おもえば変だけど・・・な戸籍謄本
あれは13年前になりますか。
娘が生まれるとわかった時から、子どもに祖先のことを伝えるべく家系探求を始めたばかりの頃でした。
母方平野家の戸籍や除籍を取得するべく、身重の妻に留守を託し、夏休みを利用して小清水町役場を訪れたのです。
その時点では、わたしの知識もピカピカの一年生。
出してもらった戸籍を見て、おぉ・・・知らない情報がわんさか載ってる~~(◎_◎;)と、大興奮していたものです。
2007年当時はまだ戸籍が電算化されておらず、原本からのコピーだったのでけっこう待たされましたね。保存のしづらいB4サイズでしたし。
小清水町の戸籍でもっともさかのぼることができたのは、高祖父・平野儀三郎(1866~1939)が筆頭のもの。
大正5(1916)年6月に小清水村へ転籍してきており、その際に編製された戸籍になります。
小清水以前には、明治34(1901)年4月8日に道南の利別村(現在の今金町)に転籍してきており、さらにその前は東京府北豊島郡大泉村(現在の練馬区西大泉地区)に籍があったことが記載されていました。
そしてこの頃はまったく疑問に思わなかったのですが、この戸籍には儀三郎の義父母(儀三郎は婿養子なので)や義妹夫婦が在籍しています。
しかし、なんということか・・・父母も義妹夫婦も、東京に戸籍を置いていたころにすでに分家して、籍を離れているのですよ(; ・`д・´)
義父・平野丑松(1827~1903)の欄には、こう記されています。
『明治17(1884)年1月24日隠居
明治28(1895)年2月23日東京府北豊島郡大泉村大字小榑1582番地へ妻子携帯分家す
母の名元戸籍に因り知ること能わざるに依り省略』・・・
また、義母・はつ(1819~1910)の欄には、
『東京府北多摩郡田無町 下田忠藏長女
明治28年2月23日夫丑松に従い分家す
母の名元戸籍に因り知ること能わざるに依り省略』・・・
丑松夫妻については東京時代の明治28年に分家しておりますので、その後の明治34年に転籍した利別村、そして大正5年に転籍した小清水村の戸籍に記載される必要のない人物であったのではないかと思われます。
また、丑松夫妻とともに義妹(儀三郎の妻である「いち(1863~1953)」の妹)夫妻も丑松に従って分家。
この、妹である「かの」の夫で、加藤家からの養子である音五郎が、本家を継いでおります。
この音五郎夫妻も、利別村、そして小清水村の戸籍に在籍しているのです。
当時はこういうものなんだなっていう理解だったのですが、その後、他にそのような除籍になった人が転籍後にも載っている戸籍を見ることがなかったため、この戸籍が特別おかしいんだなと思った次第です。
しかしながら練馬区は80年廃棄のため、儀三郎の戸籍は残っておらず、もしも利別や小清水の戸籍に丑松たちの名前がなければ、永遠にわからないままだったのです。
これは非常に幸運なことであったと思います。
本来であれば載せなくてもよい人物を、わざわざ記載してくれていたのですから。
おそらく当時は戸籍係の方も慣れていなく、持ってきた戸籍を基にしてベタに新たな戸籍を編製したため、このようなことになったのでは・・・?と想像しています。なお、利別村の戸籍は、滅失の虞ありということで2度にわたり再製されていますが、丑松たちの記載は残ったままでした。
出会えたことが奇跡だった丑松夫妻、そして最古の名として記載のある丑松の父・平野仙之助。
当時のどたばた、もしくは業務の勘違いにより、たまたま後世に遺された祖先の名。
奇跡に感謝し、もっと後世に伝えていきたいと思います。
丑松の父の名ですが、練馬区にギリギリ遺されていた昭和6(1931)年除籍の音五郎の戸籍には、以下のような書かれ方をしています。
両親の名が空っぽ・・・
たまに旧い戸籍には載っていて、次代の戸籍で父欄が空白になっているものが散見されますが、これはいったいどういうことなのでしょうね・・・?
なお、戸主である儀三郎の欄、
『明治16(1883)年4月24日 東京府北豊島郡田無町 新倉治兵衛次男養嗣子入籍
明治17(1884)年1月24日 養父丑松隠居に付き相続
明治27(1894)年12月9日失踪(!)
明治28(1895)年2月17日復帰す
東京府北豊島郡大泉村大字小榑1583番地より転籍届出 明治34(1901)年4月8日受付入籍
北海道瀬棚郡利別村字メップ番外地より転籍届出 大正5(1916)年6月13日受付入籍
斜里郡小清水村大字止別村字止別16線29番地に転籍届出 大正13(1924)年3月31日受付
(樺太名好郡恵須取町大字上恵須取字布礼南2線69番地に転籍届出 昭和13(1938)年8月20日受付)
昭和14(1939)年2月22日午前3時 樺太名好郡恵須取町大字上恵須取字布礼南2線69番地に於いて死亡 同居者平野とよみ(私のひいばあちゃん。長男の妻)届出 昭和15年5月2日受付
昭和15(1940)年5月20日平野政次(私のじいちゃん)の家督相続届出ありたるに因り本戸籍を抹消す』
・・・?
樺太への転籍がカッコ書きになっており、無かったこととされているようです。そのおかげでこれ以後のことがわかったため、これも幸運でした。
その翌年、波乱の開拓人生を送った儀三郎は、脳卒中で急逝。
家督を継ぐのは長男・留五郎のはずだったのですが、儀三郎よりも2年前に、罠にかかった熊を始末しようとしたところ、返り討ちに遭って急逝してしまっています。
そのため、若干18歳だったじいちゃんが家督を継ぐことに。
儀三郎の失踪や復帰などは、利別の再製されていた戸籍では記載がありませんでした。抹消されたのでしょうね。
そんな戸籍と序盤に出会っていたんだなって思うと、ご先祖さまのお導きなんじゃないかなと考えさせられます。
あらためて小生瀬石井家の謎
水戸藩士であった関鉄之介(1824~62)wikipediaを主謀者とした一味が、井伊直弼大老を暗殺した歴史上の大事件。
事件後にさまざまな地で逃走を続けた関は、事件から2年後に越後湯沢で捕えられて斬首されることとなりましたが、その関が主に潜んでいたのが現在の茨城県久慈郡大子町近辺。
匿っていたのは、大子町の名士である櫻岡家。
その櫻岡家の親類として関の逃亡手助けをしていた中に、石井重衛門という人物がいます。
石井重衛門。
私の高祖母の実家である大子町小生瀬の石井家、高祖母の祖父である石井重四郎と、名前がそっくりです。
そこで、重四郎=重衛門なのではないかという淡い期待を持って、櫻岡家子孫の方に質問をぶつけさせていただきました。
しかしながら、重衛門の周りの人物について調べていただくと、まったく知る名前が出てこず・・・。
祖先である石井重四郎は戸籍で知ることができた最古の名ですが、その子は石井庄衛門(正右エ門とも。1837~1902)。
庄衛門の妻は外大野の齊藤善治エ門の長女・ふゆ(1839~1909)。
庄衛門・ふゆ夫妻の子は、酉次郎、鐡之助、すゐ(私の高祖母)となっています。
しかし重衛門はといえば、父は石井源次兵衛義房。さらにその父は石井久治衛門義教。
源次兵衛の妻の弟、飯村平助が櫻岡家に養子に入り、櫻岡源次衛門直方となっており、その縁で重衛門は櫻岡家の親戚(櫻岡源次衛門の甥)となっております。
世代としては、重衛門と庄衛門が同世代であるかと思われます。
そして重衛門の子は兵衛門、忠蔵、権五郎、百太郎。弟に伝重郎(平八郎とも)。
いずれも存じない名・・・
少なくとも、重四郎=重衛門ではないのだろうなというのが結論となりました。
また、かつて大子町出身の名字研究家、髙信幸男氏に石井家について質問させていただいたことがありました。
ほどなくして石井家墓地の写真を送っていただいたのですが、その写真では雰囲気しかわからず。
のちに現地を訪れ、あらかじめアポを取っていた石井さんにお会いさせていただきました。
この石井さんは、戸籍を見せていただいたところ、石井庄次兵衛さんという方を祖としているのを確認。また新しい名前が登場!
石井家の墓地を案内していただきましたが、新しい墓石が4基ならんでおり、髙信先生から送っていただいた写真とは違う雰囲気。
すると石井さんから、「昔からウチが面倒見てる益子っていう庄屋の墓もあるんだけど、見てみるか?」との言葉。
せっかくなので案内していただくと、そこには髙信先生から送っていただいた写真と同じ光景が!!
でも益子(ますこ)さん・・・?
よくよく見てみると、「益子庄右エ門」という名が刻まれた石もあります。
ウチの石井家は、もともと益子で、石井に名前を変えた・・・?
いまは東京に拠点を移しているという益子家。
世話は石井家が担っており、年に一度は墓参りに訪れているとか。
いったい石井庄衛門と、どのような関係があるのだろう????
我が家の祖先たちは謎ばかり遺して、何も解決させてくれません。ご無体ですよ~(+o+)
▼判る限りのごちゃごちゃな石井家系図
今年最後、そしてひさしぶりのチャレンジは・・・
さいきん、いままで取得した除籍謄本を見直していたのです。
そんな中で、妻の高祖父(母父母父)・相木萬九郎(1848~1926)の実家であり、高祖母(母父父母)・森井タケ(1845~1922)の実家でもある髙谷家の除籍が目に留まりました。
そこが高谷家があった地です。
我が家で髙谷家の除籍を取得できたのは、偶然でした。
高祖母・タケは森井半左エ門(1853~1922)に嫁ぐ以前、髙谷重太郎なる人物に嫁いでおり、そこでタケとの間に生まれた重太郎の忘れ形見、髙谷福松(1864~1908)の除籍に母としてタケが在籍していたのです。
最初は、「あら、傍系の除籍が取れた~」というくらいの気持ちだったのですが、そののちの大正4年式戸籍にタケの父として「亡髙谷萬兵衛」とあったので、「おりょっ!?」となったわけです。
その福松が戸主となった事由は「明治18年1月13日 当村 髙谷萬兵衛従弟分家」とのこと。
同じく萬兵衛の戸籍に入っていた母・タケも、福松に従って福松の籍に入りました。
萬兵衛と福松はイトコ。
ということは、萬兵衛の親と福松の親はきょうだい。
「従弟」というくらいですから、福松の親は萬兵衛の親からみたら弟か妹なのでしょう。
それで、タケが亡くなった最後の戸籍を見てみると、
タケは髙谷萬兵衛の長女。
福松のイトコである息子の萬兵衛と同名ですので、萬兵衛の名は世襲のようですね。
とすると、髙谷重太郎は婿養子ということになるのかな?
いろいろと判らない~。。。
・・・福松が分家した明治18(1885)年。明治19年式戸籍が編成される前年。
もし、タケの父・先代萬兵エか母・ユリが萬兵衛の明治19年式戸籍に入っているならば、取得できるはず!
一縷の望みをかけて、24日に八雲町へ郵送請求してみました。年末で忙しいのに・・・と思いながらですけれど。
そして連絡を本日いただき、残念な結果を告げられました(+_+)
しかし、「髙谷萬兵衛の戸籍には妻と子しかいないです」との回答を得ることができましたし、「いろいろ検索をかけてみましたが、やはりいませんでした。」とおっしゃってくださいましたので、あきらめがつきました。
先代萬兵エとユリは、明治19年式戸籍編製時点で既に亡くなっていたようです。
ちなみに高祖父・相木萬九郎の父は「髙谷萬藏」。名前がそっくりな萬兵衛との関係性も知りたかっただけに、至極残念。
実はこの請求は12年前にも行っており、諦めきれずに再度のチャレンジだったのです。
でもこれでホントに終わりですね。
その後、ひととおり他の除籍をながめてみましたが、もうワンチャンありそうな除籍は無し。
あとは直系の子孫を探して「除籍を取らせていただきたいので委任状を書いてください!」という、超ハードコアなミッションとなります。
わざわざそんないばらの道を歩くなんてMっ気全開ですけれど、ぼちぼちやっていくか~(+o+)
どんどんこういうことが厳しくなっていく(法律的にも世間的にも人の心も情報量的にも)のは明らかなので、できる範囲で後悔しないようにミッションを達成してきたいですね!
父系近藤家について、いま一度
菊地儀平(1844~97)。
福島から屈斜路に入植してきた私の高祖父・菊地幸吉(1874~1959)の父親です。
私から見ると「父父父父父」。非常に大事な人物。
我が菊地家の戸籍は、東白川郡東舘村で編成されたこの菊地儀平が戸主のものが最古。
その儀平の欄には、「同郡上関河内村 近藤勝右衛門 五男」と記載。
上関河内(かみせきごうど)は、かつて関河内だった地が、江戸期に上下分かれた地。
現在は東舘と同じく矢祭町の大字となっております。
その儀平が生まれ育った近藤家。
いまは彼の地に3軒の近藤姓がいらっしゃいますが、元をたどるとどのお宅も「近藤数右衛門」という、かつて上関河内の名主(庄屋)だった家をルーツとしています。
明治2(1869)年に近辺で打ちこわしがあったのですが、その首謀者処分の公文書中に「上関河内村 名主 數右衛門」の記載が。
いつから近藤家が名主の立場であったかは不詳ですが、数右衛門は代々世襲のようで、旧い近藤家の墓石には寛政元(1741)年に没した「近藤數右衛門義次」の名があります。
それを鑑みると、少なくとも「近藤數右衛門」という名には120年以上の歴史があったのだと思われます。
なお、享保3(1718)年に「近藤新六藤原義高」なる人物が、父母の墓石を建立しているのが確認できた最古の記録となっています。
「近藤」という苗字だけあり、藤原姓を名乗っていますね。
この地で300年以上の歴史を刻んできている旧家です。
その近藤家、確認できる最古の戸籍は、近藤邦彦(1850~1914)が戸主のもの。
そしてその父として近藤義冨(1811~90)が在籍していますが、この義冨こそが前述の公文書に記載のあった近藤數右衛門その人です。
邦彦は明治9(1876)年に上関河内村長として名があり、その時点では若干26歳でありました。
他の2軒の近藤家については、邦彦の弟が養子となった近藤新右衛門(義冨との関係は不明)家と、邦彦の養子(邦彦よりも17歳上!)が分家した家となっているようです。
この時点で、儀平の父として記載がある近藤勝右衛門という名は出てきていません。
儀平は五男。若くても儀平出生時で父親は30歳くらいでしょう。
30歳くらいだったと仮定すると、勝右衛門は文化10(1813)年あたりの生まれかと考えられます。
儀平の戸籍の勝右衛門については「亡」の文字が無いので、明治19年時点(当時73歳くらい?)で存命だと考えられるのですが・・・
子孫の方々の協力を仰がせていただき、残っている戸籍はすべて取得しているはずなのですけれどもね。
なお、儀平が菊地家に婿入りした時期は不明ですが、26歳だった明治4(1870)年に長子が生まれているので、それ以前でしょう。
壬申戸籍の編成が明治5(1871)年ですので、きっとそれよりも前となります。
当時、壬申戸籍の編製をどのように行ったのかはわかりませんが、こうなってくるとまた妄想が始まります。
①現在は存在しない近藤家に勝右衛門という人物が居たのでは・・・?
→上関河内の墓地では名前を見つけられず、ちょっと弱い。
②「かつえもん」ではなく、「かずえもん」だった
→戸籍編製時に口頭で手続きしたとするとありえる?年齢的にも儀平出生時は義冨33歳。めちゃめちゃ自然。もしくは儀平が漢字を間違えたとか・・・。
しかし、②については怪しい点もあります。
儀平が弘化元(1844)年9月15日生まれ。
義冨の長女が弘化2(1845)年3月28日生まれ。
もし儀平が義冨の子であるならば、妹との出生日が半年しか違わないのです。
また、近藤邦彦は義冨の長男として記載されていますが、邦彦は五男のはずの儀平よりも6歳下。
・・・いろいろと無理が生じてきました。
強引に推察してみることはもちろんできます。
儀平は五男だけれども、壬申戸籍編成前に養子に出たので、籍に残っていた邦彦が長男として記載された。
妹との出生日の差も、もしも違う母親だった場合ならばありえなくもない。
名主ならばそういったことも・・・?
あるいは、出生日を間違えて登録してしまったとか。
そして、義冨が56歳、妻が48歳の時に五女が生まれているので、五女の母親は妻ではないような気がする。
・・・近藤家の墓石には、以下の文字が彫られています。
明治7年2月4日 二男 彦信
明治13年10月13日 三男 彦三
明治15年8月3日 四男 和義・・・
年齢が彫られていないので何とも言えませんが、明治19年戸籍編製前に亡くなった男子3人。
戸籍上、邦彦の長男・近藤近彦は明治8(1875)年生まれ。
男子は近彦のみで、明治16(1883)年と19(1886)年に娘が生まれています。
この墓石に彫られている二男~四男は、邦彦の子と考えるのが自然でしょうか。
しかし長男が彫られておらず、近彦は二男が亡くなった日よりもあとに生まれています。
もしかすると、義冨の子の墓石かもしれない・・・ともおもったりしています。
菊地家と同じく、この近藤家(というか儀平の出自)についても謎が多く残ったまま、ぜんぜん進まずやきもきしています。
ドラえもんのタイムマシンがあればなぁ・・・
名前の読み方
以前、福島県白河市に住んでいた祖先の『角田』という姓が「かくた」なのか「つのだ」なのか、はたまた「すみだ」や「かどた」とも読める・・・といったお話を綴ったことがありました。
電話帳で「つのだ」だということが判明したのですが、こうしたことは姓に限ったことではありません。
※本日、F1チームのアルファタウリ・ホンダから、7年ぶりの日本人ドライバーとして角田裕毅(つのだ・ゆうき)のデビューが発表されました!!応援しないと!!
母方の高祖父である及川清之進(1871~1935)ですが、わたしは最初『きよのしん』だと思っておりました。
しかし、当時まだ健在だった祖母から、「おじいさんは『せいのしん』っていうんだよ」と教えてもらったことがあります。
下の名前は、現在も残っている「姓」より、当時を知る人が居ないと確かめようが無いなって思ったものです。
このときはばあちゃんが教えてくれなかったら、ずっと『きよのしん』でいくところでした。
あらためてそう思ったのが、先日亡くなった母方のじいちゃん・平野政次(1922~2018)。
ずっと名前は『まさじ』だと聞いていたのですが、お通夜の時に、司会の方が「ひらの『まさつぐ』さま」と言っているのです。
まさつぐ!?
どってんこきました!
じいちゃんは『まさじ』の名が気に入っていなかったらしく、『せいじ』と名乗っていたという話はなんとなく聞いたことがありました。
また、平野家(というよりも高祖父の実家である新倉家)では、男子に「治」もしくは「次」という字を付けるという流れもありました。
どちらも「じ」と読みますから、『まさじ』、『せいじ』ならばどちらもあるかな、と。
また、仕事とプライベートで使い分けていたとの話もありました。むむぅ。
また、かつてじいちゃんからすると義父にあたる、ばあちゃんの父親・皆川征露久(せいろく、1905~1954。日露戦争に勝利した月に産まれたから、この名になったそう)から昭和28年に来たハガキを見せてもらったことがあります。
そこには「平野政治様」との記載が(落書きがいっぱいあるけど)。
「治」!これはまさに『○○じ』と呼ばれていたことに他なりません。
でも、伯父も叔父も「どうやら『まさつぐ』であってるらしいんだ・・・」と、なんだか歯切れの悪い回答。
役場的には『まさつぐ』となっていたのかもしれません。じいちゃんが届出とかして。
この経緯は、残しておかなくてはならない事項かなと思っています。じいちゃん的には余計なことだとおもいますけど。
でもじいちゃんはなんでそんなに『まさじ』が嫌だったの??
そんなこともあり、名前の読みはホントにわからないなぁと思いながら直系の祖先を見てみると、
福島県白河市の藤田定蔵(1840~1903)は『さだぞう』とも『ていぞう』とも『じょうぞう(は、あまりないかな?)』とも読めます。
その父である藤田定左エ門は『じょうざえもん』とも『さだざえもん』とも。
茨城県つくば市の斉藤市郎は『しろう』なのか『いちろう』なのか。
東京田無の下田忠蔵は『ただぞう』、『ちゅうぞう』。
戦国時代のころを過ごしたと思われる岩手県九戸神社の宮司、妻からすると15代前の祖先である千葉真長は『さねなが』、『まさなが』。
※余談ですが、九戸村出身の元ヤクルトスワローズ、風張蓮 - Wikipedia(かざはり・れん)投手が、私の応援する横浜DeNAベイスターズに入団決定!㊗!
ちょっと気になる直系を見ただけでも、これだけいますね。
地域性などもあるかもしれませんし、真実はわからないでしょうが、最初に挙げているのが私がそうじゃないかなと思っている名です。
また、ばあちゃんは「平野ゆき」ですが、姉妹からは『雪子』と呼ばれていたようで、その長姉の「セツ」さんは『節子』だったり、おしりに「子」を付けるのが流行っていたこともあるらしいですね。
あと、茨城県大子町生まれの高祖母は戸籍上は『スエ』という名ですが、茨城の訛りなのか、みんなからは『スイ』と呼ばれていたようです。お墓にも『菊地スイ』と刻まれています。
いまの子どもたちは読みかたが昔の比じゃなくバリエーションがありますから、しっかりと読みも記録しておかないと、のちのち子孫たちが困っちゃうのでしょうね。
ご隠居さん
昭和22(1947)年の日本国憲法発布とともに、戸主制が廃止され、ともに隠居制度も廃止されました。
隠居をするには、満60歳以上になることと、完全の能力を有する家督相続人が相続を承認すること、という条件がありました。
ただし、上記条件を満たさずとも、戸主が病気等で家政を振るうことができない場合や、本家を家督相続するために現在の家の戸主を務めることができなくなる場合、そして女性の戸主だった場合などに特別に隠居が許されたようです。
さて、我が家はどうだったのでしょう。
まず、当菊地家ですが、明治19年式戸籍時点では福島県東白川郡東舘村、菊地儀平(1844~97)が戸主となっています。儀平は当時42歳です。
すでに義父の菊地儀右衛門(1810~90)は隠居していますが、明治19(1886)年時点で76歳。いつご隠居さんとなったのかは読み取ることはできません。
明治30(1897)年に儀平が53歳で世を去ると、長男の初太郎(1870~1942)が27歳で家督相続。
そして大正元(1912)年に、初太郎の弟で、私の高祖父である幸吉(1874~1959)が38歳で2軒隣に分家し、新たな戸主となります。
初太郎家は、北海道屈斜路→美幌に移住したのちの昭和17(1942)年5月4日に72歳だった初太郎が隠居届出。大子町下野宮の大森家より迎えた婿養子・菊地酉松(1898~1964)が44歳で家督を相続します。
初太郎は、そのわずか4カ月後に逝去。家督を譲って安心したのか、それとももともと病気で隠居したのか・・・そういったことは伝わっておりませんが、ギリギリで相続を終えていたため、初太郎の逝去でどたばたしなくても済んだのではないかと思われます。
幸吉はといえば、屈斜路に渡ったのちもそのまま戸主であり続け、昭和32年に現行の戸籍制度となるまで不変でした。
いっぽう、母方の平野家。
小榑村は現在の練馬区西大泉にあたります。
そして、残念なことに練馬区は除籍後80年廃棄を実施していたことから、明治19年式戸籍を取得することは叶いませんでした。
当時の戸主は、平野丑松(1827~1903)。明治19年式戸籍編製時点では59歳。まだ通常の隠居が法的に出来ない年齢です。
・・・だと思ったのですが、丑松の長女であり、私の高祖母でもある平野いち(1863~1953)が、20歳だった明治16(1883)年に田無町の新倉家よりお婿さんとして迎えた平野儀三郎(1866~1939)が、その翌年の明治17(1884)年に丑松の隠居により家督相続しております。
実に当時、丑松56歳、儀三郎は若干17歳。
60歳に達していないことから、通常の隠居ではなかったのでしょうか?
あるいは、年齢条件は努力義務的な感じで黙認されていたとか・・・?
その後、儀三郎は北海道の利別村(現在の今金町)→止別村(現在の小清水町)→樺太恵須取町と転籍。
71歳まで戸主のままでいたところ、私の曾祖父である長男の留五郎(1884~1937)が樺太で熊に殺られるという悲劇が起きてしまいました。
その2年後に、儀三郎は遠い樺太で波乱の人生を終えました。満72歳。急逝だったと聞きます。
そこできっと、一家は大慌てしたのではないでしょうか。
なにせ、跡継ぎがすでに世を去っており、家督を継げるといえば留五郎の次男、私の祖父である若干17歳の平野政次(1922~2018)だったのです。
奇しくも儀三郎が跡継ぎとなった年齢と同齢でした。
政次が戸主のまま小清水町へ引き揚げ、戸籍的には昭和32年の改製を迎えました。
じいちゃんは激動の樺太時代やシベリア抑留を経て、小清水町平野家の礎を築き、おととし亡くなるまで80年もの永きにわたり平野家当主であり続けたまさにレジェンドです。
ひとまず直系2家について綴ってみましたが、私の直系傍系で隠居を行っている祖先をまとめてみました。
生 | 退隠 | 齢 | 後継 | 齢 | |||
小野寺辰之助 | 岩手県九戸郡長興寺村 | 1808 | 1881 | 72 | 長男・亀吉 | 35 | |
湯谷德平 | 鳥取県法美郡荒舟村 | 1832 | 1883 | 51 | 長男・善太郎 | 21 | |
飯島太十郎 | 茨城県筑波郡牛縊村 | 1828 | 1883 | 54 | 長男・龍介 | 30 | |
山田善四郎 | 青森県下北郡関根村 | 1824 | 1884 | 59 | 長男・留藏 | 15 | |
石井庄衛門 | 茨城県久慈郡生瀬村 | 1837 | 1884 | 46 | 長男・酉次郎 | 22 | ※1度目 |
太田勇一郎 | 茨城県筑波郡牛縊村 | 1825 | 1884 | 58 | 長男・安造 | 31 | |
平野丑松 | 東京都北豊島郡小榑村 | 1827 | 1884 | 57 | 婿養子・儀三郎 | 17 | ※1度目 |
岩渕徳松 | 岩手県九戸郡戸田村 | 1827 | 1891 | 64 | 長男・石松 | 38 | |
佐藤佐平 | 宮城県刈田郡小村崎村 | 1826 | 1892 | 66 | 長男・佐助 | 46 | |
近藤清兵衛 | 福島県東白川郡豊里村 | 1830 | 1896 | 65 | 婿養子・兵右エ門 | 41 | |
植田庄三郎 | 茨城県久慈郡袋田村 | 1833 | 1896 | 62 | 長男・金太郎 | 31 | |
大久保末五郎 | 宮城県名取郡千貫村 | 1830 | 1896 | 65 | 婿養子・仁助 | 48 | |
藤田定藏 | 福島県西白河郡釜子村 | 1840 | 1897 | 57 | 婿養子・忠吉 | 35 | |
石井庄衛門 | 福島県東白川郡豊里村 | 1837 | 1898 | 61 | 次男・鐡之助 | 30 | ※2度目 |
平野丑松 | 東京都北豊島郡大泉村 | 1827 | 1901 | 73 | 婿養子・音五郎 | 38 | ※2度目 |
菊池健三 | 福島県東白川郡関岡村 | 1841 | 1902 | 60 | 長男・髙良 | 33 | |
小野寺亀吉 | 岩手県九戸郡長興寺村 | 1845 | 1906 | 60 | 長男・熊藏 | 41 | |
杉山治郎左衛門 | 青森県下北郡田名部村 | 1843 | 1911 | 68 | 長男・石松 | 39 | |
小出石五郎 | 新潟県西蒲原郡味方村 | 1847 | 1915 | 58 | 婿養子・福松 | 44 | |
柿﨑権兵衛 | 山形県最上郡大蔵村 | 1846 | 1917 | 71 | 長男・運次郎 | 38 | |
飯島龍介 | 茨城県筑波郡牛縊村 | 1853 | 1917 | 64 | 長男・才次郎 | 39 | |
岩渕石松 | 北海道空知郡砂川町 | 1853 | 1918 | 65 | 次男・馬吉 | 33 | |
森井半左エ門 | 北海道茅部郡落部村 | 1853 | 1918 | 64 | 長男・半次郎 | 36 | |
菊地初太郎 | 北海道網走郡美幌町 | 1970 | 1942 | 71 | 婿養子・酉松 | 43 | |
奥田亀之進 | 宮城県桃生郡矢本町 | 1879 | 1946 | 67 | 次男・博 | 45 |
もっとも若く隠居しているのは、高祖母の父・石井庄衛門(1837~1902)。46歳で22歳の長男・酉次郎に家督相続しています。
その後、庄衛門は酉次郎家より分家し、61歳で二度目の隠居。二男の鐡之助に家督を譲っています。
もっとも高齢で隠居しているのは、前述の平野丑松。儀三郎に家督を譲ったのち、上土支田村の加藤家より迎えた二女の婿養子である平野音五郎(1862~1931)に73歳で家督を譲っています。
なお、私の言う東京の平野本家は、この家の子孫の方です。
一覧を見てみると、60歳に満たない隠居も散見されますね。
この25件を考察すると、隠居の平均年齢は62.32歳。相続側の平均年齢は35歳となっています。
話はまったく変わりますが、この少ない例にもかかわらず、長男なのに酉次郎、才次郎、半次郎、運次郎という名があります。
この名前に入っている数字には、どういった意味が込められているのでしょうね・・・?
上に夭折した兄がいたとか、上に姉が居るとかかもしれませんが、戸籍で確認できる範囲では、全員長子でした。
なんだかまた中途半端な調査ですが、隠居にもいろいろあって、家の都合やいさかいとかもあったりするのでしょうね。
あと、明治期は戸主や60歳以上の者の嗣子・養子、そして北海道の人は徴兵されなかったということもあったそうなので(いろいろ制度が変わっているので不確か)、そういったことも隠居に関わってきたのかもしれません。
私たちの時代は、生涯現役を貫いていかないと隠居どころか普通の生活すらあやういですけども(-_-;)
諸説ありのパターン
高祖母の母(父父母母母)である藤田タツ(1846~1917)。
もともとは福島県西白河郡蕪内村(釜子村→東村の大字となって、現在は白河市東蕪内)、岡部弥七の二女として生を受けています。
この岡部家については以前も記したことがあるのですが、東村史によると・・・
「加茂を以て氏神とす。加茂県主氏にして遠祖は鴨の武津身の命なり師朝なるもの遠州敷島の郡浜松の庄岡部の郷に居り姓を岡部という」
そしてさらに調べてみると、静岡県浜松市中区に「伊場」という地がありまして、その地についてWikipediaの記述を見てみます。
「東伊場はかつて、山城国相良郡の賀茂神社の荘園で岡部郷と呼ばれていた。伊場と呼ばれるようになった時代や理由は定かではないが、賀茂神社領の斎場(いみば)であったところから「いば」に転じた。この領地を所有していた岡部氏はかつて京都上賀茂神社の神官をしていた賀茂成助にはじまり、成助の子孫にあたる賀茂師重の長女筑前局が文永年間に岡部郷を領地として賜り、筑前局の弟の孫にあたる賀茂定朝が京都からこの地に赴き土着した。国学者賀茂真淵はこの一族である。」
さらに伊場の賀茂神社の由来を引用させていただくと・・・、
「創建は鎌倉時代、文永の頃である。当時上賀茂神社の神官だった賀茂諸重の師童の娘、筑前局が朝廷の女官を退官後に遠江国浜松庄岡部郷を封地として与えられ、その封地に一社を構えたのがこの伊場の賀茂神社であった。その後、築前局の子孫が姓を岡部と改め、当主が代々賀茂神社の神官をつとめてきた。」
もうすこしいろいろとネットで調べてみると、山城国相楽郡加茂町(現在の京都府木津川市加茂)の岡田鴨神社(賀茂氏の祖である建角身命を祀る)の荘園で、遠江国敷知郡岡部郷と呼ばれていました。
・・・となるとわかり易くなるのかな?
その岡部郷を発祥とする岡部氏ですが、太田亮氏の「姓氏家系大辞典」によると藤原南家・二階堂爲憲(藤原爲憲、Wikiによると工藤為憲?)を祖としているようです。
爲憲から、時理―時信(駿河守)―維永―維綱(船越四郎)―清綱と繋がり、清綱が初めて岡部郷に居住して、岡部權守と名乗ったそう(Wikiによると「入江清綱」となっていて、その子が岡部泰綱)。
この後裔で、伊場に賀茂神社の末社の神職を代々務める旧家の分家筋の農家・岡部政信の子が、歌人・賀茂真淵(1697~1769)とのこと。
ぬぬ・・・太田亮氏の説だけ毛色が違うぞ・・・。二階堂氏をしらべても賀茂氏と繋がらないし(;・∀・)
その一族が、今の白河市東蕪内に居住するようになったのはなぜなのかは知れませんが、当岡部家の祖先は賀茂氏もしくは二階堂爲憲からつながる系譜なのだという説があることがわかったところで終わりにします。
諸説ありって、こういう感じなんですよね。。。