真剣に家系探求

何かの縁で北海道に集まってきた祖先の歴史を少しづつ紐解いていきます。

戸籍地=住所とは言えない?

家系のインデックス

 

娘の吹奏楽コンクール北海道大会(小学校)が終わりまして銀賞をいただきました。

もちろん過去2年連続で金賞を受賞してきたのですから、みんなのがっかり感やショックはハンパないわけです。

でも、むしろその重圧に打ち勝ってここまでこれたのだから、これは素直にすごいこと。これからのみんなにとって意味のある銀賞だと信じています(*^-^*)

 

・・・と、いろいろあったところで、ぼんやりと考えていたのが表題のことについてです。

 

今回のお話の核となるのが、高祖父・菊地幸吉(1874~1959)の兄である菊地初太郎(1870~1942)。

 

菊地家福島県東白川郡豊里村大字東舘字舘本40番地に置いていた明治19年式戸籍は、初太郎の父である菊地儀平(1844~1897)が戸主でした。

明治30(1897)年に儀平は53歳で亡くなり、東舘の大寄にある曹洞宗東慶寺」で葬儀が行われています。

儀平の戒名は「儀山良心居士」。儀平の人となりが伝わってくる戒名です。

でももしかすると、儀平は江戸時代の生まれであり、上関河内村の近藤勝右衛門家からの婿養子でありますので、出生時は「儀平」とは違う名前があったのかもしれません。

養父の菊地儀右衛門と一文字同じなので、婿に入る際に変名したりしたのかも。

 

そんな儀平ですが、東慶寺に遺されている過去帳には「菊池初太郎父」と記載されております。

ここで「菊地」と「菊池」の混同が見られますが、我が家は文書によって混在しているのであまり気にし過ぎないようにしています。戸籍だけ「菊地」で、土地台帳や過去帳は「菊池」だったり。

言い伝えでは本家とケンカして字を変えたとか聞かされましたが、ホントのところは不明。

このころ儀平の妻であるハツ(1852~1906)は存命ですが、喪主は今とは違って家督相続人が務めたりしたのかもしれませんね。

なお、初太郎は儀平が亡くなる8か月前に、袋田村大字久野瀬の植田庄三郎家よりシモを妻として迎えております。

 

その2年後、明治32(1899)年に儀平の養母(ハツの母)である菊地ヤス(1813~1899)が86歳で大往生。その過去帳にも「菊池初太郎祖母」と記されています。

 

・・・と、ここまでは良かったんです。調べる方としては。

 

次に起こったイベントは、初太郎と幸吉兄弟の母である菊地ハツ。

明治39(1906)年に夫・儀平と同じく53歳で逝去し、同じく東慶寺で葬儀。ここまでは自然なんですけれど、その次に記載されていた「鈴木菊池孝吉母」に尋常ではない違和感を覚えるわけです。

 

「鈴木」とは?

「幸吉」ではなく「孝吉」?

なんで初太郎ではなく幸吉の名が?

 

さらには、儀平の戒名は

「儀山良心居士」なのに対し、

ハツの戒名は

「恵光妙順清信女」。

 

「居士」と対になるのは「大姉」のはず・・・。

こういっては語弊があるやもしれないのですが、夫よりも戒名的にはランクが下の「清信女」がつけられたのはいったいなぜなのか。

 

墓石でもあればいろいろ推察できたかもしれませんが、今のところ見つけられてはいないのです。

少なくとも東慶寺には現存していないことが確認できています。

いったい儀平夫妻はどこに埋葬されているのだろう・・・?

 

そんなわけで、いろいろミステリアスな状況なのが整理できたところで、もう少し考察してみます。

 

過去帳(縦書)の「鈴木」は墨書きを縦棒で消しているので、単純に間違えたのではないかと思います。

もしやして、ハツと幸吉やその子どもたちが、どこぞの鈴木家に厄介になっていたということも絶対ないとは言い切れないですけれど。

「孝吉」になっているのは、おおよそ間違いでしょうね。なんかのゲン担ぎとかで、そう名乗っていたということもあるかもですが。

 

そして喪主?が、初太郎ではない。

これはホントに???です。

 

ただ、情報を集めていくと、なんとなくの想像が・・・

 

まず土地台帳ですが、儀平の没後に初太郎が161坪の宅地(40番地)を相続しています。

しか~し!そのわずか7か月後の明治31(1898)年11月に隣家(39番地)の藤田嘉市郎(1862~?)へ売却しているのです。

この藤田 嘉市郎ですが、当時まだ存命だった儀平の義母・ヤスの兄貴の孫。初太郎からするとハトコですね。

 

この時点で、菊地家の土地が無くなってしまいました。

隣の藤田家に売却してしまってはいるものの、縁故者の手に渡っていることから、そのまま住み続けることができていたということも考えられます。

 

このまま翌年のヤスの葬儀までは、初太郎と幸吉一家は同居していた?

初太郎は明治24(1891)年、幸吉はその2年後の明治26(1894)年に親となっています。

きっと家も手狭になってきたのでしょう。

 

その次に変化があるのが、戸籍上の日付で大正元(1912)年、幸吉一家が舘本33番地へ分家。

届け出の時期しかわかりませんけれど、少なくとも福島居住の時点で兄弟は離れて暮らしていたようです。

その翌年、幸吉一家は北海道屈斜路村の御料地へ渡りました。これは郷土史による情報。

初太郎一家はその4年後に幸吉とほど近い場所へ転籍していますが、これは戸籍上の日付ですので、あるいは弟と同時に屈斜路へ渡ったのかもしれません。

 

北海道へ渡るまでの間、兄弟の暮らしぶりや場所は知れません。

 

幸吉が北海道に渡る7年前、ハツが亡くなった際に喪主が初太郎ではなかったということは、同居していなかったということになるのでしょうか。

 

ちょっと疑っているのが、たびたび登場する国会図書館デジタルコレクションに「衆議院議員選挙有権者名鑑」という明治45(1912)年の書物がありまして、その中に「宮川村 菊池初太郎」との記載があることから。

f:id:dotouttan:20190902195454j:plain

宮川村というのは、現在の茨城県久慈郡大子町にある大字矢田、川山、冥賀、高田、下野宮に当たる地区。

 

この中の下野宮という地は、初太郎が二女・タツ(1906~37)の婿として迎えた菊地酉松(1898~1964)の実家がある地であるのです。

 

酉松は大森寅松(1871~1914)の長男ですが、寅松が大森與三郎の三男であり、與三郎の長男である大森亥之吉(1863~1921)が家督を継いでいたうえ、寅松が若くして亡くなっていることから、酉松は家を継ぐ立場ではありませんでした。

 

しかし、例えば初太郎がその大森家と旧知であり、ヤスの没後からハツの没前の間に宮川村内の近くに転居したということも、かなり無理がありますが無いとは言えないんじゃないかとちょぴっと思ったり。土地売っちゃってるし。ふつうにまったくの別人であるという説が私の中で有力ですが。

 

酉松に関しては、「下野宮で大工を始めて函館に移住。函館大火後に美幌に移り住んで大工を務めあげた。タツとは恋愛結婚。」ということが伝わっております。

下野宮時代に菊地家と繋がりがあったかはまったくわからないですね。

 

なお大森家なのですが、戸籍を眺める限り明治37(1904)年に亥之吉の三女・すみが同じ下野宮の小室亥之介家へ養子に入ったあとはしばらく動きが無く、その次のイベントが大正10(1921)年に戸主である亥之吉が大宮町(今の常陸大宮市)で亡くなっているという記述。家督は長男の大森貞之丞が継いでいますが、のちに大宮町へ転籍しています。

大森家も居なくなってしまったのか・・・。

 

ちなみに初太郎の戸籍には、屈斜路転籍の2年前、大正4(1915)年に屈斜路で初太郎の孫が生まれるまでまったく地名の記載は無し。

 

初太郎の明治31(1898)年の家督相続以降、初太郎や幸吉には数名の子どもが産まれていますが、誰にも出生地の記載が無いので、みんな本籍(舘本40番地)で産まれたのかなぁ・・・?

 

まぁ・・・、何かと創造力ばかりが膨らんでしんどいっす(/・ω・)/

f:id:dotouttan:20190903193240j:plain

▲上記に綴った状況をわかり易いように系図へ落とし込んだものの、余計ごちゃごちゃして失敗した例

You can do it!

ずっと気になっていた本があったわけです。

 

きっとみなさんご存知の「これ」ですね。


かの有名なユーキャンが出した全4巻の大作!

名字の本は森岡浩先生が関わっておられますし、家紋の本っていままで持ってなかったんですよね~。

 

欲しかったんですが、2まん9せんえんもするので、ちぇんちぇん買えるわけがないはずでした。

 

そんなこともすっかり忘れていたある夏の日。こないだですが。

ブックオフ20%OFFセールがありましたもので、ちょいと行ってみたんです。

 

ちなみに、ブックオフはけっこうみなさんにとって身近な存在であろうと思います。いろいろな掘り出し物の文献もあったりするでしょう。

でも、私の住んでいるあたりのブックオフは、こんな感じで点在しているのです。

f:id:dotouttan:20190830203016j:plain

釧路には1店舗(かつてはもう1店舗あったんですが・・・)。他のいちばん近い音更店は120kmほど離れています。

音更店と帯広店は近いですが、北見や網走も130km以上離れています。

 

こんなんですので、品ぞろえもあんまり変わり映えせず、ずっと同じメンバーの本たちが居座っているわけですね。

 

そんなんなんで、いつもあんまり期待しないで訪れるのですが、その日は違いました。

店に入った瞬間に目に入ったのが例のYou canのやつ!!

 

きっと高いんだろうね、お前さんほどのものだと・・・と、心の中で独り言をつぶやきながら、ひっくり返して値札を見たら、購入決定っすよ!!しかもこっから20%OFFっすか!冗談でしょ!

 

・・・と、ひとりで静かに悶絶していたのですね。

 

そんなわけで我が家にお迎えした神々しい御本様。

f:id:dotouttan:20190830203712j:plain

 

でかいほうは読み物としてバッチグーですが、事典の方は必要があれば開くといった感じでしょうかね。

人によっては2まん9せんえんの価値を見い出すのは厳しいかもしれません。

私はその13%くらいのお値打ち価格でしたので、まったく文句のつけようがありません。

初めての家紋の事典、とても見ごたえがありますね。ほとんどが一生実物を見ることがないであろう紋なのでしょうけれど。

そして森岡先生バージョンの名字事典。太田亮先生が綴った昭和初期の事典と見比べるのもまた趣がありますね。

もちろんボリュームは比べるものではないですが、森岡先生バージョンはとてもわかりやすく記述されていますし、太田亮先生の姓氏家系大辞典には記載のない名字(砂山など)についても触れられていたりしますので、一読の価値はもちろんあるわけです。

 

いや~、こんなこともあるんですね。ひさびさにブックオフでの大ヒットでした。

 

そんなこんなで、いよいよ明日は北海道吹奏楽コンクールに挑むべく、札幌Kitaraに向かいます!

6年生となり、副部長でトランペット吹きの娘。

年頃なこともあって、部内やその他もろもろいろいろな困難がありましたが、それらを乗り越えまして、ついにこの日を迎えます(本番は日曜日)。

小学校は23校中2校が金沢で行われる東日本大会に駒を進めることができるという超絶狭き門。

釧路勢2校のうちの1校の代表として、無事に悔いなく演りきって欲しいです!

You can do it!

f:id:dotouttan:20190830205528j:plain

 

小生瀬石井家について再考

家系のインデックス

昨年の10月、高祖母の実家があった茨城県大子町小生瀬地区を訪れ、1時間弱でしたが石井家について調査を行いました。

 

訪れる前に事前準備。

最古の戸籍には小生瀬248番屋敷と記述されております。

小生瀬は住居表示が行われていませんので、当時と番地は変わっていないと思うのですが、番屋敷表記だと現在の番地と対応させることができませんね・・・。

小生瀬のどこいら辺なのかがさっぱりわからなかったのですが、高祖母の次兄・石井鐡之助(1867~?)の子孫の方から「寺地」という地に住んでいたと教えていただきました。今はもう屋敷跡は竹藪になっているそうで。

 

しかしながら、寺地という地名はネットで探しても存在せず、唯一バス停が残されているだけ。

f:id:dotouttan:20190820212920j:plain

 

そこで、その寺地バス停付近の地図をゼンリン住宅地図プリントサービスを利用してローソンで購入。

ちなみに釧路市から一番近いファミマは、300km離れた千歳市にあります(/・ω・)/

www.zenrin.co.jp

1枚300円でございます。

 

その地図を見てみると、寺地のあたりは6000番台の番地。数字でかすぎでしょ!

その情報を基に旧土地台帳を請求してみるも、いまいちな結果でした。

かつて「寺地坪」と呼ばれていたので、ここら一帯は寺地という小字だと思い込んでいたのですが、旧土地台帳に記された小字は「シセ内」だの「岩久保」だの「芦風」だの「屋敷上」といったもの。 

これらをまとめて寺地坪と呼称していたのだろうか?

 

うむむ・・・、どうしたものかというところで、ある人物が思い浮かびました。 

高信幸男氏。苗字研究家で多くの著書があり、最近はテレビの「沸騰ワード10」という番組で、はんこ屋さんとの熱き珍名バトルを繰り広げている先生です。

実は高信先生、水戸市在住ですが出身は大子町

なにか小生瀬で庄屋を務めていた石井家についてご存知ないかというお手紙をさせていただいたのです。

 

すると、ご返事が!

f:id:dotouttan:20190820065817j:plain

かわいいふくろうのハンコが押されています(#^.^#)

 

f:id:dotouttan:20190820065912j:plain

石井家の墓地を撮影してくださり、送ってくださったのです。

おぉ、かなり立派なお墓!

講演などでお忙しいところ、お手間をいただき恐縮しきりでございました。

 

お墓が存在することが分かったので、今度は寺地付近の石井さんにお手紙をし、2軒の石井さんから「会ってもいいよ」というご返事をいただけたのです。

 

そんな準備をした上でいよいよ小生瀬へ。

その際にお会いいただいた2軒の石井さんはイトコ同士の方でした。

ご先祖さまは石井庄次兵衛さん。残念ながら高祖母の石井家とは繋がりません。

 

石井家のお墓が3軒集まっている墓所に案内していただきましたが、家紋が「丸に三つ柏」。

 

永らく小生瀬の横目を務めたと伝わる高祖母の父・石井庄衛門(1837~1902)家は、明治期に小生瀬を離れて現在は常陸大宮にお住まいですが、子孫の方から家紋は「左二つ巴」と伝え聞いております。

家紋が違うということは、同族ではないのかもしれません・・・。

そして、高信先生からいただいた写真とは違う場所・・・。

 

しかしながら、庄屋を務めていたという益子さんというお宅のお墓にもご案内いただけました。

すると!

f:id:dotouttan:20190820070454j:plain

f:id:dotouttan:20190820070533j:plain

あら!ここは高信先生が「石井家墓地」として送ってくださった写真とおんなじ場所です!

 

でも益子さんのお墓・・・。家紋も見当たらない〰

 

風化しかかっているので判読が難しいのですが、撮影した写真を基に文字起こししてみたのが以下のもの。

 

天明八年申 正月四日 縁通遍照清信士霊位 俗名 益子庄右エ門信任(信住?)

②髙徳院壽覺明照大居士
 鏡徳院養壽妙禎

③泰德院義光淨覺孫君翁大居士
 寶珠院諦雲壽照清浄大姉
 明治三十年 益子庄之允

④寛政十二年 蓮宗白邈清信士
 文化十一年 〇然妙曉清信女

⑤廣壽院積翁道雲親孫君大居士
 法照院殿理覺妙塔清大姉
 益子正泰建之

⑥德潤軒恵泉〇性居士
 長松軒鶴影妙壽大姉

昭和14年8月7日没  益子正盛 60歳
 平成17年11月13日没 益子義教 93歳

 

①に高祖母の父と同名の庄右エ門の名があります。

天明8(1788)年没なので、1837年生まれの石井庄衛門とは3世代くらい違うのかな?

庄衛門の父は重四郎。いったいどうなんだろう・・・?

 

天狗党の乱で親子の袂を分かったというお話も伝わっていますが、1864年のことですので、それで家を出て姓を変えた・・・?

でも年代が合わないか。

 

なお④の墓碑は最近のものですが、益子義教という方は東京帝大を出て、東京で医師として世に尽くした大人物。

益子家の方々は、毎年お墓参りに見えているそうです。

 

あと、③にある「益子庄之允」という名は、請求した旧土地台帳の中に見えました。

明治39(1906)年まで、現在石井姓の方が住んでおられる土地を、「田」の地目で所有していたようです。

また、国会図書館デジタルコレクションでもこの名を確認することができました。

f:id:dotouttan:20190820214355j:plain

▲珂北三郡名家揃:明治26(1893)年

庄之允氏は、小生瀬235番地に住んでおられたようです。

嘉永5(1852)年の生まれですので、庄衛門から見て15歳下。庄衛門の長男・酉次郎から見ると9歳上。なかなか微妙な年の差です。

石井庄衛門が住んでいたのが247番屋敷。もし仮に番屋敷表記だけど実は番地とイコールでした~となれば、この益子家とはきっとご近所さんではなかったかと思われます。今でいうとどこに当たるかがさっぱり不明ですが。

 

・・・まとめようと思ったんですが、さっぱり収拾がつかなくなりました。どうしてくれようか!

こんなに狭い地域のことだったから、すぐ解決すると思ったんですけどね・・・。

石井と益子。永遠の謎にならなければいいんですが。

こういうのがいっぱいあればいいのに

家系のインデックス

74回目の終戦記念日

私の周りで終戦を語ることができるのは、当時20歳で兵隊だった94歳の大叔父のみ。

その年齢を考えると、戦争体験者が少なくなってきているのも頷けますね。

 

・・・と話は変わりますが、私の母方曾祖母・平野とよみ(1893~1978)の出身地、宮城県東松島市矢本。

 

矢本町史に明治5(1872)年に編成された桃生郡矢本村壬申戸籍の目次が載っています。

かつていろいろお助けいただいた宮城の増子さんより、情報をいただいたもの。

 

せっかく収録されているので、統計みたいなものをとってみました。

 

世帯数~278軒(平民268軒、士族10軒)

職業~士族10軒、農業238軒、工業6軒、商業27軒、商業+農業1軒

 

姓ごとの軒数

軒数 うち士族
佐藤 28 1
菅原 22  
石垣 20  
桜井 16  
及川 15  
大江 10  
奥田 9  
千葉 8  
土井 7  
木村 6  
熊谷 6  
武田 6  
浅野 5  
遠藤 5  
石森 4  
伊藤 4  
大野 4  
高橋 4  
新田 4  
松谷 4  
森山 4  
八木 4  
石川 3  
内海 3 1
片岡 3  
菊地 3  
佐々木 3  
三浦 3  
相沢 2  
熱海 2  
阿部 2 1
尾形 2  
男沢 2  
小野寺 2  
神山 2  
亀山 2  
斎藤 2  
鈴木 2  
津野田 2  
長江 2  
奈良坂 2 2
日野森 2  
松本 2  
赤坂 1  
姉歯 1 1
大枝 1  
大久保 1  
大須 1 1
太田 1  
小野 1  
加賀 1  
梶塚 1 1
片平 1  
片山 1  
菊田 1  
及田 1  
葛岡 1  
久保 1 1
後藤 1  
庄司 1  
菅野 1  
高山 1  
玉河 1  
長南 1  
手代木 1  
茄子川 1  
野田 1 1
長谷川 1  
畠山 1  
1  
林田 1  
針生 1  
日野 1  
平塚 1  
星名 1  
本田 1  
目々沢 1 1
盛岡 1  
横沢 1  

 

私の祖先は、このうちの石垣家及川家奥田家が該当します。

この3家は村では多数派の姓。明治に至るまでに長く土着していたことを感じさせます。

このうち、曾祖母の母方祖父にあたる奥田亀吉(1844~1921、当時は28歳)に「商」との記載がありました。いったい何の商売をしていたかが気になるところ。

及川は及川留之助(1827~1898、当時は45歳)、石垣は石垣竹蔵(1823~1898、当時は49歳)と、曾祖母から見て曾祖父の名が記載されていますが、奥田家は一世代下の人物名が記載されております。どうやら、亀吉の義父・傅吉が壬申戸籍編成前の明治3(1870)年に世を去っているからのようです。

 

なお、人口は2,899名(男1,430、女1,469)。一世帯あたりの平均人数は10.4名。

今とは違ってお妾さんや使用人さんも戸籍に記載されているので、すこし多めになっているのかもしれません。

あと、このうちの5軒は戸主が女性名となっています。

 

一部だけでもいいので、どこの村でもこういった情報がゲットできるようになると嬉しいのですけどね・・・

 

 

<余談>

きょうは妻の誕生日~(*^-^*)

いっしょにお祝いするようになってから、21回目の誕生日です!

誕生日が9日しか違わないので、私がたった9日だけですが年上でした。

仕事から帰ってこれないのが残念ですけれど~

 

<余談2>

そういえば娘たち、吹奏楽コンクール釧路地区1位で北海道大会に駒を進めました!

9月1日に札幌市のコンサートホールKitaraで、3年連続金賞を目指します(#^.^#)

f:id:dotouttan:20190815073602j:plain

Kitaraがある中島公園内の弥彦神社にて

まだお盆じゃありませんなぁ

家系のインデックス

 

ひさしぶりに家族全員が休みだったきのう、私の父方・菊地家弟子屈町)&母方・平野家小清水町)へとお墓参りと顔見せに行くことができました。

 

最初は、菊地家の長老である祖父の末弟宅へ顔見せに。

戸籍上は大正14(1925)年正月生まれ、御年94歳の大叔父。

ホントはその前年生まれだったそうですが、冬だし役場が遠かったので、翌年生まれにされちゃったと言うことを初めて聞きました。

腰の骨を折っちゃったようですが、それ以外はまだまだ元気!

f:id:dotouttan:20190812202911j:plain

▲94歳にタブレットの使い方を教える8歳の図

毎年1~2度しか会えませんが、いつも元気で迎えてくれるのでうれしいです(*^-^*)

しかもきのう訪問している間に、八王子に住むお孫さん(私の再従姉妹)から、四男(第四子)が元気に産まれたとの吉報(LINEで)!

大叔父に曾孫が増えたと知る瞬間に立ち会えました(≧▽≦)

 

次に、父の長姉・野呂家(前回のブログで書かせてもらった、国学院久我山高マネージャーの祖父母)を訪問するもお留守。

 

そしてお墓参り以外の目的だった、友人の娘さんの入学祝いを渡すというミッション。

短大の友人ですが、のちに私のはとこ(祖父の次弟の孫)を妻として迎えたため、今や近しい親戚。

娘さんが入学して、もはや4か月以上が経過してしまいましたが・・・

 

家に行ってもいなかったので電話してみると、旧勤務地の摩周丘幼稚園にいるとのことで向かってみました。

 

 

長年摩周丘幼稚園に勤務していましたが、認定こども園化により保育園に統合されてしまい、もうすぐ摩周丘幼稚園の建物は取り壊すとのこと。

f:id:dotouttan:20190812204144j:plain

弟子屈の多くの子どもたちが巣立った幼稚園。寂しいでしょうね。

 

続いてお墓参りへ。

もともと屈斜路村民だった菊地家は屈斜路にお墓がありますが、祖父が家を出てしまっているため、新たに鐺別にお墓を建てています。まずは鐺別へ。

f:id:dotouttan:20190812204426j:plain

なんて書いてあるの?と聞かれて、「なむしゃかむにぶつだよ」。

どういう意味なの?と聞かれて、「・・・(わかんない)」。

 

さぁ、次は屈斜路です。

いつもスズメバチやアブの襲来でクルマのドアや窓すら開けられない状況ですが、今年はイケました!

f:id:dotouttan:20190812205631j:plain

▲みんなが子どもの時分に遊んだであろう、母なる屈斜路湖が丸見え

 

そして小清水へと向かいます。町に入ってすぐにあるお墓をお参りに行ったあと、平野家へ。

今はイトコが後を継いで畑作農家を営んでいますが、今年は天気が良くて小麦の刈り取りが予定通り進んだそう!

お盆は休めそうな感じらしいですが、きのうは佳境だったためイトコとは会えませんでした。

f:id:dotouttan:20190812210216j:plain

▲早生のじゃがいもを掘らせてもらっている図

f:id:dotouttan:20190812210335j:plain

▲ニンジンはまだSサイズ

いつも野菜をたかってしまっておりますが、おじさんやおばさんやイトコががんばってくれているおかげで、私も「田舎」がある人間でいられる気がします。

 

イトコの娘(2歳)とじいちゃんの葬式の時以来で会ったのですが、歩いてる(あたりまえ)~!

f:id:dotouttan:20190812210652j:plain

今度はのんびりとイトコに会いたいものです。

 

明日からがお盆ですが、カレンダーの都合でみんな今年はお墓参り早いんでしょうね。

 

 

<きょうの家紋>

私の6代前ばあちゃん、菊地ヤス(1813~99)の父は藤田傳五右衛門。菊地家と藤田家は矢祭東舘にてお隣同士で住んでおりました。

その藤田家の家紋は「丸に剣片喰」だと思っていたんですが、写真を改めて見返すとなんだか雰囲気が違う気がしてきたのです。

f:id:dotouttan:20190812211539j:plain

剣の部分が細い・・・

f:id:dotouttan:20190812211709j:plain

▲参考:丸に剣片喰

調べてみると、どうやら「丸に姫路剣片喰」という紋があるらしいのです。

f:id:dotouttan:20190812211945g:plain

剣の部分が細いですね。

この紋については、ネットで見てみても情報が拾えない!情報ギブミー!

 

・・・あたらめて調べてみると、この姫路片喰紋からは、酒井氏という一族が浮かび上がってきました。

そして、太田亮氏の姓氏家系大辞典のサカイ項の7によると、

f:id:dotouttan:20190813064611j:plain

片喰紋を使用していた新田氏流の酒井氏についてなのですが、九州に行って菊池武光と行動を共にしたような記述が!

 

肥後の菊池氏は矢祭菊地家のルーツと伝わっていますが、早くから武士団を結成した菊池氏の分流として、藤田という一族もあったとの記述もネット上に見つけました。

もしかすると、肥後時代から菊地家と藤田家は繋がりがあったのかも・・・

なんだかスケールが大きくなってしまった。。。

大子町の名士・櫻岡家にコンファメーション

家系のインデックス

前回、高祖母・スイ(1874~1931)の実家である茨城県久慈郡大子町小生瀬の石井家についてつづらせていただきました。

 

果たして、桜田門外の変を謀った関鉄之介と接触していた「石井重衛門」なる人物は、私と関係があるのか?というお話。

 

どうにもこうにも堪らなかったので、石井重衛門の伯父である櫻岡源次衛門氏の子孫の方に確認をとらせていただいたのです!

 

ありがたいことにすぐさまご返事をいただけまして、結果的にはむむむ・・・という感じですが、まとめておこうと思います。

 

 

まず、石井家が生瀬の旧家であることは伝わっているようですが、戸籍名しかわからない私の祖先・石井庄衛門(1837~1902)とその父・重四郎については櫻岡さんの資料には名前が出てこないようです。

 

そうですか・・・というところですが、気を取り直しましょう。

 

石井重衛門←石井源次兵衛義房(義国)←石井久治衛門義教。

重衛門の祖父まで、私が初めて目にする名です。通字は「義」みたいですね。

なお、庄衛門の一族には義の字を使用している人はおりません(¯―¯٥)

 

重衛門には、菊池佐一兵衛に嫁いだ妹・「とり」と、佐藤五郎衛門に嫁いだもう一人の妹が居り、石井伝重郎(平八郎)なる弟も居るようです。

そして妻・ますとの間には兵衛門、忠蔵、権五郎、百太郎といった子どもたちをもうけています。

 

んもう、みなさん初めまして!というお名前ばかりが判明!

 

ただ、江戸時代ということもあり、名前が変化したということもあるかもしれません(しつこい)ので、まだまだ予断を許さない状況だと思っておきたいところです。

 

 

また、櫻岡さんより菊地家についておまけの情報をいただきました。

私の6代前の祖先・菊地儀右衛門(1810~90)ですが、かつて「天狗党の乱」の資料の中に、「菊池儀衛門」という名を見つけて、これは同一人物ではないかと勘繰っていたところでした。

その菊池儀衛門についての補足情報!

「元治元(1864)年十一月多人数降参セル時、帰村ヲ願出候処、入牢ノ上帰村セル者」の中に
「南多気 菊池儀衛門」

 

・・・南田気(みなみたげ)は、現在の大子町市街にほど近い場所。

天狗党の乱の時分、儀右衛門は54歳。婿にその頃入っていたかは不明ですが、義息子の儀平は20歳でした。

 

私が知る限りだと、その20余年後に作製された明治19年式戸籍が最古。

菊地儀右衛門は福島県東白川郡東舘村(矢祭町大字東舘)字舘本40番地に籍をおいています。当時76歳。

f:id:dotouttan:20190810070648j:plain

南田気と舘本は、距離にして約5里。

当時も今も矢祭⇔大子は行き来が頻繁のようですから、あながち無くはないといった感じなのですが・・・

江戸時代の菊地家についても、謎が解けないです(/・ω・)/

 

ご教示いただいた櫻岡さん、ありがとうございました!

 

以下余談。

おとといの甲子園第3試合にて、強豪・前橋育英を破って春夏通じての初勝利を手にした西東京代表の國學院久我山高。
イトコ(父の長姉の二男)の息子さんである野呂直大(3年)がマネージャーを務めています。
NHKの中継では、チーム紹介の大役を務めました!

姿を見るのは小学生だった時以来。ここまでくるのにいろんなことがあっただろうけど、チーム紹介でハツラツとした元気な姿を見ることが出来て、そして血縁者が甲子園の土を踏んだことがとっても感慨深いっ!!(#^.^#)


f:id:dotouttan:20190810072232j:image

桜田門外の変と石井家

家系のインデックス

 

時の大老井伊直弼が刃に散った歴史上の大事件、桜田門外の変

安政7(1860)年の小雪が降る日にその事件は発生しました。

 

事変の指揮を執ったのは、水戸藩を脱藩した志士・関鉄之介。

文政7(1823)年生まれの当時37歳でした。

 

(菊地家)の高祖母・菊地スエ(1874~1931)はまだその頃は生まれていませんでしたが、スエの実家である茨城県久慈郡大子町小生瀬寺地の石井家が、事変前後の関鉄之介と接触していたということが伝わっています。

 

当時、南田気村や久野瀬村(現在はともに大子町)の庄屋であった櫻岡源次衛門氏。

関と旧知の仲であった櫻岡氏は、関らに資金を提供していました。

 

そしてその資金を江戸まで届けていたうちの一人が、櫻岡氏の甥である「石井重衛門」。

 

事変後は近畿地方四国地方へ逃げた関。しかし、頼ろうとしていた薩摩藩が関所を封じてしまい、他藩の者を通さないようにしていたことから、やむなく水戸藩領へ戻ります。 

 

なお、櫻岡氏は文化元(1804)年9月生まれで、事変当時55歳。

スエの父・石井庄衛門は天保8(1837)年生まれの当時23歳。

もしかすると重衛門と同一人物かもしれない庄衛門は、櫻岡氏の甥としては自然な年齢です。

 

なお、石井家の子孫(庄衛門の次男・鐡之助の子孫)の方によりますと、石井家は小生瀬村の横目を務めていたと伝わっております。

また、石井庄衛門は戸籍が変わるたびに庄衛門→庄右衛門→正右衛門と名前が変わっていったのですが、庄衛門の父は一貫して重四郎と記されています。庄衛門は重四郎の長男です。

戸籍上では、櫻岡氏の甥といわれる「重衛門」の名は出て来ないのですが、重四郎と庄衛門の名を混ぜると、重衛門になります・・・(*´ω`*)

 

事変の当時、江戸時代は名前なぞ頻繁に変わったでしょうけれど、この重衛門が庄衛門と同一人物なのか、はたまた全然関係ない人物なのか、いまのところは確証がありません。

 

ただ、庄衛門の家督相続は事変前の1853(嘉永6)年、17歳の時なので、その時点で横目は庄衛門が継いでいたのかもしれません。

大子町史には「(関鉄之介は)大子を離れる3日前に寺地坪の重衛門宅に宿泊した。」との記述があります。まさに、寺地は石井家があった地。

 

関は1年以上櫻岡家に匿われておりましたが、追手が来たと悟ると、大子を離れて越後方面へ逃げます。

しかし捕らえられた関鉄之介は、文久2(1862)年に日本橋でその生涯を閉じました。

脱藩していたこともあり、関の家族は監視の下にはあったようですが、巻き添えを食うことはなかったようです。

 

その5年後に生まれた次男に、庄衛門は鐡之助という名を付けます。庄衛門は関にあやかって同じ読みの名前をつけたのかもしれません。

奇しくも、関鉄之介の仇であった井伊直弼の幼名も鉄之介であったそうです。

 

以下は、私が知る限りの石井家年表です。石井家の子孫の方の聞き伝えも含まれております。

年表を作製してみることによって、年代の整理がつき、祖先の生きた激動の時代を感じることが出来るような気がします。

 

和暦 西暦 出来事
江戸期 石井家、常陸国久慈郡小生瀬村248番屋敷(現:大子町小生瀬寺地)に居住。石井家は小生瀬村の横目を長年務めていたと伝わる。屋敷跡は現在竹藪となっている。
現在判明の最古の祖先は重四郎
天保8年 1837 5月1日、重四郎の長男・庄衛門誕生。
嘉永6年 1853 10月20日庄衛門(16)が家督相続(事由不明)。
安政4年 1857 4月6日、庄衛門(19)と、外大野村・齊藤善治エ門の長女・ふゆ(17)が婚姻。
安政5年 1858 翌年にかけて井伊直弼大老等による「安政の大獄」が起こり、日米修好通商条約調印や徳川家茂の将軍就任に反対する100名以上が弾圧される。
安政7年 1860 2月、弾圧を強めていた井伊直弼を暗殺するという計画のため、水戸藩を脱藩した関鉄之介ほか十数名が江戸に潜伏。関の旧知である常陸久慈郡袋田村の櫻岡源次衛門が資金を提供。櫻岡の甥である石井重衛門も資金を届ける役目を担った。
3月3日、関鉄之介(35)の指揮により「桜田門外の変」発生。井伊直弼大老が刃に倒れる。44歳没。安政の大獄以来の弾圧が収束。
文久元年 1861 5月17日、庄衛門(24)・ふゆ(21)の長男・酉次郎誕生。
7月、関鉄之介(36)、京都や四国を逃走したものの水戸藩領に戻り、袋田村の櫻岡源次衛門(57)家へ潜伏。
文久2年 1862 関鉄之介、大子を離れる3日前に石井重衛門宅に宿泊。後に越後地方へ逃亡するも捕らえられ、5月11日に江戸で斬首される。37歳没。
元治元年 1864 天狗党の乱」。父・重四郎は諸生派(幕府側)、長男・庄衛門(26)は天狗派(尊王攘夷派)と、親子で分かれたことから、庄衛門一家は家を飛び出すが、諸生派の襲撃に逃げ切れないと観念。妻・ふゆ(24)と酉次郎(3)を連れて谷底に身投げしようとしたところ、酉次郎が泣くので乳を含ませるとニッコリ笑ったので、子どもを道連れに死ぬことを思いとどまり、磐城東舘村に潜伏。天狗党の乱は同年中に収束。おそらくはそのまま東舘にとどまったと思われる。
慶応3年 1867 12月23日、庄衛門(30)・ふゆ(28)の次男・鐵之助誕生。
明治7年 1874 8月1日、庄衛門(37)・ふゆ(34)の次女・すゐ誕生(長女は不詳)。
明治11年 1878 2月23日、酉次郎(16)と、福島県東白川郡真名畑村・金沢勇吉の次女・きく(14)が婚姻。
明治15年 1882 1月2日、酉次郎(20)・きく(18)の三女・いち誕生(長女、次女は不詳)。
明治16年 1883 11月20日庄衛門(46)・ふゆ(43)の三女・かね誕生。
明治17年 1884 2月8日、庄衛門(46)が隠居。酉次郎(22)が家督相続。
9月1日、福島県東白川郡伊香村、鈴木あきへ婿入り(婿入り時期は不明)していた鐵之助(16)が離婚し、石井家に復籍。
明治18年 1885 12月21日、酉次郎(24)・きく(22)の四女・いの誕生。
明治26年 1893 11月24日、すゐ(19)と、福島県東白川郡豊里村大字東舘字舘本、菊地儀平の次男・幸吉(19)が婚姻し、石井家を離れる(20年後に北海道屈斜路村へ移住)。
明治29年 1896 12月26日、隠居していた庄衛門(59)が、妻・ふゆ(57)、次男・鐵之助(29)、三女・かね(13)を伴い、福島県東白川郡豊里村大字東舘字舘本53番地へ分家。小生瀬には長男・酉次郎(35)一家(妻、いち、いの)が残る。
明治30年 1897 1月21日、鐵之助(29)が、東白川郡高城村関岡、大垣亀太郎の妹・アキ(25)と婚姻。
8月6日、鐡之助(29)・アキ(25)の長男・誕生
明治31年 1898 7月12日、庄衛門(61)が、次男・鐵之助(30)に家督を譲り、二度目の退隠。
明治32年 1899 9月12日、鐡之助(31)・アキ(28)の次男・誕生
明治33年 1900 7月21日、鐵之助(30)、豊里村大字東舘字石田11番地の土地(332坪)を購入し、転居。
明治34年 1901 11月4日、鐵之助(31)一家、舘本から石田11番地へ転籍。
明治35年 1902 11月10日、庄衛門(65)が逝去。墓所は東舘東慶寺(のちに鐡之助が移り住んだ常陸大宮市へ移動)。
明治38年 1905 1月18日、鐡之助(38)・アキ(33)の三男・武男誕生
明治39年 1906 1月8日、鐡之助(39)・アキ(34)の四男・正清誕生
3月26日、鐡之助(39)が東舘で営んでいた鱗屋旅館が破産。石田の土地を売り渡し、夜逃げ同然で大八車を押して水戸市南町の借家へ引っ越す。
12月10日、酉次郎(45)・きく(43)の長男・正之誕生。
明治40年 1907 8月15日、かね(23)が静岡県駿東郡菅沼村851番地の1で逝去。
明治42年 1909 4月9日、鐡之助(39)、東白川郡高野村大字大梅字大岩、藤成寅吉の妹・トメ(19)と養子縁組。
10月18日、ふゆ(70)が逝去。
明治43年 1910 (12)、三の丸尋常小学校を卒業し、水戸市内の総合食品卸問屋に奉公へ出る。
明治45年 1912 3月1日、いち(30)と西茨城郡岩間町大字岩間下郷246番地・貝毛福太郎の間に貝毛きん誕生。貝毛家に籍を置く。
大正2年 1913 11月9日、茨城県那珂郡大宮町147番地において、鐡之助(46)・アキ(41)の五男・三郎誕生。
大正5年 1916 5月8日、いの(20)が東京市小石川区餌差町31番地・柏原正哉と婚姻。石井家を離れる。
大正6年 1917 8月1日、正之(10)が長野県上水内郡芹田村において夭折。
(20)が那珂郡大宮町において商店を開業する。
大正9年 1920 4月17日、鐡之助(53)一家、茨城県那珂郡大宮町147番地へ転籍。以降は現在まで子孫が常陸大宮市に居住。
大正13年 1924 4月27日、酉次郎(63)・きく(60)、孫・きん(12)を貝毛家より養子として迎える。
昭和13年 1938 2月4日、きく(74)が西茨城郡岩間町大字岩間下郷246番地において逝去。届出者は酉次郎
12月2日、酉次郎(77)が西茨城郡岩間町大字岩間下郷246番地において逝去。届出者は三女・いち(56)。
昭和21年 1946 8月13日、いち(64)が西茨城郡岩間町大字岩間下郷246番地において逝去。届出者は同居者・貝毛德次郎。この時点で、石井酉次郎家はいちの娘・きん(34)のみとなり、絶家。

 

歴史的な大事件に関わっていた石井重衛門は、果たして私との繋がりがあるのでしょうか。まだまだ謎は解けません。