風は鳥取へ
来週、家族そろって関西へ旅行にいきます!
ホントは2010年に行くつもりだったんですが、いろいろあって7年経ってしまいました。
一番大きな目的は、昨年引っ越してしまった娘の親友に会うこと。
今までは転勤族だったお父さんに子ども4人とともについていっていた家族も、お父さんの渋谷区への転勤をきっかけとして、一番上のお姉ちゃんが中学に上がるのを機に田舎の兵庫県・旧浜坂町に戻ることになったのです。
その家の2番目の娘さんが、ウチの娘と大親友。
引っ越してしまったときはガラスのハートの娘ですから、メンタルな部分で心配でした。
しかし、ほどなく金管部に入部。
新しい先輩や友達も増え、9月の吹奏楽コンクールでは北海道3位の評価を受けました。
惜しくも東日本大会には届きませんでしたが(*´Д`)
親が心配するほど、子どもは弱くないんだなぁと思った次第です。
その旧浜坂町、今は温泉町と合併して新温泉町という名になっておりますが、そこの近く、鳥取市国府町荒舟という地が妻の曾祖母の実家・湯谷家のルーツなのです。
さらに、釧路に渡ってきた妻の高祖父・湯谷金蔵(1867~1935)の妻・まち(1879~1959)の実家である竹内家は、荒舟から少し南に行った、八頭町徳丸がルーツとなっています。
ともに湯谷姓、竹内姓の方や、菩提寺とおもわれるお寺にお手紙をしていたりしますが、今のところなしのつぶて。
現地にコンタクトをとれる方はいらっしゃいませんが、あまり時間もありませんので、土地の雰囲気や、神社・墓石の調査だけでもしてこようと思います。
ついでに京都・大阪も満喫してきます(#^^#)
じいちゃん47回目の命日
なかなか台風なんぞ来ない釧路でしたが、きのうは久しぶりに台風が直撃してしまいました。怖かった(*´Д`)
そのおかげで、予定していた小清水平野家のイトコの出産祝いにも、じいちゃんに会いに行ったりも、弟子屈にある菊地のじいちゃんの墓参りにも行けずじまい。
そんなきのうは、祖父・菊地幸松(1916~70)が世を去ってから丸47年の日でした。
じいちゃんについては、実はあまり知らないのです。
なにせ、生まれた時にはもう居ませんでしたから・・・。
聞いた話では、
・幼いころに屈斜路エントコマップにあった菊地家を弟(今も健在の大叔父)とともに火遊びで全焼させてしまった。
・家を継ぐのが嫌で、小学校を出てから東京に行ってしまった。
・どういうわけか、写真学校に通っていた(場所は小石川だったという大叔父の話だが、該当するところがない・・・)。
・日中戦争、太平洋戦争ともに出兵。太平洋戦争時は写真班で中国に渡り、ヤバい写真を大量に撮影してきたらしい(が、すでに処分されていて見たことはない)。
・終戦時は根室防衛戦線(独立歩兵第460大隊第1中隊)に居た。
・その後は弟子屈の町で「光写真館」を経営も、知り合いの保証人になったのが仇となり、借金をこさえて清里町に逃げる。
・再び弟子屈の町に戻り、「菊地写真館」を現在のドコモショップ弟子屈店のあたりで開業。
・酒はめっぽう弱いのに大好き(そのせいで早世)。
・・・と、こんな感じのじいちゃんのようです。
そんな中で、じいちゃんが通っていたという写真学校がどこかが気になっています。
昭和一桁のころ、東京にあったという写真学校は、
〇渋谷区・東京写真専門学校(現:東京工芸大。大正12年、じいちゃん7歳の時創立)
〇中野区・オリエンタル写真学校(昭和4年、じいちゃん13歳のとき創立)
・・・むむ、どちらも小石川からはわりかし遠いし、距離的にはどちらもそんなに変わらない感じ?土地勘がないのでわからないですが。。。
いったいどこが学び舎だったのか、いずれ歴史を漁ってみたいっす!
▲どれがじいちゃんかわからない(*_*;
▲左から2番目がじいちゃん。戦時中の写真。
▲組合に入ると、お金がかかるのですね。この「北海道写真師商業組合」っていう組合、ググっても出てきませんぜ。
またもや平野儀三郎
ず~~~~~~っと追いかけている高祖父の平野儀三郎(1866~1939)。
昨年の出来事なのですが、この名をweb検索していると、明治~昭和期に活動した真宗大谷派僧侶で 宗教家の「近角常観」氏(1870~1941)が所蔵している資料の中に、平野儀三郎名の名刺があるということを発見しました。
近角氏は、真宗大谷派西源寺の住職。東京本郷の求道学舎と求道会館において学生・知識人を感化する(wikipediaより)。という方だったようです。
そこで、現在資料を管理されている宗教学者の大阪教育大学教授・岩田文昭氏に駄目元でメールさせていただいたところ、「東京に行く際、確認してみます」というありがたいメールが!
そして月日は流れ、忘れたころに岩田氏よりご連絡をいただきました!
写メールで、以下の写真がとどいたのです。
う~む、肩書が何もナッシング(*_*;
住所しかない・・・。時期も不明です。
当時(明治~大正期)の人にとって、名刺とはどのようなものだったのでしょうね?
一般の人でも作ることがあったのかしら?
謎のままに終わってはしまいましたが、まったく岩田氏にとってはお門違いのおねがいだったにも関わらず、多忙の中たいへんありがたいご対応をいただきまして、感謝感謝でございます!
元・新潟県中之口村長、如澤氏からのプレゼント
あけましておめでとうございます。
もう松の内最後の日になってしまいましたね。
お正月気分ももう終わりです。
そんな中、きのう仕事から帰ってくると、ゆうメールが届いておりました。
差出人は如澤寛氏。
以下は、今までに如澤家について綴ったページです。
平成17年に新潟市に合併するまでの中之口村長。
そして私から見ると、母→母→父→母→母である鹿島モトの実家・如澤家本家の方。
鹿島モト(1843~1947)の父である如澤兵右エ門(1821~56)の玄孫・兵一氏(1908~2004、寛氏と同じく中之口村長を務めておりました)のご長男であります。
こうやって改めて書いてみると、非常に遠い遠い御親戚となりますね。
その如澤さんは、村長時代に広報誌に毎月寄稿していたらしく、合併によって村長を退いた後も、毎月文章を書きためていたそうです。
その文章をまとめた本を、昨年に作製されたものを送ってくださいました。
日常のことや、良寛会のこと、新潟市の今後について・・・いろいろと綴られております。
その中に、私についての記述が!
如澤家は、本家のある新潟よりも北海道の方が多くなってしまっているようです(^_^;)
自費出版の本のようですが、私がこういった媒体で名前が記述するのは初めて。なにかとても嬉しいわけです。
如澤さんも昭和10年の生まれということですが、まだまだアクティブに過ごされております。
ぜひともお会いしたいですよ!
果たして同一人物だろうか?
母の実家である平野家については、これまでもいろいろ綴ってきたところです。
平野家 【東京都練馬区西大泉】<丸に抱き茗荷>
2008/05/11 東京府北豊島郡小榑村→利別村→斜里村【平野家】
2011/08/13 平野家についてじいちゃんから得られた情報
その調査の中で、2年ほど前より新潟県村上市の方と高祖父・儀三郎についてのやりとりをさせていただいておりました。
その方は北海道紋別市の北、興部(おこっぺ)町出身。
どうやら、興部に平野儀三郎という名が知れているというのです。
大正11(1922)年に、当時の貴族院議員・柳原義光伯爵(大正天皇の従兄弟)が興部町にお越しになるということとなりました。
興部の実業家であった米田常作は、当時の粋を集めた住宅を築き、柳原伯爵をおもてなししたということです。
その住宅は米田御殿と云われ、現在もそのたたずまいを現代に残しております。
そこで、なぜ柳原伯爵が興部に来ることになったかということですが、そこで平野儀三郎という名が出てきます。
以下、興部町史より。
『柳原義光が興部にくることになったのには、平野儀三郎という人とのかかわりがあった。平野は米田の長男が東京の学校に通い、寄宿舎生活をしていた10歳のころ、学校の火事で大火傷をしたときに助けてくれた米田の恩人で、それが機縁となって両家の交際が続いていた。その平野は柳原との交わりがあり、柳原が「北海道に行ってみたい」と言ったとき、「それなら興部というところに知人がいるので」と、平野がすすめたという経緯があった。
来村の報を受けた米田は、平野への恩返しの意も込めて、一世一代のもてなしをと、何カ月も無い期間に建物を建て、庭を整え、築山を配した池を造って鯉を放したりと万全を尽くしたのであった。』
・・・ということで、平野儀三郎と柳原伯爵は、どういうわけか関わりがあったようなのです。
しかしながら、この平野儀三郎が、私の高祖父と同一人物なのかははっきりわかりません。
確かに、東京と北海道(現在の平野家がある小清水と興部は、距離はそれなりにあるものの、同じオホーツク地方)という共通項はありますが・・・。
そして、村上市の方からは、いろいろ情報を矢継ぎ早にいただいたりしておりました。
たとえば、こんな資料。
発起人総代の名が連なっている中に、米田氏とならんで儀三郎の名。
さらに賛助員として、柳原伯爵の名もあります。
ちなみに興隆寺の建立年代はわかりません(+o+)
あまりにも同一人物なのかの確証がないので、思い切って興部の図書館に連絡してみました。
すると、図書館の所蔵資料では特に何も進展がなかったそうなので、興隆寺に直接確認してくださったそうです。しかし、興隆寺の昔を知る方はおらず、2年ほど前にいらっしゃった住職さんは何もご存知ではないそうです。
さらには米田御殿を管理されている子孫(常作の孫の奥さん)の方に連絡を取ってくださいました。すると、話の中で儀三郎の名が出てきたそうで、「米田さんに菊地さんから連絡とってみたらいかがですか?」とのご返事をいただきました=^_^=
かつて、村上市の方からも米田さんの連絡先をうかがったことがありましたが、その時は躊躇して連絡できずじまいでした。
今回は図書館の方の仲介もありますから、ぜひとも連絡しないと!ということで、早速連絡をさせていただきました。
するとその米田さんは、20代で夫を亡くし、いきなり相続手続でたいへんな目にあったことや、常作さんとその奥さんが資産を遺してくれたおかげで、いま生活できていること、北見北斗高校(オホーツク管内では、一番賢い高校(^O^))時代の先生が、村岡花子(NHK「花子とアン」のモデル)と旧知の仲だったということなどをお話させていただきました。
ちなみに、「花子とアン」には、花子の友人として仲間由紀恵が扮する「蓮子」という女性がいましたが、その蓮子のモデルは柳原燁子。いわゆる柳原白蓮ですが、白蓮は柳原義光伯爵の異母妹にあたります。なにかいろいろと不思議な関わりが出てきました。
1時間以上にもわたる電話の結果、米田さんよりいろいろと資料を送っていただけることとなり、本日その資料が到着したのです。
次の写真は柳原伯爵が興部に来村された際の記念写真。
前列の左から3人目が柳原伯爵、4人目が伯爵と共に来村された三室戸敬光子爵。2人目が米田常作。5人目が常作の父で、興部に入植した久三郎。
前列は伯爵や米田家の方々なので、儀三郎が写っているとすると、後列のどこかかな?
こんな雰囲気だったんだなぁ、という写真も。
そして、今回のキモとなる平野儀三郎から米田常作に宛てた手紙。
私の祖先・儀三郎は練馬西大泉の人ですが、この差出人欄には下谷区とかいてあり、さらには消印も「下谷」となっています。そして消印の日付、「2・11・25」と読めますが、これが大正なのか昭和なのかがわかりませんでした。
このデザインの切手は大正2(1913)年~昭和12(1937)年まで使われていたものらしく、郵便料金もその間はずっと3銭のままだったようです。なんか、この判断はかなり難しいようで、切手の素材を見ればその筋の人ならわかるらしいんですけど・・・なにしろコピーなのでなんともいえません。どちらかが日曜日だったら!とも思ったんですが、大正2年も昭和2年も11月25日はド平日でした(^_^;)
ちなみに、儀三郎の住所は下谷区のどこなのか(「下谷区残尿」と見えますが、絶対違う)、さらには内容に関しても読めなくて難儀しているところです(T_T)
※後日、下谷区龍泉寺町350であることをご指摘いただきました。樋口一葉が明治26年ころに10か月だけ住んでいた場所の近くみたいです。内容に関しては、「米田さんのご隠居が、儀三郎に香典的なものを御前様に届けてもらったことの報告」のようです。御前様とは・・・?伯爵?また、米田さんによると、お姑さんがこの手紙を昭和2年のものだと言っていたという記憶があるとのお話。
そして、いちばん見てみたかったのは筆跡。
かつて新倉家より儀三郎の直筆と思われる画像をいただいていたのです。
それが明治26(1894)年3月14日に、新倉庄蔵(儀三郎の兄・茂助の子)を分家させるときの書面です。
う~ん。判断つかん(@_@;)
左の分家届のころは儀三郎28歳。形式ばった書類だから、きっと普通なら丁寧に書くでしょうね。
右は普通の手紙。大正2年なら47歳、昭和2年なら61歳。そんなに丁寧に書いていない?印象ですが・・・。
果たして同一人物の筆跡だろうか?少なくとも20年以上は経てるので、多少なりとも変わるでしょうが。。。
住所が練馬付近ではなくて下谷(今の台東区あたり)なのですが、祖父・政次曰く、「じさま(儀三郎)は北海道と東京を行ったり来たりしてた」とのことなので、絶対違うとも言い切れないところもあります。
村上市の方が推測するには、前述の米田氏の長男救出劇の舞台は、大正9(1920)年の北豊島郡西巣鴨村(当時)のようで、ますます居所が不可解に。
北海道の方も、小清水と興部は車でも2時間くらいかかるので、わりと遠いのです。鉄道も無いですし。
まだまだ謎は深まったままですが、もし最初の写真をじいちゃんに見せて、「おぉ!これじさまだ!」とか言ってくれるのを祈っています(=^・^=)
※2016/11/6追記
さっそく小清水に行って、じいちゃんに写真を見せてみました。
後列真ん中の、一番背が高い人の右隣の人が、雰囲気が似ているとのこと。
でも、この写真が撮影されたのはじいちゃんが生まれた大正11(1922)年なので、儀三郎じいさんなのかはっきりわからないそう。ただ、「この写っている人はおやじ(=私のひい爺ちゃんの留五郎)と同じような顔つきだ」とは言っていましたが・・・グレーのまま終わってしまいました。じいちゃんの記憶の中の儀三郎爺さんは、頬がこけて、ホントにじいさんだったそうなので。
確証がとれず、無念すぎてもうどうしていいかわからない(+_+)
柳原伯爵のお宅で何か手がかりが残ってないかしら?接触すらできないだろうけど・・・。
ずっと勘違い・・・
あぁ、1年以上もブログをほっぽってしまっていました。
ぼちぼち、最近の出来事を綴っていけたらいいなぁ(希望)。
今秋、母方実家・平野家の農業を継いでくれたイトコがめでたく結婚式を迎えることとなりました。
その際、せっかくなので平野家の歴史について小冊子を作って配布しようかと画策。
ちょっと気合をいれて再度いろいろ調査記録や記憶を掘り起こしているところです。
そしたらば、高祖母の母についての疑念が生じました。
まず戸籍謄本。
平成19(2007)年に家系の調査を開始して、初期の頃に小清水町役場にて取得した謄本です。
これは大正5(1916)年に、利別村(現:今金町)から小清水村に転籍してきた際に作製されたもの。
右側にある高祖父・儀三郎の欄を見ると、養母(儀三郎の妻・いちの母)として「たつ」と現代仮名で書いてあります。
私はこの表記をずっと鵜呑みにして、この9年間ずっと「平野たつ」だと思って調査や資料作成をしてきたんですが・・・
左側の本人の欄をみると、これは変体かなで「者つ」と書いてあります。
「者」は「は」と読みます。
・・・ということは、「たつ」ではなく「はつ」が正しい?
ドキドキしながら東京の本家(当時は大泉村小榑。現在は練馬区西大泉)の戸籍謄本を見てみます。
2文字目が「川」の変体かなですが、これは「つ」と読みますね。
やはり「はつ」(「者川」で「はつ」って読むの、今の感覚だとすごい変)!
しかも下田忠藏の長女なので、「はつ」という名はとても自然ですし。
こりゃあ、全部資料修正しないばなりません(>_<)
そしてさらに「はつ」についての疑念パート②
かつて本家のお墓参り&墓石調査をした際の資料を見返していたんですが、
墓誌にはこの「はつ」についての記述について2つ「ん?」とおもうところがありました。
ひとまず縦長ですがこれを、
文政2(1819)年1月2日に田無町で生まれ、明治43(1910)年10月3日に大泉村小榑で亡くなっています。
計算すると、満91歳。数えで92歳となります。
続いて、私からすると高祖母となりますが、儀三郎の妻であり、はつの娘(長子)でもある「いち」の欄です。
平野丑松・はつの長女は「いち」です。
しかし、東京の本家の墓誌を見ると・・・
え?明治43年に亡くなっているのは「いち」?しかも享年82歳?
・・・まず年齢の件ですが、確かに文政2(1819)年生まれの「はつ」にとって、初子の「いち」が文久3(1863)年というのは遅いとは思っておりました。44歳で初産ですから。
戸籍の文政2年だと行年は92歳となりますから、戸籍が10年間違っていたと考えるのが自然でしょうかね?初産が34歳と、割と常識的な年齢になりますし(それでもちょっと遅いかな?)。
そして俗名「いち」と、娘の名前になっちゃっているのは果たしてどうなんだろう?
本家の子孫の方に聞いても、過去帳を基に墓碑を造ったということで、それ以上の情報は現状得られていないですが・・・。う~ん、ミステリアス。
ちなみに、小清水町で亡くなった「はつ」の娘である高祖母「いち」は、小清水町の墓地に眠っています。
・・・と、いろいろな疑念の湧いた高祖母の母でした。一体何が正しいのかしら?