戸籍への記載事項が変化する不思議
令和最初の年の暮れ。いよいよ今日は仕事納めの日です。
今年は数え42歳の本厄だったので、年を越せることになんだかほっとしています。
さいきん、自腹で同僚の家系をさかのぼらせてもらっていたのですが、その中で特筆?すべき事項がありましたのでご紹介させていただきます。
同僚の母系は、釧路に来る前は利尻島に居たとの話でして、実際に釧路市の戸籍を見ると、利尻富士町(当時は東利尻町)から転籍しておりました。
そこで利尻富士町に、さかのぼることができるまで除籍を請求。
当時は鴛泊(おしどまり)村だった利尻富士町の最古の戸籍には、明治34年「利尻郡仙法志村より転籍」とありました。
ちなみに利尻島というのは、北海道のここです。
この小さな島ですが、東側は利尻富士町、西側は利尻町と別れております。
仙法志村は現在の利尻町の地区。
島がひとつの町であれば一発でいけたのですが、ここは利尻町に請求です。
すると、今度は「明治30年利尻郡本泊村番外地より転籍」との記載。
仙法志には4年しか居なかったのですね。
本泊村は現在の利尻富士町。
またもや利尻富士町に請求しなくてはなりません。
ちなみに、利尻島へ行く方法はフェリーしかありません。
海が時化るとその日は諦めないとならないのです。
もちろん郵便物も同じです。
なので、時間がかかるんですね。
同時に、ここまでで判明している戸主(同僚の高祖母)の父親の籍と名前が判明したので、請求をしてみました。
なお、その父親については「福井県坂井郡坂井浦 北山仁助」となっています。
ところが、調べてみると「坂井浦」なんていう地名はありません。
いまでいうと三国港のあたりがあやしいと思い、坂井市に請求をかけてみましたが、北山仁助については存在しないとの返答でした。
むむぅ、なんだか怪しくなってきたぞ。
しかも、仙法志の戸籍には「明治19年入籍、明治10年相続」と書かれています。
戸主は「薮野シモ」。前戸主は「亡夫 薮野佐太郎」。
時系列で並べようとしても、非常に困難な状況です。
シモさんが佐太郎さんと結婚して入籍。佐太郎さんが亡くなってから相続。
そういう流れが自然なのですが、入籍と相続が逆転していますし・・・。
そして利尻富士町よりついに届いた本泊村の戸籍。
あっさりと謎が解かれました。
「明治10年相続」
・・・この戸籍が出てくるまでに1か月以上かかりました。
本泊村には4か月ほどしか居らず、すぐに仙法志に転籍していました。
在籍4か月だけの戸籍でしたが、これがないとどうにもなりませんでしたね。
仙法志村に転籍した際、どのように手続きをしたかは想像しかできませんが、口伝えとかで行ったのであれば、こんなことも起こりうるのかもしれないですね(´Д`)
そしてこれを見ると、シモさんは佐太郎さんと結婚してわずか9か月で未亡人になってしまったようです。さぞやつらかったでしょう。
姓はそのまま薮野を名乗っています。ただ、戸籍では薮野、藪野、籔野の三通りの書き方が見られるため、どれがホントなのか混乱します。
なお、この薮野家。
これも想像ですが、米ケ脇浦という地はその名のとおり海沿いの地区。
薮野姓は関西に割と多めに分布しているため、もともとは関西住まいで、北前船をきっかけとして越前に移住し、北前船でブイブイいわせていたのではないでしょうか。
北前船が衰退してきた明治中期、夫は既に亡く、もしかすると誰かを頼ってニシンで潤っていた利尻島へと移住を決意したのかもしれませんね。
左の記載が右のように変化!
釧路の人に限り、懐かしいと思われそうな記事
今回は、ぜんぜん家系と関係ないお話です。
かつて23万人も人が居たため、30万人くらいまで対応できそうな街として形成された釧路市。
いまは阿寒町と音別町の面積が加わったにも関わらず16万人台の人口となってしまいましたので、すっかり余裕の広さです。みんな移住してきてください。もしくはナウなヤングに受けそうなテーマパークが進出してくれても良いです。
…と、欲望を吐いてしまいましたが、話を戻します。
私は昭和53年に釧路市のほぼ東端である白樺台で生まれ育ち、中学3年生で網走市へ転校。
高校を卒業してからまた舞い戻ってきましたが、高校時代の私にとって釧路といえば郷愁の対象であったのです。
そんな釧路の街並みもずいぶん子どもの頃と変わってしまいました。
どこからか怒られるかもしれませんが、昭和58年お正月の新聞より、かつて釧路には無くてはならなかった存在について綴らせていただきたいと思います。
まずは石黒ホーマ。今はホーマックとして、本州にも進出しておりますね。
石黒ホーマ自体のマークはこんなんだったかな?という感じですが、右端のピノキオが懐かしいです。少なくとも千代ノ浦の石黒は、このピノキオが看板に描かれていました。
なお、この記事中の「福工具箱」にとてもそそられます。ホントにこんなデザインの工具箱使ってたら一目置かれそうです。
そして今井ランド。
クリスマスプレゼントのおもちゃがこの包装紙だったのは、サンタさんも御用達だったということでしょう。おもちゃはマリオネット今井だったかもしれませんが。
本州製紙(今の王子製紙)と、その社宅の方々御用達だった本州ハイマート。
本州製紙の熱を社宅に持って行っていたことと、本州からの転入者(の荷物)が多かったということから、コードネームGが大量に生息していたそうです。
ハイマートにはゴキブリホイホイが売っていたそうな。
外に出たら寒さで自然に死にますけどね。
寒さに耐えられるように進化しなくて良かったですよ。
余談ですが、私は未だに生きているGを見たことがない幸せな人生を送っています。
伯父が勤めていたニシムラ。食パンといえば、いつもここのでした。銘菓のユカタンとかもありました。
潰れるギリギリ前に、伯父は察して脱出。
私が住んでいた白樺台ではおなじみだったセオさん。野球帽はいつもここで買っていたような記憶があります。
最後は一店舗ずつなくなっていったという寂しい思い出・・・。
んもう、休日といえば私はここ、太平洋スカイランドでした。
太平洋炭鉱の福利厚生施設ですが、ぜんぜん炭鉱とは関係ない父ちゃんと2階の喫茶店に行き、いつも週刊少年ジャンプを読んでいました。
ボウリング場やプール、ゲームセンター、銭湯、そして夏祭り。
ワクワクすることがたくさんありましたね。
丸ト北村は、3歳下の妹が産まれた時に私が居た場所らしいです。丸トのゲームセンターでムーバーに乗って遊んでいたそうな。
その右の釧路フードセンターは白樺台の子どもにとってはよくわかんないです。
駅前一等地にあった金市館。
ここは母ちゃんが一張羅を買いに行く場所という認識でした。
子ども的にはつまんなかったかも。
スーパーまつだは、セオとともに最後までがんばってくれましたね。
けっこうな支店があったようですが、中園くらいしか記憶にない・・・
桜ケ岡にあったっけ?
街中にあったスーパータイスイは根室の大洋水産が経営していたんだったかな?。
鳥取や愛国は、私の子どもの時分は未知の世界だったので、わかんないっす。
まちなかの地下にあったところはお馴染みでしたが、看板のマークが怖かった記憶があります。
このタイスイのロゴマークは何がモチーフなのかしら?
街の中にあったマルカツは、緑の階段を下っていったところでお茶碗とかを買っていましたね。
あとはおにぎり屋さんがあって、すんごく美味しかった思い出。
くしろデパートは、じつはあんまり記憶になかったり。
平成になったころ、KOM(コム)になりました。
そして、私的にザ・モースト・ファンだった長崎屋。
語りたいことは山ほどありますが、釧路初の中古ファミコンショップやブックスいせやなどが思い出深いですね。
ファミコンカセットの多くは、ここで買っていました。
この記事のころはまだファミコン前夜だったため、カセットビジョン13,500円が一番メインに記載されていますね。次はいまだにロングセラーの黒ひげ危機一髪ですか。
十條サービスセンターではなくなったあとも、建物そのままでビッグハウスとして営業していましたが、ついこないだ建物がすべて取り壊されました。寂しい。
十條時代の思い出は実はあまりなかったりします。白樺台からは遠いですからね。
そして、よくよく左下をよく見ると、おそらく「十條しろやま店」と書いてあります。城山にもあったんですね。どんな形態で、どこいら辺にあったのかしら?
最後、こんなのがありました。
答えはここに載ってないのでわかりませんが。
・・・というわけで、釧路市民以外置いてけぼりでごめんなさいな記事でした。
とりあえず見た感じ元旦はどこも開いてないので、現代もそうあって欲しいと思うわけです。みんな元旦くらいは休もうよ。
バイバイまたね
私が今の会社に就職してから約1か月経ち、いろいろと疲れていた2002年5月。
カノジョの実家に2匹の子猫がやってきました。
近所のクリーニング屋さんで5匹産まれたうちの2匹。
「どっちがいい?」とクリーニング屋さんに聞かれたお義母さんは、この愛らしい2匹を選べるはずもなく、どちらも家に迎えることとなったのです。
チョロチョロしている男の子の白黒は「ちょろ」と、そしてちょうど義妹が青森の弘前大学へ入学したばかりだったので、女の子の黒猫は「りんご」という名に。りんごは「りんちゃん」ともっぱら呼ばれていました。
ただ、亡くなった祖父は名前を覚えることも無く、「シロ」、「クロ」と呼んでおりましたね。
猫大好きだった私は、仕事に疲れた心をずいぶんと癒されたものです。
写真を撮ろうも、りんちゃんはなかなかピントが合わず、黒猫を撮るのは難しい!って苦心したりしました。
最近、調子の悪かったりんちゃん。すっかりボケてしまったようで、何度もご飯をせびり、耳も遠くなって鳴き声も大きくなりました。
ここのところは歩くのもしんどかったようで・・・。
きのうの14時ころ、17歳8か月の天寿をまっとうし、お空へ旅立っていきました。
たまたま11月25日。いいニャンコの日(こじつけ)でありました。
人間でいえば98歳くらいとのこと。まさに大健闘の大往生。
病気知らずで丈夫だったので、お骨はとてもしっかりとしていて、きれいな白色。
お義母さんの食事のチョイスが良かったのでしょうね。
今ごろは、きっと小さい時のようにダッシュでお空を駆け回っているのが想像できます。
いままで子どもたちのお姉ちゃんでいてくれたこと、忘れません。ありがとう。またね。
でもまだちょろがふてぶてしくも元気でいますので、ここまで来たらギネス記録、もしくは猫又を狙って欲しいですよ。
ちょっとカラーにしてみた
祖先の調査などで昔のことばかりしらべていると、めくるめくモノクロームの世界が広がっています。
ともすると、昔は色という概念がなかったんじゃないか?というお馬鹿さんな感覚になっちゃったりして。
そんなお馬鹿さんな思考を改善してくれるサービスがあるということで、いろいろと試してみたのですよ。モノクロ写真をカラーにって。
そしたらば、こちらの「ColouriseSG」というサイトがいちばんいい感じで彩りを与えてくれました。
・・・と、使い方はイージーです。
これだけで、色が合ってるんだかはわかりませんが、グッと素敵な感じに変貌!
▲昭和13(1938)年くらいのじいちゃん夫婦(菊地幸松・よし)。
▲弟子屈木工の仕事中。じいちゃん(前列左から2番目)と仲間たち。
▲裁縫教室を開いていたばあちゃん(下段真ん中)と生徒さんたち。
▲じいちゃん夫妻&ばあちゃんの父・太田代次郎(1878~1963)&伯父と伯母
▲女満別?飛行機の前で撮影している謎の写真(右から2番目の女性がばあちゃん)
▲写真班だったじいちゃんの太平洋戦争
▲戦後まもなくくらいの北見写真師会の総会(最上段右からふたり目の直下にいる彫りの深い顔の人がたぶんじいちゃん)
▲昭和45(1970)年9月、じいちゃんの葬儀
写真によってはさっぱりカラー化されなかったりしますが、上記のようになった場合は感動ものです(#^.^#)
どんな技術なのかはまったくわかりませんが、このロジックを開発してくれた人に感謝!
白黒写真が怖い!って言っていた小2息子も、このカラー化で少しは怖くなくなったかな?
謎めくじいちゃんの歴史
これまでいろいろと情報収集をして、私が生まれる前に亡くなった祖父・菊地幸松(1916~70)の人生を追っていたわけですが、まだまだ以下のようなことまでしかわかりません。
あと知りたいのは・・・、
◎小石川で写真を学んでいたらしいが、それがどこかわからない
◎写真班として太平洋戦争に従軍。写真班という存在がよくわからない
なかなか厳しいかも~(>_<)
1916/4/21 | 0歳 | 菊地幸太郎・カツ夫妻の長子として、北海道川上郡屈斜路村御料地29番通西第105号地(現:弟子屈町屈斜路エントコマップ)にて出生 |
1923/4/1 | 6歳 | 尾札部尋常小学校入学 |
1929/3/1 | 12歳 | 尾札部尋常小学校を卒業。14回生。担任は川村輝先生 |
1929/4/1 | 12歳 | 札友内尋常小学校高等科へ入学。 |
1929/? | 釧路市にて開催された北海タイムス主催の陸上競技会に出場し、メダルを獲得 | |
1930/? | 14歳 | 父・幸太郎に菊地家放棄宣言。叱られている途中で家を脱出。この年に開業した美留和駅より写真技術を学ぶために東京(小石川)へ旅立つ |
小石川より、弟あてに少年向け雑誌「少年倶楽部」を送付 | ||
弟・幸壽と高幸が火遊びをしていて、屈斜路の菊地家が全焼 | ||
1936/4/10 | 19歳 | 何かの議員をしていた父・幸太郎が、42歳で逝去 |
1938/9/14 | 22歳 | 日中戦争に伴う臨時招集のため、歩兵第27連隊留守隊に応召。留守第3中隊に編入(歩兵二等兵) |
1938/12/24 | 22歳 | 召集解除 |
肋膜炎を患い、湯治のために弟子屈に来ていた網走郡女満別村本郷在住の2歳年上の女性、太田よしと出会う | ||
1939/11/17 | 23歳 | 太田よしと婚姻届出 |
斜里郡斜里村字上斜里原野2線91番地(現:清里町上斜里)に転住 | ||
1940/4/29 | 24歳 | 支那事変従軍により従軍記章簿冊第2401178号として記入のうえ、従軍記章と30円を授与される |
1940/5/30 | 24歳 | 初子となる長女・由美子誕生 |
1941/7/19 | 25歳 | 充員召集のため歩兵第26連隊に応召、第24歩兵団司令部整備要員として第7歩兵団司令部に充当(二等兵) |
1941/8/13 | 25歳 | 出征中に第2子となる長男・勝幸誕生 |
1941/11/1 | 25歳 | 一等兵に昇格。満州へ出征 |
1943/1/17 | 26歳 | 召集解除 |
1943/3/1 | 26歳 | 北海道写真師商業組合に50円出資 |
1944/5/25 | 28歳 | 第3子となる二女・陽子誕生 |
1945/3/25 | 28歳 | 臨時招集のため第7師団司令部に応召、独立歩兵第460大隊第1中隊に編入 |
1945/8/18 | 29歳 | 太平洋戦争が終結し、根室にて召集解除 |
幸松のみ常呂郡常呂村字常呂256番地へ転住。妻子は妻の実家である女満別村本郷77番地へ | ||
1945/10/6 | 29歳 | 妻・よしの実家である女満別本郷の太田家にて、第4子となる二男・晋二誕生。出生届は幸松が常呂郡常呂村役場へ提出 |
1946/4/28 | 30歳 | 二男・晋二が、北見赤十字病院にて夭折 |
一家で屈斜路の実家に戻る | ||
1946/? | 30歳 | 弟子屈市街地(現在の平塚写真館の場所)に菊地写真館(光写真館)開業 |
1947/2/4 | 30歳 | 屈斜路にて、第5子となる三男・幸司誕生 |
1949/6/5 | 33歳 | 第6子となる三女・美枝子誕生 |
1949/6/8 | 33歳 | 菊地幸松戸籍編製。本籍地は北海道弟子屈町字弟子屈41線西14番地(現:高栄1丁目14番地) |
1951/7/24 | 35歳 | 第7子となる四男・章誕生 |
1953/9/30 | 37歳 | 第1回弟子屈アマチュアカメラ撮影競写会にて弟子屈町より「惠の所」ほか4点が推薦される |
1954/12/12 | 38歳 | 北海道新聞社主催の弟子屈文化協会創立5周年及び弟子屈高校校舎落成展示会において「摩周湖の静けさ」が推薦される |
1956/? | 40歳 | 借金の保証人となったことをきっかけに、菊地写真館(光写真館)が閉業に追い込まれる。清里町へ転住 跡地は従妹・鴨志田美佐子の夫である平塚三郎が写真館として利用 |
北見写真師会に在籍 | ||
1958/9/27 | 42歳 | 弟子屈町高栄1丁目1番1もしくは2号(現:ドコモショップ弟子屈店付近)へ転住。菊地写真館を再び開業 |
1964/10/15 | 48歳 | 長女・由美子が野呂敏明と婚姻 |
1970/3/11 | 53歳 | 標茶町にて、初孫となる二女・陽子の長女・石川直美誕生 |
1970/6/25 | 54歳 | 弟子屈町にて、長女・由美子の長男・野呂敏幸誕生 |
1970/9/17 | 54歳 | 釧路川密漁監視後の懇親会時、脳溢血で倒れる |
1970/9/18 | 54歳 | 午前4時8分逝去 |
1970/? | 菊地写真館閉業 |
じいちゃんは、酒に弱かったのに好きだったものですから、それが早死にの原因だったのかもしれません。
弟子屈町では2番目に運転免許を取得(札幌まで行って)したらしいです。
写真屋だけでは厳しかったのか、こんな仕事もしてたみたいですね(前列左からふたり目)。
夏休み最後の日、もうひとつの進展
きのうは、ひいばあちゃんの藤田家や、菊地家のじいちゃん、ひいじいちゃんについて得た情報をブログに綴らせていただきました。
さらにはなんとステキなことに、この日はもうひとつの成果がありましたので、これについても残しておきます。
ここは、妻の早世した曾祖母・山田春野(戸籍名はハルノ。1910~39)の父・千葉菊太郎(1889~1969)の弟が入植した地。
その千葉幡太郎は、千葉岩太郎(1868~1911)の三男として明治28(1895)年に岩手県九戸郡九戸村長興寺の千葉家で生を受けます。
大正6(1917)年、21歳の時に同郷で同い年の櫻庭ナミと結婚。すぐ村内の小倉地区へ分家。
当時は舌辛村と呼ばれていた鶴居に入植した時期は不明ですが、大正11(1922)年に初子が生まれていますので、大正6~11年の間ではないかと。
ちなみに曾祖母・春野は、16歳だった大正15(1926)年に曾祖父・山田綱吉(1904~39)と鳥取村にて結婚しています。
幡太郎からすると姪に当たる春野。
九戸から一緒に舌辛に入ったか、それとも叔父を頼って後に追ってきたかまではわかりません。
幡太郎は三男であったことから、実家付近での生活に限界を感じ、北の新天地に希望を持ってやってきたのでしょう。
なお、幡太郎の弟に千葉語郎さんという方がいらっしゃるのですが、語郎さんも大正13(1924)年に舌辛村のおそらくは幡太郎の家に移住。その後は札幌に向かい、スーパーを経営していたそうです。
その千葉家。鶴居村ではおそらく大きな農家なのですが、いまだにコンタクトは取ったことはありません。なにせ、現在のご当主の住所も名前もわからないものですから。
手掛かりをつかむべく、ある旅行の途中に雨中で墓地を探したことがあるものの、各集落の墓地には見つけることができなかったこともありました。
そんなことを弟子屈へ向かう道中の鶴居を走行中にふと思い出しました。
いったい、千葉家のお墓はどこにあるんだろう?
そんなことを考えていたらば、鶴居の市街地にお寺の看板が見えました。
・・・!?
帰りに時間があったら寄ってみるかな・・・。
そして、きのう綴ったようなことを経て、釧路への帰路。
子どもたちが学校から帰ってくる14時半までには家に居なくてはならないのですが、鶴居に入ったのが13時半。
行ける!ワンチャン行くぜ!と、看板のとおりにお寺を探して走るも迷子になりました。さすがの方向音痴で意気消沈しかけます。
やっとのことでお寺に潜入し、墓地を見渡すと、・・・!?
いちばん近くに千葉家の墓石が2基!
家紋はどちらも同じ。
1000年以上もの間、九戸神社の神職として仕えている九戸村千葉家と同じ「八曜に月」紋です。
そして、墓碑を確認すると、ついに!
幡太郎さん、初めまして。こちらにいらっしゃいましたか・・・(*^-^*)
幡太郎さんは、昭和28(1953)年に満57歳で亡くなっておりました。
また、同い年の奥さんは、その前年に亡くなっています。
鶴居村史を読むと、村の畜産に関して多大な貢献をしていた幡太郎さん。
けっこうお若くして亡くなられたのですね・・・。
これで、はっきりと鶴居村に千葉家が根付いているということがわかりました!
この日のもう一つの大きな収穫でした。
それにしてもデザインが秀逸な、美しい家紋だなぁ。
・・・ん?
改めて、かつて九戸の千葉家より頂いた資料を見てみます。
月の上部がくっついているなぁ。
こんなのもあるけど・・・、考え過ぎかな・・・?
なお、この資料をいただいたのはもう10年以上も前ですが、そのときに本家の方から、岩太郎の祖父・千葉専蔵(1819~82)が、父・千葉義全(千葉家八代目。1787~1874)と、義全の長男である兄の千葉文寮(九代目。1808~58)より分家した際の文書を、新たに打ち込んだものをいただけました。
専蔵は「隠居家」を名乗り、本家の隣に暮らしていたそうですが、最近になって無人となり、現在は子孫の方によって碑が建てられています。
こちらの家紋は、鶴居の千葉家と同じですね。ここから分家したので当然なのかな。
令和最初の秋の最後の夏休み
枯れ葉舞い散る10月30日の水曜日、今年最後の夏休み。
妻は仕事、子どもたちも小学校。
さぁ久しぶりのひとりっきりのお休みだ!何をしようかな~と考えまして、いろいろ考えを巡らせたわけです。
なにせ、ひとりのお休みなんぞ何年ぶりだろうか・・・というプライスレスなシチュエーション。
ただし、子どもたちが帰ってくる14時半くらいには家に居なくてはならない、という条件つきですが。
あんなことやこんなこと、いや、ゴニョゴニョとかムニャムニャとかも・・・
さまざまな葛藤の結果、ひいばあちゃん・菊地カツ(1895~1996)の屈斜路にある実家を訪ねてみよう!という健全なイベントに決定しました。
そう決めたのが月曜日。さっそく実家を守ってくれている屈斜路の藤田さんに電話だ!
私「もしもし!藤田さんのお宅ですか?」
藤田さんのおばちゃん「誰だい~?」
私「菊地幸松の孫なんですが!」
藤田さんのおばちゃん「ごめんね~、耳遠くて聞こえないから切るわ~」がちゃん。つー、つー。
おぉ・・・!電話の意味ないじゃん!
あるいは詐欺電話と思われたかなぁ・・・?
この藤田家ですが、ひいばあちゃんの父・藤田松吉(1853~1937)が福島県東白川郡棚倉町下山本から入植したのがルーツ。
松吉じいさんの長男・松四郎(1900~84)さんのさらに長男(私のじいちゃんのイトコ)が継いでおりましたが、イトコさんが亡くなった現在は、奥様が家を守っておられます。
なんとも電話が用をなさないことから、仕方がないので大叔父に頼ります。
弟子屈の大叔父に電話をすると、「俺がいっしょに行ってやる!」ということで、大叔父と共に屈斜路に行くことになりました。
当日は9時半に大叔父の家に行くという約束で釧路を8時10分頃に出発。
道中の鶴居村では、観光名所の鶴見台に集まる丹頂鶴が名物なのですが、居ないな~、まだ時期じゃないのかな~?
そしたら、少し離れたたぶん掘り終わったジャガイモの畑にタンチョウが百羽くらいぎゅうぎゅう詰めになっており、SNS映えどころの騒ぎではありません。
何をついばんでたんだろう?時間あったら写真撮りたかった~(*´Д`)
約束の時間よりちょっと前に大叔父の家に到着すると、大叔父は家の前で待っていました。
なんと、病院(すぐ近く)以外で外出するのは1年ぶりくらいだそうで。
すっかり足腰が弱くなり、家の中では車椅子を使っている94歳。元気ではあるものの、最近はすっかり気弱になってしまっています。
大叔父も藤田家に電話をかけてくれたようですが、私と全く同じように切られてしまったようです。もうほんとに電話の役目を果たせていないですな。
道中いろいろと大叔父の話を聞きながら、約20分離れた屈斜路に向かいます。
その話の中で、ひいじいちゃん・菊地幸太郎(1893~1936)が弟子屈村の村会議員を務めていたということを初めて知りました。
確かにあとで確認すると、遺影のスーツには議員バッジが付いています。言われないとわかりませんでしたけど。
(※のちに昭和24年の弟子屈町史を確認しましたが、弟子屈村議員には名前無し・・・!?村会議員ではなく、農業委員会とかなのかしら・・・?)
そして、幸太郎の長男である私のじいちゃん・菊地幸松(1916~1970)。
尾札部尋常小学校には高等科がなかったため、卒業後は札友内高等小学校に通っていたらしいのですが、大叔父の記憶だとじいちゃんが14歳の高等小学2年(今の中学2年生)のころ、父・幸太郎に「菊地家の全てを放棄する!」と宣言したらしいのです。
もちろん幸太郎は激怒したらしいのですが、その話の途中で幸松は家を飛び出し、当時開通したばかりの鉄道「美留和駅(昭和5年開業)」から、写真を学ぶために東京小石川へ。
大叔父は当時、小石川の兄・幸松から雑誌「少年倶楽部」が届いて喜んだということを覚えているとのこと。
じいちゃんが中2の年は昭和5(1930)年くらい。美留和駅が開業したのも同じ年。そこまでは合致するのですが、小石川に写真学校があった形跡が見つけられないので、ちょっと疑念はあるわけですが・・・。
頭がすんごく良く、釧路で行われた北海タイムス(現在の北海道新聞)の陸上競技大会でメダルを何個も取っていたというじいちゃん。
何がそうさせたのかはわかりませんが、ド田舎で農家をするのが嫌だったんでしょうかね・・・。
いつのまにやら藤田家につくと、おばちゃんが無事にご在宅。
この家には、松吉じいちゃんの写真があると大叔父に聞いていたので、絶対いつかは来ないと!思っていたのです。
実際に耳の遠かったおばちゃんの案内で仏間に行くと、ありました。松吉じいさんの写真が!
大叔父曰く、ハゲで立派な髭を蓄えている、とても優しいじいさんだったと。
私の見たことがある祖先の写真の中では、最も昔に生まれた人物になります。嘉永6(1853)年生まれですので、実に166年前の生まれ。
その隣には、19歳下の妻・カメ(1872~1942)の写真。
大叔父が「おっかないばあちゃんだった」と言っていたのですが、確かに写真も険しい表情で写っております(;'∀')
無事にひいひいじいちゃん、ひいひいばあちゃんの写真をデジタルで取っておくことができました。安堵です。
いろいろと藤田家のお話を伺いましたが、おばちゃんにとって義父にあたる、松吉の長男・松四郎さんは福島時代のことについてはほとんど話さなかったそうで、まったく何もご存じないようでした。
ただし、ひとつ判明したのが家紋。
屈斜路にある藤田家のお墓には、「丸に左三階松」紋が刻まれています。
しかし、松吉じいさんの写真を改めてみてみると、着ている羽織には「丸に下り藤」紋が縫われております!
おそらく白河に居た頃は下り藤だったのでしょう。白河市東千田集落の墓地には、下り藤の藤田家のものが多くありましたし。
北海道に来てからの松紋は松吉じいさんの名前から来てたりするのかも?
ひとまずは、北海道に来てから紋を変え、宗派も真言宗から浄土真宗に変えたということがはっきりしました。
また、カメばあちゃんの羽織には「丸に蔦」紋が。
おととし白河市東蕪内集落の墓地に行ったとき、カメばあちゃんの実家(こちらも藤田家)の紋を確認したらば「丸に梅鉢」だったのですが・・・、女紋とか・・・?
これについては謎が増えましたね。ただ借りた羽織だったり、顔だけ挿げ替えて体の部分は別人の写真だったりするかもしれませんけど。
おばちゃんに「またお邪魔するかもしれないからよろしくね~」と藤田家をあとにし、すぐ近くの屈斜路墓地へ行ってみます。
大叔父は車からは降りられませんでしたが、「ずいぶん久しぶりだ~。こんな秋が深い時分に来るのは初めてかもな」と感慨深げ。
近くで巨大なエゾシカが山境の柵をぶち破ろうと果敢に体当たりしまくっていたのが気になりましたが。
お墓参りをし終わると、ポツリと「これが最後かな」と大叔父がポツリと呟くもんですから、「いやいやとりあえず100歳は目指そうよ!」とか言ってみたりしました。
大叔父との別れ際に幸太郎の写真をやると言われ、「いやいや、大事なもんだべさ!」と言い返すと、「家にあったって捨てるだけだもんさ」と言い返されました。大叔父はホントに何でも燃やしてしまうので、燃やされる前に保護しておくことにします。
最後にちょっと弟子屈町の図書館に寄り、弟子屈村の村会議員の名簿や、大正2年に屈斜路に入植した人たちの名簿とかがありませんか?と尋ねたところ、残念ながら図書館には該当資料は有りませんでした。
司書さんが、「何かヒントでも見つかったらお知らせしますね~」と、ありがたいことをおっしゃらってくださったので、連絡先を伝えて帰ってきました。
図書館では収穫が一つありました。
弟子屈の商工会について書かれた本を読んでいると、「昭和21年~31年菊地写真館」、「昭和35~45年菊地写真館」との記述が!
この本の出版は昭和53年。既にじいちゃんは昭和45年に亡くなり、写真館も潰れていたために写真館の写真は載ってませんでしたが。
戦後に弟子屈の町で写真館を開いたじいちゃんは、借金の保証人になり、清里町や常呂町などに夜逃げしたと聞いていました。
この記述で、昭和31~35年の間がそのダークな時期だと知ることができたのです。
令和最初の夏休み最後の日は、こうして終了し、子どもたちが帰ってくる前に家に戻ったのでした。
それにしてもたった半日でしたが、とても充実した濃厚な時間でした。
次、こんな時間が与えられたら何をしようかな~?
なお、この日に私の通勤快速マッスィーンであるマツダ・ラピュタSターボ(平成16年式、スズキKeiワークスのマツダ版)を車検に入庫してきました。
昨年から2速や3速でアクセルをベタ踏みすると3000回転くらいのところからガクンガクンと息つく症状が出ていたのですが、どうやらメカさんによると強いブースト圧がかかるとウエストゲートがうまく開閉しないので、治すためにはタービンまるまる交換しなくてはならないようで・・・(/・ω・)/
車検自体はブレーキキャリパーの交換やらラジエターキャップの交換やらで10万弱くらいなのですが、タービンの交換となるとプラス10万コース!
・・・ターボは生きているので、しばらくは(もしくは廃車まで)ベタ踏み禁止で乗ることを余儀なくされました(ノД`)・゜・。