妻の祖母の実家・柿崎家の年表
前々回に綴った柿崎家。年表に起こしてみまして、せっかくなので載っけてみます。
赤字が本家・柿崎五三郎家、黒字が祖母の実家・権兵衛家、青字が権兵衛が養子として迎えた五三郎の長男・朝次郎家の事柄となっています。
和暦 | 西暦 | 出来事 |
慶長5 | 1600 | 越後国柏崎の武将・柿崎景作、慶長出羽合戦において上杉景勝軍より出陣し、戦死。遺児となった兄弟のうち、弟が山形県最上郡南山村塩集落に落ち延び、塩柿崎家の祖となる(諸説のうちのひとつ) |
文政9 | 1826 | 1月11日、南山村・(便宜上初代)柿崎五三郎の長男・五三郎誕生 |
弘化3 | 1846 | 8月23日、初代五三郎の三男(後の権兵衛)誕生 |
不詳 | 五三郎が南山村・三原太兵エの次女・ウノと婚姻 | |
嘉永元 | 1848 | 9月9日、五三郎(22)とウノ(18)の長女・ハツ誕生 |
安政2 | 1855 | 12月13日、五三郎(29)とウノの長男・朝次郎誕生 |
不詳 | ハツが南山村・柿崎兵三郎の次男・栄助を婿養子に迎える | |
慶応元 | 1865 | 5月20日、栄助(24)とハツ(16)の長男・浅吉が誕生 |
不詳 | 五三郎の三男が南山92・柿崎権兵エの養子となり、権兵衛を襲名。同村・柿崎兵三郎の二女・マサと婚姻 | |
慶應2 | 1866 | 8月26日、権兵衛(20)とマサ(18)の長女・ケサ誕生 |
明治2 | 1869 | 2月12日、権兵衛(22)とマサ(20)の二女・キン誕生 |
明治5 | 1872 | 3月21日、権兵衛(25)とマサ(23)の三女・サク誕生 |
明治7 | 1874 | 10月22日、権兵衛(28)とマサ(26)の四女・フテ誕生 |
明治11 | 1878 | 9月9日、権兵衛(32)とマサ(30)の長男・運次郎誕生 |
明治14 | 1881 | 12月5日、権兵衛(35)とマサ(33)の五女・ヤス誕生 |
明治15 | 1882 | 権兵衛(36)が長女・ケサ(16)の婿養子として、兄・五三郎(56)の長男・朝次郎(26)を迎える |
9月6日、朝次郎(26)とケサ(16)の長男・兵蔵誕生 | ||
明治16 | 1883 | 6月1日、浅吉(18)が南山村士族・秋江傳の三女・テツ(15)と婚姻 |
11月5日、権兵衛(37)とマサ(35)の次男・円蔵誕生 | ||
明治17 | 1884 | 4月22日、浅吉(18)とテツ(16)の長男・金次郎誕生 |
明治18 | 1885 | 1月30日、朝次郎(28)とケサ(18)の長女・サノ誕生 |
明治20 | 1887 | 11月24日、朝次郎(31)とケサ(21)の次男・円治誕生 |
明治21 | 1888 | 8月24日、権兵衛(42)とマサ(40)の六女・トミヨ誕生 |
明治24 | 1891 | 4月20日、権兵衛(45)、幅92番地の宅地127坪を、柿崎弥左衛門へ売り渡す |
明治25 | 1892 | 7月3日、権兵衛(46)とマサ(44)の七女・トメノ誕生 |
明治26 | 1893 | 4月11日、サク(21)が南山・早坂熊蔵と婚姻 |
4月15日、円蔵(9)が夭折 | ||
明治27 | 1893 | 1月21日、朝次郎(37)とケサ(26)の三男・金蔵誕生 |
明治30 | 1897 | 5月12日、朝次郎(41)とケサ(30)の四男・庄吉誕生 |
12月31日、フテ(23)が冨田・佐藤長吉と婚姻 | ||
明治31 | 1898 | 3月24日、権兵衛(50)が南山92から89へ転籍 |
明治32 | 1899 | 1月5日、朝次郎(43)とケサ(32)の二女・トモヱ誕生 |
明治34 | 1901 | 2月4日、朝次郎(45)とケサ(34)の五男・林蔵誕生 |
明治35 | 1902 | 1月20日、運次郎(23)が木遠田・森栄助の三女・タケノ(18)と婚姻 |
1月20日、サノ(16)が南山62-5・柿崎三蔵と婚姻 | ||
3月12日、運次郎(23)とタケノ(18)の長男・作次郎誕生 | ||
明治36 | 1903 | 4月7日、トモヱ(4)が夭折 |
5月24日、朝次郎(47)とケサ(36)の六男・運藏誕生 | ||
7月1日、ヤス(21)が南山・柿崎運作と婚姻 | ||
明治37 | 1904 | 11月20日、運次郎(26)とタケノ(21)の長女・サクヱ誕生 |
明治38 | 1905 | 11月6日、朝次郎(52)とケサ(41)の七男・仁吉誕生 |
明治39 | 1906 | 11月10日、運次郎(28)とタケノ(23)の二女・クニヱ誕生 |
不詳 | 金次郎と清水・國分金五郎の三女・ヨシヱが婚姻 | |
明治41 | 1908 | 10月16日、朝次郎(52)一家が南山409へ分家 |
明治42 | 1909 | 4月5日、運次郎(30)とタケノ(25)の三女・サダエ誕生 |
明治43 | 1910 | 11月11日、浅吉(45)が逝去、金次郎(26)が家督相続 |
明治44 | 1911 | 3月12日、運次郎(32)とタケノ(27)の四女・キクエ誕生 |
7月6日、五三郎(85)が逝去 | ||
大正2 | 1913 | 11月11日、トメノ(21)が南山・柿崎與作と婚姻 |
大正3 | 1914 | 9月11日、運次郎(36)とタケノ(31)の五女・ヒテノ誕生 |
大正4 | 1915 | 8月2日、大蔵村役場が全焼。戸籍再製の際、姓が柿崎→柿﨑へと変化する |
大正6 | 1917 | 3月24日、権兵衛(70)が隠居 |
10月22日、運次郎(39)とタケノ(34)の次男・作治誕生 | ||
大正8 | 1919 | 1月29日、南山89番地にて作次郎(16)と南山・中島元治の長女・モトエとの間にウメ誕生も、モトエは逝去 |
2月2日、ウメ(0)が夭折 | ||
大正9 | 1920 | 7月24日、作次郎(18)が平林・髙山市助の三女・サクヱ(18)と婚姻 |
大正10 | 1921 | 1月4日、権兵衛(74)、幅89番地の畑を運次郎(42)へ譲渡 |
3月16日、作次郎(19)とサクヱ(19)の長女・チヨ誕生 | ||
大正14 | 1925 | 1月6日、サクヱ(20)が現:新庄市松本の大場源米と婚姻 |
8月27日、作次郎(23)とサクヱ(23)の長男・了一誕生 | ||
大正15 | 1926 | 3月27日、クニヱ(19)が合海・小関一雄と婚姻 |
昭和2 | 1927 | 3月29日、作次郎(24)とサクヱ(24)の次男・惣太郎誕生 |
昭和4 | 1929 | 9月21日、権兵衛(83)が逝去 |
11月3日、作次郎(27)とサクヱ(27)の二女・ツエ子誕生 | ||
昭和5 | 1930 | 9月1日、サダエ(21)が東京深川・荒井藤松と婚姻 |
昭和6 | 1931 | 12月17日、運次郎(53)、幅89番地を仙台市の伊澤氏に売却 |
11月10日、釧路市にて作次郎(31)とサクヱ(31)の三男・榮誕生 | ||
昭和8 | 1933 | 2月10日、釧路市にて、ツエ子(3)夭折 |
昭和9 | 1934 | 1月16日、マサ(85)が逝去 |
昭和11 | 1936 | 9月25日、キクエ(25)が赤松・八鍬新吉と婚姻 |
昭和14 | 1939 | 6月28日、ヒテノ(24)が南山・門脇定治と婚姻 |
8月15日、チヨ(18)が釧路市にて森井勝雄(26)と婚姻 | ||
昭和15 | 1940 | 9月10日、運次郎(62)一家が北海道釧路市へ転籍 |
昭和16 | 1941 | 5月5日、タケノ(57)が釧路市にて逝去 |
昭和18 | 1943 | 7月24日、運次郎(64)が釧路市にて逝去 |
昭和19 | 1944 | 11月10日、キン(75)が南山・早坂家にて逝去 |
これによると、昭和4(1929)年に権兵衛が亡くなり、その同年にツエ子さんが生まれた際はまだ南山に居たようですが、昭和6(1931)年に南山の土地を売却。昭和8(1933)年にツエ子さんが釧路市において夭折しています。
すると運次郎が釧路市に移住した時期は、権兵衛が亡くなって2年ほど経ち、昭和6年に土地を手放したあたりかしら・・・?
この時点で権兵衛家は、南山から消滅したということに。
それから90年近く経っているわけですから、権兵衛家のことを知る方がいらっしゃらないのもうなずけますね。
運次郎の子どもたちは大蔵村に残ったり、釧路に来たりとバラバラのようです。
転籍はやはり遅くなる傾向にあるようですね。
権兵衛さんのお墓はいったいどこに・・・?
森の家紋はやっぱり鶴の丸!
10月12日、台風19号が南海に及び、小雨がそぼ降る山形・大蔵村。
「日本で最も美しい村連合」に加盟している村といえども、こんなに暗雲がたれこめている雰囲気では、残念ながら美しさを堪能することができませんね。
前日につたや肘折ホテルさんで、郷土料理の芋煮や米沢牛を堪能させていただいた菊地家一行。
「金兵衛」を屋号とするホテルの若旦那・柿﨑雄一氏の思し召しにより、義母の母の父の母・柿﨑タケノ(1883~1941)の実家である、南山字木遠田の森家へ伺うことが叶いました。
この森家。10年以上前にお便りをさせていただき、奥様よりご返事をいただいたお宅です。
そのご返事には、
・ご当主が若くして亡くなり、奥様と息子さん夫婦+お孫さんで暮らされていること
・住居はタケノの父・森栄助(1853~1928)本人が建てたらしく、大工に弟子入りして一人前になってからの最初で最後の仕事(!)
・家紋は鶴の丸、宗派は曹洞宗
・亡くなった当主は、祖先の名であり、屋号でもある「長右衛門」という名
・それ以上詳しいことはわからない
・・・と、このようなことまではご教示いただいておりました。
今回、その奥様と10年越しの初対面と相成ったわけです!しかも朝の8時半というこっぱやい時間でお会いいただけるということで、キツキツスケジューラーにとっては非常にありがたいことです。
まずお宅に到着して驚いたのが、だだっ広い土間。
北海道では土間というのは一般的じゃないですから、子どもたちも「なんじゃあこりゃあ!」と、ジーパン刑事的なリアクションですよ。
そして150年の歴史を感じる風合いの広い居間、仏間!
ついに妻のひいひいひいじいちゃんが建てた家を拝むことができました!
大蔵村といえば本州屈指の豪雪地帯。
その雪に150年も耐えてきたなんて、なんて頑丈に造られているのでしょう。
栄助さん、この一軒だけで大工を辞めてしまったなんてもったいない!
なお、森さんは薪ストーブをもう焚いてらっしゃいました。ちなみに私は半袖Tシャツです。
いろいろとお話を聞いていくうえで、大きな情報を得ることはできませんでしたが、備忘録的に箇条書きをしてみます。
・森家は(お寺の)過去帳を紐解くと、300年以上前から木遠田に住んでいたようだ
・森という家は南山にもう一軒あるが、どうやら親戚ではないらしい(村内の5%以上が柿崎姓なのと対照的に、村には森姓は4~5軒しかない)
・息子さんはもがみ農協、一番下のお孫さんは村役場に勤めている
・栄助の妻・マツ(1854~1925)は南山の小関家から嫁いできたが、この小関家についてはどこだかわからない。ただ、近くに小関九郎右衛門を祖とする小関という家がある
・カメムシが大量発生し、家の中も外もカメムシだらけ。この地方では「ヘクサンボ」というらしい。捕まえてストーブにくべていた
・・・といったところでしょうか。最後のは私的に衝撃を受けた事柄ですが。
森という姓は大蔵村が属していた新庄藩の資料にも散見されまして、山形県内では最上地方に多くみられる姓のようです。
電話帳サイトで2007年の森家分布を数えてみたらば、635軒中407軒と、約6割強が最上地方に集中しています。
大蔵村からすぐ北の新庄市に最も多い107軒、隣の舟形町にも39軒が密集していますが、大蔵村にはたった4軒・・・
果たしてこれが何を意味しているのか!!?はたまたたまたまなのか!?どうなんでしょうね~(;'∀')
森家は前述しましたが、屋号は長右衛門。
大蔵村史によると、明治9(1876)年の時点で木遠田の土地を所有していたのは、
・森長右衛門
・小関九郎右衛門
・柿崎権兵衛
この3名であったようです。柿崎権兵衛についてはきのうのブログに綴りましたが、タケノの義父(夫・運次郎の父)にあたりますし、小関九郎右衛門という名を発見して、これが栄助の妻・マツの実家じゃないかしら!?近いところに住んでるし!と疑ったりしていたのですが、森さんの奥様はご存じではないようでした。
いろいろと興味深いお話をさせていただき、大蔵村名産のトマトやドーナッツなどでおもてなしを受けたりと、非常に密度の濃いわずか約50分の滞在。
もっともっとお話を伺いたかったのですが、私がギッチギチのスケジュールを立てた張本人なので、仕方なく後ろ髪を引っ張られながらも次のスケジュールへと転換しなくてはなりませぬ。
またぜひともお目にかかりたい、暖かいご家庭でございました。
その後、雨が本降りとなった塩集落の墓地にて、森家のお墓と対面が叶ったのです。
10年前に教わった家紋、鶴の丸。
ひとくちに言っても、家紋にはいろいろなバリエーションがありますから、いったいどんな鶴の丸かと思って10年来過ごしてきました。
そしたらば、なかなかに朽ちていますが、これはまごうことなきオーソドックスな鶴の丸。
可成の一族は、源義家の7男・義隆が森姓を名乗って以来の流れにあります。たぶん。
この森氏は美濃に始まり、播磨や備中のあたりに所領があったようなのですが、山形方面どころか東北の地名はさっぱり出てきません。
いったい、この森家はどのようないきさつでここ南山に土着したのか。
まずは新庄藩の資料を漁ってみるところからはじめようかしら・・・。
やっぱりそう簡単には歩をすすめることができないものです。
そう思っていても、釧路にいたんじゃあなかなかそんな資料にお目にかかることなんぞ叶いませんぜ!
せいぜい国会図書館のデジタルライブラリーが精いっぱいですが、あんまり新庄藩でヒットしない・・・(*´з`)
いや!少しでも望みがあるのであれば・・・ぼちぼちがんばろう。
柿崎家の系図を改めてみる
明治22(1889)年に清水町村、合海村、赤松村、南山村という4つの自然村が合併して現行の行政村となり、そのまま今に至るまで130年の間、まったく村域は変わっていません。
中心部は、かつて清水城があり、最上川流域の中心都市でもあった清水。
村名は、かつて清水を治めていた清水義親の役職「大蔵大輔(おおくらたいふ)」から取り、「大蔵村」となったそうです。
そんな大蔵村中心部より南部にある集落・塩。
住宅が密集していた塩は、かつての南山村において中心部落でした。
塩というのは地名ではなく、集落・地区名なのですが、「かぶれ」や「あせも」によく効くとされた塩湯が自噴していたことが由来のようです。
代々南山村庄屋を務めていた塩の柿崎弥左衛門家に伝わる古文書には「塩中沢村」とも記載があり、あるいはこれが旧名だったのかもしれません。
南山村はこの塩地区と、西にある沼の台地区、そして肘折温泉を擁する南部の肘折地区の三つの地区で形成されていたようです。
伝承によると、前述の柿崎家。
最上地方に来る以前は、越後の柏崎に住んでいたと伝わっているようです。
この近辺は上杉謙信が領していた地域。柿﨑景家という武将もおりますし、近くの上越市には柿崎という地名も残っています。
大蔵村史を紐解くと、かつて柿崎景作という武将がいて、1600年に起こった慶長出羽合戦(北の関ヶ原といわれているらしい)で、敗北した上杉側についていた景作は討ち死に。遺された二人の男子のうち、兄は平鹿(現在の秋田県横手市平鹿)に、弟は塩集落に落ち延びたとのことで、その弟の末裔が塩の柿崎一族だということですが、もちろん諸説ありだそうで。
最上氏に仕えた柿崎景一が、軍功があり、最上義昭から「義」の字をもらって柿崎義一としたのが祖という説も。
そこらへんについてははっきりわかりませんでしたので、おいおい調べていくこととします。
話は戻りまして、その塩集落で庄屋を勤めていた柿崎家と同じ姓である家に産まれたのが、妻の祖母である旧姓・柿﨑チヨ(1921~81)。
その父・柿﨑作次郎(1902~66)、さらに父・柿﨑運次郎(1878~1966)とともに、昭和10年代に釧路市へ移住しています。
そして運次郎の父は柿﨑権兵衛(1846~1929)。
権兵衛(以下、権兵衛②)は柿崎五三郎(以下、五三郎①)の三男として生まれ、柿﨑権兵エ(以下、権兵エ①)の養子となっています。
権兵エ①家には養子に迎えた権兵衛②の他には戸籍上では誰も確認できませんでしたので、五三郎①家から養子をとったのは、家の存続のためだったのでしょう。
そしておそらくは養子に入ってから権兵衛②を襲名したと思われます。
権兵衛②は、おそらくは同じ集落の柿﨑兵三郎の二女・マサと結婚。
慶応2(1867)年に長子となるケサを授かって以来、4人続けて女子が生まれ、元気に成人。
そしてついに5人目の子どもとして、明治11(1877)年に長男・運次郎を授かります。
時に権兵衛②32歳。さぞやドンチャンお祭り騒ぎとなったでしょう。
その5年後にも円蔵という男子を授かりましたが、夭折。
最終的に1男7女となった権兵衛②家。実質、運次郎しか跡取りがおりませんでした。
当時、運次郎がどういうつもりでいたかはわかりませんが、権兵衛②は運次郎の11歳上の姉・ケサに婿養子を取ります。
柿崎朝次郎。柿崎五三郎の長男でした。
この朝次郎の父である五三郎は、おそらくは五三郎①の三男である権兵衛②の兄貴と思われますので、以下五三郎②とします。
五三郎①~生年不明
五三郎①の長男・五三郎②~文政9(1826)年生まれ、三男・権兵衛②~弘化3(1846)年生まれの20歳違い。
五三郎②と権兵衛②の年齢差を考えると、あるいは権兵衛②は五三郎②の子ども・・・?
という考えもよぎりますが、権兵衛②は「五三郎の三男」と記されている以上、たとえば五三郎②が20歳の時点で三男が生まれるのは考えにくいということで、20歳違いの兄弟の線で考えます。
・・・ということで、権兵衛②は、長女・ケサに甥っ子、しかも本家の長男の長男を婿養子に迎えたということになります。
そう考えると、この権兵衛家はかなりのポテンシャルを秘めていた家なのかもしれませんね。
なお、朝次郎は安政2(1855)年の生まれということで、義父となった権兵衛②とはわずか9歳しか違いませんでした。
朝次郎とケサは、夭折した一人の女児を除いて、7男1女をもうけます。奇しくも義父・権兵衛とは真逆の男女構成。
男児に多く恵まれた朝次郎夫妻でしたが、なぜか明治41(1908)年に南山409番地へ分家してしまいます。時に朝次郎53歳。義父の権兵衛②は62歳のときでした。
Googleマップなどでは確認できないのですが、409番地は肘折地区かも。
なぜ分家してしまったかは推し量れませんが、おそらく本来の嗣子である運次郎が明治35(1902)年に結婚し、同年に作次郎が生まれたのが無関係ではないのかもしれません。
その後、昭和4(1929)年に権兵衛②が逝去。
今回お世話になった柿崎さんは、五三郎②が長女・ハツ(1848~1916)に婿養子として柿崎兵三郎の次男・柿崎榮助(権兵衛②の妻・マサの兄)を迎えて存続した家。まさに本家です。
坂の上付近にお宅がある柿崎さんによると、かつて坂の麓あたりに権兵衛家があったらしいのですが、権兵衛の逝去後に運次郎以下が釧路へ渡ってしまったために、今は何もなくなっているようです。
女性たちはおのおの結婚して血脈は保たれているものの、権兵衛の家は絶え、朝次郎の家も不明ということでした。
とにかく柿崎さんだらけのこの塩集落。小字でいうと「幅」という地になりますが、今回お世話になった柿崎さんのおばあちゃんも幅の柿崎丑蔵さんの娘さんだそうです。
これで少なくとも五三郎家、権兵衛家、兵三郎家、丑蔵家、そして庄屋の弥左衛門家、その本家の弥兵衛家。まだ私が知らない柿崎さんもありそうですので、まさに柿崎地獄。
なお、お墓には墓碑的なものが一切なかったというまさかの展開だったわけですが、家紋はたぶんすべての家で「丸に隅立て四つ目結」だったかと思います。
きっと元は一族であることに、おおよそ間違いはないかと考えられます。
ここまでが今回わかったところ。
そしてもう一つ気になったことがありまして・・・
柿崎のおばあちゃんがお嫁に来た時に預けられたという明治39(1906)年の戸籍謄本。
その9年後の大正4(1915)年に大蔵村役場が火災で焼けて、戸籍を作り直した際に失われた情報が多く記されていました。
きっと復元しきれなかったんでしょうね。
その謄本には「柿㟢」と記されていました。今でいう「柿崎」です。
しかし、大正4年に復旧された謄本には、「柿﨑」と記されています。
いったいどちらが正なのか。
柿崎さんはわからないそうでしたが、これは案外大きなファクターではないかと睨んでいます。
いまは柿﨑として通しているが、本来は柿崎。
ちなみにお墓には「柿崎」と刻まれていました。
やはり「柿崎」の線が濃いのかしら・・・?
肘折温泉のカキザキさんは「柿﨑」らしいので、もしかすると差別化が図られていたりするのかも・・・?
あぁ・・・、スッキリ解決したいと思って現地へ行くのに、かえってモヤモヤが増えてしまう悪循環。
ああしとけばよかったとか、こんなこと聞いておけばよかったとか、そんなことを考えて気を紛らわせている秋の夜長。
今回のことをうけ、以下のようだった系図を、
このように改めました。はたして正解しているのか!?
出たとこ勝負の東北旅行
10月11日の金曜日。
台風19号が迫る中、菊地一家4名は朝7時前に釧路を出発。新千歳空港まで4時間の長い旅路でしたが、そこからはたった1時間のフライトで仙台空港へと降り立ちました。
空港に着くと、私が荷物待ちの間に妻子は超絶ダッシュで目をつけていたずんだシェイクを買いに行き、空港内のデイリーヤマザキで傘を購入。10分ほど離れたタイムズレンタカーさんに、お店へと送っていただきます。
今回の相棒はブルーのカローラフィールダー。ご当地仙台ナンバー。
昨年つくばで借りたフィットだと荷物が積まさらなかったので、今回はエステートボディのクルマにしました。
ここには妻の祖母のそのまた祖母の両親の家である、大久保家と佐野家の墓地があります。
家族4人で急勾配に点在する墓石をひとつひとつ探していき、大久保本家の墓石は見つけることができました。
以前資料をご提供いただいた、宮城の増子さんよりいただいた写真と同じ墓石。妻子にとっては遠い祖先のお墓です。
もう一つの佐野家は、知っている名前である佐野直吉という名が旧すぎて特定できませんでしたが、数軒あった佐野家の墓石を見てみると、ほぼ家紋は三つ巴。
増子さんからいただいた旧土地台帳の情報によると、このお寺の他にも、志賀地内に独立墳があるようだったのですが、今回(に限らないけど)は非常にタイムスケジュールがタイトなのであきらめることとしました。
今にも雨が降り出しそうな雲行きでしたし。
志賀をあとにし、道の駅村田でトイレタイム。
この柴田郡村田町は私の母方高祖母の父が生まれた安田家の地。墓所の存在も明らかなのですが、あまりにも広大なためにここもパスすることにしました。
ここは妻の曾祖父である佐藤今朝二郎が生まれた地。佐藤栄吉の長男である今朝二郎が駆け落ちで釧路に来てしまったことから、次男の系統が跡を継いでいます。
綺麗な金色の稲穂の真ん中にある墓地。広くてなかなか苦労しましたが、無事に佐藤家の墓石を発見してお参りすることができました。
ひいじいちゃんの親不孝を詫び(外様の私が言うのもなんですが)、これからも北海道の子孫たちを見守ってくださいと。
村山市の「道の駅むらやま」でおみやげを買ったりし、初日の宿泊地である最上郡大蔵村へ。
目的地の肘折温泉は、妻の母方祖母が生まれた柿﨑の家がある大字南山に含まれる地。
500年以上の歴史を持っている温泉地です。
そして、以前お便りをさせていただき、南山の柿﨑家のことをいろいろお調べいただいた柿﨑さんが経営されている旅館に宿泊。
銅山川のほとりで、川の流れる音が心を癒してくれます。
温泉は塩分の多く含まれているそうで、さらに茶色が濃く湯船の底が見えないけど、さらさらで体の芯まで温まるお湯でした。
ご飯は山菜やきのこがメインで、名物の芋煮もいただくことができました。あまりに美味しかったので、妻が「家でも作ってみる!」と張り切っています。
2日目、朝5時半から開催されているという朝市に出向いてみました。
地元のおばあちゃんとやりとりをしたり、肘折こけしを買ったりと楽しんだ後は、いよいよ南山の塩集落へ向かいます。
妻の祖母からみると、さらに祖母の実家である森家、そして曾祖父の実家である柿﨑家にお会いできる段取りを、旅館の柿﨑さんがつけてくださったのです。
10年ほど前、大蔵村に関わる十数軒のお宅にお手紙をしたのですが、1軒だけご返信いただけたのが最初にお邪魔する森家のお母さんでした。
その森家、高祖母の父である森栄助(1853~1928)が建てた家。すでに築150年を優に超えているそうです。
森さんのお母さんや、その息子さん夫婦にいろいろお話をうかがい、豪雪地帯である大蔵村でびくともしない栄助さんが建てた家を見せていただき、手作りのおこわやドーナッツなどでおもてなしをいただいてしまいました。
次は柿﨑家。急坂の中腹にあった柿﨑家は、本家ともいえる柿﨑五三郎さんの子孫であり、大正13年生まれで95歳のおばあちゃんとおじいちゃん、そして息子さんにおもてなしを受けました。
どうやらおばあちゃんに話を聞くと、釧路に来た大叔父の1歳上で、一緒に小学校に通った間柄だそう。
祖母の柿﨑家は五三郎の三男が柿﨑権兵衛さんの家に養子として入っていて、権兵衛さんが一番古い名なのですが、昭和4(1929)年に権兵衛さんが亡くなり、その長男である運次郎(1878~1943)や、その長男の作次郎(1902~1966)たち兄弟は釧路に来てしまったため、跡継ぎの居なくなった権兵衛家は文字通り無くなってしまったとのこと。
いろいろなお話を伺っている中で、おばあちゃん(おばあちゃんも同じ集落の柿﨑家出身)がお嫁に来た際に渡されたという戸籍謄本を見せていただきました。
それは、大正4(1915)年に村役場が焼けた際に燃えてしまった謄本の写し。すでに取得して100年以上経過したものでした。
目の前に存在している紙があんまりにも衝撃過ぎて、しばらく呆然と眺めていましたね。
なぜ運次郎が釧路に来てしまったかは結局わからずじまいでしたが、柿﨑のルーツは何も残されてはいないものの、新潟柏崎の柿﨑景家だと伝わっているとのことでした。
その後は雨の中、塩集落をはじめとして清水や合海で祖母に関わる各家の墓所を探したんですが、同じ姓がありすぎるうえ、墓碑的なものが何も刻まれていないので、さっぱり目星すらつけることができませんでした。
とにかく村のお墓のほとんどが、前面に「〇〇家之墓」というのと、家紋と屋号、そして背面に建立した人の名前と建立日しか彫られていないのです。
戒名や俗名の類いは一切なし!
ツルツルあっさりした墓石ばっかりです。
このような事態は初めて。なんだか隠れ里みたいな地域なのかしら?・・・。
それにしても、聞き忘れた柿﨑家の屋号だったんですが、
え!?「ヤマ5」みたいな?アラビア数字とかありなの?
小関家は「三つ・・・?」え?なにこれ?
現在は横手市となった十文字の道の駅で釧路ラーメンに似ている名物、あっさりとした「十文字ラーメン」をすすり、横手市内を散策。
秋田ふるさと村でババヘラアイスのおばちゃんと巡り合うことができ、初めて本物のババヘラアイスを食べました。んもうすんげぇ美味しい!
食べている最中におばちゃんのガラケーが鳴ったので「どうしたんですか?」と聞いたところ、「台風だからそろそろ上がって~」と社長からの連絡だったとのこと。ババヘラアイスにも社長がいるんだ!と、不思議な驚きでした。
ふるさと村では、トリックアートやアスレチックを堪能して子どもたち大はしゃぎでした。思えばこの旅行で子どもたちがいちばんはしゃげたのはここだったかも・・・(;'∀')
晩には横手焼きそばを食べようとしたものの、行こうと思っていたお店が台風で営業しておらず×2・・・
なんとか、食い道楽さんというお店でいただくことができました!安くて美味しい!
ちょっとだけS&Bのホンコンやきそばに味が似てないかしら?(個人の感想です)
そして、ついに台風19号の夜がやってきました。
秋田はたぶんそれほどでもなく、露天風呂で裸体に強風を浴びたりできたのですが・・・
ニュースでは、どんどん深刻さが増していく様子が映し出されています。
関東圏がいちばんひどいと思われていたのが、東北にも大きなダメージ。
まさかあんなに川が氾濫しまくるなんて想像もしていませんでした。
昨年訪れた茨城県大子町も、あんまりにもひどいありさまになってしまいました・・・。
私たちは難を逃れたものの、翌日以降のスケジュールは不透明に。
まずは岩手県の花巻市に向かいます。花巻はわんこそば発祥の地。
宮沢賢治の生家にほど近い、賢治が常連であったという「やぶ屋総本店」でわんこそばに挑む予定。
太平洋沿岸の釜石市が冠水し、ラグビーのカナダ対ナミビア戦が中止になったというニュースが流れていたことから、おそば屋さんが営業するかすらわからないまま不安な気持ちで不自然なほど青空の中を走行します。
しかし花巻はそれなりに内陸で、川の決壊もなかったことから街は無事。わんこそばにも挑むことができました!
11時開店で10時半から並んだらば一等最初でして、11時からわんこそばスタート!
気合を入れてすんごく美味しいおそばを飲み込みまくりますが、朝飯を食べてからそんなに経っていないこともあり、わずか33杯でギブという後悔する結果に。
妻は44杯、小6の長女が17杯。
娘がギブアップしたのちもまだ小2の息子はのそのそと食べ続けていました。どうやら姉に勝ちたい気持ちでいっぱいのようです。
もう完全にやばそうな表情を浮かべながらゆっくりと17杯目を完食し、18杯目がお椀に入りました。
そして、彼は食べ切ったのです。これを執念をいわずに何と言おうか!
すぐさま苦しそうに畳へ突っ伏す息子。こんなお店の中で〇〇ちゃったらたいへん!
しかしながらなんとかいちばん苦しいところを凌いだようで、動き出しました。一安心(*^^*)
思ったより食べられないもんですね。10杯でかけそば1杯分だとおねえさんに教えていただきましたが、もう100杯とか信じられないですよ。
記録だと250杯以上食べた人がいるらしいですが、何回か挑んでコツをつかまないと無理!
その後は妻の念願だった世界遺産平泉へ。
しかし毛越寺の駐車場が営業中止になっている・・・。でもクルマは停まっている?
とりあえず停めて毛越寺に行ってみると、通常通り拝観できるとのことで一安心。
中尊寺も同じで、駐車場代が浮きました。
撮影NGの金色堂を拝んで心に刻むことができましたし、世界遺産平泉を満喫することが叶い、大満足。
中尊寺の参道は角度も距離も半端なかったっす。
夕食は一関で初「かっぱ寿司」へ。「あんまりはま寿司と変わらない」とは娘の評。
そういえば一関で見かけたシルビアですが、平泉ナンバーでもこういうクルマがいるんだ~って感じで、いとをかし。
宿泊は奥州市水沢。ここはエンジェルスの大谷翔平が生まれた地ですが、あまり大谷を感じることもなく過ぎていきました。
翌14日の月曜日。
その日は石巻市の石ノ森萬画館を見学し、女川付近で震災の爪痕を感じ、私の母方ひいばあちゃんの出身地である東松島市矢本で墓所の散策をするつもりでいたのですが、吉田川の氾濫などによりあちらこちらで道路網が寸断されている状況。
無理に石巻方面に行くことは得策ではないと判断し、苦渋の選択でしたが矢本に行くのはあきらめることに。
被害の大きかった大郷町を何とか通り抜け、松島へ。
道中の大郷町では道路は泥だらけや陥没、畑も冠水しており、子どもを含む町民が泥を片付けていました。そんな中を観光で走っているなんて、とてもやりきれない気持ちでいっぱい・・・。
なんとか辿り着いた松島は、日本三景の一つ。
おととし行った京都宮津市の天橋立に続き、これで日本三景を二か所制覇!あとは広島かぁ・・・遠いなぁ。
そして伊達家の菩提寺である瑞巌寺を拝観。これぞ古刹!というド迫力の院内(撮影NG)でした。
さらに松島蒲鉾本舗で笹かまの手焼き体験。うまいこと焦がすのが難しかったですが、自分たちで焼いたものを美味しそうに食べる子どもたちを見ていて、やっと平静な気持ちになってきました。
松島をあとにして仙台へ向かいますが、通行止めだったり行き止まりだったりでナビが頼りにならずにめちゃめちゃタイムロス。
仙台ではまず最初に楽天生命パークへ。その日から今シーズン終戦となった楽天イーグルスが秋季練習をしていたのです。
雨が降り出した中、子どもたちは初めてのプロ野球の球場ではしゃいでいました。ここは外野席が椅子ではなく芝生なんですね。外野席の後ろには観覧車やメリーゴーランドがあって子どもたちが楽しめる工夫がされており、いいなぁこういう球場。日本ハムもこういうのを目指しているんでしょうね。
グラウンドでは各選手がめいめいストレッチやキャッチボールをしていまして、その中でもストッパー松井裕樹のキャッチボールが速いのなんの!ベイスターズファンではあるものの、ただの野球ファンでもあるため、めちゃめちゃ一挙手一投足に感動でした。
いちばん最初にバッティング練習で打席に立ったのが元ベイスターズの藤田一也だったのも嬉しかったですね。
すっかり雨は本降りに。青葉区広瀬通のホテルにチェックインし、少し休んで夕食を食べに行きます。
仙台駅前の「たんや善治郎」。妻の大好物である牛タンを食べに行くのです。
実は私は牛タン苦手。子どもたちは食べたことがないという中で、メニューには牛タンがらみの料理のみ!
しかしここは妻のため!意を決して私は牛タンカレー、子どもたちは牛タンシチュー、妻はスタンダードに定食を頼みました。
そしたら、今更だけど牛タンってガチうまいじゃん!って、そりゃあなりますよね。子どもたちも大絶賛でしたよ。
腹にズシンと来るので、ざんねんなことに子どもたちが残した分まで全部は食べることができませんでしたけど。
なお、息子の帽子がベイスターズからイーグルスへと変わっております。
最後は八木山動物公園へ。
ロバや羊の可愛さにメロメロになり、
レッサーパンダの愛らしさに癒されてきました。
カンガルーはどこの動物園に行ってもぐうたらしてるんですが、そんなもんなんですかね?
そんな4泊5日の旅。石巻や矢本に行けなかったのは痛かったですが、こんな状況ですので仕方ありません。
いろいろお世話になった大蔵村のみなさまに感謝です。
来年は娘が中学生。こういった長い期間の旅行は最後だったかもしれません。
でも楽しい思い出がたくさん作れたので、その思い出を胸にこれから生きていこうと思いました。
カローラフィールダーでの走行距離48837km→49468km=631km
ちょっと行ってくる
少し気持ちにゆとりができてきた秋。
今週の金曜日より、5月から予定していた東北への旅へと赴きます。
毎年一度は、どっかこっかに行っておりますが、ことしは娘が小学6年生。
私や妻の仕事、そして娘の部活の都合もあり、来年以降はこのような旅は非常に困難になると思われるため、んもう今回はガチでガチガチにスケジューリング。
5日間、精いっぱい家族で思い出つくってきます。
そしてもちろん私のことですので、家系に関する調査もぬかりありません!
まず、初日の11日金曜日。新千歳空港まで4時間かけて向かい、そこからわずか1時間(!)で仙台空港へ。
その後はレンタカー(たぶんカローラフィールダー)での移動です。
最初は妻の祖母の父系である宮城県岩沼市志賀の大久保家と佐野家。墓地の探索ですが、予定所要時間は26分。けっこう広大なので、非常にタイトです。
続いて、おとなり蔵王町小村崎の佐藤家のお墓参り。予定所要時間18分。やはり厳しい!
大蔵村は義母の母の実家である柿﨑家があるのですが、旅館の若旦那も柿﨑さん。
大蔵村は人口の5%強が柿﨑さんという、まさに柿﨑パラダイスなのです。
そんな縁もあり、旅館の柿﨑さんに事前にお便りをさせていただいたらば、いろいろ調べて下さり、なんと2軒のお宅にお邪魔させていただけるよう手筈を整えて下さったのです!ありがたや~(*^-^*)
そして、義母の祖父のそのまた祖父の実家・柿﨑五三郎家。
旅行2日目土曜日の午前中、ともに予定所要時間は40分ほどしかとれませんでしたので、如何に効率よくお話を聞けるかがキモになってきます。
柿﨑家でお相手をしていただけるのは、90歳をとうに過ぎたおばあちゃんということで、これは大チャンス!限られた時間でぜひとも深掘りしていきたいところ。
あとは60分ほどで村内三つ四つの墓所をまわり、未だ未知で子孫の方も判らない高山治右エ門、國分七右エ門、小関吉兵エという各ご先祖さまの墓石をぜひとも見つけたい!
そして4日目に飛び、宮城県東松島市矢本の墓所にて、私の母方ひいばあちゃんの系統3家(及川家、石垣家、奥田家)の墓石を探索。予定所要時間40分。
・・・そんなわけで、ひじょ~~~~に乏しい時間で集中的に調査をします。
旅行となるといろいろと詰め込みまくるので、いっつもこんなんなのです。
ちゃんと観光地にも行きますよ!
山形では肘折温泉。
秋田では十文字ラーメン、横手焼きそば、秋田ふるさと村。
岩手では花巻のわんこそば(その日はラグビーワールドカップのカナダvsナミビア戦が釜石であるので、予約が取れなかった・・・)、平泉、大谷翔平の出身地・水沢。
宮城では石ノ森萬画館。そして震災から8年経って、ついに爪痕を感じてみようと思っています。
最後は仙台の牛タンで〆。
悲願だったこの地域への旅行。子どもたちにとってはあんまり楽しくないかもしれませんが、何かを感じてくれると嬉しいですね(ぼんやり)。
なお、
不安は尽きない模様です(ノД`)・゜・。
雨だったら墓石が読み取れないよぅ~
しかもそもそもこの台風激ヤバっぽい!自分の事もさることながら、手負いの千葉南部とかが心配です。できるだけ西に逸れて!!!
ユーキャンの家紋大事典によると
昨年、矢祭町までお墓参りをした際に家紋を見たのですが、なんだか変わった家紋だったため、ネットでも家紋事典でも、見つけることができていませんでした。
▲「隅切角に違い鷹の羽」としていた紋。
そうしたら、先日ゲットしたユーキャンの家紋大事典に手掛かりを見つけたのです。
高澤等先生によると、まずこの枠は「隅切り鉄砲角」なるものだと。
なるほど。鉄砲の銃身がモチーフだったのか。
そして中身は普通の「違い鷹の羽」ではなく、「細違い鷹の羽」だということ。
合わせると、「隅切り鉄砲角に細違い鷹の羽」。長ぇ・・・。
他にもさっぱり謎のままの家紋があったりします。
「丸に結び木瓜」なのかと思っておりますが、あるいは釜敷紋が近いのかもなぁとも考えています。
▲五つ結び釜敷紋
でも探しても探しても「四つ結び釜敷」は見つかりません。
もう一つはよく出てきますがこの紋です。
釧路市の森井家では「丸に五三の桐」を使用しており、その前にいた八雲町の時点か、釧路に来た時点か、どこかで変わってしまったのでしょうね。
これもポピュラーな「五本骨扇」とちょっと違って、骨が四本なので「四本骨扇」なのでしょうか。
家紋についての素晴らしいサイト「家紋World」さまを参照してみます。
「扇は神の依代で、戦場で翻せば身を守り戦いに勝つと信じられた。」
ふむ。かつては戦に挑む家だったのだろうか?
言い伝えでは、菩提村に伝わる道路を造ったとか、土木系の仕事をしていたっぽいのですが、これは江戸時代以降のお話でしょう。
また、「嫡流から遠くなるほど扇の骨の数が少なくなった。」
ともあります。五本骨扇の家から分家したりしたのかもしれません。
それにしてもこの紋もひとつ上の紋も「四」なんです。
なんだか縁起が悪そうなものなので廃れていったのかも・・・とか邪推したり。
最後はこちらです。
文献やネットには「上がり藤に大の字」があるので、これは「丸に上がり藤に大の字」でしょうか。格助詞が多いですよ。
いや~それにしても家紋は奥が深いですね~。美しいですね~。それでは次週をご期待ください。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ~!
戸籍に関してつれづれに
千葉南部などでは台風のせいで大きな被害。
母方平野家のルーツ、仁右衛門島がある鴨川市もたいへんなことに。
昨年ブラックアウトを経験した北海道民とはいえ、それをはるかに上回る過酷な状況に胸が締め付けられる思いです。
なるたけ早く、被災された方々や作業に従じている方々が日常が取り戻せるようにお祈りしております。
そんな折、すっかり秋めいてきた今日この頃。
すでに釧路では落ち葉が舞い散っています。
思うとかれこれ12年にわたり、家系を追い求めていままで120通以上の戸籍・除籍謄本を見てきているわけですが、それらを見ていて気になっていた箇所について記してみたいと思います。
パターン①~転籍前の情報がそのまま記載されている
★北海道★
〇高祖父・平野儀三郎(1866~1939)
<東京府北豊島郡大泉村(現:練馬区。廃棄のため取得できず)→明治34(1901)年転籍:北海道瀬棚郡利別村(現:今金町)→大正5(1916)年転籍:北海道斜里郡斜里村(現:斜里町)>
養父、養母、義弟夫妻が明治28(1895)年に分家しているにも関わらず、その後に転籍した利別村、斜里村の戸籍に記載が残ったままとなっている。その情報が記載されていたおかげでおかげで高祖父の養父母(妻の父母)である平野丑松夫妻やその上の世代の名前がわかり、さらには練馬区から義弟の戸籍(丑松夫妻が記載されていた)を取得することができた。本来であれば記載が無いはずの人物が記載されていたわけで、私にとっては利別村および斜里村戸籍担当のファインプレイでした。
〇妻の高祖父・相木萬九郎(1848~1926)<北海道茅部郡落部村(現:八雲町)→大正7(1918)年転籍:北海道上磯郡茂別村(現:北斗市)>
茂別村での戸籍にも、落部村の戸籍をそのまま転写したとおもわれるような記述が多くみられる(当村高谷萬蔵次男養子縁組・・・との記載だが、この「当村」は落部村)。また、転籍前の明治36(1903)年に亡くなった萬九郎の五男や、明治44(1911)年に養子へ出した次女も記載が残ったまま。
サンプルが少ないので何とも言えませんが、よくわからずに戸籍を書いていたのかもしれない当時の北海道各村の戸籍担当は、記載の必要が無い部分も大量に書く羽目になって、非常に大変な思いをしたのではないでしょうか。
パターン②~明治19年戸籍編製以前の情報が記載されている
〇茅部郡落部村(現:八雲町)
「明治9(1876)年9月5日当道山越郡山越内村 掛川丈八四女 当村加我吉兵エ養ニ入籍 明治17(1884)年10月10日入籍ス」、「慶應元(1865)年12月15日当村 高谷萬藏長男入籍 明治17(1884)年6月20日相続」
※壬申戸籍編成前の慶應元(1865)年に発生した事由の記述あり。
「明治17(1884)年4月7日相続」
「明治9(1876)年4月3日 宮城県桃生郡大曲村 雫石慶治次女入籍」、「明治11(1878)年8月5日 宮城県桃生郡矢本村 及川重左エ門分家」、「明治5(1872)年2月17日宮城県桃生郡川下村 千葉六助次女入籍」
「明治元(1868)年8月13日 宮城県刈田郡小村崎村 亡小林慶治四女入籍ス」
「明治16(1883)年8月10日宮城県柴田郡芦立村 斎藤治右エ門三女入籍」
※小村崎村に壬申戸籍編成前の明治元(1868)年に発生した事由の記述あり。
「明治12(1879)年8月19日相続」、「明治14(1881)年8月10日同県中蒲原郡戸石新田ノ内田尾 安沢乙松長女後妻ニ入籍」、「安政4(1857)年2月14日相続」、「安政4(1857)年12月20日同県同郡河間村亡如澤兵右エ門長女入籍」
「明治9(1876)年10月20日相続」
※吉江村に壬申戸籍編成前の安政4(1857)年に発生した事由の記述あり。
「明治7(1874)年3月5日同県同郡同村 福田三之亟孫長女入籍ス」、「明治14(1881)年2月26日相続ス」
「明治13(1880)年12月15日相続ス」
〇東白川郡関岡村(現:矢祭町)
「明治14(1881)年11月5日当県西白河郡大和田村 鈴木慶之亟甥入籍ス」
「明治10(1877)年10月31日茨城県久慈郡町田村 海野辰之助附籍 亡松本辰三二女入籍ス」
「明治7(1874)年12月10日茨城県筑波郡西高野村 冨田惣平長男養子ニ入籍ス」、「嘉永4(1851)年7月10日相続」、「天保4(1833)年12月21日茨城県筑波郡牛縊村 岡田与左エ門二女入籍」、「嘉永2(1849)年2月28日茨城県筑波郡牛縊村 砂山軍造二男養子ニ入籍 嘉永2年3月21日相続」、「嘉永3(1850)年正月3日相続」、「嘉永4(1851)年4月15日茨城県筑波郡上河原崎村 斉藤伊平亡二女入籍ス」
「嘉永6(1853)年10月20日相続」、「安政4(1857)年4月6日茨城県久慈郡外大野村 齊藤善治エ門長女入籍」、「明治11(1878)年2月23日福島県東白川郡真名畑村 金沢勇吉二女入籍」
「嘉永4(1851)年3月15日同県同郡上郷村 村上吉三郎二女入籍」
※全村に、壬申戸籍編成前に発生した事由の記述あり。
北海道、宮城、茨城、新潟に、壬申戸籍以前、おそらくは宗門人別帳?からの記録が転記されているのが確認されます。
青森、岩手、福島には壬申戸籍以降の日付しか見当たりません。
これは県単位でお達し、もしくは認識が異なっていたことになるのでしょうか?
もちろんサンプルが少ないため、推測です。
パターン③~天災
山形県の大蔵村役場は大正4(1915)年8月2日に火災が発生し、戸籍が焼失してしまっています。
副本や届出によってある程度は復旧したようですが、もちろん失われた記録も多かったはずです。
関東大震災や戦災によって戸籍が失われた自治体には縁がなかったため、難を逃れた感があります。
かつての同僚の家は、昭和初期に釧路市に来る以前は東京の旧日本橋区に本籍がありましたが、戦災で焼失してしまっていたようでした。
パターン④~80年廃棄
かつて除籍の保存年限は80年でした。除籍から80年が経過した謄本は公文書としての役目を終え、各自治体にその後の処遇を委ねられていました。
〇その後も保存し、発行も可能
〇80年経過後、年に一度くらいの頻度でまとめて廃棄
〇80年経過後、数年に一度くらいの頻度でまとめて廃棄
〇早くからシステムを導入し、80年経過後は自動的にデータ削除
・・・などなど、各自治体によって扱いはまちまちでした。
しかし、平成22(2010)年に保存年限が150年に延長され、しばらくは廃棄が行われないことになったのです。
150年に延長となったときには、もっとも不運な場合は昭和5(1930)年のものまで廃棄されていることになります。
いま(2019年)から150年前は明治2(1869)年。現状取得できる最古の明治19年式戸籍が廃棄(するかどうかは別として)可能になるのは、除籍となった年によりますが、たとえば明治19年に除籍になったものに関しては17年後の2036年。和暦でいうと令和18年です。
ずいぶんと未来のことのように感じますが、次世代の子孫たちが困らないよう、いま残っていて取得できる除籍は家で保存しておくにこしたことはありません。
なお、私が保存年限80年を過ぎた除籍の取得を試みた結果は以下のとおり。
★北海道★
釧路市~平成18(2006)年の暮れに一度だけ80年廃棄
砂川市~大正7年の除籍が最古
北斗市~大正15年の除籍が最古
今金町~大正5年の除籍が最古
せたな町~明治45年の除籍が最古
★青森県★
★岩手県★
九戸村~明治19年戸籍現存。明治20年10月5日の除籍が最古
★宮城県★
★山形県★
大蔵村~前述のとおり大正4年の役場火災で焼失。大正6年の除籍が最古
★福島県★
★茨城県★
大子町~80年廃棄? 大正15年、昭和4年の除籍は残っていたが、明治37年の除籍は取得できず
★東京都★
★石川県★
★新潟県★
新潟市南区~明治19年戸籍現存。旧味方村は明治26年、旧白根市は明治41年の除籍が最古
★鳥取県★
・・・こうしてつらつらと並べてみると、サンプルがやっぱり少ないですね。
ただ、現在でも対象自治体が町村クラスなら、昭和5年以前の除籍も残っている確率は高いような気がします。
もちろん、平成10年代にいわゆる「平成の大合併」があったので、合併前の自治体ごとに異なることもあるでしょうから一概には言えないですが、例えば電算システム化の際に80年経過したものは対象外としたりしたことはあったと思います。
なにせ件数によってシステム導入にかかる金額が違ってくるのは必然ですし・・・
あとは保管の場所がネックだったりしたのでしょうね。釧路市でも電算化されていなかった除籍は、地下に潜って埃や目に見えない虫だらけの倉庫から虫食いまくりの原本を探し出してくるという、体がむず痒くなる作業をしていたそうですから。
以下余談。私の手持ちの戸籍からのよもやま話。
〇いちばん生年月日の早い漢字名の女性
明治28(1895)年5月7日、山形県田川郡生まれの本間久惠さんでした。
しかし、生年月日がわからないものの、久惠さんの母も「元」さんとおっしゃるようです。なお、久惠さんよりも早い生年月日でタ子(タネ)さんや、与祢(よね)さん、志まさん、寿い(すい)さんなどがいらっしゃいましたが、崩し字に近い感じでしたので省きました。
〇いちばん生年月日の早い「〇子」という名の女性
明治41(1908)年1月13日、千葉県東葛飾郡生まれの竹内朝子さんでした。
なお、昭和に入った頃は「本名+子」で名乗る習慣?があったそうで、昭和4年生まれの祖母・ゆきは「雪子」と名乗っていたようです。祖母の姉もセツさんですが、子をつけて「節子」さん。祖母の皆川家だけではないでしょうが、「〇子」さんというのがハイカラだったのでしょうね。
〇いちばん生年月日が早い人物
今から212年前の文化4(1807)年3月5日、現在の福島県東白川郡矢祭町関岡生まれである中野ハツ(1807~90)さんでした。
なお、ハツさんは高祖父の曾祖母の兄である藤田傳右衛門の奥様です。
〇いちばん長寿の人物
戸籍上では、曾祖母・菊地カツがいちばん長生きでした。今回気づきましたが、亡くなった記載がある戸籍は未取得。こんど取得しておかないと!
明治28(1895)年4月19日に福島県東白川郡近津村大字下山本字松原で生まれ、平成8(1996)年3月22日に北海道斜里郡清里町で亡くなりました。亡くなった際の戸籍が無いので墓碑ですが。
あとひと月ほどで満101歳を迎えるという大往生。数えでは102歳。
なお、18歳で北海道に渡ったのちに曾祖父・菊地幸太郎と20歳で結婚しましたが、昭和11(1936)年に先立たれていまして、婚姻期間20年で未亡人期間が60年。この数字だけ見てもなかなかすごい人生だなと感じます。
それにしても、下山本村戸籍担当の人は字が小っさ!がんばって1列に書き切ろうと思ったのかしら?
〇最も多いきょうだい
高祖父の祖父・砂山軍造のひ孫である茨城県筑波郡牛縊村の砂山喜三郎(1889~1951)とたつ(1891~?)夫妻の子どもたちが13人きょうだい。
北海道網走生まれの最年長「よし」(明治45(1912)年生まれ)を筆頭に、牛縊に戻り、東京三河島にて昭和12(1937)年に生まれた金太郎まで13名。お母さんは46歳!うち4名は夭折しておりますが、9名は見事に成人しています。
さらに妻の高祖父・山田菊松の異父弟である山田万次郎(1885~1966)とキソ(1897~1987)夫妻も13人きょうだいをもうけています。
明治45(1912)年に青森下北の田名部でマサが生まれたのちに釧路へ渡り、昭和16(1941)年生まれの繁男さんまでで13人。こちらも3名が夭折していますが、まだご健在の方もいらっしゃいます。
〇もっとも若い花嫁
14歳でお嫁さんになった例が8例あります。
いちばん最近の婚姻は岩渕家のセンさん。大正9(1920)年12月23日。北海道空知郡砂川村となっています。
〇もっとも若い花婿
逆のパターンだと、15歳で旦那さまになった例があります。
高祖父の及川清之進ですが、婚姻日は明治20(1887)年2月24日、宮城県桃生郡矢本村で婚姻しています。奥さんは同い年。
ちょっと戸籍から離れて・・・
〇平均生存年数
あくまでも参考ですが、戸籍や墓石などで生没年が判明しているわが家系の約1400人を平均すると54.29歳。
ただし、その中には1歳の誕生日を迎える前に夭折した哀子が151名おります。たとえば20歳を迎えた人物に限って平均年齢を算出すると、67.47歳となりました。
また、20歳未満で夭折した方は約2割の280名いらっしゃいます。もちろん現代に近づくにつれてそういった方々は少なくなってきており、うち9割の249名の方が昭和20年以前に亡くなっています。
いまこうして幼児期~少年期を乗り越えるのが普通になっているのは、医療や危機管理が進歩したおかげですね。もしもこの時期に自分が親の立場だったら・・・、とても耐えられなかったでしょう。
昔の人はそういった悲しみを乗り越えなくてはならない場面が多かったんだと考えるにつけ、やはり今の日本は平和なんだと改めて思う次第です。
なんだか、この記事を見返すと見づらい・・・
しかもいつも通りとりとめのないお話となってしまったので、ここらで失礼いたしまする。