父の父の父の父の父の実家、近藤家の謎
祖先の謎シリーズ、まだ続けさせてください(/・ω・)/
今回はライトです。
菊地家の高祖父である幸吉(1874~1959)の父・菊地儀平(1844~97)が生まれ育った、福島県矢祭町上関河内(かみせきごうど)の近藤家についてです。
近藤姓といえば近江の藤原氏。現在の滋賀あたりにルーツがあると思われるのですが、さすがにそこまでは伝わってはおりません。
現在、上関河内には近藤家が2軒。
13年前ほど前からコンタクトをとらせていただき、2014年に亡くなられた当時の矢祭町議・近藤誠氏をはじめとした近藤家の方々にご協力いただけたことで、さまざまな情報を得ることができました。
これならすぐ縁故者が見つかるだろう(^-^)、菊地家との縁も何かわかるかもしれない!
・・・と、簡単にわくわくしていました。
しかし、その思いはどんどん闇に包まれていくのです。
誠さんからは、江戸後期に近藤數右衛門(数右衛門)という人がいて、江戸の終わりから明治の初めころに上関河内の庄屋をやっていたとか、飢饉の時に打ち毀しにあったとか・・・。
だけど旧いものは何も残ってないよ、と。
国立公文書館に遺されていた文書には、確かに明治2(1869)年に名主として「上関河内村 數右衛門(姓の記載は無し)」の名を見つけることができました。
なお菊地家の戸籍には、儀平の欄に「上関河内村 近藤勝右衛門五男」との記載。
「かずえもん」と「かつえもん」・・・。語感は似ていますが、おそらく別人であろうという前提ですすめます。
勝右衛門を探すべく近藤家の協力を仰いで除籍謄本を集め始めました。
委任状をいただけたり、お持ちの謄本を見せていただいたりして、上関河内の近藤家に関する明治19年式戸籍を、奇跡的にひととおり確認することができたのです!
しかし、勝右衛門どころか數右衛門も名前がありません。
近藤家の戸籍上、最古のお名前は文化8年に産まれた近藤義冨
義冨の息子には、上関河内村の村長を26歳にして務めていた長男・近藤邦彦(1850~1914)。
そして誠さんの祖先で、のちに分家となった二男の近藤彦雄(1853~1924)。
仮に義冨が明治2(1869)年の古文書に名のあった數右衛門だったとして(だとすると当時は58歳)、數右衛門=勝右衛門(訛ってたら語感が似てる)という仮の図式を考えてみました。
儀平は勝右衛門の五男。長男の邦彦が1850年に産まれているのに、五男の儀平が1844年生まれというのは無理があります。
しかし!邦彦誕生当時は義冨は39歳。
もしも壬申戸籍時代に除籍になった人を数えないで、残っていた邦彦を長男としていれば・・・
あるいは後妻の長男だと考えれば・・・
あながち無いとは言えないような気がしないような気がします。もやもや。
ちなみに、のちに近藤家の墓参をしたときにわかったのですが、數右衛門には諱が別にあったようです。近藤數右衛門藤原義冨という名を見つけることができました。もうひとつ関係や年代は不明ですが、近藤新六藤原義高という名も知ることができました。
昔ながらに藤原を名乗っていたのですね。
もう一軒近藤家があるのですが、そちらは清兵衛(1830~1896)さんという方が祖で、邦彦の養子(養父よりも14歳年上!実家は不明)にあたります。
むぅ、いったい勝右衛門はどこの人なのかしら?儀平の実家はどこなのかしら?
なお、近藤家の菩提寺は曹洞宗の積善寺だったそうですが、明治の初期に燃えてしまって廃寺になったそうで・・・残念。
ちなみに曹洞宗というのは菊地家と同じです。
そして家紋は、なんというか「隅切り鉄砲角に細違い鷹の羽」といった風情のもの。図鑑とかでは見たことない紋です。
むぅ、詰んだ~。義冨家から発展しているのはわかったのですが、勝右衛門がどこにも出てこない・・・
机の上ではもはや何もできない・・・
と、なってからはや5年ほどが経過しています。
誠さんという協力者もいなくなってしまった今、どのように調査をしていくか悩ましいところです。
以下は近藤家調査についての悩ましい歴史です。