の引き出し的に初登場である「菊池活次郎」という名が記載されています。

あぁ、僕の祖先、文化7(1810)年生まれである儀右衛門の名がここで出てきてほしかったぁ・・・(>_<)

活次郎さんですか・・・。明治17(1883)年ころに作製された地籍簿にも見えない名前です。もっともその地籍簿には儀右衛門も孝恒も名前はありませんけれど。

儀右衛門とも、儀右衛門の兄弟と思われる友輔孝恒とも名前の共通点は無い・・・。

 

儀右衛門が1810年生まれ、
友輔孝恒が1812年生まれ、
活次郎が1815年くらいの生まれ?

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▲年代が違いますが、最古の除籍謄本に記載されている最もさかのぼれる名前

 

同じ関岡村字飯野という地で同年代を暮らしたこの三人。
果たしてどういう関係だったのでしょう・・・???

 

そして、いちばんショッキングだったのが、「明治32(1899)年○○(本家の番地)に移る」との記載。縦線で消された本籍には、私が最初に間違えて尋ねた隣のお宅の地番が!

 

地籍簿や旧土地台帳ではこの本家の番地の所有は健三さんでした。件の隣宅の地番には、こちらもまた存じ上げない「菊池茂右エ門」さんというお名前が記載されています。

 

はたして戸籍上、明治32年以前は誰がここに籍をおいていたんだろう???

もしそういった家があれば、そこが本家?

それともやっぱり活次郎さんの家が本家?

何にも証拠がありませんが活次郎=儀右衛門?(亡父活次郎とあるので、それはないか…)

 

う~む、進めれど進めれど暗礁に乗り上げる苦難の旅路です。。。

北海道150年

家系のインデックス

 

来年は、北海道が明治2(1869)年に「北海道」と命名されてから150年という記念の年です。

それまでは渡島(わたりしま)だとか、蝦夷地(えぞち)と呼ばれていたようで、アイヌ民族の島でした。

アイヌとは、アイヌ語で「人間」という意味。

縄文時代の文化を代々受け継いできた民族です。

 

しかし、本州以南から和人が狩猟民族であるアイヌとの交易のために訪れるようになると、アイヌ民族のそれまでの生活が一変。

戦国時代ごろになると、和人との交易があまりにも不合理だということで、不満を募らせたアイヌ民族側が蜂起。

しかし、武力に勝る武田信広アイヌ民族を制圧。

その後に松前藩が成立し、漁場を持つようになり、徐々に現在の渡島地方を治めるようになっていきます。

 

そして前時代的な文化を持ち、文字を持たないアイヌ民族は、和人から「蝦夷」や「土人」などと呼ばれ、差別の対象に。

 

そして北海道と命名されると同時に、北海道の開拓開始。

 

明治6(1873)年の地租改正により、アイヌ民族の土地は和人に所有権が渡ってしまい、祖先からの土地を追われてしまいます。

その翌年には屯田兵村が形成され、内地から屯田兵が大量に入植。

どんどんアイヌ民族の居場所がなくなっていってしまいます。

 

実は幕末より、アイヌ民族を保護しようという政策は施されていたのですが、遠方のために政府の力が及ばず、どんどんあんまりな状況に追い込まれて行ってしまいました。

その窮状を見た政府は、明治32(1899)年に北海道旧土人保護法を成立させます。

しかし、その法律で与えられた土地は、耕作に馴染まない地だったり、なんだかいろいろといまいちな結果に終わってしまいます。

アイヌ民族への差別は相変わらずでした。

 

仕事を求めたアイヌ民族は、石炭の採掘などで北海道から離れて行ったり、和人との婚姻により血が薄まって、子孫はアイヌ民族の血が流れていることを知らなかったりと、アイヌ民族は北海道からどんどん減っていってしまうことになります。

しかし一方で、現在も祖先の地にとどまり、祖先の文化を伝えていってくれるアイヌ民族の方々もいらっしゃいます。

私の住む釧路市近辺だと、屈斜路湖畔や阿寒湖畔にアイヌコタンがあり、壮絶に芸術的な木彫り人形などを販売してくれたりしています。

もはや貴重な存在となってしまったアイヌ民族

この150年という節目だからこそ、負の歴史でもある和人とアイヌ民族とのやりとりも含め、改めてその文化に向き合うといったことが必要だと思うわけです。

 

 

そして、北海道の主要な道路には、明治20年代に内地より送られた囚人たちの命が注がれています。想像を絶する過酷な環境の中、明治20(1887)年~24(1891)年までの4年間で、北海道内に約660kmの道路を通してくれたのです。道具などスコップくらいしかなかったのではないでしょうか。

囚人は、硫黄採掘や石炭採掘にも従事させられました。

明治27(1893)年に、あまりに過酷すぎるのと、北海道にこんなに囚人があつまってはいかんのではないかということで、この北海道での労役は廃止されますが、それまでにどれだけの犠牲者が出たかというのは記録がないそうです。

 

 

もちろん私や妻の祖先たちもそうとう過酷な環境で開拓してきてくれました。

 菊地家祖先(高祖父一家)は大正2(1913)年2月に福島県より屈斜路村へ入植。

妻の山田家祖先(こちらも高祖父一家)は明治38(1905)年に青森県より鳥取村へ入植。

 

ともにバラックみたいな掘っ建て小屋みたいな家で、寒さなどしのげるわけがなく、外とほぼ変わらないような気温の中で過ごしていたそうです。

雪が降った日は、枕元に雪が積もっていたとか・・・。

収穫がゼロの年があったり、治水工事も行われていなかったので、河川の氾濫で努力が水泡に帰したり。

 

菊地家は御料地への入植だったので、わずかながら配給があったそうですが、山田家は独自での入植。まったくの自給自足での生活です。

とくに釧路地方は作物が育たない気候、土。

逃げ帰った人も相当いた中で、よくぞ耐え忍んでくれたものです。

どうやら山田家は、当時は農耕や移動の手段として貴重だった馬をメインに生計を立てていたそうです。ナイスアイディアですね。

 

北海道に住む方々はどこの家もたいへんな苦労をして開拓してくれた祖先がいて、やっと今があるわけです。

でも、ぼくらの世代になるとたった100年くらいしか経っていないのに、全然そういった苦難の歴史が伝わっていません。

もしかすると当時開拓してくださった先達的には、わざわざ子孫に話すことでもないと思っていたのかもしれませんけれど。

私にとっては、今年亡くなった母方祖父が大正11(1922)年生まれ、北海道に入植したのが慶応3(1866)年生まれのさらに祖父。

現在の練馬区から明治20年代後半にまずは瀬棚に入植。作物のできそうな良い土地は残っておらず、岩がゴロゴロしているような土地に入りましたが、やっぱりだめ。

その後に今金に入りますが、そこを息子に任せて小清水に来ています。

祖父はその後に生まれているので、開拓がある程度進んだ時点からしか記憶がないんですね。

なので、祖父の話はもっぱら太平洋戦争の話や、昭和10(1935)年に移住した樺太の話、戦後のシベリア抑留の話がメインで、開拓の話は聞いたことがありませんでした。

もしかすると聞けば知っていたかもしれないのですが、もはやそれも叶わなくなってしまいました。

あいだに大戦をはさんでいるので、直近の苦労話はそちらになってしまうのは必然ですね。

 

最近は「北海道150年」!ということでPRしていますが、なんだか大事なことを忘れているようなPRなんですよね。

 

こうした先人の苦労、松浦武四郎やクラーク博士のように名を残している人もいれば、普通の家の祖先もいます。寂しいことに、名前すら忘れられている祖先もいます。

そういった普通の人が祖先のことを振り返るのは、有意義なことだと思います。

 

さらには、和人がアイヌ民族に行った行為にもほぼ触れられていません。

そういったPRをするのならば、なんか足りないんじゃないの!?というような思いをしている一道民として、こうして勝手に書かせていただいたわけです。

 

 

たった150年。未来に向けてのほうが断然大事なのは明白ですけれど、北海道命名以前も含め、北海道を「負」の歴史もきちんと振り返っていかないと、浮かばれない方々が大勢いらっしゃるのではないか、その歴史も踏まえて進んでいくべきではないかと感じているところです。

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▲菊地家が105年前に入植した弟子屈町屈斜路エントコマップ。島見橋の北東にある地を開拓して生活していましたが、昭和30年代の大叔父の代で離れてしまい、現在は原野に戻っています。

父系についての悩むの巻

家系のインデックス

 

(菊地家)の父系をさかのぼっていくと、

私 ← 父 ← 祖父幸松 ← 曽祖父幸太郎 ← 高祖父幸吉 ← 近藤家からの養子儀平

・・・となっております。

ひいじいちゃん幸太郎までが福島(現:矢祭町大字東舘)で生まれており、幸吉一家が大正2(1913)年に屈斜路へ入植した後にじいちゃんが生まれています。

じいちゃん以前は会ったことはありませんが、戸籍上はこうなっているので間違いないでしょう。

 

しかし、儀平以前が難関。

儀平の戸籍には「当郡上関河内村(現:福島県東白川郡矢祭町大字上関河内)近藤勝右衛門五男」と記述され、菊地ハツの婿養子となっています。

 

かつて、既に故人である上関河内の近藤さんと電話でお話させていただいた際、
「祖先はかずえもんという名で庄屋をやっていた」
というおぼろげな情報をゲットしたところから、私の誤解が始まっていたのかもしれません。

 

「ん?かずえもん?・・・かつえもんと似てるし、もしかすると上関河内村から東舘に婿入りしたときに届出を間違えたのかも!役人に口伝えをしたとするとなまってたりして聞き間違えるかもしんないし!きっとそうだ!」
という、固定観念ができあがってしまったのです。

 

約8年前、近藤さんに委任状を書いてもらい、戸籍を遡って取得した結果、
近藤家の戸籍で追える最古の祖先は、文化8(1811)年生まれの「近藤義冨」。
そして義冨の父欄は空白となっておりました。

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そして矢祭町史等に見られる明治2(1869)年の文書には「上関河内村庄屋 近藤數右衛門」とあります。

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むむむ。數右衛門=義冨?
それとも義冨とは別に數右衛門が・・・?

明治2年の時点では、義冨は58才。んもうバリバリと村を仕切りまくりっていう年齢ですね。

と、もやもやする状況にはまりました。

 

なお、このお話を伺ったという近藤さんは新宅。

義冨の二男である嘉永6(1853)年生まれの近藤彦雄さんが、同じ村の近藤新右衛門さんに養子入りしたお宅。

そして本宅は、義冨の長男である嘉永3(1850)年生まれの近藤邦彦さんが、義冨家の家督を継いでいます。

また、明治9(1876)年には上関河内村の村長として近藤邦彦の名があります。当時26歳なのでとても若い村長さんです。

ちなみに勝右衛門の五男で、菊地家の婿養子となった儀平は弘化元(1844)年生まれ。

そしてついに先日、上関河内の墓地を訪れた際に「數右衛門=義冨」だということが確認できました。

さらには數右衛門の妻が明治3(1870)年に51歳(1820年生まれ)で没していることも判明。

仮に「勝右衛門=數右衛門」だとすると、

 父・數右衛門義冨 1811年生まれ
 長男・邦彦 1850年生まれ(義冨39歳、妻30歳)
 二男・彦雄 1853年生まれ(義冨42歳、妻33歳)
 五男・儀平 1844年生まれ(義冨33歳、妻24歳)

・・・ということになり、続柄が変だ!ということになるわけです。

どういうことかしら?

いろいろ考え(妄想)を巡らせます。

 

<仮説① 儀平はやっぱり數右衛門の五男>

明治5(1872)年の壬申戸籍編製前に菊地家へ婿入りしているのでノーカウント。
そして儀平よりも上の子である長男~四男も何らかの理由で抜けているためにノーカウント。

儀平の初子である初太郎は明治3(1870)年に生まれているので、壬申戸籍編成時点で確実に近藤家に儀平の籍はないでしょう。

ただ長男~四男の行方が知れないため、これだと六男(以降)にあたる邦彦が家督を継いでいるのが不自然な気がします。

考えられるのは、上関河内の庄屋を務めるほどの家柄だった近藤家よりもさらに菊地家の家柄が良かったとか、邦彦がよほど聡明で跡継ぎに相応しいと判断したとか、もしくは儀平が數右衛門とケンカして家を出たとか。

そうなると長男~四男については完全に謎のままに・・・。

 

<仮説② 近藤勝右衛門は実在したが、上関河内を去った>

上関河内には(私の知る限り)3軒の近藤家があります。

ひとつは數右衛門義冨~邦彦家、

ひとつは新右衛門~彦雄家、

ひとつは邦彦の養子である清兵衛(実家は不明)が独立した家。

 

いままで出てきた中では、數右衛門と新右衛門はおそらく同年代。兄弟かとも想像できます。

新右衛門は彦雄を養子に迎えており、彦雄の戸籍には彦雄の奥さんと子どもと孫しかおらず、新右衛門の実子は見当たりません。

これらの家しか現存しないとなると、勝右衛門が実在したとなれば上関河内を離れたということも考えられます。

男子が儀平以外にも4人居るので、どこかに勝右衛門の子孫が暮らしているかも・・・

※ちなみに以前、上関河内村の近藤勝右衛門の除籍を申請したところ、「ありません」との回答でした。

 

と、ここまで見てきたところで、あろうことか無視できない記述を新発見!

邦彦の戸籍に、邦彦の姉(義冨長女)としてユキさんという方がいます。

生年月日が弘化2(1845)年3月28日。

 

・・・ん?

儀平は弘化元(1844)年9月25日生まれです。

兄妹だとすると、半年も経ってないし!

 

今まで少しも気づきませんでしたが、これは!儀平は數右衛門の子ではないという確固たるもので・・・しょうか?

 

<仮説③ 儀平の母とユキの母は違う人物>

儀平は義冨の五男であるが、正室の子ではなかったので立場上養子へ行った?

數右衛門は庄屋さんでしたから、そういったこともあったかもしれません。

今のところぜんぜんそういった情報はありませんので、まったくの想像ですけれど。

あるいはこのころの戸籍の生年月日なんぞ、どこまで正確なのかはわかりませんから、本当の兄妹という線も捨てきれないところがあります。

 

あぁ、何かこれらの仮説を真説にできるような決定的な情報を手にできないものかしら・・・

もっかいお墓をしっかり見てみたいなぁ。もう無理だけど~(・・;)

やっぱり旧いお墓は、しゅぱっと判読できなかったなぁ。

矢祭は(距離的にも休暇の取れ方的にも経済的にも)遠いなぁ。。。

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10年ぶり&初めまして

家系のインデックス

 

2018年10月26日。

かねてより計画していた「ANCESTRAL QUEST」発動。

菊地家は15時過ぎのフライトで、釧路から羽田に飛びました。

 

今回の探求対象は以下の赤文字の部分。私の父方の系統ほぼすべてです。

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初っ端の目的地はつくば市

つくばエクスプレスに乗車するため、東京モノレールと山手線を乗り継ぎ秋葉原へ。

時刻は18時。

ちょうど仕事を終えられ、へとへととなった企業戦士たちが帰途につく時間。

ちょっ!ガチやべぇ!

朝よりはマシなんでしょうが、このくらいの時間でも大概です(・・;)

でも首都圏のみなさんはこんなの平気の平左。

すんごいわやな体勢なのに、涼しい顔でスマホをちょしています。

これは・・・田舎の人間とは異なる進化を遂げている!

 

つくばエクスプレスも序盤こそ似たようなラッシュでしたが、埼玉を抜けたあたりからゆとりがでてきました。安堵です。

 

つくば駅には19時半前に到着。タイムズさんから891kmしか走っていないフィットをお借りします。

つくばナンバーの字面が可愛いっ!と、全娘に大評判でした。

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そこからイーアスつくばで晩ごはんと買い出しをし、ホテルに着いたのは21時過ぎ。

つくばは1985年のつくば万博から一気に開発された新しいマチ。

全体的にきれいで、道が走りやすい!

なんか頭のいい人が都市計画たてたんだろうか?

そしてロボットや宇宙関係でも有名な研究都市でもあるため、マチの人たちが全体的に知的な感じを受けました。

 

翌27日の土曜日。

朝一で筑波山へ向かいます。

紅葉になりかけの筑波山をハイキングしたいところでしたがそんな時間もなく、筑波山神社への参拝のみです。

日本で最も古く、約2000年前の創建と伝えられる筑波山神社

きっとここの生まれであるばあちゃんも、子どもの時分にお参りをしたことでしょう。

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そして、ばあちゃんである菊地よし(旧姓・太田。1914~2008)の故郷である上里地区へ向かいます。

 

ばあちゃんは当時の筑波郡吉沼村大字牛縊(うしくびり)出身。

牛縊という地名があんまりだったのか、昭和30年頃に上里という地名に変わっています。

ひいじいちゃんである太田代次郎(1878~1962)一家は、1921(大正10)年頃に北海道網走郡女満別村本郷へ入植。

代次郎は長男の身であるうえ、入植の時分は既に父親である太田安造(1852~1899)も故人となっていたので、北海道になぜ渡ったのかミステリアス。理由が見つからないのです。

 

まずは10年程前からコンタクトをとり、Facebookでやりとりをしていた飯島家

ばあちゃんの母親・太田ふて(1881~1940)の実家です。

上里の飯島家はひいばあちゃんの兄・飯島才次郎(1878~1948)が跡を継ぎ、現在は子孫の方が守って下さっています。

まるでサザエさん家のような立派なお宅にお邪魔させていただき、暖かいおもてなしをいただいてしまいました。

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どうやらひいばあちゃんは体が弱かったそうで、飯島家ではなぜ北海道へついていった(連れて行った)かが不思議だと伝わっている様子。

そして、一番戸籍に記載されている旧い名前である飯島太左エ門より、もっと前の世代から隣に本家があるということ。

太田代次郎・ふて一家が北海道へ向かう際、近所の鹿島神社に木を植えて行ったのが、大きくなり過ぎて今は切り株になってしまったということ(でも新しい芽がでているそう)。

 

・・・実は旅行の計画を練っているとき、時間をタイトに設定しすぎて、1軒あたり30分くらいしか設けていなかったのです。

が、どだいムリな話。飯島家で楽しくおしゃべりさせていただいている間に1時間以上経ってしまいました。

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もうじきお昼にさしかかってしまう!あわてて近所にあるひいじいちゃんの実家、太田家へ向かいます。

太田さんはずっと旦那さんとやりとりをしていたのですが、なんとびっくり、奥さんが直系の血族でした。

旧いアルバムを持って来て下さり、昔の写真を見ながら思い出話をしてくださいました。

その間、子どもたちは隣にお住まいのお孫さんと楽しくボール遊び。

 

戸籍上、ひいじいちゃんの父・安造のさらに父は太田勇一郎(1825~1903)。

勇一郎は戸籍上最古の祖先である太田勇右エ門の娘であるきさ(のちに確認すると、墓碑上は「きよ」と!)の婿であり、その実家である砂山家はほぼお向かい。

 

砂山家にはお手紙を事前にしていたものの、「詳しいことはわかんないから」ということで、アポをとることができませんでした。

しかしチャンスはここしかありません。

仲良しだという太田さんの威をお借りし、除籍謄本取得のための委任状を!

「なんもわかんねぇんだ~」と仰る砂山さんの奥さん(こちらもお婿さんが来てくれたお宅で、直系は奥さんでした)より、太田さんのお力添えによって無事に委任状をいただくことができました!

これで砂山家の除籍をさかのぼる請求をすることができるようになりました。

 

最後は、太田家の庭でたわわに実っていた柚子を、高枝切ばさみで子どもたちに収穫させていただけるという大サービスまでいただきました。柚子の枝にあんな豪快なトゲがあるのを初めて知った40歳。

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楽しい時間はあっという間。

太田家を後にするころには、もうすっかり予定の時間を激しくオーバーしています。

大慌てで上里集落の墓地へ行き、太田さんや飯島さんだらけの中からわが太田家と砂山家のお墓は見つけられてお参りできたのですが、飯島家は見つからないような・・・?

太田家の家紋は、聞き及んでいた通り「丸に桔梗」。

砂山家の家紋は「丸に五三の桐」。

そして確証はないのですが、太田家で判明している最古の女性である太田ふか(1812~88)の実家である岡田という姓のお墓が2基あり、片方は家紋が彫られていない墓石でしたが、もう片方には「丸に隅立て四ツ目結」と、飯島家と同じ家紋が彫られておりました。

写真だけは撮りまくってきたから、家に帰ったらゆっくり見よう。ということで上里に別れを告げました。

 

安造の妻・太田せゐ(1851~1927)の実家である中山家があった上郷の歓喜院墓地はGoogleマップで確認すると広大なため、時間切れで仕方なくパス。

 

ひいばあちゃんである太田ふての母と祖母の実家・齊藤家がある上河原崎の墓地だけでも・・・と思い寄ったところ、齊藤さんばかり!墓碑を見ている時間もなく、ロクに確かめずに写真だけ撮りまくってきてしまいました。お参りも何もあったもんじゃありません。

家紋も「丸に隅立て四ツ目結」、「丸に橘」、「丸に梅鉢」、「丸に根笹」とバリエーション豊か。

水汲み場では井戸水を使っているようで、これは私にとっては驚きの光景。内地では珍しくない?

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次は家族サービス。
昼食はモスバーガーでドライブスルーして、つくばエキスポセンターで食べる予定・・・が、モスが水道故障のため臨時休業!

しかたなくファミマ(ちなみに釧路にファミマはありません)で昼食を買い、エキスポセンターへ。

万博の頃にばあちゃんが筑波へ行き、コスモ星丸のグッズをおみやげに買って来てくれたのを思い出し、涙が・・・

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2階は難しすぎて私にもよくわからないコンセプトでしたが、1階は遊ぶものがたくさんあってめちゃめちゃ楽しめました。

コスモ星丸は青いイメージだったんですが、ピンクの星丸の方がメインっぽくて驚いたものです。

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星丸のリバイバルを期待しております。

その日は一気に茨城の最北端大子町まで走り、道の駅で夕食(名物の軍鶏カレー)をいただき温泉を浴びて終了・・・と思ったんですが、子どもたちに風呂上がりの柚子シャーベットを味わいさせてあげたく、ユーパル矢祭までひとっ走り。

もう柚子シャーベットの販売は終了していた時間だったんですが、無理言って売っていただけました。矢祭の人は心優しい(#^.^#)

大子の宿で、矢祭の柚子シャーベットを存分に味わってもらいました(=^・^=)

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翌28日の朝。

朝4時半に目覚めた私は、予定通り単独行動で矢祭町関岡飯野へ向かいます。お日さまが出てくるタイミングにたどり着けるように。

 

さかのぼること11年前。

その頃取得した菊地家最古の戸籍は、東舘村(現在の矢祭町東舘。関岡とは久慈川を挟んで隣村)の菊地儀平(1844~97)が戸主のものなのですが、そこに儀平の養父として名前があるのが菊地儀右衛門(1810~90)。

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その儀右衛門の欄には「関岡村 菊池友輔三男」と記されていたため、当時は菊池友輔の子孫の方とコンタクトを取っておりました。

そして2008年に関岡の菊池家を訪問し、お世話になったのが友輔の子孫である菊池玄さん。
その際は、友輔との関連が見いだないまま。

2016年に玄さんは92歳で再会を果たせることなく世を去ってしまったのですが、玄さんにいただいた資料を元に、ずっといろいろと真相をぐるぐる考えていました。

 

医師である友輔孝恒(友甫とも)は明治18(1885)年に享年74と彫られているので、墓石から逆算すると文化9(1812)年の生まれで儀右衛門の2歳下。少なくとも儀右衛門の父ではありません。

友輔の父は菊池友元道恒。医師としての初代で、おそらく友元の代で分家しています。

友元は天明元(1781)年の生まれなので、儀右衛門の父だとすると当時29歳。つじつまは合います。

そして友元の碑に事績が記されているのですが、そこには長男・孝恒が友輔となり友元の跡を継いで、二男・孝昭が本家の跡を継いだと刻まれています。

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私の想像では、この孝昭が儀右衛門なのではないかと。

「友輔の三男」と戸籍に記されているのは何か数え方が異なるのではないかと。

しかしそうなると、兄の友輔が儀右衛門の2歳下となってしまい、兄弟の年齢が逆転してしまいますが・・・

 

そしてそこからです。その裏付けがさっぱり取れません。

儀右衛門の養父は藤兵衛という名ですが、どこにもその名は出てきません。

本家と思しき番地の最古の名は明治20年頃の「菊池健三」さん。その後も代々「健」の字を脈々と引き継いでいます。

儀右衛門とか孝昭から考えると、名付けの法則的なものも見出せません。

 

そんな状況で、再び飯野の墓地へと向かいますが、案内いただいた10年前と異なり、一人だとめちゃめちゃ迷子になり、タイムロスしまくってやっと見つけました。

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本家と友元家の墓地は、同じ場所にあります。

友元家の墓石を、お参りしつつまじまじと観察するも、新たなことは見いだせず。

そしていよいよ本家のお墓を・・・と思ったら、風化しまくっており、あまり解読できる石がない!

なんとか読めそうな部分を読解してみます。

まず、石灯籠①には「奉献」「願主 菊池縫殿助」、横に「萬延元庚申(1860)年十月十三日」と、石灯籠②には「奉献」「??村 永沼覺之助」「当村 菊地友甫」、横に「萬延2酉年」と彫られています。

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そして戒名と建立日が彫られた多くの墓石の中に俗名が彫られたものがあったのですが、「赤津政次之墓」・・・誰だろう?明治12(1879)年と彫られています。

あともうひとつ「小田川村 佐川平左衛門」・・・。

菊池さんが居ないっす。

 

ちなみにひいひいじいちゃん達が大正2(1913)年に屈斜路に入植する前に住んでいたのは東舘村舘本の番地。

現在は佐川さんという方が住んでおられます。10年前に来た時に、「確かここも親戚のはずだわ」と言われたのを思い出しました。

飯野を後にして、次は上関河内。

 

菊地家最古の戸籍に戸主として記載されている菊地儀平の実家です。

菊地儀平は「上関河内村 近藤勝右衛門五男」。

上関河内の墓地も、迷いに迷ってやっとこさたどり着きます。
すると、近藤家の墓地がすぐ見つかりました。

かつて近藤誠さんという矢祭町議の方とコンタクトを取らせていただいており、10年前に訪れた際は入れ違いでお会いできず。

その後もお会いできることなく、2014年に世を去ってしまいました・・・。

電話でお話しさせていただいた内容としては、祖先は「近藤数右衛門」という人で庄屋をやっていた。菩提寺は「積泉寺」という寺だったが、明治の初めころに燃えてしまって古いことはわからないということ。

勝右衛門と数右衛門。名前が似ている・・・。同一人物だけど間違って記載されちゃったのかしら?

その謎を解くべく、かつて誠さんに委任状をいただいて近藤家の戸籍をさかのぼって取得したことがあります。

すると最古の名前は近藤義富(1811~90)。父欄は空っぽ。

この義富が数右衛門なのだろうか?

仮に儀平が数右衛門の五男であるとすると、33歳の時の子となり、年齢的には不自然ではありません。

果たしてこの墓地で確証が取れるか!?

 

すると、見つけました!

明治3(1870)年に没した数右衛門の妻の墓石があったのですが、そこには「小田川村 佐川平左衛長女」と!そして「近藤数右衛門義富室」の文字。

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義富と数右衛門がこれで同一人物だということが判明しました。

そしてこの小田川の「佐川平左衛(門が抜けてる?)」という名は、先ほど飯野の墓地で見た名です。

佐川さんが親戚だというのは、ここから来ているのか!?

 

他にも関係は不明ながら「近藤數右衛門藤原義次」や、「近藤新六藤原義高」という名も見つかりました。藤原氏であることを現代にも受け継いでいるようで、墓碑にあった誠さんのお名前にも「藤原」の名が刻まれていました。

そしてもう一基。二男・彦信、三男・彦三、四男・和義が一つの墓石に刻まれているものが!
おそらく夭折したのであろうこの3人の男子。

五男である儀平の兄たちではないかと想像されます。 

無事に成人した儀平は菊地家へ婿入りし、長男が近藤家を継いだのでしょう。

そして家紋がこちら。

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ここまででタイムアップ。

 

もう7時ちょっと前。

ホントは大子町内大野にある実相寺にありそうな齊藤善治エ門家のお墓を探索したかったのですが、大子の宿に家族を迎えに行かなくてはなりません。

この日は前日よりもさらにタイトなスケジュールなのです。

 

まずは袋田の滝を観光。一番滝に近い菊池みやげ店に駐車させていただき、いざ滝へ!

さすが日本三名瀑のひとつ。もんのすごい迫力でした!

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紅葉は2~3分ほどでしょうか。まだ激混みする前で良かったです。

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子どもたちは鮎の塩焼きを初めていただきます。どうやらお好みの味だったそう。

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次に同じ大子町内小生瀬の石井家へ。

石井家は高祖母・菊地スイ(1874~1931)が生まれた地ですが、その父である石井庄衛門(1837~1902)と二男・鐵之介(1867~?)は常陸太田へ移住。長男は岩間へ移っており、現在は高祖母の実家は存在しません。

この地に伝わるいろいろなお話を石井さんより伺うことができましたが、ビビッと繋がるようなことは今のところありませんでした。

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最後に石井家の墓地へ連れて行っていただいたのですが、新しいお墓の地には石井さんたちの親御さん達が眠っておりました。

しかしもうひとつ。庄屋だったという家の墓地にも連れて行っていただきまして、そこでまたもやもやもやミステリアスなことを発見。

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庄屋さんは「益子」という姓で、現在は東京の千駄ヶ谷で病院を経営。毎年お墓詣りに見えているそうです。

その墓石に「益子庄エ門」という名が刻まれていたのです!

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さらには、以前にここ大子町のご出身である苗字研究家の髙信幸男先生に石井家のお墓について伺った際、こちらの墓地の写真をお送りいただいたということもあり、ここは石井家のお墓とも認知されているのかとも思われます。

 

以前、常陸太田にお住いの石井鐵之助家の子孫の方に伺ったのが、「横目を務めていた」「天狗党の乱のときに親子で対立した」といったエピソード。

もしかすると、庄衛門は襲名で、もともと石井ではなく益子という姓だったのでは?

天狗党の乱の際に袂を分け、姓も変えてしまったのでは?

・・・推測に過ぎませんが、謎が増えてしまいました。

 

・・・そんなことをぼんやり考えながら、小生瀬を後にして矢祭山にある「鮎の吊り橋」へ。
ここも10年ぶりの来訪です。

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久慈川は相変わらず清流で、水底が見える素晴らしい川です。
このままずっと変わらず在ってほしいと願っています。

そして矢祭山駅で10年前と同じ構図で写真を撮りました。あぁ、なんか幸せですね(*^_^*)

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あぁ、でももうすっかりスケジュールが絶望的におしている・・・。

 

急いで白河ラーメンを食すべく「あずま食堂」さんへ向かいます。

・・・が、棚倉付近から白河への道路がなんかすんごく混んでいる(T_T)

やっとあずま食堂さんへ着いたものの、大行列~

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もう諦め半分で待ちますよ(*´Д`)

 

10年ぶりに食べた白河ラーメンはやっぱりあの頃の味のまま。

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麺の太さは全然違うものの、あっさりスープは釧路ラーメンとなんとなく似ているので、親近感がわきます。

うまいし安いし、ホント言うことないですね!

 

次は白河小峰城へ。子どもたちは松前城には行ったことがありますが、まともなお城は初めてです。小峰城は復元ですけれど。

 

そしたら棚倉~白河間の渋滞原因が判明。

白河小峰城付近で「白河戊辰ラーメン合戦」なる近隣の県から人気ラーメン店が集まり、東西に分かれて戦うという力の入ったイベントが行われていた様子。

なんてこった(/・ω・)/

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小峰城を20分ほどで満喫し、次は白河市の旧東村へ。

ここはじいちゃんの母方の実家が集まっている地区。

まずは蕪内集落の墓地へ向かい、じいちゃんの母方祖母である藤田カメ(1872~1942)の実家・藤田定藏家のお墓と、カメの母の実家・岡部家のお墓を捜索します。

 

さかのぼることは叶いませんでしたが、藤田家は家紋が「丸に梅鉢」。

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岡部家が「丸に橘」ということが判明。

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岡部家の子孫の方もこれで分かりそうです。

ここで蕪内は終了。

 

そして千田集落へ向かい、ひいじいちゃんである藤田松吉(1853~1937)の母・タケ(1825~1904)の実家である角田(つのだ)家へ向かいます。

角田さんのお宅は玄関開けたらいきなり居間!という北海道では見られない間取り。お孫さんやたくさんのかわいい猫ちゃんに迎えられ、またもや楽しい時間を過ごさせていただきました。

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こちらの角田さん、タケの兄である清蔵さんの子孫でありますが、清蔵・タケ兄妹の親については情報は得ることはできませんでした。

墓地の場所を教わりましたが、もちろん迷いながら到着。

 

千田の墓地は、やっぱり藤田さんや角田さんだらけ。

墓碑ををひととおり見て回る時間もなく、写真だけパシャパシャ撮りまくりました。でももう日暮れが近かったのでブレまくり(T_T)

やっとこさ角田さん家のお墓を発見し、家紋が「丸に松皮菱」であることは確認できましたが、藤田家についてはここには無さそうなので諦めます。

 

いよいよ家系についての最終目的地、ふたたび矢祭町へ向かいます。

途中で棚倉の八槻都々古別神社と如意輪寺へ。如意輪寺は藤田松吉が住んでいた地域の菩提寺だと思われるのですが、お墓はここにも無いようでした。

 

17時近くになり、やっとこさ関岡天神沢の真言宗泉福寺さまへ。

予定よりも1時間も遅れてしまったのにも関わらず、仏のような心でお迎えくださったご住職さま。奥様がお仕事でご不在のため、2歳と1歳のお子さんの面倒を見ながらお相手くださいまして、非常に申し訳なかったですが、いろいろなお話を伺うことが叶いまして、非常に有意義な時間でした。

「江戸期の関岡村の絵図には菊池家が3軒しかなく、いまは大勢いらっしゃる関岡の菊池家はそこから派生していったのだと考えられます」とのこと。

 

そして最後のチャレンジ。本家と思しきお宅に委任状をいただきに行きます。

最後は子どもたちを連れ立ち、子どもパワーでなんとか・・・と思ったのですが、非常に厳しい雰囲気。

でもいただくことができましたよ!

これが最終兵器だ!

 

その日は栃木の馬頭温泉に宿泊し、10年前に会津若松以来で貸切露天風呂を満喫。

娘の年頃を考えると、これが人生最初で最後の一家四人での露天風呂かなぁ、と考えるとおセンチになっちゃったりします。

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翌日は益子町西明寺で笑い閻魔を拝顔し、

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御朱印もいただきました!

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そして茂木町まで行き、ツインリンクもてぎで遊びまくりました。

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そしてふたたびつくばエクスプレス(今回は座れた)で東京に戻り、

夜の浅草寺や、

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もんじゃ焼きを満喫。

 

最終日はスカイツリーに登り、

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予約戦争で勝ち取ったカービィカフェを堪能。

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そして現実に戻ってきたという4泊5日の旅でした。

 

大勢の縁戚の方々にお世話になり、本当に心に残る旅行となりました。

子どもたちにも楽しんでもらえたようですし。

 

これからまたいろいろと推察の日々が始まります!

昭和45(1970)年10月の国勢調査からみた矢祭町の苗字

家系のインデックス

 

昭和46(1971)年の「広報やまつり」に、興味深いデータが掲載されていました。
前年に行われた国勢調査の結果からみた、苗字のデータです。
このころはギリギリだれの戸籍でも閲覧できた時代。
こういったデータは、今となっては自治体で公表しないでしょうね。

○世帯数 1,882世帯
○人口   9,211人
○苗字の種類   801種 

順位 苗字 世帯数 人口
1 鈴木 206 1,013
2 菊池 149 808
3 金沢 114 582
4 藤田 75 364
5 佐藤 65 310
6 石井 55 263
7 古市 45 233
8 本田 43 239
9 緑川 42 203
10 佐川 36 201
11 片野 36 183
12 豊田 35 203
13 増子 35 183
14 斉藤 31 143
15 高沢 28 146
16 松本 27 192
17 益子 24 117
18 藤井 24 112
19 寺島 23 116
20 20 110
21 近藤 20 94
22 小林 20 85
23 富永 17 105
24 古張 17 86
25 高信 16 79
26 芳賀 16 78
27 15 78
28 菊地 15 67
29 加藤 14 68
30 白坂 12 65

 

各地域別ベスト10

旧豊里地区(200種類)

順位 苗字 世帯数
1 鈴木 94
2 金沢 59
3 藤田 52
4 本田 36
5 菊池 36
6 片野 35
7 豊田 34
8 石井 29
9 古市 26
10 佐藤 26


旧石井地区(51種類)

順位 苗字 世帯数
1 鈴木 77
2 菊池 59
3 緑川 30
4 金沢 29
5 藤井 19
6 佐川 16
7 13
8 松本 13
9 藤田 12
10 佐藤 10


旧高城地区(95種類)

順位 苗字 世帯数
1 菊池 54
2 鈴木 35
3 佐藤 29
4 金沢 26
5 高沢 24
6 石井 24
7 益子 22
8 古市 19
9 古張 17
10 松本 16


・・・苗字の種類801って書いてありますが、ベスト30だけで人口の7割超。ホントにそんなにあるのかしら?

矢祭町は現在福島県ではあるものの、もともと佐竹領で常陸国とのつながりが強い地域。
東北の傾向とはだいぶん異なる順位になっています。

私の苗字である「菊地」は28位ですが、もともとは2位の「菊池」。
さらには私の血脈で大きなウェイトを占める「藤田」が4位。
父系をさかのぼると養子元は「近藤」になりますが、20位とやや低め。

矢祭町に特徴的な苗字としては、
菊池、金沢、藤田、石井、古市、本田、緑川、佐川、増子(益子)・・・といったところ。
町長や、矢祭の生んだスターであるあばれる君の「古張(こばり)」が24位。
続いてお隣の茨城県大子町出身ですが、苗字研究家・高信幸男先生の「高信」が続いています。

いつかこういう風に国勢調査の結果!とかいって、国で統計だしたりしないかしら?
苗字は千年以上の貴重な歴史を語る、日本の財産ですから(#^.^#) 

そしてこの統計から47年後の2018年5月時点、矢祭町の人口は36%減の5,859人。減り幅・・・(T_T)