果たして同一人物だろうか?
母の実家である平野家については、これまでもいろいろ綴ってきたところです。
平野家 【東京都練馬区西大泉】<丸に抱き茗荷>
2008/05/11 東京府北豊島郡小榑村→利別村→斜里村【平野家】
2011/08/13 平野家についてじいちゃんから得られた情報
その調査の中で、2年ほど前より新潟県村上市の方と高祖父・儀三郎についてのやりとりをさせていただいておりました。
その方は北海道紋別市の北、興部(おこっぺ)町出身。
どうやら、興部に平野儀三郎という名が知れているというのです。
大正11(1922)年に、当時の貴族院議員・柳原義光伯爵(大正天皇の従兄弟)が興部町にお越しになるということとなりました。
興部の実業家であった米田常作は、当時の粋を集めた住宅を築き、柳原伯爵をおもてなししたということです。
その住宅は米田御殿と云われ、現在もそのたたずまいを現代に残しております。
そこで、なぜ柳原伯爵が興部に来ることになったかということですが、そこで平野儀三郎という名が出てきます。
以下、興部町史より。
『柳原義光が興部にくることになったのには、平野儀三郎という人とのかかわりがあった。平野は米田の長男が東京の学校に通い、寄宿舎生活をしていた10歳のころ、学校の火事で大火傷をしたときに助けてくれた米田の恩人で、それが機縁となって両家の交際が続いていた。その平野は柳原との交わりがあり、柳原が「北海道に行ってみたい」と言ったとき、「それなら興部というところに知人がいるので」と、平野がすすめたという経緯があった。
来村の報を受けた米田は、平野への恩返しの意も込めて、一世一代のもてなしをと、何カ月も無い期間に建物を建て、庭を整え、築山を配した池を造って鯉を放したりと万全を尽くしたのであった。』
・・・ということで、平野儀三郎と柳原伯爵は、どういうわけか関わりがあったようなのです。
しかしながら、この平野儀三郎が、私の高祖父と同一人物なのかははっきりわかりません。
確かに、東京と北海道(現在の平野家がある小清水と興部は、距離はそれなりにあるものの、同じオホーツク地方)という共通項はありますが・・・。
そして、村上市の方からは、いろいろ情報を矢継ぎ早にいただいたりしておりました。
たとえば、こんな資料。
発起人総代の名が連なっている中に、米田氏とならんで儀三郎の名。
さらに賛助員として、柳原伯爵の名もあります。
ちなみに興隆寺の建立年代はわかりません(+o+)
あまりにも同一人物なのかの確証がないので、思い切って興部の図書館に連絡してみました。
すると、図書館の所蔵資料では特に何も進展がなかったそうなので、興隆寺に直接確認してくださったそうです。しかし、興隆寺の昔を知る方はおらず、2年ほど前にいらっしゃった住職さんは何もご存知ではないそうです。
さらには米田御殿を管理されている子孫(常作の孫の奥さん)の方に連絡を取ってくださいました。すると、話の中で儀三郎の名が出てきたそうで、「米田さんに菊地さんから連絡とってみたらいかがですか?」とのご返事をいただきました=^_^=
かつて、村上市の方からも米田さんの連絡先をうかがったことがありましたが、その時は躊躇して連絡できずじまいでした。
今回は図書館の方の仲介もありますから、ぜひとも連絡しないと!ということで、早速連絡をさせていただきました。
するとその米田さんは、20代で夫を亡くし、いきなり相続手続でたいへんな目にあったことや、常作さんとその奥さんが資産を遺してくれたおかげで、いま生活できていること、北見北斗高校(オホーツク管内では、一番賢い高校(^O^))時代の先生が、村岡花子(NHK「花子とアン」のモデル)と旧知の仲だったということなどをお話させていただきました。
ちなみに、「花子とアン」には、花子の友人として仲間由紀恵が扮する「蓮子」という女性がいましたが、その蓮子のモデルは柳原燁子。いわゆる柳原白蓮ですが、白蓮は柳原義光伯爵の異母妹にあたります。なにかいろいろと不思議な関わりが出てきました。
1時間以上にもわたる電話の結果、米田さんよりいろいろと資料を送っていただけることとなり、本日その資料が到着したのです。
次の写真は柳原伯爵が興部に来村された際の記念写真。
前列の左から3人目が柳原伯爵、4人目が伯爵と共に来村された三室戸敬光子爵。2人目が米田常作。5人目が常作の父で、興部に入植した久三郎。
前列は伯爵や米田家の方々なので、儀三郎が写っているとすると、後列のどこかかな?
こんな雰囲気だったんだなぁ、という写真も。
そして、今回のキモとなる平野儀三郎から米田常作に宛てた手紙。
私の祖先・儀三郎は練馬西大泉の人ですが、この差出人欄には下谷区とかいてあり、さらには消印も「下谷」となっています。そして消印の日付、「2・11・25」と読めますが、これが大正なのか昭和なのかがわかりませんでした。
このデザインの切手は大正2(1913)年~昭和12(1937)年まで使われていたものらしく、郵便料金もその間はずっと3銭のままだったようです。なんか、この判断はかなり難しいようで、切手の素材を見ればその筋の人ならわかるらしいんですけど・・・なにしろコピーなのでなんともいえません。どちらかが日曜日だったら!とも思ったんですが、大正2年も昭和2年も11月25日はド平日でした(^_^;)
ちなみに、儀三郎の住所は下谷区のどこなのか(「下谷区残尿」と見えますが、絶対違う)、さらには内容に関しても読めなくて難儀しているところです(T_T)
※後日、下谷区龍泉寺町350であることをご指摘いただきました。樋口一葉が明治26年ころに10か月だけ住んでいた場所の近くみたいです。内容に関しては、「米田さんのご隠居が、儀三郎に香典的なものを御前様に届けてもらったことの報告」のようです。御前様とは・・・?伯爵?また、米田さんによると、お姑さんがこの手紙を昭和2年のものだと言っていたという記憶があるとのお話。
そして、いちばん見てみたかったのは筆跡。
かつて新倉家より儀三郎の直筆と思われる画像をいただいていたのです。
それが明治26(1894)年3月14日に、新倉庄蔵(儀三郎の兄・茂助の子)を分家させるときの書面です。
う~ん。判断つかん(@_@;)
左の分家届のころは儀三郎28歳。形式ばった書類だから、きっと普通なら丁寧に書くでしょうね。
右は普通の手紙。大正2年なら47歳、昭和2年なら61歳。そんなに丁寧に書いていない?印象ですが・・・。
果たして同一人物の筆跡だろうか?少なくとも20年以上は経てるので、多少なりとも変わるでしょうが。。。
住所が練馬付近ではなくて下谷(今の台東区あたり)なのですが、祖父・政次曰く、「じさま(儀三郎)は北海道と東京を行ったり来たりしてた」とのことなので、絶対違うとも言い切れないところもあります。
村上市の方が推測するには、前述の米田氏の長男救出劇の舞台は、大正9(1920)年の北豊島郡西巣鴨村(当時)のようで、ますます居所が不可解に。
北海道の方も、小清水と興部は車でも2時間くらいかかるので、わりと遠いのです。鉄道も無いですし。
まだまだ謎は深まったままですが、もし最初の写真をじいちゃんに見せて、「おぉ!これじさまだ!」とか言ってくれるのを祈っています(=^・^=)
※2016/11/6追記
さっそく小清水に行って、じいちゃんに写真を見せてみました。
後列真ん中の、一番背が高い人の右隣の人が、雰囲気が似ているとのこと。
でも、この写真が撮影されたのはじいちゃんが生まれた大正11(1922)年なので、儀三郎じいさんなのかはっきりわからないそう。ただ、「この写っている人はおやじ(=私のひい爺ちゃんの留五郎)と同じような顔つきだ」とは言っていましたが・・・グレーのまま終わってしまいました。じいちゃんの記憶の中の儀三郎爺さんは、頬がこけて、ホントにじいさんだったそうなので。
確証がとれず、無念すぎてもうどうしていいかわからない(+_+)
柳原伯爵のお宅で何か手がかりが残ってないかしら?接触すらできないだろうけど・・・。
ずっと勘違い・・・
あぁ、1年以上もブログをほっぽってしまっていました。
ぼちぼち、最近の出来事を綴っていけたらいいなぁ(希望)。
今秋、母方実家・平野家の農業を継いでくれたイトコがめでたく結婚式を迎えることとなりました。
その際、せっかくなので平野家の歴史について小冊子を作って配布しようかと画策。
ちょっと気合をいれて再度いろいろ調査記録や記憶を掘り起こしているところです。
そしたらば、高祖母の母についての疑念が生じました。
まず戸籍謄本。
平成19(2007)年に家系の調査を開始して、初期の頃に小清水町役場にて取得した謄本です。
これは大正5(1916)年に、利別村(現:今金町)から小清水村に転籍してきた際に作製されたもの。
右側にある高祖父・儀三郎の欄を見ると、養母(儀三郎の妻・いちの母)として「たつ」と現代仮名で書いてあります。
私はこの表記をずっと鵜呑みにして、この9年間ずっと「平野たつ」だと思って調査や資料作成をしてきたんですが・・・
左側の本人の欄をみると、これは変体かなで「者つ」と書いてあります。
「者」は「は」と読みます。
・・・ということは、「たつ」ではなく「はつ」が正しい?
ドキドキしながら東京の本家(当時は大泉村小榑。現在は練馬区西大泉)の戸籍謄本を見てみます。
2文字目が「川」の変体かなですが、これは「つ」と読みますね。
やはり「はつ」(「者川」で「はつ」って読むの、今の感覚だとすごい変)!
しかも下田忠藏の長女なので、「はつ」という名はとても自然ですし。
こりゃあ、全部資料修正しないばなりません(>_<)
そしてさらに「はつ」についての疑念パート②
かつて本家のお墓参り&墓石調査をした際の資料を見返していたんですが、
墓誌にはこの「はつ」についての記述について2つ「ん?」とおもうところがありました。
ひとまず縦長ですがこれを、
文政2(1819)年1月2日に田無町で生まれ、明治43(1910)年10月3日に大泉村小榑で亡くなっています。
計算すると、満91歳。数えで92歳となります。
続いて、私からすると高祖母となりますが、儀三郎の妻であり、はつの娘(長子)でもある「いち」の欄です。
平野丑松・はつの長女は「いち」です。
しかし、東京の本家の墓誌を見ると・・・
え?明治43年に亡くなっているのは「いち」?しかも享年82歳?
・・・まず年齢の件ですが、確かに文政2(1819)年生まれの「はつ」にとって、初子の「いち」が文久3(1863)年というのは遅いとは思っておりました。44歳で初産ですから。
戸籍の文政2年だと行年は92歳となりますから、戸籍が10年間違っていたと考えるのが自然でしょうかね?初産が34歳と、割と常識的な年齢になりますし(それでもちょっと遅いかな?)。
そして俗名「いち」と、娘の名前になっちゃっているのは果たしてどうなんだろう?
本家の子孫の方に聞いても、過去帳を基に墓碑を造ったということで、それ以上の情報は現状得られていないですが・・・。う~ん、ミステリアス。
ちなみに、小清水町で亡くなった「はつ」の娘である高祖母「いち」は、小清水町の墓地に眠っています。
・・・と、いろいろな疑念の湧いた高祖母の母でした。一体何が正しいのかしら?
祖母の故郷、北村を訪れるも
先日、函館に帰省した帰りに、北海道グリーンランドで遊んできました。
ここは、4歳児でも乗車できるマイルドなジェットコースターが複数あり、ジェットコースターデビューに最適な遊園地でした\(^o^)/
グリーンランドは岩見沢市にあり、岩見沢といえば、母方祖母の皆川家が昭和10(1935)年ころに新潟県から入植した旧「空知郡北村」と合併した市です。
釧路からは結構遠いので今まで訪れたことが無かったのですが、今回初めてグリーンランドで遊んだ後に、北村の温泉ホテルに宿泊することになりました。
部屋が広い代わりにトイレや洗面所が部屋に無く、共同という、最近ではとても新鮮なホテルでした。
この場所で、滋賀県から来ていた子どもたちと仲良くなったりしました(*^_^*)
こちらのレストランで晩ごはんを頂いたのですが、メニューにかっぺ丼というのがあり、ご飯の種類やトッピングを複数種類から選んで600円という、かなり満足度が高いメニューでした。
それは妻が注文したんですが、そのかっぺ丼についていたのが、北村のご当地ラーメンのスープである牛乳味噌スープでした。
このスープ、かなり美味いです。今回は妻の丼で雑炊を少し食べたんですが、衝撃的な味でした。今度行った時は、このスープのラーメンを頼んでみようと思いました。
ちなみに温泉の効能はこんな感じ。
ちょっとしょっぱいお湯でした。
日帰り入浴が500円と安く、しかも朝5時から23時まで受け付けているという事で、ずっと地元のおじちゃんやおばちゃんがいました。憩いの場になっているようです。
朝の農作業の前にひとっ風呂なんて、羨ましいですね(^○^)
しかし、今回は情報収集のために地元の方とお話しする気力はありませんでした(*_*)無念・・・。
話は戻って、昨年亡くなった祖母の実家については、これまでコンタクトを取ったことが無く、今回の旅行の際も時間が無かったため、北村の墓地を調査することだけにしました。
釧路に帰る日、朝から墓地を訪れて皆川家のお墓を探してみましたが、残念ながら、皆川家のお墓はありませんでした(>_<)
スケジュール的には、これで限界でした。
今度行くことがあれば、事前に皆川家とコンタクトを取り、ある程度情報を手に入れてから行こうと思います。
それでも、今回はのどかな地元の空気を感じることが出来て、嬉しい旅でした。
ばあちゃんは生前ずっと、「北村に行きたいねぇ」と言っていました。
期せずして私が代わりに行ったような形になったような気がします。
お盆にお墓参りに行ったら、このことを報告しないと!
☆2015/8/15追記
祖父の話だと、どうやら皆川家のお墓は北村には無く、北村よりも北にある月形町という所にあるようです。こりゃまた予想外!
祝!九戸村出身のプロ野球選手誕生\(^o^)/
先日のプロ野球ドラフト。
ヤクルトスワローズの2位で、東京農大網走の風張 蓮(かざはり れん)投手が指名されました。
風張投手は、岩手県の九戸村長興寺出身。長興寺小→九戸中→伊保内高を経て、東農大網走に入学したそうです。
九戸村長興寺といえば、妻の曾祖母の実家・千葉家などがある地。
私は訪れたことはありませんが・・・。
妻の父がヤクルトファン。
風張投手の入団で、より応援に力が入りそうです。
ちなみに、東農大網走は私が高校時代を過ごした網走市に学校があり、ほど近い網走市の潮見という場所に多く学生が暮らすマンションがありました。
当時私は潮見のセブンイレブンでバイトをしていたため、農大生のお客さんが多く訪れていました。
バイト先でいっしょのシフトだったきれいなおねーさんも農大生でした(*^_^*)
そんなこともあり、農大OBともなれば私も応援に力が入りますね。私は横浜ファンですけど。
そして、風張という姓が珍しいので調べてみましたが、青森の八戸市(53件)に最も多く、ついで岩手の九戸村(7件)に多いようですね。
〇戸という地に多いことから、南部家に何か関係があるのかもしれませんね。
矢祭の菩提寺からのご返事
3年超の時を経て、ついにご返事をいただくことが出来ました(*^_^*)
結果としましては、
・当地に菊地家のご関係の方がおられず、また町外にお住まいの菊地家の方々も代替わりをいたしまして、昔のことはご存知ないようです。
・お寺の記録等もありません。以前ご訪問の折にご覧いただきました過去帳の記載しかございません。
・・・とのことで、お寺さんに大変なお手数をおかけしながらも、残念ながら手がかりを掴むことはできませんでした(+_+)
しかし、お寺でもわからないという事がわかりましたので、大きな進歩です(?)。
少なくとも、本家は矢祭町には無さそうです。
さぁ、ウチの本家の方は一体どこにいらっしゃるのでしょうか!?(@_@;)
母方曾祖母の実家・及川家の子孫との邂逅
先月、子どもの夏休み突入と同時に、実家の函館に帰省。
函館には、小清水町に住む母方祖父である平野政次の母・とよみの実家・及川家の子孫の方がいらっしゃることを以前から存じておりました。
曾祖母である平野とよみ(1893~1978)は、宮城県桃生郡鷹来村矢本(現:東松島市矢本)で及川清之進・ちよみ夫妻の12人兄弟の3人目として生まれ、一家で北海道の瀬棚に入植し、そこで曽祖父・平野留五郎(1884~1937)と結婚し、小清水に移住しました。
及川家は、とよみが家を離れたのちに函館市、今金町、札幌市へとそれぞれ分布することに。
今回、函館の本家とついにコンタクトがとることが出来、お会いできることになったのです(^O^)
涼しい釧路から7時間かけて函館に着くと、暑くてゲンナリでしたが(>_<)
7月30日、函館中央図書館で遂にご対面!
その方は曾祖母の兄・及川隆(1889~1947)の孫にあたり、母から見るとハトコになります。
北海道剣道界の重鎮なのですが、こんな私にもフランクに接してくださる方でした。
しかも、ほかにお二人の方、<曽祖母の弟・及川九郎のお孫さん>と、<曽祖母の末の妹・青山十二(とよみの11歳下。最近までご存命でした)の息子さん(祖父・平野政次から見ると、イトコにあたる)>まで同席していただきました。
平野家のイトコたちも剣道をやっており、血を感じさせますが、聞けば曾祖母・とよみの弟である及川弥治郎(1895~?)は札幌で数々の難事件に立ち向かった刑事だったそうで、さらに札幌の剣道史にも名前が出てくる程の人物らしいです。
みんな剣道やってるのは、弥治郎さんの影響なのでしょうか・・・?
集っていただいた中で、一番詳しいのは、祖父のイトコである青山さんでした。
私が事前に送らせていただいていた家系図を基に、いろいろ思い出してくださって、枝葉を広げたものをまとめてくださっていたのです。
そして、曾祖母の父である及川清之進(1871~1935)を看取ったのは、九郎さんのお宅だそうでした。
及川家紋はおそらく「三つ柏」だということです。が、現在はキリスト教だそうで、家紋とかはすっかり忘却の彼方へ・・・。
2時間ばかり絶え間なくお話をさせていただき、祖父がいうところの及川家の優秀な遺伝子をひしひしと感じることが出来ました。
一昔前の札幌市には、部長クラスが数名及川家から輩出されているとか、某大の教授だとか、今回集まっていただいた方も、現在も著名な事業家だったりするわけです。
゜(゜o)っていう気持ちでした。
残念ながら宮城時代など、家系を遡ってのお話はご存知無かったですが、遠縁であるお宅とご縁が出来ただけでも超ラッキーなことです。きっとご先祖さまのお導きでしょう!良い方ばかりでしたし\(^o^)/
一番お詳しい青山さんに、私が用意した除籍謄本や宮城の増子さんという方が調査した下さった墓石や旧村の資料などをお渡しし、これからいろいろ調査をしていくとおっしゃっていただきました。心強いことこのうえありません(*^_^*)