みんな大好き日本姓氏語源辞典
このブログを見てくださっている方々でしたら、みなさまこのサイトはよくご存じでしょう。
宮本洋一氏による、
です。
この宮本氏、わたし(1978年生まれ)よりも2歳年下なんですね(/ω\)
足を向けて寝られない現代の偉人です。
このサイトで、いろいろな発見をいままでしてきたのですが、いま一度つまんでみようと思います。
まず、私の姓である「菊地」ですが、
いちばん多いのが北海道!
もともとは「菊池」であると一説にいわれるだけあり、「菊地」さんには分家が多く、移住する家も多かったのかもしれませんね。
そして、我が家のもともとの姓である「菊池」。
そう、岩手、とくに遠野に多いんです。
そして流刑の地であった八丈島には、菊池さんが多かったりと、さまざまなエピソードを持っている姓です。
そんな中に、郡部として唯一登場している8位の茨城県久慈郡大子町。
そして、「菊池」姓の市町村ごとの割合を見てみます。
貫禄の遠野市。4人に1人が菊池さんです。
学校ひとクラス40人とすると、10人弱が菊池さんだということに・・・(;・∀・)
そして、我がルーツ矢祭町が5位に飛び込んできています。大子町は7位。
この2町でこれだけの割合を占めているなんて、流刑地だった八丈島や青ヶ島はなんとなく理解ができますが、信州菊池の会を擁する長野の佐久地方とともに、何かの謂れがあるのでしょう。未だに謎のままなんですけれど。。。
次に、曾祖母の実家(福島県白河市東千田)および曾祖母の母の実家(白河市東蕪内)および高祖父の祖母の実家(矢祭町東舘)であり、私の体内に濃く血が流れている「藤田」を見てみます。
全国30位。まんべんなく分布している地図となっていますね。とびぬけて浜松に多いようです。
そして、割合でも見てみると・・・
この4つの町はすべて繋がっているのです!
まさに、「藤田ベルト」と呼んでも差し支えないでしょう。
ここは、全国でもトップクラスの藤田密集地帯なのです!
なぜこうなったのかは、未だによくわかりませんけれど。。。
さすがの大勢力。全国37位です。倉敷や千葉の北西部に多い統計ですね。
そんな中、小地域順位の6位に大子町の頃藤(ころふじ)が!
この頃藤ですが、小生瀬の隣の部落なのです。郡部では最上位に輝きました。
小生瀬あたりに行ったときに、看板が石井商店とか石井鮮魚店とか、石井さんばかりで驚いたものです。
そして、祖母の母の実家(茨城県つくば市上里)は「飯島」です。
・・・ああ、つくば市がトップですね。
割合で見てみると、
そのつくば市の中でも上里は断トツに多いのです。
惜しくもなぜこんなに飯島っぷりがすごいのかは伝わっていないのですが、北海道ではあまりいない姓なので、珍しいと勝手に思っていました。
こういう感じで固まっていると、地域の歴史を含むことは調査しやすく、ひとつの家としては調査しづらくもあるわけですね。
昨年、訪問させていただいた大蔵村。
柿崎景家の子孫と伝わるのですが、南山の部落はもうほんとに柿﨑さんだらけ。
お墓も柿﨑さんばかり。家紋も「丸に隅立て四ツ目結」で同じ。しかも墓碑銘を彫らない風習らしく、いったいどの墓石がウチの柿﨑本家のなのかがわからないというまさに混沌とした状況でした。
母方高祖父の実家、宮城県東松島市矢本の「石垣」家もちょっと不思議です。
静岡に最も多く、これは徳川家康の駿府城の石垣を築いた人たちが与えられた姓なのかな・・・と勝手に思ったり。
次いで沖縄の石垣島に多いのですが、由来は内地の石垣さんとは全く違うのでしょう。
6位に東松島が入っています。近くの仙台市青葉区がその上の4位にいるということは、これは青葉城・・・?
なお、私の祖先でもっとも珍しい姓は母方祖母の祖母の実家、新潟市西蒲区河間の「如澤」家なのですが、
ふむ、ルーツは信濃と伝わっており、開拓のために河間に入ったそうです。
河間がある旧中之口村長の如澤寛さんにお話を伺ったところ、「阿弥陀如来」の「如」ではないかと伝わっているとのこと。
北海道の遠軽には近年分家した方がいらっしゃるそうなので、藤沢や横浜の方たちもきっとルーツは同じなのでしょう。
この家々は、分布が集中したりしている家ですが、逆にぜんぜん分布がないところに昔から住んでいたりすると、どうしてここに住むようになったのだろうというまた違った見方になってきます。
たとえば妻の母は「森井」家の出。北海道に来る前は石川県小松市菩提町に住んでいたのですが、いまはもう誰も居ません。
本貫地はおそらく関西の方と思われるので、北前船がらみで石川に一時的にすんでいたのかな?と思われる家です。
・・・と、こんな感じでいろいろ見ていくと、いろいろな発見があるわけですね。
もうほんとに控えめに言って石川氏は神です。
除籍の80年廃棄と樺太移住のコンビネーション【完結編】
今回綴ろうとしておりますのは、
この1年半前に綴った記事の続編となります。
後輩の家についての戸籍を取得したところ、樺太から昭和24年に釧路市(平成19年に除籍80年廃棄済)へ転籍してきているところまでしかさかのぼることができなかったわけですが、今回進展がありました。
きっかけは、後輩のおばあちゃんが亡くなったこと。
知ったのが香典を渡すタイミングにはちょっと遅かったことから、余っていた小為替で後輩の家についてさかのぼってみようということになりました。
8月に第1子の女の子が産まれたこともあり、後輩も乗り気になってくれたので、さっそく実行に移したのです。
まずは釧路市にのこっている最古の戸籍。
外務省のホームページによると、樺太の戸籍簿は
大泊郡知床村 戸籍簿 15冊 除籍簿 3冊
大泊郡富内村 戸籍簿 1冊
大泊郡遠淵村 戸籍簿 4冊
敷香郡内路村 戸籍簿 9冊
敷香郡散江村 戸籍簿 4冊
元泊郡元泊村 戸籍簿 8冊
・・・しか日本に持ってこれなかったそうで、知取は対象外です。
残念ながら利吉さんからのさかのぼることは不可能。
そしたらば、その妻・キノさんからならいけるかもしれない。
利吉さんとキノさんの間にはお子さんが6人いらっしゃるのですが、最初の3人は釧路市で産まれています(そのあとの子どもたちは樺太生まれ)。
戸籍の記載はこのようになっています。
釧路市長が出生届を受付→同年7月18日送付入籍。
ということは、釧路市で出生届を出したのち、釧路市からこの子が出生しましたよ~という情報を送付し、戸籍に入籍したということになります。
つまり、この子が産まれた時点では、戸籍は釧路市外にあったということです。
利吉とキノが婚姻届出をしたのはこの子の出生のちょっと前。
そしたらば、キノが婚姻前に居た新潟の戸籍に、利吉の当時の本籍地が記載されているはず!
残っていることを願い、新潟県出雲崎町にキノの実家の戸籍を請求!
待つこと中4日。
すると、ついに三原家が釧路市に来る前の地が判明したのです。
利吉の戸籍には「馬草6番地 山田仁平」と書かれていましたが、ホントは「馬草6番戸 山田仁平治」さんでした💦名前や番地表記が違っても出してくれてよかったです(;'∀')
ということで、利吉さんは「徳島県那賀郡坂野村大字坂野字野神」から釧路市に来たことが判明🎉
そして、現在坂野村は小松島市になっているということでしたので、三原角藏の戸籍も勢いで請求!
そして徳島市出身ですが、プロ野球・巨人のスピードスター、増田大輝選手は小松島高校の出身。
三原の本貫地のひとつでもある淡路島にもほど近い地で、三原家は過ごしていたようです。
三男だった角藏はこの後に分家をしているので、この坂野村139番屋敷が本家の地なのだと思いますが、小松島市の担当者に確認するも、現在のどこかはわからないとの回答でした。
政吉さんの除籍でもまだ139番屋敷だったので、その次代の戸籍にはもしかすると小字が書かれているのかもしれませんが、残念ながら直系である三原役藏さんもソメさんも政吉さんの代で亡くなられており、請求できる権利がありませんでした。
なお、この役藏という名。変わった名だとおもい「役蔵」でGoogle検索してみると、徳島県や愛媛県にしか確認できず、もしかすると地域性のあるお名前なのかもしれません。
徳島市に清水役蔵商店という会社があり、どうやら登記簿によると「えきぞう」と読むようです。
取得した謄本8通と家系図をExcelで作成して渡すと、後輩はずいぶんとよろこんでくれたので、とてもうれしかったです(←語彙力なし)。
あとは後輩に託します。いいなぁ、四国。行ったことないから行って見たいな。
というわけでした、これにてこの件についてはクローズとさせていただきます。
菊地家の謎に迫りたい
私の姓、「菊地」。
いままで探求してきた経緯は以下のリンクのとおりなのですが、さっぱりはかがいきません。
2008/05/11 福島県東白川郡豊里村→屈斜路村【菊地家】
2018/01/22 菊地・菊池家はなぜ鷹の羽紋が多いのか?
2018/02/01 菊地家について、多くの謎のうちのひとつ
そこで、いま一度整理をしてみようと思い、つらつらと綴ってみることにしました。
私は釧路市生まれですが、父が釧路市で就職したためで、もともとは祖父が写真館を営んでいた釧路市から車で70分ほどの弟子屈町の市街地で父は生まれています。
そして、写真家であった祖父は屈斜路湖畔で生まれています。
屈斜路に入植したのは、高祖父・菊地幸吉(1874~1959)とその息子である曾祖父・菊地幸太郎(1894~1936)の一家。
福島県東白川郡豊里村東舘舘本(現・矢祭町)より、大正2(1913)年2月に、北海道川上郡屈斜路村字エントコマップの御料地へ入植をしました。
御料地への入植でしたので、一般の入植者とは異なり、好条件で入植したのではないかと思われます。
ですので、この100年で福島→屈斜路→弟子屈→釧路と拠点が移ってきました(私が一人暮らしになった後は両親は数度転勤、退職した地である函館市に居を構えています)。
時はさかのぼり、明治7(1874)年、高祖父・幸吉が生を受けました。
父・菊地儀平(1844~97)、母はハツ(1853~1906)。兄に3歳上の初太郎がおり、幸吉は第2子です。
明治19(1886)年に作製された最古の戸籍は、東舘村舘本40番地。
戸主は儀平で、籍にはハツの父・儀右衛門(1810~90)と母・ヤス(1813~1899)が健在。
儀右衛門は、隣村である関岡村の菊地友輔三男。年月日は不詳ですが、菊地藤兵衛の養子となっています。
ヤスは、戸籍および地籍図によると、おとなり39番地の藤田傳五右衛門長女。
なお、旧土地台帳に書かれた40番地の最古の名は「菊池」儀平となっています。
謎①
・もともと舘本40番地に居住していたのは菊地藤兵衛なのだろうか?
・あるいは、どこか違う地で暮らしていた儀右衛門がヤスと結婚することになり、ヤスの実家の隣に住むようになったのだろうか?
儀右衛門の父として記載がある菊池友輔(友甫)という人物は実在し、関岡村の医師であり、墓石によると明治18(1885)年12月に行年74で逝去しています。
友甫が逝去したのが、明治19年戸籍編製以前だったため、菊池家の最古の戸籍(子孫の方にご提供いただけました)の筆頭者は、友甫の長男・政恒(1843~97)となっており、惜しくも友甫は籍に入っておりません。
墓石から推測するに、友甫が生まれたのは文化9(1812)年となります。この時点で、少なくとも文化7(1810)年生まれの儀右衛門の父ではないようです。
そこで有力な情報源ものとなるのが、昭和43年の広報やまつりです。
その記事には友甫の父である菊池友元道恒(1781~1855)についての記述があります。
記事によると、友元は関岡村飯野の農家で生まれ、病気で苦しんでいる方々を救うために医師となったそうで、その子孫たちも医師の道を継いでいます。
友元には二男二女があり、長男が友甫孝恒であり、次男は孝昭という名であるとのこと。
友甫の墓石には明治18年12月18日「立」とあったので、墓石を建てたのがその日で、逝去したのはもっと以前、たとえば2年以上前であれば儀右衛門の兄であるという辻褄が合う・・・と思っていたのですが、菩提寺に確認したところ、亡くなったのがこの日で間違いないようで、可能性が一つ潰れました。
謎②
・儀右衛門は友輔三男と記載されていたが、それは誤り?
・本当は友元の次男・孝昭?それにしても年齢が逆転してしまう・・・
・それとも友輔なる人物が他に存在した?
菊池家がある関岡村一帯は、おおよそが地内にある真言宗泉福院の檀家のようですが、その泉福院のご住職にお話を伺った際、「関岡の菊池家はもともと3軒あり、一帯の菊池家はその子孫です。もともとの3軒も、親戚だったと考えられます。」とご教示いただけました。
そこで白河の法務局へ、あたり一帯の旧土地台帳の写しを交付いただけるよう請求。
菊池率の高さもさることながら、気になるのが「菊地」から「菊池」へと修正、もしくは願いにより改正している台帳がやたらと目に付いたこと。
我が家の土地台帳も「菊池」となっていますし・・・。
謎③
・「菊地」と「菊池」の使い分けがなんらかの理由でなされていた?
・該当地域の旧土地台帳上は、最終的に「菊地」姓は存在しない(全て「菊池」に修正されている)。
高祖父・幸吉と、その兄・初太郎には妹が一人おり、宮城県へ嫁いでいます。
高祖父兄弟はともに屈斜路に入植し、妹は宮城へ。
つまり、儀平の子孫は福島に誰も残っていないのです。
最古の戸籍しか情報がありませんが、儀右衛門には長女・ハツと、三女・シモが確認されています。
ハツは上関河内村からの婿養子、近藤儀平を迎えて家を継ぎましたが、生まれが嘉永5(1852)年。父・儀右衛門が42歳、母・ヤスが39歳のときの子となります。
戸籍編製時は儀右衛門76歳、ヤス73歳。
もしかすると、戸籍編製前に家を出ている子どもがいることも考えられます。
また、三女のシモに至っては、慶応2(1866)年生まれであり、父が56歳、母が53歳のときの子。
シモは24歳で茨城県常陸太田市徳田の菊池市之右衛門家に嫁いでおりますが、この生まれ年だと、当時14歳であったハツの子、もしくはこの戸籍に登場していない儀右衛門の子の子と考えるのが自然のような気がしてきます。あくまでも推測の域を出ませんが・・・。
なんらかの事情で、儀右衛門の子という形をとらざるをえなかったのかもしれません。
謎④
・他にもいそうな儀右衛門の子の存在
前述の菊池友元ですが、出生した番地と、のちに医院を開業して居住していた番地が異なります。
医院を開業して住んでいた番地の子孫の方に見せていただいた戸籍は、友甫の長男が戸主のもの。
そこで、おととし友元が生まれた地番の菊池家に突撃させていただき、戸籍取得のための委任状を書いていただきました。
そのお宅は、友甫家の子孫の方が本家と呼んでいる家。
きっと戸籍に手掛かりがあるはず!と勇んで交付してもらったのです。
すると、最古の戸主の父として「菊池活次郎」という初登場の名前が・・・。
年代的には友甫や儀右衛門と同世代を生きた人物のようです。
謎⑤
・友甫、儀右衛門、活次郎。どのような関係なのだろうか・・・?
私の以前に、平成5(1993)年に亡くなった大叔父が菊地家のルーツを調べていたらしく、高祖父・幸吉とその兄・初太郎は、本家から「帰ってこい」と言われていたらしいと、大叔父の弟より聞いたことがあります。
その大叔父は、本家に行き、たいそう歓迎されたそうなのです。
謎⑥
・菊地の本家が存在する(した)!
・本家はどこにあるのか?
また、かつて東舘にある東慶寺のご住職に過去帳を探していただいたところ、儀右衛門、ヤス、儀平、ハツのことを記述した部分を見つけてくださいました。
しかし、儀右衛門とヤスは儀平の父と母、儀平は初太郎の父と記載されているので違和感はないのですが、ハツのみ幸吉の母と記載されていて、初太郎はこの時点で家を出ていたのかも?という疑念がわきます。
なお、「菊池」と記載されております。
そしてこれはただの間違いでしょうが、幸吉は「孝吉」、そしてなぜか鈴木を消されて菊池に直されています。
明治30(1897)年に儀平が亡くなった時は初太郎23歳。そして家督相続。
明治39(1906)年にハツが亡くなった時は初太郎32歳。戸籍の筆頭者であり、ハツも籍に居り、結婚(妻は茨城県大子町久野瀬の植田家より)もしています。
謎⑦
・初太郎は家を出ていた時期がある?
そして、東慶寺には菊地家のお墓が無いとのこと!!
その後に出会えた初太郎の子孫にもうかがいましたが、儀平以前の遺骨については存じ上げないそうで・・・
謎⑧
・菊地家のお墓はどこに!!?
・・・と、自分の家のことなのに謎だらけでさっぱり先に進まない菊地家の調査。
矢祭町には3度訪れ、お手紙もけっこうなお宅からご返事いただいたのにも関わらず、うちの先祖を知る人はまったく見つかりません。
なんとかならんかなぁ・・・?
皆川の大叔母との邂逅など
先日、職場の夏休みを利用し、空知地方へ墓地探索に行かせてもらうことができました。
なにせ、墓地ばかりを周るものですから、家族旅行の際には果たせない事案でした。
子どもたちも大きくなり、ついに単独行動が叶ったのです。
実に、2013年1月の虎ノ門出張以来、7年9か月ぶりの一人旅。
2泊3日で美唄、砂川、深川の各墓地を周ってきました。
しかし、成果はほとんど無し・・・
関係あるかもしれない!くらいの収穫しかありませんでした。
そして最終日、せっかくチャンスをもらったのに、このまま帰るのは悔しい。
そう思い、宿泊していた新十津川町の宿から伯父(母の兄)に電話。
ほど近い月形町に住む母方祖母の妹の連絡先を聞いてコンタクトをとった結果、初めて大叔母に会うことができる運びと相成ったのです。
大叔母は、御年87歳。
祖母・平野ゆき(1929~2014)の4歳下の妹であり、曾祖父・皆川征露久(1905~1954)の四女。
曾祖父の兄・皆川富次の二男(2004年に没)といとこ同士で結婚したため、姓は皆川のままとなっています。
大叔母はやっぱり亡くなったばあちゃんに雰囲気が似ており、とても懐かしい雰囲気に包まれていました。
大叔母の話を羅列してみると、
・新潟から北村(現在の岩見沢市北村)に移住してきたが、その頃のことは忘れてしまった。
・北村から釧路の別保炭鉱に移住。別保小学校に入学した。
・小学校1年生のころに長姉とともに新潟へ遊びに行っていたが、その間に家族は樺太(恵須取町上恵須取の布禮)に移住してしまい、姉とともに3週間かけて新潟~函館~稚内を経て布札に辿り着いた。
・そのころ、ゆきが嫁入りすることとなる平野家の近く(とはいえ遠かったらしい)に住んでいたが、「平野家の方がうちよりも街だった」とのこと。
・平野も皆川も農業だったが、祖父・平野政次(1922~2018)は、近所の青年たちを鍛える?役目を担っていた。
・ばあちゃんはおとなしい女の子だった(大叔母はにぎやかだった)。
・平野の曾祖父は熊にやられたが、住んでるあたりでは熊なんて見たことなかった。
・北村の実家も本家も、農業を辞めてしまっている。
・新潟にはお墓を守ってくれている人がいるが、存命なら100歳くらいなので、いまはどうなっているか・・・
・・・と、体調がすぐれない中で30分ほど、いろいろお話していただけました。
「ウチの人達は1月にけっこう亡くなるから、私も気を付けないとね」と。
帰りに手を握らせていただくと、何故か涙があふれ、泣きながら「お元気で!」とお別れ。
最後の最後で素晴らしく有意義な出来事でありました。
・・・そんな折、我が家に1通の封筒が届きました。
8月に厚生労働省へ照会をかけていたもの。
○ロシア連邦政府等から提供された資料の写しの請求について
.当室では、旧ソ連邦に抑留された方について、ロシア政府から提供された旧ソ連邦抑留中死亡者名簿、個人別の資料(ロシア語により記載された資料)、また日本側資料の「身上申告書」(終戦後、外地より帰還した軍人軍属が上陸地において原則として自ら調製提出したもの)などの資料を保管しております。これらの資料についてのご照会は、個人情報に関わるものであり、プライバシー保護の観点から、抑留者のご遺族、抑留された方ご本人、もしくはご家族であることの身元を確認した上で、文書によりお答えすることとしております。」
シベリア抑留を経験している祖父・平野政次についての資料があるのではないかと思い、期待をもって照会していたものです。
しかし、回答は「該当資料はありませんでした」というもの。
・・・2か月待ってこれかぁ(>_<)
ん?後ろに何かついてる?
「中国残留邦人等支援室」からの、
・乗船者名簿
・義勇隊指導員在籍表(昭和25年7月)
・・・この2点が添付されていました。
???中国???
乗船者名簿には、船名「白竜丸」。昭和24年7月20日に真岡を出港し、22日に函館入港。25~26日にかけて上陸したとの記載が。あとは「男農」「上恵須取」。
落ち着き先住所として、高祖母が身を寄せていた祖父の叔母の家の住所が記されています。
そして義勇隊指導員在籍表には、「恵須取町 平野政次」とあるのみ。
さっぱり??でしたが、じいちゃんが樺太から引き揚げてきた日と、義勇隊指導員という立場であったことが判明。
注釈に、「義勇隊」とは「満蒙開拓青年義勇隊」のことであると記載されていました。
Wikipediaによると、「満蒙開拓青年義勇軍」(「義勇隊」ではない?)とあります。
引用させていただくと、「日本内地の数え年16歳から19歳の青少年を満州国に開拓民として送出する制度であり、満蒙開拓団に代表される満蒙開拓民送出事業の後半の主要形態である」
しかし、この制度は昭和7~20年で終わっています。満州が日本ではなくなったのですから、そうですよね。
この名簿は昭和25年7月ですから、終戦後5年経っています。
???
いったいどういった経緯で作成された名簿なのか?
謎が深まります・・・。
7か月近くもほっぽってしまった
前回の更新から、はや半年以上。
この間にいろんなことがありました。
伯父、伯母を相次いで亡くし、
母の脳腫瘍再々発、
そしてコロナ禍により、みなさんとおなじように生活が一変し、さらに仕事量が激増。
ぜんぜん日常が戻ってくる気配はありませんでした。
日が変わるくらいのタイミングで帰っても、中一の娘がまだ宿題をやっていることもしばしばあり、学生も随分と影響を受けているんだなぁとかわいそうになってきます。
カレンダーどおりに休めたこの週末。
お盆ということもあり、ひさしぶりにこうして家のパソコンに向かい合ってキーボードを叩く気になりました。
とはいえ、さいきんは釧路でも道外ナンバーを多く見るようになりました。
観光客のかたがたが多くいらっしゃっているんですね。
そういう時期ですから、もうなかなかの高齢になってきた親戚たちにはいっさい会えない、会わないことにしました。自分たちのせいでコロナに罹ってしまったら・・・と思うと。
なお、ここさいきんの家系探求に関するトピックスは・・・なにも無し!
いずれまた、趣味に没頭できる時間が訪れるまでは、みんなで辛抱ですね!
そんな折にぜんぜん関係ない話ですが、先週の日曜日に十勝スピードウェイでお祭りがあったので辛抱たまらず行ってきたんです。
ケンメリスカイラインとサイバーCR-Xが同じくらいのサイズでびっくりしました。ヴィッツの方がはるかに大きいです。
子どもの頃のイメージに反して、昔のクルマは小さいんですね。
なんだかグランツーリスモのリプレイ画面みたいな写真。
あと、子どもの頃に強烈なインパクトを遺したスカイラインシルエットを模した鉄仮面も!
イベントに赴いたおかげで、ひさしぶりに楽しい気持ちになりました。
リフレッシュは大事ですね!
そうだ!たいへんなことを思い出した!
おととし訪れた福島県矢祭町関岡の菊池本家のお墓なんですが、もともとはこんな感じでした。
しかし!Googleマップでオンライン墓参りをしようと、こないだひさしぶりに見てみると・・・
ぬぁぁぁぁぁあ!!!!!!!
土砂崩れがぁぁぁぁ・・・・・・・(ノД`)・゜・。
今はどうなってるんだろう・・・飛んでいきたい。。。
ハッピーバースデイ♪
後厄の今年、正月からあまり良いこと無く過ぎてきました。
滑り台につっかかって転んだり、
あぐらをかいていて、足がしびれているのに気づかず立ち上がって足の甲で着地して捻挫したり、
Windows7を10へとグレードアップするのに丸々4日費やしたり、
数少ない釧路市内の親族だった叔父(父の姉の旦那さん)が急逝したり、
娘が吹奏楽で全道大会を逃したり、
ステップワゴンの車検でけっこう持っていかれたり、
・・・まぁ、それなりにいろいろ心身にダメージを負った1月でした。
そんな1月も間もなく終わろうとしていますが、今朝ふと「あぁ、今日はばあちゃんの誕生日だなぁ・・・」と思ったわけです。
菊地のばあちゃんは2008年の1月19日に亡くなったので、今年でちょうど13回忌。
いまもし生きていたら、今日が106歳の誕生日(1914年1月30日生まれ)でした。
そういえば小学生の頃、ばあちゃんがかの沢村栄治(戦死した伝説の巨人軍投手)よりも年上だと知って、「ばあちゃんすげえっ!」と思ったものでした。
そんな折、釧路はあいにくの大雪。
今まで降らなかったことの帳尻あわせのように、やけくそな降り方でした。こんちくしょう!ってなもんです。
風が強いので学校も臨時休校。ホワイトアウトしたら何にも見えませんからね。
朝から家のまわり、そして職場の駐車場を雪かき。
何とか踏ん張って職場に辿り着き、ほうっと安堵。
お昼になりおにぎりを食べていると、函館の母さんから電話が!
また身内に何かあったのかしら・・・(;'∀')
ドキドキして電話に出ると、「さっき11時15分に(妹の子どもが)産まれたから~♪」という予想外の嬉しい報告でした。
昨年、函館(の端っこ)の実家からほど近い七飯町の杉本青年と結婚した妹に、初子が生まれたのです!
予定日は2月20日前後だったので、ぜんぜん心の準備ができていませんでしたが、超うれしい知らせでした(*^-^*)
私にとっては初めての甥っ子。
元気に育ってほしいと心から願っております。
うちの両親は、うちの子ども達とは年に1~2回しか会えない状況(釧路と函館とでは離れすぎていて)でしたので、妹の子どもは初めての身近な孫。
今まで何の刺激もなく生活していた両親でしたが、彼が両親のポジティブライフに一役買ってくれるのではないかと、秘かに期待していたりします。
ロクなことがなかった1月でしたが、最後に逆転ホームランな出来事でチャラかな♪
久しぶりに
きのうは釧路もなかなかの雪が降りました。
すると、私と妻が仕事をしているうちに、子どもたちが家の周りを雪かきしてくれたのです!
なかなかしっかりと除雪されておりまして、こんなに頼りになるくらいに成長したんだなぁと、感慨深い思いでございました。
さて、さいきんは家系の調査に関してはめっきりモチベーションが下がっていたのですが、ちょびっとだけ調べてみたことがあるので綴ってみます。
妻の曾祖母・佐藤みよ(1903~91)の実家である、鳥取県鳥取市国府町荒舟の湯谷家。
といっても荒舟の湯谷のことということはないのですが、戦国時代に湯谷を名乗っていた人物について。
さかのぼること室町時代以前に武蔵国の広沢郷(今の埼玉県朝霞市あたり)を領していた廣澤氏という一族が居りました。
その中に「和知」という地があり、そこを居所とした廣澤氏が和智姓を名乗ったようです。
和智一族は、その後は300年以上にわたり、足利氏、山名氏、そして尼子氏や毛利氏の家臣、そして同盟を結ぶ家として一定の地位を築きました。
しかし、時は戦国。第9代の当主となる和智左衛門誠春の時代になり、事件が起きます。
誠春が開いた饗宴で、大名であった毛利隆元が不審な死を遂げてしまうのです。
毒殺を疑われた誠春は、嘆き悲しんだ隆元の父である毛利元就によって厳島に押し込められましたが、ともに誠春の実弟も押し込められたのです。
その実弟こそ、湯谷又八郎久豊。なんでかわかりませんが「湯谷」を名乗っていた人物です。
厳島へ押し込められて半年後、和智誠春と湯谷久豊の兄弟は脱出の機会を伺い、厳島神社本殿に立て籠るという強硬策に出ます。
それにともなって神社での神事が行えないという事態に。
それから約1か月後、堪忍袋の緒が切れた毛利元就により、誠春も久豊も始末されてしまいました。
和智誠春は愛息の仇だったのがほぼ間違いなかったようですが(積極的に嫌疑を晴らそうとしなかったらしい)、誠春の息子は元就に対して誠春との親子の縁を切ることや自分は関係ないと訴えて見逃されています。和智家は見事に存続したのです。
しかし湯谷久豊の息子は、元就に抗ったことから誅殺されてしまいました。
悲しいことに、湯谷はここで滅ぼされております。
久豊が隆元謀殺に関係していたのかは不明です。兄を慕っていたのでしょうか。それとも謀殺に加担していたのでしょうか・・・。
この廣澤→和知→湯谷の流れが現在の荒舟湯谷家と繋がるかは不明ですが、興味深い話ではありました。
なお、この湯谷久豊ですが、姓は「柚谷」、名は「元家」とも云われているようです。
いったいどういう由来で「ゆたに」を名乗っていたのかが気になるところですが、和智と同じく地名由来でしょうかね?
ちなみに以下は、太田亮先生の「姓氏家系大事典」の和知項と湯谷項の抜粋と、勝手な意訳です。
・和知は、初め武蔵の廣澤を領して廣澤を名乗る。備前藤戸の軍功により、和知を含む12郡を賜る。和知に住んだことから、和知を名乗る
・永禄の末、和知隆實のころは毛利家に従うも厳島に押し込められ、毛利を憤らせて弟湯谷とともに滅ぼされる
・備後国三谿郡の豪族、和知左衛門隆實の弟が湯谷又八郎久豊を名乗る
・萩原山は家原村、大谷村(広島県三次市三良坂町大谷)にかかる。享禄のころは湯谷又八郎の居所。灰塚山の福山は萩原城の子城
・鳥巣山は三玉村(三次市吉舎町三玉)にあり、赤松山城則久、また加板原佐渡の別所。一説に加板原は湯谷又八郎のこと。廣澤元家も同人なりという
・安西軍策に「高橋大九郎家臣湯谷氏」を収める