あらためて小生瀬石井家の謎
水戸藩士であった関鉄之介(1824~62)wikipediaを主謀者とした一味が、井伊直弼大老を暗殺した歴史上の大事件。
事件後にさまざまな地で逃走を続けた関は、事件から2年後に越後湯沢で捕えられて斬首されることとなりましたが、その関が主に潜んでいたのが現在の茨城県久慈郡大子町近辺。
匿っていたのは、大子町の名士である櫻岡家。
その櫻岡家の親類として関の逃亡手助けをしていた中に、石井重衛門という人物がいます。
石井重衛門。
私の高祖母の実家である大子町小生瀬の石井家、高祖母の祖父である石井重四郎と、名前がそっくりです。
そこで、重四郎=重衛門なのではないかという淡い期待を持って、櫻岡家子孫の方に質問をぶつけさせていただきました。
しかしながら、重衛門の周りの人物について調べていただくと、まったく知る名前が出てこず・・・。
祖先である石井重四郎は戸籍で知ることができた最古の名ですが、その子は石井庄衛門(正右エ門とも。1837~1902)。
庄衛門の妻は外大野の齊藤善治エ門の長女・ふゆ(1839~1909)。
庄衛門・ふゆ夫妻の子は、酉次郎、鐡之助、すゐ(私の高祖母)となっています。
しかし重衛門はといえば、父は石井源次兵衛義房。さらにその父は石井久治衛門義教。
源次兵衛の妻の弟、飯村平助が櫻岡家に養子に入り、櫻岡源次衛門直方となっており、その縁で重衛門は櫻岡家の親戚(櫻岡源次衛門の甥)となっております。
世代としては、重衛門と庄衛門が同世代であるかと思われます。
そして重衛門の子は兵衛門、忠蔵、権五郎、百太郎。弟に伝重郎(平八郎とも)。
いずれも存じない名・・・
少なくとも、重四郎=重衛門ではないのだろうなというのが結論となりました。
また、かつて大子町出身の名字研究家、髙信幸男氏に石井家について質問させていただいたことがありました。
ほどなくして石井家墓地の写真を送っていただいたのですが、その写真では雰囲気しかわからず。
のちに現地を訪れ、あらかじめアポを取っていた石井さんにお会いさせていただきました。
この石井さんは、戸籍を見せていただいたところ、石井庄次兵衛さんという方を祖としているのを確認。また新しい名前が登場!
石井家の墓地を案内していただきましたが、新しい墓石が4基ならんでおり、髙信先生から送っていただいた写真とは違う雰囲気。
すると石井さんから、「昔からウチが面倒見てる益子っていう庄屋の墓もあるんだけど、見てみるか?」との言葉。
せっかくなので案内していただくと、そこには髙信先生から送っていただいた写真と同じ光景が!!
でも益子(ますこ)さん・・・?
よくよく見てみると、「益子庄右エ門」という名が刻まれた石もあります。
ウチの石井家は、もともと益子で、石井に名前を変えた・・・?
いまは東京に拠点を移しているという益子家。
世話は石井家が担っており、年に一度は墓参りに訪れているとか。
いったい石井庄衛門と、どのような関係があるのだろう????
我が家の祖先たちは謎ばかり遺して、何も解決させてくれません。ご無体ですよ~(+o+)
▼判る限りのごちゃごちゃな石井家系図
今年最後、そしてひさしぶりのチャレンジは・・・
さいきん、いままで取得した除籍謄本を見直していたのです。
そんな中で、妻の高祖父(母父母父)・相木萬九郎(1848~1926)の実家であり、高祖母(母父父母)・森井タケ(1845~1922)の実家でもある髙谷家の除籍が目に留まりました。
そこが高谷家があった地です。
我が家で髙谷家の除籍を取得できたのは、偶然でした。
高祖母・タケは森井半左エ門(1853~1922)に嫁ぐ以前、髙谷重太郎なる人物に嫁いでおり、そこでタケとの間に生まれた重太郎の忘れ形見、髙谷福松(1864~1908)の除籍に母としてタケが在籍していたのです。
最初は、「あら、傍系の除籍が取れた~」というくらいの気持ちだったのですが、そののちの大正4年式戸籍にタケの父として「亡髙谷萬兵衛」とあったので、「おりょっ!?」となったわけです。
その福松が戸主となった事由は「明治18年1月13日 当村 髙谷萬兵衛従弟分家」とのこと。
同じく萬兵衛の戸籍に入っていた母・タケも、福松に従って福松の籍に入りました。
萬兵衛と福松はイトコ。
ということは、萬兵衛の親と福松の親はきょうだい。
「従弟」というくらいですから、福松の親は萬兵衛の親からみたら弟か妹なのでしょう。
それで、タケが亡くなった最後の戸籍を見てみると、
タケは髙谷萬兵衛の長女。
福松のイトコである息子の萬兵衛と同名ですので、萬兵衛の名は世襲のようですね。
とすると、髙谷重太郎は婿養子ということになるのかな?
いろいろと判らない~。。。
・・・福松が分家した明治18(1885)年。明治19年式戸籍が編成される前年。
もし、タケの父・先代萬兵エか母・ユリが萬兵衛の明治19年式戸籍に入っているならば、取得できるはず!
一縷の望みをかけて、24日に八雲町へ郵送請求してみました。年末で忙しいのに・・・と思いながらですけれど。
そして連絡を本日いただき、残念な結果を告げられました(+_+)
しかし、「髙谷萬兵衛の戸籍には妻と子しかいないです」との回答を得ることができましたし、「いろいろ検索をかけてみましたが、やはりいませんでした。」とおっしゃってくださいましたので、あきらめがつきました。
先代萬兵エとユリは、明治19年式戸籍編製時点で既に亡くなっていたようです。
ちなみに高祖父・相木萬九郎の父は「髙谷萬藏」。名前がそっくりな萬兵衛との関係性も知りたかっただけに、至極残念。
実はこの請求は12年前にも行っており、諦めきれずに再度のチャレンジだったのです。
でもこれでホントに終わりですね。
その後、ひととおり他の除籍をながめてみましたが、もうワンチャンありそうな除籍は無し。
あとは直系の子孫を探して「除籍を取らせていただきたいので委任状を書いてください!」という、超ハードコアなミッションとなります。
わざわざそんないばらの道を歩くなんてMっ気全開ですけれど、ぼちぼちやっていくか~(+o+)
どんどんこういうことが厳しくなっていく(法律的にも世間的にも人の心も情報量的にも)のは明らかなので、できる範囲で後悔しないようにミッションを達成してきたいですね!
父系近藤家について、いま一度
菊地儀平(1844~97)。
福島から屈斜路に入植してきた私の高祖父・菊地幸吉(1874~1959)の父親です。
私から見ると「父父父父父」。非常に大事な人物。
我が菊地家の戸籍は、東白川郡東舘村で編成されたこの菊地儀平が戸主のものが最古。
その儀平の欄には、「同郡上関河内村 近藤勝右衛門 五男」と記載。
上関河内(かみせきごうど)は、かつて関河内だった地が、江戸期に上下分かれた地。
現在は東舘と同じく矢祭町の大字となっております。
その儀平が生まれ育った近藤家。
いまは彼の地に3軒の近藤姓がいらっしゃいますが、元をたどるとどのお宅も「近藤数右衛門」という、かつて上関河内の名主(庄屋)だった家をルーツとしています。
明治2(1869)年に近辺で打ちこわしがあったのですが、その首謀者処分の公文書中に「上関河内村 名主 數右衛門」の記載が。
いつから近藤家が名主の立場であったかは不詳ですが、数右衛門は代々世襲のようで、旧い近藤家の墓石には寛政元(1741)年に没した「近藤數右衛門義次」の名があります。
それを鑑みると、少なくとも「近藤數右衛門」という名には120年以上の歴史があったのだと思われます。
なお、享保3(1718)年に「近藤新六藤原義高」なる人物が、父母の墓石を建立しているのが確認できた最古の記録となっています。
「近藤」という苗字だけあり、藤原姓を名乗っていますね。
この地で300年以上の歴史を刻んできている旧家です。
その近藤家、確認できる最古の戸籍は、近藤邦彦(1850~1914)が戸主のもの。
そしてその父として近藤義冨(1811~90)が在籍していますが、この義冨こそが前述の公文書に記載のあった近藤數右衛門その人です。
邦彦は明治9(1876)年に上関河内村長として名があり、その時点では若干26歳でありました。
他の2軒の近藤家については、邦彦の弟が養子となった近藤新右衛門(義冨との関係は不明)家と、邦彦の養子(邦彦よりも17歳上!)が分家した家となっているようです。
この時点で、儀平の父として記載がある近藤勝右衛門という名は出てきていません。
儀平は五男。若くても儀平出生時で父親は30歳くらいでしょう。
30歳くらいだったと仮定すると、勝右衛門は文化10(1813)年あたりの生まれかと考えられます。
儀平の戸籍の勝右衛門については「亡」の文字が無いので、明治19年時点(当時73歳くらい?)で存命だと考えられるのですが・・・
子孫の方々の協力を仰がせていただき、残っている戸籍はすべて取得しているはずなのですけれどもね。
なお、儀平が菊地家に婿入りした時期は不明ですが、26歳だった明治4(1870)年に長子が生まれているので、それ以前でしょう。
壬申戸籍の編成が明治5(1871)年ですので、きっとそれよりも前となります。
当時、壬申戸籍の編製をどのように行ったのかはわかりませんが、こうなってくるとまた妄想が始まります。
①現在は存在しない近藤家に勝右衛門という人物が居たのでは・・・?
→上関河内の墓地では名前を見つけられず、ちょっと弱い。
②「かつえもん」ではなく、「かずえもん」だった
→戸籍編製時に口頭で手続きしたとするとありえる?年齢的にも儀平出生時は義冨33歳。めちゃめちゃ自然。もしくは儀平が漢字を間違えたとか・・・。
しかし、②については怪しい点もあります。
儀平が弘化元(1844)年9月15日生まれ。
義冨の長女が弘化2(1845)年3月28日生まれ。
もし儀平が義冨の子であるならば、妹との出生日が半年しか違わないのです。
また、近藤邦彦は義冨の長男として記載されていますが、邦彦は五男のはずの儀平よりも6歳下。
・・・いろいろと無理が生じてきました。
強引に推察してみることはもちろんできます。
儀平は五男だけれども、壬申戸籍編成前に養子に出たので、籍に残っていた邦彦が長男として記載された。
妹との出生日の差も、もしも違う母親だった場合ならばありえなくもない。
名主ならばそういったことも・・・?
あるいは、出生日を間違えて登録してしまったとか。
そして、義冨が56歳、妻が48歳の時に五女が生まれているので、五女の母親は妻ではないような気がする。
・・・近藤家の墓石には、以下の文字が彫られています。
明治7年2月4日 二男 彦信
明治13年10月13日 三男 彦三
明治15年8月3日 四男 和義・・・
年齢が彫られていないので何とも言えませんが、明治19年戸籍編製前に亡くなった男子3人。
戸籍上、邦彦の長男・近藤近彦は明治8(1875)年生まれ。
男子は近彦のみで、明治16(1883)年と19(1886)年に娘が生まれています。
この墓石に彫られている二男~四男は、邦彦の子と考えるのが自然でしょうか。
しかし長男が彫られておらず、近彦は二男が亡くなった日よりもあとに生まれています。
もしかすると、義冨の子の墓石かもしれない・・・ともおもったりしています。
菊地家と同じく、この近藤家(というか儀平の出自)についても謎が多く残ったまま、ぜんぜん進まずやきもきしています。
ドラえもんのタイムマシンがあればなぁ・・・
名前の読み方
以前、福島県白河市に住んでいた祖先の『角田』という姓が「かくた」なのか「つのだ」なのか、はたまた「すみだ」や「かどた」とも読める・・・といったお話を綴ったことがありました。
電話帳で「つのだ」だということが判明したのですが、こうしたことは姓に限ったことではありません。
※本日、F1チームのアルファタウリ・ホンダから、7年ぶりの日本人ドライバーとして角田裕毅(つのだ・ゆうき)のデビューが発表されました!!応援しないと!!
母方の高祖父である及川清之進(1871~1935)ですが、わたしは最初『きよのしん』だと思っておりました。
しかし、当時まだ健在だった祖母から、「おじいさんは『せいのしん』っていうんだよ」と教えてもらったことがあります。
下の名前は、現在も残っている「姓」より、当時を知る人が居ないと確かめようが無いなって思ったものです。
このときはばあちゃんが教えてくれなかったら、ずっと『きよのしん』でいくところでした。
あらためてそう思ったのが、先日亡くなった母方のじいちゃん・平野政次(1922~2018)。
ずっと名前は『まさじ』だと聞いていたのですが、お通夜の時に、司会の方が「ひらの『まさつぐ』さま」と言っているのです。
まさつぐ!?
どってんこきました!
じいちゃんは『まさじ』の名が気に入っていなかったらしく、『せいじ』と名乗っていたという話はなんとなく聞いたことがありました。
また、平野家(というよりも高祖父の実家である新倉家)では、男子に「治」もしくは「次」という字を付けるという流れもありました。
どちらも「じ」と読みますから、『まさじ』、『せいじ』ならばどちらもあるかな、と。
また、仕事とプライベートで使い分けていたとの話もありました。むむぅ。
また、かつてじいちゃんからすると義父にあたる、ばあちゃんの父親・皆川征露久(せいろく、1905~1954。日露戦争に勝利した月に産まれたから、この名になったそう)から昭和28年に来たハガキを見せてもらったことがあります。
そこには「平野政治様」との記載が(落書きがいっぱいあるけど)。
「治」!これはまさに『○○じ』と呼ばれていたことに他なりません。
でも、伯父も叔父も「どうやら『まさつぐ』であってるらしいんだ・・・」と、なんだか歯切れの悪い回答。
役場的には『まさつぐ』となっていたのかもしれません。じいちゃんが届出とかして。
この経緯は、残しておかなくてはならない事項かなと思っています。じいちゃん的には余計なことだとおもいますけど。
でもじいちゃんはなんでそんなに『まさじ』が嫌だったの??
そんなこともあり、名前の読みはホントにわからないなぁと思いながら直系の祖先を見てみると、
福島県白河市の藤田定蔵(1840~1903)は『さだぞう』とも『ていぞう』とも『じょうぞう(は、あまりないかな?)』とも読めます。
その父である藤田定左エ門は『じょうざえもん』とも『さだざえもん』とも。
茨城県つくば市の斉藤市郎は『しろう』なのか『いちろう』なのか。
東京田無の下田忠蔵は『ただぞう』、『ちゅうぞう』。
戦国時代のころを過ごしたと思われる岩手県九戸神社の宮司、妻からすると15代前の祖先である千葉真長は『さねなが』、『まさなが』。
※余談ですが、九戸村出身の元ヤクルトスワローズ、風張蓮 - Wikipedia(かざはり・れん)投手が、私の応援する横浜DeNAベイスターズに入団決定!㊗!
ちょっと気になる直系を見ただけでも、これだけいますね。
地域性などもあるかもしれませんし、真実はわからないでしょうが、最初に挙げているのが私がそうじゃないかなと思っている名です。
また、ばあちゃんは「平野ゆき」ですが、姉妹からは『雪子』と呼ばれていたようで、その長姉の「セツ」さんは『節子』だったり、おしりに「子」を付けるのが流行っていたこともあるらしいですね。
あと、茨城県大子町生まれの高祖母は戸籍上は『スエ』という名ですが、茨城の訛りなのか、みんなからは『スイ』と呼ばれていたようです。お墓にも『菊地スイ』と刻まれています。
いまの子どもたちは読みかたが昔の比じゃなくバリエーションがありますから、しっかりと読みも記録しておかないと、のちのち子孫たちが困っちゃうのでしょうね。
ご隠居さん
昭和22(1947)年の日本国憲法発布とともに、戸主制が廃止され、ともに隠居制度も廃止されました。
隠居をするには、満60歳以上になることと、完全の能力を有する家督相続人が相続を承認すること、という条件がありました。
ただし、上記条件を満たさずとも、戸主が病気等で家政を振るうことができない場合や、本家を家督相続するために現在の家の戸主を務めることができなくなる場合、そして女性の戸主だった場合などに特別に隠居が許されたようです。
さて、我が家はどうだったのでしょう。
まず、当菊地家ですが、明治19年式戸籍時点では福島県東白川郡東舘村、菊地儀平(1844~97)が戸主となっています。儀平は当時42歳です。
すでに義父の菊地儀右衛門(1810~90)は隠居していますが、明治19(1886)年時点で76歳。いつご隠居さんとなったのかは読み取ることはできません。
明治30(1897)年に儀平が53歳で世を去ると、長男の初太郎(1870~1942)が27歳で家督相続。
そして大正元(1912)年に、初太郎の弟で、私の高祖父である幸吉(1874~1959)が38歳で2軒隣に分家し、新たな戸主となります。
初太郎家は、北海道屈斜路→美幌に移住したのちの昭和17(1942)年5月4日に72歳だった初太郎が隠居届出。大子町下野宮の大森家より迎えた婿養子・菊地酉松(1898~1964)が44歳で家督を相続します。
初太郎は、そのわずか4カ月後に逝去。家督を譲って安心したのか、それとももともと病気で隠居したのか・・・そういったことは伝わっておりませんが、ギリギリで相続を終えていたため、初太郎の逝去でどたばたしなくても済んだのではないかと思われます。
幸吉はといえば、屈斜路に渡ったのちもそのまま戸主であり続け、昭和32年に現行の戸籍制度となるまで不変でした。
いっぽう、母方の平野家。
小榑村は現在の練馬区西大泉にあたります。
そして、残念なことに練馬区は除籍後80年廃棄を実施していたことから、明治19年式戸籍を取得することは叶いませんでした。
当時の戸主は、平野丑松(1827~1903)。明治19年式戸籍編製時点では59歳。まだ通常の隠居が法的に出来ない年齢です。
・・・だと思ったのですが、丑松の長女であり、私の高祖母でもある平野いち(1863~1953)が、20歳だった明治16(1883)年に田無町の新倉家よりお婿さんとして迎えた平野儀三郎(1866~1939)が、その翌年の明治17(1884)年に丑松の隠居により家督相続しております。
実に当時、丑松56歳、儀三郎は若干17歳。
60歳に達していないことから、通常の隠居ではなかったのでしょうか?
あるいは、年齢条件は努力義務的な感じで黙認されていたとか・・・?
その後、儀三郎は北海道の利別村(現在の今金町)→止別村(現在の小清水町)→樺太恵須取町と転籍。
71歳まで戸主のままでいたところ、私の曾祖父である長男の留五郎(1884~1937)が樺太で熊に殺られるという悲劇が起きてしまいました。
その2年後に、儀三郎は遠い樺太で波乱の人生を終えました。満72歳。急逝だったと聞きます。
そこできっと、一家は大慌てしたのではないでしょうか。
なにせ、跡継ぎがすでに世を去っており、家督を継げるといえば留五郎の次男、私の祖父である若干17歳の平野政次(1922~2018)だったのです。
奇しくも儀三郎が跡継ぎとなった年齢と同齢でした。
政次が戸主のまま小清水町へ引き揚げ、戸籍的には昭和32年の改製を迎えました。
じいちゃんは激動の樺太時代やシベリア抑留を経て、小清水町平野家の礎を築き、おととし亡くなるまで80年もの永きにわたり平野家当主であり続けたまさにレジェンドです。
ひとまず直系2家について綴ってみましたが、私の直系傍系で隠居を行っている祖先をまとめてみました。
生 | 退隠 | 齢 | 後継 | 齢 | |||
小野寺辰之助 | 岩手県九戸郡長興寺村 | 1808 | 1881 | 72 | 長男・亀吉 | 35 | |
湯谷德平 | 鳥取県法美郡荒舟村 | 1832 | 1883 | 51 | 長男・善太郎 | 21 | |
飯島太十郎 | 茨城県筑波郡牛縊村 | 1828 | 1883 | 54 | 長男・龍介 | 30 | |
山田善四郎 | 青森県下北郡関根村 | 1824 | 1884 | 59 | 長男・留藏 | 15 | |
石井庄衛門 | 茨城県久慈郡生瀬村 | 1837 | 1884 | 46 | 長男・酉次郎 | 22 | ※1度目 |
太田勇一郎 | 茨城県筑波郡牛縊村 | 1825 | 1884 | 58 | 長男・安造 | 31 | |
平野丑松 | 東京都北豊島郡小榑村 | 1827 | 1884 | 57 | 婿養子・儀三郎 | 17 | ※1度目 |
岩渕徳松 | 岩手県九戸郡戸田村 | 1827 | 1891 | 64 | 長男・石松 | 38 | |
佐藤佐平 | 宮城県刈田郡小村崎村 | 1826 | 1892 | 66 | 長男・佐助 | 46 | |
近藤清兵衛 | 福島県東白川郡豊里村 | 1830 | 1896 | 65 | 婿養子・兵右エ門 | 41 | |
植田庄三郎 | 茨城県久慈郡袋田村 | 1833 | 1896 | 62 | 長男・金太郎 | 31 | |
大久保末五郎 | 宮城県名取郡千貫村 | 1830 | 1896 | 65 | 婿養子・仁助 | 48 | |
藤田定藏 | 福島県西白河郡釜子村 | 1840 | 1897 | 57 | 婿養子・忠吉 | 35 | |
石井庄衛門 | 福島県東白川郡豊里村 | 1837 | 1898 | 61 | 次男・鐡之助 | 30 | ※2度目 |
平野丑松 | 東京都北豊島郡大泉村 | 1827 | 1901 | 73 | 婿養子・音五郎 | 38 | ※2度目 |
菊池健三 | 福島県東白川郡関岡村 | 1841 | 1902 | 60 | 長男・髙良 | 33 | |
小野寺亀吉 | 岩手県九戸郡長興寺村 | 1845 | 1906 | 60 | 長男・熊藏 | 41 | |
杉山治郎左衛門 | 青森県下北郡田名部村 | 1843 | 1911 | 68 | 長男・石松 | 39 | |
小出石五郎 | 新潟県西蒲原郡味方村 | 1847 | 1915 | 58 | 婿養子・福松 | 44 | |
柿﨑権兵衛 | 山形県最上郡大蔵村 | 1846 | 1917 | 71 | 長男・運次郎 | 38 | |
飯島龍介 | 茨城県筑波郡牛縊村 | 1853 | 1917 | 64 | 長男・才次郎 | 39 | |
岩渕石松 | 北海道空知郡砂川町 | 1853 | 1918 | 65 | 次男・馬吉 | 33 | |
森井半左エ門 | 北海道茅部郡落部村 | 1853 | 1918 | 64 | 長男・半次郎 | 36 | |
菊地初太郎 | 北海道網走郡美幌町 | 1970 | 1942 | 71 | 婿養子・酉松 | 43 | |
奥田亀之進 | 宮城県桃生郡矢本町 | 1879 | 1946 | 67 | 次男・博 | 45 |
もっとも若く隠居しているのは、高祖母の父・石井庄衛門(1837~1902)。46歳で22歳の長男・酉次郎に家督相続しています。
その後、庄衛門は酉次郎家より分家し、61歳で二度目の隠居。二男の鐡之助に家督を譲っています。
もっとも高齢で隠居しているのは、前述の平野丑松。儀三郎に家督を譲ったのち、上土支田村の加藤家より迎えた二女の婿養子である平野音五郎(1862~1931)に73歳で家督を譲っています。
なお、私の言う東京の平野本家は、この家の子孫の方です。
一覧を見てみると、60歳に満たない隠居も散見されますね。
この25件を考察すると、隠居の平均年齢は62.32歳。相続側の平均年齢は35歳となっています。
話はまったく変わりますが、この少ない例にもかかわらず、長男なのに酉次郎、才次郎、半次郎、運次郎という名があります。
この名前に入っている数字には、どういった意味が込められているのでしょうね・・・?
上に夭折した兄がいたとか、上に姉が居るとかかもしれませんが、戸籍で確認できる範囲では、全員長子でした。
なんだかまた中途半端な調査ですが、隠居にもいろいろあって、家の都合やいさかいとかもあったりするのでしょうね。
あと、明治期は戸主や60歳以上の者の嗣子・養子、そして北海道の人は徴兵されなかったということもあったそうなので(いろいろ制度が変わっているので不確か)、そういったことも隠居に関わってきたのかもしれません。
私たちの時代は、生涯現役を貫いていかないと隠居どころか普通の生活すらあやういですけども(-_-;)
諸説ありのパターン
高祖母の母(父父母母母)である藤田タツ(1846~1917)。
もともとは福島県西白河郡蕪内村(釜子村→東村の大字となって、現在は白河市東蕪内)、岡部弥七の二女として生を受けています。
この岡部家については以前も記したことがあるのですが、東村史によると・・・
「加茂を以て氏神とす。加茂県主氏にして遠祖は鴨の武津身の命なり師朝なるもの遠州敷島の郡浜松の庄岡部の郷に居り姓を岡部という」
そしてさらに調べてみると、静岡県浜松市中区に「伊場」という地がありまして、その地についてWikipediaの記述を見てみます。
「東伊場はかつて、山城国相良郡の賀茂神社の荘園で岡部郷と呼ばれていた。伊場と呼ばれるようになった時代や理由は定かではないが、賀茂神社領の斎場(いみば)であったところから「いば」に転じた。この領地を所有していた岡部氏はかつて京都上賀茂神社の神官をしていた賀茂成助にはじまり、成助の子孫にあたる賀茂師重の長女筑前局が文永年間に岡部郷を領地として賜り、筑前局の弟の孫にあたる賀茂定朝が京都からこの地に赴き土着した。国学者賀茂真淵はこの一族である。」
さらに伊場の賀茂神社の由来を引用させていただくと・・・、
「創建は鎌倉時代、文永の頃である。当時上賀茂神社の神官だった賀茂諸重の師童の娘、筑前局が朝廷の女官を退官後に遠江国浜松庄岡部郷を封地として与えられ、その封地に一社を構えたのがこの伊場の賀茂神社であった。その後、築前局の子孫が姓を岡部と改め、当主が代々賀茂神社の神官をつとめてきた。」
もうすこしいろいろとネットで調べてみると、山城国相楽郡加茂町(現在の京都府木津川市加茂)の岡田鴨神社(賀茂氏の祖である建角身命を祀る)の荘園で、遠江国敷知郡岡部郷と呼ばれていました。
・・・となるとわかり易くなるのかな?
その岡部郷を発祥とする岡部氏ですが、太田亮氏の「姓氏家系大辞典」によると藤原南家・二階堂爲憲(藤原爲憲、Wikiによると工藤為憲?)を祖としているようです。
爲憲から、時理―時信(駿河守)―維永―維綱(船越四郎)―清綱と繋がり、清綱が初めて岡部郷に居住して、岡部權守と名乗ったそう(Wikiによると「入江清綱」となっていて、その子が岡部泰綱)。
この後裔で、伊場に賀茂神社の末社の神職を代々務める旧家の分家筋の農家・岡部政信の子が、歌人・賀茂真淵(1697~1769)とのこと。
ぬぬ・・・太田亮氏の説だけ毛色が違うぞ・・・。二階堂氏をしらべても賀茂氏と繋がらないし(;・∀・)
その一族が、今の白河市東蕪内に居住するようになったのはなぜなのかは知れませんが、当岡部家の祖先は賀茂氏もしくは二階堂爲憲からつながる系譜なのだという説があることがわかったところで終わりにします。
諸説ありって、こういう感じなんですよね。。。
他人のふんどしで相撲をとる話
先日、日本姓氏語源辞典について触れさせていただきました。
そのあとで気になって、他の家はどんな感じだったっけ?と思い、ひとまとめにしてみることに。
姓(私から見た続柄)全国人口(全国に占める人口順位):本貫地市区町村内での人口順位
人数>その姓の人数ランキング47都道府県中の本貫地順位 本貫市町村順位/県内市町村数(本貫市町村内人数/全国1797市区町村順位)
割合>その姓の人口に占める割合ランキング47都道府県中の本貫地順位 本貫市町村の順位/県内市町村数(本貫市町村における人口割合/全国1797市区町村順位)
近藤(父父父父父)約359,500人(36位):福島県矢祭町22位
人数>福島23位 矢祭町15位/42市町村(約90人:751位)
割合>福島26位 矢祭町7位/42市町村(1.1%:71位)
佐川(父父父父父母)約26,200人(721位):福島県矢祭町9位
人数>福島1位 矢祭町6位/42市町村(約200人:20位)
割合>福島1位 矢祭町3位/42市町村(2.25%:3位)
菊地(私)約181,300人(98位):福島県矢祭町15位
人数>福島5位 矢祭町22位/42市町村(約130人:346位)
割合>福島4位 矢祭町7位/42市町村(1.59%:21位)
菊池(父父父父母父)約162,500人(112位):福島県矢祭町2位
人数>福島13位 矢祭町1位/42市町村(約700人:33位)
割合>福島9位 矢祭町1位/42市町村(8.67%:5位)
鈴木(父父父父母父父母)約1,672,100人(2位):福島県矢祭町1位
人数>福島7位 矢祭町21位/42市町村(約900人:479位)
割合>福島2位 矢祭町4位/42市町村(10.8%:8位)
高沢(父父父父母父母)約15,500人(1,133位):福島県矢祭町17位
人数>福島16位 矢祭町1位/42市町村(約100人:20位)
割合>福島11位 矢祭町1位/42市町村(1.32%:2位)
※割合の全国トップは熊本県球磨村。矢祭町関岡の草分けとして伝わっている菊池家も熊本がルーツであるため、高沢家も菊池家とともに熊本から矢祭にやってきたのかも。
藤田(父父父父母母)約378,100人(30位):福島県矢祭町4位
人数>福島22位 矢祭町7位/42市町村(約300人:370位)
割合>福島21位 矢祭町2位/42市町村(3.73%:3位)
石井(父父父母)約355,200人(37位):茨城県大子町5位
人数>茨城5位 大子町1位/44市町村(約1,400人:36位)
割合>茨城9位 大子町1位/44市町村(4.5%:3位)
齊藤(父父父母母)約22,200人(831位)
人数>茨城5位 大子町データなし
割合>茨城6位 大子町データなし
※「サイトウ」は様々なパターンがあるので、違う「サイトウ」に変化しているのかな?
藤田(父父母母)約378,100人(30位):福島県白河市13位
人数>福島22位 白河市3位/42市町村(約800人:99位)
割合>福島21位 白河市6位/42市町村(1.23%:43位)
角田(父父母父母)約86,200人(248位):福島県白河市21位
人数>福島6位 白河市2位/42市町村(約500人:15位)
割合>福島2位 白河市12位/42市町村(0.789%:23位)
※「つのだ」読みだが、漢字表記のみなので「かくた」や「すみだ」も含む。
岡部(父父母母母)約82,000人(264位):福島県白河市39位
人数>福島6位 白河市5位/42市町村(約200人:61位)
割合>福島1位 白河市9位/42市町村(0.374%:49位)
太田(父母)約307,800人(44位):茨城県つくば市67位
人数>茨城21位 つくば市1位/44市町村(約500人:159位)
割合>茨城37位 つくば市3位/44市町村(0.288%:451位)
※全国順位よりも低いが、茨城県内ではつくば市上里に最も多い。
砂山(父母父父父)約3,300人(3,637位):茨城県つくば市1200位以下
人数>茨城11位 つくば市3位/44市町村(約10人:50位)
割合>茨城9位 つくば市7位/44市町村(0.00799%:110位)
岡田(父母父父母母)約370,000人(33位):茨城県つくば市16位
人数>茨城16位 つくば市1位/44市町村(約1,100人:51位)
割合>茨城25位 つくば市2位/44市町村(0.698%:101位)
中山(父母父母)約264,800人(58位):茨城県つくば市8位
人数>茨城6位 つくば市1位/44市町村(約1,400人:10位)
割合>茨城3位 つくば市6位/44市町村(0.885%:42位)
飯島(父母母)約73,700人(295位):茨城県つくば市7位
人数>茨城1位 つくば市1位/44市町村(約1,400人:1位)
割合>茨城1位 つくば市3位/44市町村(0.887%:10位)
※つくば市が全国の市区町村でいちばん飯島さんが多い!
斉藤(父母母母)約311,100人(42位):茨城県つくば市98位
人数>茨城22位 つくば市3位/44市町村(約300人:230位)
割合>茨城32位 つくば市8位/44市町村(0.202%:772位)
平野(母)約193,800人(86位):東京都練馬区82位
人数>東京3位 練馬区5位/56市区町村(約700人:27位)
割合>東京14位 練馬区21位/56市区町村(0.179%:416位)
新倉(母父父父)約9,900人(1,588位):東京都西東京市184位
人数>東京2位 西東京市3位/56市区町村(約130人:13位)
割合>東京2位 西東京市3位/56市区町村(0.0947%:19位)
尾林(母父父父母)約2,300人(4,619位):東京都西東京市105位
人数>東京1位 西東京市1位/56市区町村(約200人:1位)
割合>東京4位 西東京市1位/56市区町村(0.155%:3位)
新井(母父父父父母)約176,900人(102位)東京都西東京市23位
人数>東京3位 西東京市12位/56市区町村(約600人:70位)
割合>東京4位 西東京市2位/56市区町村(0.404%:115位)
下田(母父父母母)約53,800人(373位)東京都西東京市19位
人数>東京1位 西東京市6位/56市区町村(約600人:8位)
割合>東京6位 西東京市2位/56市区町村(0.439%:28位)
及川(母父母)約77,500人(278位):宮城県東松島市13位
人数>宮城2位 東松島市9位/39市区町村(約600人:21位)
割合>宮城2位 東松島市4位/39市区町村(1.45%:11位)
石垣(母父母父父)約28,600人(667位):宮城県東松島市19位
人数>宮城1位 東松島市2位/39市区町村(約400人:6位)
割合>宮城2位 東松島市1位/39市区町村(1.03%:4位)
佐々木(母父母父父母)約702,100人(13位):宮城県美里町1位
人数>宮城3位 美里町9位/39市区町村(約2,200人:56位)
割合>宮城3位 美里町3位/39市区町村(7.71%:17位)
安田(母父母母父)約155,900人(117位):宮城県村田町100位
人数>宮城29位 村田町16位/39市区町村(約20人:993位)
割合>宮城33位 村田町3位/39市区町村(0.14%:485位)
奥田(母父母母)約101,000人(206位):宮城県東松島市20位
人数>宮城18位 東松島市2位/39市区町村(約400人:40位)
割合>宮城14位 東松島市1位/39市区町村(1%:7位)
皆川(母母)約37,300人(521位):新潟県新潟市78位
人数>新潟1位 新潟市1位/26市町村(約1,800人:1位)
割合>新潟1位 新潟市13位/26市町村(0.221%:50位)
※新潟市が全国の市区町村でいちばん皆川さんが多い!
小出(母母母)約43,800人(452位):新潟県新潟市111位
人数>新潟4位 新潟市1位/26市町村(約1,200人:2位)
割合>新潟1位 新潟市9位/26市町村(0.149%:72位)
鹿島(母母父母)約16,900人(1,040位):新潟県新潟市1,098位
人数>新潟11位 新潟市3位/26市町村(約90人:29位)
割合>新潟12位 新潟市5位/26市町村(0.0104%:508位)
如澤(母母父母母)約30人:新潟県新潟市1200位以下
人数>新潟2位 新潟市1位/26市町村 (1位)
割合>新潟1位 新潟市2位/26市町村 (1位)
※私の家系血脈で最も珍しい姓
松崎(母母父母母母)約78,500人(273位):新潟県新潟市363位
人数>新潟18位 新潟市1位/26市町村(約400人:19位、河間30人:197位)
割合>新潟24位 新潟市8位/26市町村(0.0484%:688位、河間6.67%:80位)
山田(妻)約800,200人(12位):青森県むつ市12位
人数>青森18位 むつ市4位/38市町村(約800人:320位)
割合>青森10位 むつ市10位/38市町村(0.923%:295位)
畑中(妻父父父父父)約40,000人(490位):青森県むつ市5位
人数>青森3位 むつ市1位/38市町村(約1,200人:1位)
割合>青森1位 むつ市2位/38市町村(1.53%:3位)
※むつ市が全国の市区町村でいちばん畑中さんが多い!
舘(妻父父父父母)約7,800人(1,942位):青森県むつ市348位
人数>青森5位 むつ市3位/38市町村(約50人:25位)
割合>青森4位 むつ市10位/38市町村(0.0587%:44位)
※読みは「たて」だが、漢字表記のみなので「たち」や「だて」も含む。
杉山(妻父父父母)約200,900人(82位):青森県むつ市22位
人数>青森15位 むつ市2位/38市町村(約500人:69位)
割合>青森7位 むつ市5位/38市町村(0.603%:73位)
橋本(妻父父父母父母)約427,700人(25位):青森県むつ市17位
人数>青森31位 むつ市3位/38市町村(約600人:180位)
割合>青森33位 むつ市4位/38市町村(0.731%:140位)
加賀(妻父父父母母)約16,100人(1,100位):青森県むつ市250位
人数>青森4位 むつ市4位/38市町村(約70人:45位)
割合>青森2位 むつ市6位/38市町村(0.0801%:68位)
千葉(妻父父母)約190,800人(89位):岩手県九戸村10位
人数>岩手2位 九戸村24位/32市町村(約120人:271位)
割合>岩手1位 九戸村12位/32市町村(1.37%:35位)
小野寺(妻父父母父母)約93,200人(230位):岩手県九戸村3位
人数>岩手2位 九戸村15位/32市町村(約200人:77位)
割合>岩手1位 九戸村6位/32市町村(2.59%:9位)
君成田(妻父父母父父父父父母)約200人(19,666位):岩手県軽米町92位
人数>岩手2位 軽米町1位/32市町村(約40人:1位)
割合>岩手1位 軽米町1位/32市町村(0.311%:1位)
※君成田姓は軽米の小字名が発祥。全国の市区町村でいちばん多いのも必然か。
坂本(妻父父母父父母)約325,600人(38位):岩手県九戸村11位
人数>岩手28位 九戸村13位/32市町村(約120人:736位)
割合>岩手20位 九戸村2位/32市町村(1.32%:49位)
苅間沢(妻父父母父母父母)約150人(25,085位):岩手県久慈市208位
人数>岩手1位 久慈市1位/32市町村(約60人:1位)
割合>岩手1位 久慈市2位/32市町村(0.129%:2位)
※苅間沢姓は久慈市山形町荷軽部の小字名が発祥。全国の市区町村でいちばん多いのも必然か。
斉藤(妻父父母父母母)約311,100人(42位):岩手県九戸村126位
人数>岩手27位 九戸村24位/32市町村(約20人:1,310位)
割合>岩手25位 九戸村11位/32市町村(0.195%:811位)
岩渕(妻父父母母)約25,900人(733位):岩手県九戸村30位
人数>岩手1位 九戸村9位/32市町村(約60人:71位)
割合>岩手1位 九戸村4位/32市町村(0.684%:7位)
山本(妻父父母母父母)約1,055,100人(6位):岩手県九戸村1位
人数>岩手40位 九戸村8位/32市町村(約300人:852位)
割合>岩手40位 九戸村1位/32市町村(2.98%:36位)
福田(妻父父母母母)約307,700人(45位):岩手県九戸村186位
人数>岩手43位 九戸村24位/32市町村(約10人:1,428位)
割合>岩手41位 九戸村13位/32市町村(0.0977%:1,250位)
※九戸村は全国順位よりもかなり低い。
佐藤(妻父母)約1,892,300人(1位):宮城県蔵王町1位
人数>宮城3位 蔵王町18位/39市区町村(約2,400人:187位)
割合>宮城3位 蔵王町1位/39市区町村(16%:4位)
※佐藤さん率が全国4位!
小林(妻父母父父父母)約1,000,600人(9位):宮城県蔵王町40位
人数>宮城27位 蔵王町32位/39市区町村(約50人:1,382位)
割合>宮城28位 蔵王町21位/39市区町村(0.32%:1,296位)
※蔵王町は全国順位よりもずいぶんと低い。
佐野(妻父母父母父)約181,200人(99位):宮城県岩沼市80位
人数>宮城22位 岩沼市7位/39市区町村(約70人:564位)
割合>宮城27位 岩沼市6位/39市区町村(0.179%:268位)
大久保(妻父母父母)約131,900人(154位):宮城県岩沼市41位
人数>宮城20位 岩沼市5位/39市区町村(約200人:208位)
割合>宮城19位 岩沼市2位/39市区町村(0.476%:58位)
湯谷(妻父母母)約2,300人(4,693位):鳥取県鳥取市178位
人数>鳥取3位 鳥取市1位/19市区町村(約200人:1位)
割合>鳥取1位 鳥取市1位/19市区町村(0.0965%:5位)
※鳥取市(旧国府町)が全国の市区町村でいちばん湯谷さんが多い!
中島(妻父母母母父)約393,600人(28位):鳥取県八頭町73位
人数>鳥取36位 八頭町6位/19市区町村(約80人:910位)
割合>鳥取15位 八頭町5位/19市区町村(0.329%:607位)
※八頭町は全国順位よりもずいぶんと低い。
竹内(妻父母母母)約279,700人(55位):鳥取県八頭町12位
人数>鳥取28位 八頭町3位/19市区町村(約300人:273位)
割合>鳥取5位 八頭町1位/19市区町村(1.15%:36位)
森井(妻母)約19,100人(938位)
人数>石川27位 小松市データなし
割合>石川20位 小松市データなし
坂下(妻母父父父母)約33,000人(591位):石川県小松市92位
人数>石川2位 小松市4位/19市町村(約200人:19位)
割合>石川1位 小松市8位/19市町村(0.181%:61位)
高谷(妻母父父母)約20,500人(890位)
※現在北海道以前が不明。最も多いのは青森県弘前市。
相木(妻母父母)約1,500人(6,161位)
※現在北海道以前が不明。最も多いのは愛知県大府市。
柿崎(妻母母)約16,900人(1,041位):山形県大蔵村4位
人数>山形1位 大蔵村5位/33市町村(約200人:10位)
割合>山形1位 大蔵村1位/33市町村(5.09%:1位)
※柿崎さん率が全国1位!
三原(妻母母父父父母)約32,800人(598位):山形県大蔵村19位
人数>山形18位 大蔵村4位/33市町村(約70人:121位)
割合>山形10位 大蔵村1位/33市町村(1.47%:1位)
※三原さん率が全国1位!
森(妻母母父母)約457,600人(22位):山形県大蔵村36位
人数>山形37位 大蔵村20位/33市町村(約20人:1367位)
割合>山形36位 大蔵村6位/33市町村(0.489%:401位)
※大蔵村は全国順位よりも低い。
小関(妻母母父母母)約27,500人(694位):山形県大蔵村41位
人数>山形1位 大蔵村24位/33市町村(約20人:281位)
割合>山形1位 大蔵村11位/33市町村(0.489%:20位)
高山(妻母母母)約108,200人(189位):山形県大蔵村17位
人数>山形20位 大蔵村6位/33市町村(約70人:420位)
割合>山形7位 大蔵村1位/33市町村(1.57%:2位)
國分(妻母母母母)約1,600人(5,983位):山形県大蔵村140位
人数>山形8位 大蔵村1位/33市町村(約200人:10位)
割合>山形2位 大蔵村1位/33市町村(4.4%:2位)
やはりというか、全体的に全国順位よりも、祖先の本貫地は順位が高い傾向にあります。
特に・・・
【佐川】 全国721位:矢祭町9位
【菊池】 全国112位:矢祭町2位
【高沢】 全国1,133位:矢祭町17位
【藤田】 全国30位:矢祭町4位
【石井】 全国37位:大子町5位
【角田】 全国248位:矢祭町21位
【飯島】 全国295位:つくば市7位
【新倉】 全国1,588位:西東京市184位
【尾林】 全国4,619位:西東京市105位
【下田】 全国373位:西東京市19位
【石垣】 全国667位:東松島市19位
【畑中】 全国490位:むつ市5位
【小野寺】全国230位:九戸村3位
【君成田】全国19666位:軽米町92位
【苅間沢】全国25085位:久慈市208位
【岩渕】 全国733位:九戸村30位
【湯谷】 全国4,693位:九戸村30位
【柿崎】 全国1,041位:大蔵村4位
【三原】 全国598位:大蔵村19位
・・・といった姓が、全国平均を大きく上回っています。
集中しているということは、歴史的に何かがあったということでしょう。
おおまかに調べることはわりに容易なのかもしれませんが、その中の1軒を掘り下げたいけどどこかわからない・・・となると難易度がバビュンと跳ね上がります。
逆に分布が少ない姓は、どういった経緯で居住しているのかを知りたくなってくるわけですね。調査対象の特定も、比較的容易な傾向にあります。
このようなデータがかんたんに入手出来てしまうなんて、心から石川氏に感謝なのです。