高祖母の実家、小生瀬石井家もまた・・・
私の高祖母・菊地すゐ(1874~1931)。夫である菊地幸吉(1874~1959)とは同じ年。
茨城県久慈郡大子町にある小生瀬という村から、明治26(1893)年に隣町の福島県東川郡矢祭町の東舘に嫁いできました。おたがい19歳の年でした。
その石井家、戸籍を手繰りますとすゐの父である石井庄衛門(1837~1902)が隠居し、その長男である石井酉次郎(1861~?)が戸主のものが最古。
庄衛門の父欄には、亡祖父(戸主である酉次郎から見て)重四郎長男と。
その後、庄衛門と二男の鐡之助は酉次郎家より分家し、娘の嫁いだ東舘に移住しています。
弟子屈町に住んでいる大叔父(すゐの孫)が、石井家について伝え聞いていることがあります。
「石井家、久慈郡一帯の庄屋・庄右衛門として代々治める」
なるほど・・・、これはあれですね、大風呂敷というやつ。
信じないわけではありませんが、おおげさな感じが否めません。
しかしそう伝わっている以上、ご先祖様にとっては余計なことかもしれませんが、調べなくては納得がいかないのですね。
まず、図書館の相互貸借で大子町史を紐解いてみます。
石井重衛門という名がたまに出てきますが、庄衛門や重四郎という名は出てきませんでした。
でも似てますね。庄衛門と重四郎が混ざったみたいな名前です。
そんなことをブログに綴らせていただいたらば、当時筑波大学の学生だった大子町出身の青年から、一通のメールをいただきました。
どうやら彼が実習している施設に、石井家の縁故者がいらっしゃるという話!
こうして、奇跡的に石井庄衛門の次男である鐡之助の曾孫さんとコンタクトをとることができたのです。
この方によると・・・
・すゐの存在は初めて知った(最古の戸籍からは既に除籍となっているため)
・小生瀬村の庄屋であったことは語り継がれている
そして、貴重な歴史の声である石井さんのメール原文を以下に載せさせていただきます。
『水戸藩内の幕末の政争「天狗諸生の乱」で、親子が天狗派と諸生派に分かれ、天狗派であった息子が小生瀬の家を出てしまい、一時は原戸籍からも抜かれていたことなど、断片的に聞いておりましたが、出てきてしまった土地での昔のことは、何とでも良いように話を作ることもできるから、と一笑に付しておりました。
このたび、菊地さんのブログを拝見して、同じような伝承があることを知り、少し真面目に父の思い出話を聞いてみました。おかげで、今までごちゃ混ぜになっていた曽祖父と祖父の話を、少し整理することができました。
天狗諸生の乱で家を出てしまった子というのが庄衛門、当時31歳。父が聞いている話では、諸生派の襲撃に逃げ切れないと観念し、妻と赤子だった次男鐵之助を連れて谷底に身投げしようとしたところ、赤子が泣くので乳を含ませるとニッコリ笑ったので、子どもを道連れに死ぬことを思いとどまり、東館付近に潜伏したとのことです。当時、7歳ほどになっていた長男酉次郎は父重四郎に託し、小生瀬の家に残したのだと思われます。鐵之助の生まれ年から考えると、明治元(1868)年のできごとのようです。
そのまま東館に腰をすえ、鱗(うろこ)屋(わが家の屋号はウロコヤといいます)という旅館を開業して大いに儲けたそうです。鐵之助の妻 アキや長男一(はじめ)から、大きな池のある立派な旅館だったと、私の父は聞いているようです。しかし、鐵之助が将棋に現を抜かし、一が5才位の時に破産したとか。庄衛門の死をきっかけとして、家財道具を大八車に乗せ、夜逃げ同然に東館をあとにしたようです。』
・・・ということを教えていただきました。
また、家紋は「二つ巴」、家があった小字は「寺地」だということも。
さらには、
『小生瀬の屋敷跡は、父が子供時分は竹薮になっていると聞いていたとのこと。酉次郎らが岩間に移ったとの(戸籍の)記載を見て、父は祖父一に、東京からの帰り、親戚がいるのだと岩間で途中下車して訪ねたことがある、と思い出しました。祖父の代までは、行き来があったようです。
現在の我が家の墓地は、市内近所の寺院にあり、墓誌に「小生瀬で横目を長年務めた」と刻してあります。「横目」とは村内の取り締まりを兼ねた庄屋のことのようです。父によりますと、この墓地を造るに当たり、東館の東慶寺にあった墓を移し、庄衛門夫妻の遺骨も納めたそうです。』
・・・と、やっぱり大叔父が言っていた「久慈郡一帯」は大げさだったにしても、小生瀬の庄屋さん的立場だったんだ!ということが判明し、何だか一安心でした。
後日、小生瀬に伺えることになったことで、石井家についてより一層の調査をすべく、お手紙をしたことがありました。
そして、お会いできるとおっしゃってくださったお宅が2軒あり、スケジュールが合えばお会いできることとなったのです。
さらに、大子町出身の名字研究家で、日本テレビの番組「沸騰ワード10」でのハンコバトルでも有名な髙信幸男先生にも石井家について質問のお手紙をしてみましたところ、ご返事をいただくことができました!
髙信先生のお手紙には、細かい字とかはぜんぜん読めませんが、石井家のものだというたいそう立派な墓石の写真。
これはぜひともお参りしたい!
ということで、2018年10月に行ってきました。小生瀬に。
実は10年ぶり2度目の訪問ですが、前回は一切の収穫が無く、後ろ髪ひかれる思いで去っていた過去があります。
そういえば、小生瀬という名にもしかすると聞き覚えがある方がいらっしゃるかもしれません。
飯嶋和一先生の小説「神無き月十番目の夜」の題材にもなった、「小生瀬の乱」あるいは「生瀬騒動」などという名がつけられている事件があった場所です。
詳細ははしょりますが、詳しくはネット上にたくさんの情報がありますので、ご覧いただければと思います。幕府がひた隠しにしていた非常に興味深い事件です。
小生瀬で最初に伺った石井家。最古の祖先は石井庄次兵衛氏。
お話を伺ったのですが、接点が見いだせません・・・。
そこで、お墓に連れて行ってもらえることに。
石井さんの軽トラの後を追うフィット(レンタカー)!
そこにあったのは、髙信先生が送ってくださった写真とは異なり、真新しいお墓が4基。家紋も異なります。
どうやら庄次兵衛さんを祖とする一族のお墓を纏めたそうです。
むむむぅ・・・という顔をしていると、
「庄屋だった益子さんのお墓にもいってみっかい?」とのご提案。
益子さん?庄屋?庄屋は石井家じゃないの?え?
・・・と思う間もなく石井さんは軽トラで動き出しました。追わないと!
すると、目の前には髙信先生に送っていただいた写真と同じおっきな墓石が!!!!!
え?石井家の墓石じゃなかったの?これ??益子さん?確かに益子って書いてある!?
んもう釧路から遠い小生瀬で大混乱の極み。
なんとかがんばって心を落ち着かせ、まじまじと見てみました。
いろいろとみてみると、家紋は見つけられません。キリーク文字が彫ってあるので真言宗でしょうか・・・?
石井さんによると、水戸藩の廃仏毀釈が激しかった地域のようで、寺は廃寺になり、その後の石井家は神道になったそうな。
また、益子家の子孫の方は東京で病院を営んでおり、年に一度は墓参に来られるとのこと。
そんな話をしていると、ん?天明8(1788)年正月と彫られた俗名・益子庄右エ門信任?のお墓がある!
しょうえもん!石井じゃくて益子だけど・・・!?
これはどういうことかしら?
いままで益子という名は聞いたことがありませんし。
しかし、石井家のものだとおもって写真を送ってくださった髙信先生のこともありますし、なんらかの形でかかわりがあると考えるのが自然?
石井さんは庄衛門の名にどうやらぴんと来ない様子でしたし、謎のままに終わってしまいました。
そして、もう1軒お邪魔するはずだったりんご園の石井さんへは、タイムアップでお邪魔できず・・・
ちょうどりんご狩りのピークで、めちゃめちゃ混んでましたし、またいつの日か閑散期を狙ってコンタクトをとろうと画策しています。
石井家の謎はもうひとつ。
万延元(1860)年3月、井伊直弼大老が襲撃された「桜田門外の変」。
その実行隊長である水戸藩士・関鉄之介をかくまっていた中に、石井家の人物がいるのです。
その人は石井重衛門。
町史にも名前が出てきていた人物。
その重衛門とのかかわりがあるものかどうかについても調査しておりました。
石井重衛門の親戚であり、同じく関を匿った地元の名士である櫻岡家。
そちらの子孫の方にお話を伺うことができたのです。
しかしながら、私の祖先の名はまったくご存じなく、お持ちの文献にも載っていないようでした。
重衛門の子は、兵衛門、忠蔵、権五郎、百太郎。
きょうだいに菊池佐一兵衛妻のとり、佐藤五郎衛門妻、伝重郎(平八郎とも)。
父は石井源治兵衛義房(義国とも)。
祖父は石井久治衛門義教。
まったく知らない名ばかり・・・。
こちらもまた、ぼちぼちと調査していきたいと思いますが・・・なかなか厳しそうです。
今回ももやもやする感じでおわってしまってすみませんです。
でも同志の方ならわかっていただけると思いますが、こんなのばっかりですよね。答えはあってないようなものですし。道は厳しい。
以下は石井家についての調査に係るブログ記事です。心に余裕がおありでしたらご一読をいただけるとうれしいです!
2008/05/24 茨城県久慈郡生瀬村→福島県東白川郡豊里村【石井家】
父の父の父の父の父の実家、近藤家の謎
祖先の謎シリーズ、まだ続けさせてください(/・ω・)/
今回はライトです。
菊地家の高祖父である幸吉(1874~1959)の父・菊地儀平(1844~97)が生まれ育った、福島県矢祭町上関河内(かみせきごうど)の近藤家についてです。
近藤姓といえば近江の藤原氏。現在の滋賀あたりにルーツがあると思われるのですが、さすがにそこまでは伝わってはおりません。
現在、上関河内には近藤家が2軒。
13年前ほど前からコンタクトをとらせていただき、2014年に亡くなられた当時の矢祭町議・近藤誠氏をはじめとした近藤家の方々にご協力いただけたことで、さまざまな情報を得ることができました。
これならすぐ縁故者が見つかるだろう(^-^)、菊地家との縁も何かわかるかもしれない!
・・・と、簡単にわくわくしていました。
しかし、その思いはどんどん闇に包まれていくのです。
誠さんからは、江戸後期に近藤數右衛門(数右衛門)という人がいて、江戸の終わりから明治の初めころに上関河内の庄屋をやっていたとか、飢饉の時に打ち毀しにあったとか・・・。
だけど旧いものは何も残ってないよ、と。
国立公文書館に遺されていた文書には、確かに明治2(1869)年に名主として「上関河内村 數右衛門(姓の記載は無し)」の名を見つけることができました。
なお菊地家の戸籍には、儀平の欄に「上関河内村 近藤勝右衛門五男」との記載。
「かずえもん」と「かつえもん」・・・。語感は似ていますが、おそらく別人であろうという前提ですすめます。
勝右衛門を探すべく近藤家の協力を仰いで除籍謄本を集め始めました。
委任状をいただけたり、お持ちの謄本を見せていただいたりして、上関河内の近藤家に関する明治19年式戸籍を、奇跡的にひととおり確認することができたのです!
しかし、勝右衛門どころか數右衛門も名前がありません。
近藤家の戸籍上、最古のお名前は文化8年に産まれた近藤義冨
義冨の息子には、上関河内村の村長を26歳にして務めていた長男・近藤邦彦(1850~1914)。
そして誠さんの祖先で、のちに分家となった二男の近藤彦雄(1853~1924)。
仮に義冨が明治2(1869)年の古文書に名のあった數右衛門だったとして(だとすると当時は58歳)、數右衛門=勝右衛門(訛ってたら語感が似てる)という仮の図式を考えてみました。
儀平は勝右衛門の五男。長男の邦彦が1850年に産まれているのに、五男の儀平が1844年生まれというのは無理があります。
しかし!邦彦誕生当時は義冨は39歳。
もしも壬申戸籍時代に除籍になった人を数えないで、残っていた邦彦を長男としていれば・・・
あるいは後妻の長男だと考えれば・・・
あながち無いとは言えないような気がしないような気がします。もやもや。
ちなみに、のちに近藤家の墓参をしたときにわかったのですが、數右衛門には諱が別にあったようです。近藤數右衛門藤原義冨という名を見つけることができました。もうひとつ関係や年代は不明ですが、近藤新六藤原義高という名も知ることができました。
昔ながらに藤原を名乗っていたのですね。
もう一軒近藤家があるのですが、そちらは清兵衛(1830~1896)さんという方が祖で、邦彦の養子(養父よりも14歳年上!実家は不明)にあたります。
むぅ、いったい勝右衛門はどこの人なのかしら?儀平の実家はどこなのかしら?
なお、近藤家の菩提寺は曹洞宗の積善寺だったそうですが、明治の初期に燃えてしまって廃寺になったそうで・・・残念。
ちなみに曹洞宗というのは菊地家と同じです。
そして家紋は、なんというか「隅切り鉄砲角に細違い鷹の羽」といった風情のもの。図鑑とかでは見たことない紋です。
むぅ、詰んだ~。義冨家から発展しているのはわかったのですが、勝右衛門がどこにも出てこない・・・
机の上ではもはや何もできない・・・
と、なってからはや5年ほどが経過しています。
誠さんという協力者もいなくなってしまった今、どのように調査をしていくか悩ましいところです。
以下は近藤家調査についての悩ましい歴史です。
こちらもミステリアス・・・母方平野家高祖父の謎
前回、菊地家についてのやるせない思いを綴ったばかりですが、またベクトルとしては変わらないことを書き綴ってみたいと思います。
私の母が生まれた北海道小清水町の平野家。
戦後に現在の場所に落ち着いてから現在に至るまで、農業を営んでいます。
5年くらい前までは養豚も行っておりましたが、現在は畑作一本。
ビートやカルビーのじゃがいも、人参、アスパラなど、さまざまな野菜を生産しています。
そんな平野家が小清水に移り住んだのは、明治30年代。
小清水町史によると、明治38(1905)年に祖父・平野政次(1922~2018)のそのまた祖父・平野儀三郎(1866~1939)が止別原野に入植したと記載されています。
その前は道南の今金町というところに入植したものの、良い場所が無く、オホーツクに向かったそうです。
北海道での平野家の祖となった、高祖父である平野儀三郎。
慶応2(1866)年、東京府北多摩郡田無町(現在の西東京市南町付近)にて、質屋などを営んでいた新倉治兵衛・フジ夫妻の3男1女の次男として生まれました。
今回は平野家というよりも、この儀三郎の人生にスポットを当ててみたいと思います。
明治12(1879)年3月、12歳の時に父・治兵衛が世話役をしていた田無学校の下等小学第4級を卒業。当時、田無は神奈川県に組み込まれていました。
その4年後、明治16(1883)年4月に16歳で北豊島郡小榑村(現在の練馬区西大泉2~3丁目付近)に住む平野丑松(1827~1903)の長女・いち(1863~1953)の婿養子として平野家に迎えられます。
言い伝えによると新倉家と平野家はもともと親戚だったそうですが、詳細はまったくわかりません。
すると、その翌年1月には丑松が56歳で隠居。儀三郎が若干17歳で家督を継ぎます。そして4月に長男・留五郎が誕生。
あまりにもスピーディーな展開で、17歳の儀三郎少年はどのような気持ちで過ごしていたのでしょうか。
その後、26歳までに次男~四男まで男子を4人授かりました。
しかし、そこで平野家の運命が動き出します。
明治26(1893)年に埼玉三芳村へ嫁いだ儀三郎の妻・いちの妹・かのが、10か月で離婚して平野家へ戻ってきます。
するとその4か月後、隣の上土支田から加藤音五郎(儀三郎より4つ上)を婿に迎えたのです。
そしてその5か月後の明治27(1894)年12月、戸籍の儀三郎欄に記されたのは「失踪」の文字。
儀三郎は2か月の空白を経て復帰届を出していますが、旧土地台帳によると、その2日後に所有していた土地を当時10歳だった長男・留五郎に譲渡しています。
さらにその4日後、丑松夫妻と音五郎夫妻が儀三郎の籍から分家。儀三郎一家のみの戸籍となりました。
独立させた形だったのか、それとも厄介払いの形だったのかは知れませんが、短い期間でいろいろありすぎです。
留五郎は、儀三郎から譲られた土地を明治31(1898)年に叔父の音五郎へ譲渡し、儀三郎家は先祖代々の土地を一切手放した状態となりました。
その翌年に生まれた儀三郎の長女・喜代についての記載。「北海道瀬棚郡利別村字メップ南岸番外地にて出生」とあります。
戸籍に初めて北海道の文字が出てきました。
おそらく儀三郎一家は、この時期にすべての縁故を棄てて、北海道へ渡ったのでしょう。
なお、郷土史家である加藤惣一郎氏著の「大泉今昔物語」によると、平野家のルーツは千葉県鴨川市の仁右衛門島。
源頼朝より、平家の追手から匿ったお礼として島+漁業権+平野姓を賜ったと伝わっています。
我が平野家の祖先は、仁右衛門島に日蓮が訪れたときより行動を共にし、市川市中山の法華経寺に寄留したのち、日高上人とともに寺領地の有力者高橋氏の故郷である小榑へと布教活動に訪れ、21日間の説法の末、天台宗大覚寺を日蓮宗への改宗まで持っていき、名も西中山妙福寺(中山の西にあるから)と改めました。祖先はそのまま寺檀那として土着したそうです。
そしてここから平野儀三郎のミステリアスな部分について・・・
大正9(1920)年、西巣鴨村の学校で寄宿舎火災があり、そこから米田久興(北海道興部村出身)という少年が救い出されました。
その久興少年を救ったのは、平野儀三郎なる人物(当時54歳)。
大正11(1922)年、大正天皇のいとこでもある貴族院議員・柳原義光伯爵が北海道に行ってみたいという話になり、「興部に知り合いがあるので」ということで、柳原伯爵を興部へと誘ったのが平野儀三郎なる人物(当時56歳)。
なにせ伯爵さまがやってくるのです。久興の父で興部の有力者であった米田常作は、私財を投じて「米田御殿」と呼ばれるようになる、たいそう立派な屋敷を建てました。
そして、興部までやってきたのは柳原伯爵と三室戸敬光子爵など錚々たるメンバー。
縁あってか、このお二方には興部の浄土真宗興隆寺建立にも賛助員としてお力添えいただいたようです。
その後、昭和2(1927)年。儀三郎は61歳となり、東京市下谷区竜泉寺350番地に居住。そこから米田氏になにやら香典に関わる手紙を送付しています。
ミステリアスな部分はここで終了です。
儀三郎は昭和10(1935)年に新天地に希望を求め、樺太恵須取町布礼に移住。
樺太時代は、農業や煙突掃除など、なんでもやって生活していたそうです。
昭和12(1937)年に長男の留五郎を熊の襲撃によって失い、自身はその2年後におそらくは脳卒中で世を去りました。72年の生涯でした。
そして、祖父・政次が16歳にして家督を継ぐこととなります。
儀三郎のミステリアスな部分ですが、実は高祖父である儀三郎であるかという確証はいまのところありません(-_-;)
しかし、この平野儀三郎が高祖父と同一人物であるかの調査はずいぶんがんばったと思います。
興部の米田家に連絡をとり、伯爵来村当時のエピソードを伺ったり、貴重な集合写真をいただいたり。
その集合写真を、わくわくしながら生前のじーちゃんに見せたのです。
「おぉ、じさまだ!」・・・とはなりませんでした(;'∀')
この写真は大正11(1922)年のもの。祖父が生まれた年です。
じーちゃんの記憶に残っているじさま(儀三郎)の顔とは違うのか、あるいはそもそも別人である儀三郎が写っていたのか・・・、興部に来てないっていうことも考えられます。
そして米田久興が通っていた瀧乃川学園にも、儀三郎のことについて照会をかけさせていただきました。
この瀧乃川学園は、明治24(1891)年に創立された日本で初めて障がい児福祉施設。
石井亮一・筆子夫妻が生涯を捧げて運営していた学校で、現在も場所は変わりましたが、石井夫妻の意思が引き継がれています。
この大正9(1920)年の火災で園児6名を亡くし、学園閉鎖を決めたそうですが、当時の貞明皇后(大正天皇妃)より事業存続をうながされ、学園は残りました。
なお、その翌年に、渋沢栄一が理事長になったりしているそうです(; ・`д・´)
照会の結果としては、儀三郎について「米田氏友人」としか遺されておらず、謎のまま。
でも偶然居合わせた感じではなさそうですし、何らかの用務についていたと考えるのが自然のような気がしますが、友人かぁ・・・
余談ですが、先日亡くなられた米田家の当主夫人にお話を伺った際、夫人が北見北斗高校に通っていたときの英語の先生が、山梨で村岡花子に習った先生だったそうです。
村岡花子といえば、赤毛のアンを翻訳した、NHK連続テレビ小説「花子とアン」で有名です。
そして白蓮事件で有名な柳原燁子(あきこ)の友人でも。
さらに柳原白蓮こと燁子は、柳原義光伯爵の妹・・・
なんだかいろいろと不思議なリンクをします。。。
最後に柳原家にコンタクトをとるべく、身分も顧みず旧華族の親睦団体である霞会館へと勇気を振り絞って連絡。
するとなんということか、柳原家のご子孫の方からご返事をいただきました!!
しかし、義光伯爵が北海道に行ったのも初耳だったそうで、儀三郎についての情報は無し。
ここまでか~!と思いながら、今度はダメもとで三室戸家にもコンタクトをとってみました。
そしたらば、三室戸家のご子孫である三室戸東光氏(東邦音楽大学などを擁する三室戸学園理事長)より、直接お電話をいただくことができたのです。
「祖父(敬光子爵)が北海道に行ったことも初めて知りましたし、戦争で本郷の家が燃えてしまったので、昔のものは何も残っていないんです。」
・・・とのご返事でしたが、その電話の最中、私の足はずっと震えていました。
う~ん、結局平野儀三郎=高祖父の図式は成り立たず!!
・・・という状態のまま今に至ります。
儀三郎の実家である新倉家。
かつて明治天皇が行幸で田無に立ち寄った際に、美人と名高かった儀三郎の妹・まつがお茶の相手を務めたこともあったそうです。
そんな新倉家に生まれた儀三郎。
戸籍上は練馬に婿入りし、失踪し、北海道に渡り、樺太に渡った波乱の人生。
その間に戸籍に載らないようなことがあったのでしょうか。
西巣鴨村で火災現場から友人の息子を助けたり、竜泉寺に住んでいたり、柳原伯爵と親交があったりといったことがあまりにも突飛なのです。
あくまでも妄想ですが、天皇家と何らかの形で繋がっていたような気すらします。隠密とか。
しかし、建立時に儀三郎が総代となっていた興部の寺は、平野家代々の日蓮宗ではなく浄土真宗。
やっぱり別人なのか・・・
ただ、じーちゃんの記憶によると、時折りふいっと東京に行ったりしていたことがあったらしいのです。
どこに行っていたかは知れませんが、実家の新倉家にとっては樺太へ渡って以来音信不通だったそうなので、それまでは行き来があったのかもしれません。
東京と北海道を行き来するなんぞ、当時(大正~昭和初期)の農民としてはかなり珍しいことだったのではないでしょうか。
・・・と、こんな感じで菊地家とは違う感じで行き詰っている平野家。
この平野儀三郎=高祖父という図式の正誤だけでも知りたいものです。
平野家については、いままでのもやもやした調査内容を以下のように綴らせていただいています。もしもお時間がありましたら是非・・・(/ω\)
2008/05/11 東京府北豊島郡小榑村→利別村→斜里村【平野家】
2011/08/13 平野家についてじいちゃんから得られた情報
2018/03/01 平野儀三郎について、一縷の望み断たれる
菊地家の謎、幾度目かの整理
私の姓である菊地。
大正2(1913)年に高祖父である菊地幸吉(1874~1959)一家と、その兄の初太郎(1870~1942)一家が北海道屈斜路村へ入植する前は、福島県東白川郡豊里村大字東舘字舘本40番地(現在の矢祭町)に住んでおりました。
遅くとも明治19(1886)年式戸籍編製時点では、東舘に住んでいたようです。
その最古の戸籍の筆頭者は、幸吉の父であり、上関河内村の近藤家から婿入りした菊地儀平(1844~97)。
籍には儀平の養父に当たる菊地儀右衛門(1810~90)も記載されています。
その儀右衛門の父欄には「亡養祖父藤兵衛養子」と書かれており、儀右衛門も養子であるようです。
・・・と、ここまでで、
藤兵衛-儀右衛門-儀平-幸吉-曾祖父・幸太郎-祖父・幸松-父-私・・・
という直系父系となります。
藤兵衛については血族であるという確証は今のところありません。
私からさかのぼって儀平までは戸籍の記載に大きな破綻はないので、だいたい合っているのではないかと思います。
なお、戸籍上確認できる菊地家の男子は、屈斜路に渡った初太郎と幸吉兄弟だけなので、東舘には誰も残っていないことになります。。。
頭を悩ませるのは、儀平の養父(儀平の妻の父)である菊地儀右衛門。
戸籍中、儀右衛門の欄には「当郡関岡村 菊池友輔 三男」と。
儀右衛門は文化7(1810)年の生まれなので、明治19(1886)年の戸籍編製時は76歳。
既に家督は婿養子の儀平に譲っています。
戸籍の情報を素直に年表にしてみると、
・1810年 関岡村の菊池友輔の三男として生まれる
・??年 東舘村の藤田傳五右衛門長女ヤス(3歳下)と婚姻
・1853年 長女・ハツが誕生。当時儀右衛門は43歳(!)
・1862年 東舘愛宕神社の祭りに賛成する署名をする(矢祭町史より)
・??年 ハツが儀平を跡取り婿に迎える
・1870年 初孫・初太郎が生まれる。儀右衛門60歳
・??年 隠居し、儀平に家督を譲る
・1886年 戸籍編製
・1890年 東舘にて逝去。満80歳
むむむ・・・いろいろ疑惑が。
①儀右衛門が東舘に移ったのはなぜか
→結婚?それとも養子になったとき?
②藤兵衛はどこの村のものだったのか
③儀右衛門の長女・ハツの出生は儀右衛門夫妻が43歳と40歳のとき。当時としては考えづらい・・・
→ハツの上に記載されてない男子がいるかも(ハツという名から、女子としては初子だったと思われる)
・・・と、戸籍でここまで疑念が湧いてきたのが14年前の話。ちなみになにひとつ解決していません💦
なお、その後に儀右衛門の妻・ヤスは、菊地家のお隣39番地にある藤田家の娘さんであることが判明しています。
隣の娘さんと結婚したのか、それとも結婚したから隣に引っ越したのか、それもまた謎。
その後、2008年に行きました。釧路から矢祭町へ。生後11か月児を連れて。今思えばひどい夫ですよ。
ちなみにその前にお手紙作戦をしていまして、関岡と東舘のきくちさんへいろいろとアンケートをしていたのです。
余談ですが、この二つの地域にきくちさんは当時の電話帳で45軒有ったのですが・・・菊地さんが1軒、菊池さんが44軒でした。しかも菊地さんはマチから引っ越してきた方。
え?なんでウチは菊地なんだ???
そしたらば、菊池友輔の子孫という方が見つかりまして、お世話いただけることになりました。
関岡を訪れ、もう亡くなられた菊池玄さん(1925~2016。いろんな近隣小学校の校長先生を務めておられた方)に戸籍をみせていただいたり、お話を聞かせていただいたりしたのですが、なんだか噛みあいません。
玄さんの祖先は、確かに「菊池友甫」(「輔」と「甫」は似たような意味合いらしいので、本人もどちらも使用していたよう)でした。
最古の戸籍には「前戸主 菊池友甫」とあり、戸主は「菊池政恒(1843~97)」。
・・・ん?
政恒(1843~97)と儀平(1844~97)は同世代ですね。そしたらば友甫は儀右衛門と同世代ということに。
儀右衛門の父である友輔は、この友甫の父?儀右衛門と友甫は兄弟?
の~みそこねこねのまま、友甫のお墓に連れていかれました。
そこには、友甫の父・友元(1781~1855)のでっかいお墓が!
家紋は「丸に並び鷹の羽」。我が家は「丸に違い鷹の羽」。ううむ。
玄さんによると、菊池三寿道恒(友元)は農民の家に生を受けたのちに救世を志し、医師となってたいそう地域の人々に信頼されていたそうです。
長男の友甫孝恒、その長男・政恒も医師となり、乾唱堂医院を継いでいったそうです。
友元の墓碑に彫られているのが、以下の文です。
「先生菊池氏の諱(いみな=実名)は道恒、字(あざな=呼び名)は三寿、友元と称す。陸奥白川郡関岡村の人なり。其の先は蓋(けだし=おおかた)肥後の菊池氏の族ならんと云う。
十世祖某、始めて関岡に来たり、世農を業とす。関岡六氏の一祖なり。友元の君、済世の志あり。因って黄岐の術(こうぎのじゅつ=黄帝を祖とする神仙術を黄といえ、それからわかれた漢法医術)を治む。
考(こう=亡父)は知仙の君、母は鈴木氏なり。知仙の君早く没し。先生王父(おうふ=祖父)の後を承襲(うけつ)ぎ、友元と称し其業を継げり。人と為り剛毅物に屈せず。而して技術に恵志たり。是を以て門を踵(たず)ね、治を請う者日に益す多し。
初め先生の家甚だ貧なりしも後に頗る饒富(じょうふ=財産がゆたかになる)たり。而して自ら菲薄(ひはく=貧しいもの)に奉(ほう=衣食の一切を自分でととのえる)じ、能く小民の自在なること能わざるものを済(さい=すくう)す。人も亦馬に頼りて倚る。
安政2年3月13日疾に没す。享年七十有五なり。葬るに宅を距る百歩の先とす。塋(えい=美しい)の側(そく=妻)は高沢氏より娶り、二男二女を生む。女の一(ひとり)は菊池某に適(とつぎ)、一(ひとり)は湯岐(ゆじまた)村大森某に適(とつ)ぐ。長男孝恒は友輔と称し箕裘(ききゅう=家督)を継ぎ、次男孝昭は出でて本宗(ほんそう=一族中の本家)の嗣(し=跡継ぎ)となる」。
・・・と、難しい文章ですが、友元には高沢家から迎えた妻との間に2男2女がいたようです。女の子は菊池家と湯岐大森家に嫁ぎ、男子の一人が玄さんの祖先である友甫ですね。
そうなると、もうひとりの男子である弟・孝昭。「一族中の本家を継いだ」とあります。
この孝昭がのちの儀右衛門・・・?
藤兵衛が一族中の本家・・・?
しかし、そうは問屋が卸しません。
友甫の墓に彫られている文字です。
「明治17年12月18日没 享年74」。
明治17(1885)年から数え年の73を引くと、1812年。
友甫は1812年生まれ。
しかし、儀右衛門は1810年生まれ。
弟の方が年上ということはないでしょうから、この説はいったん引っ込めます。
もしその推測があっているとすると、友甫が年をサバよんでいたとか、儀右衛門の戸籍がミスっているとかでしょうが、真相は薮の中です。
それでも、戸籍には「菊池友輔三男」とありますので、単に3人目の子だからっていう意味で三男なのか、それとも墓碑に記されていない謎の三男が儀右衛門なのでしょうか・・・?
我が家は今でも曹洞宗なので、このお寺から来ているのでしょう。
過去帳も探していただきました。
そこには、
・儀右衛門(儀平父として)
・ヤス(儀平母として)
・儀平(初太郎父として)
・ハツ(幸吉母として)
・・・の4名が記されていました。俗名の記載はありませんでしたが、戸籍と没年月日(旧暦でしたが)も一緒です。
しかし、この家は子孫もわからないし、お墓は無いとのこと。ずがびーん。
のちに「もしかすると横浜に引っ越した菊地さんがそうかも」と住所(団地のよう)を教えていただきましたが、お手紙をしてもなしのつぶてでした。
可能性、潰える!
なお、過去帳のハツの記載について、長男の初太郎ではなく次男の「幸吉母」と記されているのもこれまた謎です。屈斜路に入植するまで、戸籍上ずっと初太郎は東舘にいましたから・・・
のちに、国会図書館デジタルライブラリーに気になる文献を発見。明治35(1902)年「茨城県公民要鑑」ですが、これにはある程度の額を納税して、選挙権を持っている者の氏名が記載されています。
その中で宮川村(現在の大子町下野宮付近)の項に、「金32円68銭1厘 菊池初太郎」という名が。
ハツが亡くなったのは明治39(1906)年ですから、もしかするとこの時点では宮川村に寄留していたのかもしれません。
そういえば初太郎の娘が下野宮の大森家から婿を取っているのは、無関係ではないのかも。
謎が謎を呼ぶ菊地家。
戸籍は菊地ですが、旧土地台帳は菊池。過去帳も菊池。
大叔父がかつて、「本家とケンカして菊地に変えたんだ」といっていましたが、なんか少しは合っているような気がします。
しかしながら、友甫の墓には菊地と彫ってあったりしますので、あまり区別なく使っていたのかもしれませんが。
ちなみに、旧土地台帳を関岡村の大部分取得するという、法務局さんにとって大迷惑なことをしたことがありますが、菊池姓だらけで菊地姓は一つも見つかりませんでしたね。
最後になりますが、さきほども初太郎が居たのでは?と推測している茨城県の大子町。
矢祭のすぐ南にある共に県境の隣町なのですが、大子町と矢祭町は、江戸時代から通婚があったようで、矢祭は棚倉藩に属しながらも、水戸藩の影響が大きかったようです。うろ覚えですけど。
天狗党の乱という事件が明治初頭にあり、その戦いに、多気の菊池義衛門という人物がいたと教えていただきました。もしかするとこれは儀右衛門なのかもしれません。
そうなってくると調査範囲があまりにも広大に!
調べ始めて14年、さっぱり進展しない菊地家の謎について、おさらいしてみました。
なんとかならんもんかなぁ。
もしよろしければ、14年間の記録を以下のリンクから見ることができますので、お時間が許せばご覧いただけるとうれしいです♪
2008/05/11 福島県東白川郡豊里村→屈斜路村【菊地家】
2018/01/22 菊地・菊池家はなぜ鷹の羽紋が多いのか?
明治19年式戸籍編製時の地名について
本籍地。
いまは皇居の地番に置いたり、市区町村の役場の住所に置いたりと好きな場所に置くことができるようです。
私は結婚して最初に住んだ場所を本籍地にしています。
いま住んでいる住所とは違うので、忘れないようにしなくてはなりませんね。
まだ同じ釧路市内なので特に不便はありませんが、違う市町村になると郵送で証明を取ったりしなくてはならないので、ちょっと面倒になると思います。
私の両親も、最近になって釧路市から現在居住している函館市へと本籍を移しました。
それまでは、いろいろと証明関係を頼まれて送ったりしたものです。
明治19(1886)年に現在取得できる最古の戸籍が編成された際、本籍地は基本的には居住地となっていたそうです。
ですので、明治19年式戸籍に記載されている本籍地は、例外はあると思いますがほぼ祖先たちが住んでいた場所なのですね。
しかしながらいろんな戸籍謄本を見ていると、地名の表記に地域差があるものだなぁと感じておりました。
サンプルが少ないですが、私の手持ちですと以下のような感じです。
①村名+番地のパターン
○青森県
青森県下北郡関根村150番地戸(現:むつ市関根)※番地戸とはいったい・・・?
青森県下北郡田名部村411番地(現:むつ市金谷)
○岩手県
陸中国北九戸郡長興寺村65番地(現:岩手県九戸郡九戸村大字長興寺。現在は第○地割となっている)
陸中国北九戸郡戸田村66番地(現:岩手県九戸郡九戸村大字戸田。同上)
○宮城県
宮城県刈田郡小村崎村49番地(現:蔵王町大字小村崎)
宮城県名取郡志賀村8番地(現:岩沼市志賀)
宮城県桃生郡矢本村44番地甲(現:東松島市矢本)
○山形県
山形県最上郡大蔵村大字南山○番地(現在もそのまま。「明治の大合併」以降の編製のため、大字表記あり)
②村名+番屋敷や番戸表記
○茨城県
茨城県筑波郡牛縊村33番屋敷(現:つくば市上里)
茨城県久慈郡生瀬村大字小生瀬237番屋敷(現:大子町小生瀬。「明治の大合併」以降の編製のため、大字表記あり)
○新潟県
新潟県中蒲原郡上高井村24番戸(現:新潟市南区根岸)
新潟県西蒲原郡吉江村18番戸(現:新潟市南区吉江)
○鳥取県
鳥取県八東郡徳丸村105番屋敷(現:八頭郡八頭町徳丸)
鳥取県法美郡荒舟村10番屋敷(現:鳥取市国府町荒舟)
③村名+字名+番地
○北海道
北海道茅部郡落部村字野田追1番地(現:二海郡八雲町東野)
○福島県
福島県安達郡東新殿村字後石倉○番地(現:二本松市東新殿。現在「後石倉」の字名は無し)
福島県西白河郡五箇村蕪内字新屋敷○番地(現:白河市東蕪内字新屋敷)
福島県東白川郡下山本村字松原○番地(現:棚倉町大字下山本字松原)
福島県東白川郡上関河内村字仲町○番地(現:矢祭町大字上関河内字仲町)
福島県東白川郡関岡村字飯野○番地(現:矢祭町大字関岡字飯野)
福島県東白川郡東舘村字舘本○番地(現:矢祭町大字東舘字舘本)
福島県東白川郡山下村字萩○番地(現:矢祭町大字山下字荻)
①や②のパターンだと、小字の特定ができず、いまの住所を照らし合わせることができません。
村によっては小字ごとに地番が振られていることもあり、○○村1番地が村内の異なる場所にいくつもあったりします。
あるいは村全体で5000番地とかまで地番が振られていたりすることもありますが、たいてい今は区画整理や住居表示の施行で、現在の住所とは異なることが多いと思います。
※静岡県浜松市西区篠原町には、27440番地-1という途方もない地番が振られています!
③のパターンのうち、福島県に関しては明治19年の住所が変わらずにいまもそのまま在り続けています。調べる際には非常に助かります。
小字の表記があるのは私の手持ちでは北海道と福島県だけ。北海道の落部村に振られている町名と番地は今は生きていませんけれど。
小字を表記していた町村(あるいは道府県で定められていた?)ははたして珍しいものなのでしょうか・・・?
ちょっと統計をとってみたいですね。
森井家の移動経路を思う
妻の母が生まれ育った森井家。
明治19(1886)年式戸籍編製時点では、石川県江沼郡菩提村。現在の小松市菩提町に居住していました。
その頃の戸籍筆頭者は、妻の高祖父である森井半左エ門(1853~1922)の兄である森井半四郎であったと思われます。
・・・というのも、明治19年式戸籍が80年廃棄されていたものですから、詳細が不明なのです。
その後、高祖父である森井半左エ門(1853~1922)の代で明治26(1893)年に北海道茅部郡落部村野田追へ転籍。
そして昭和12(1937)年に曾祖父である森井半次郎(1882~1964)の代で釧路市へと転住し、いまに至ります。
この石川県小松市→北海道八雲町→北海道釧路市というのが、公文書で追える森井家の移動経路。
この無機質な情報に、さまざまな肉付けをしていくのが家系探求の醍醐味ですね。
まず、森井という姓は小松市でいえば菩提にはおらず、ただ1軒、半四郎の子孫が市内の他の町に住んでおられます。
半四郎の本家は、大正時代に約3里離れた加賀市の山中温泉へ移住し、喫茶店を営んでいたと聞き及んでいます。
その菩提という地。
角川地名大辞典を抜粋しますと、
「大聖寺藩領。天保2(1831)年の村高454石。初期には戸数が100戸もあったが、山村のため生活が困難で逃亡者が多く、ついには7戸となり荒廃。」
・・・おぉ、ずいぶんと険しい土地であったのですね。村に残ったのが7戸とは・・・。
「月津村の由右衛門らにより復興、その子孫は13戸になったという。」
約2里ほど離れた月津(現在の小松市月津)から助っ人が来てくれたようです。ずいぶんとがんばってくれたのですね。
「『江沼志稿』(※弘化元(1844)年刊行)によれば、家数27、鍬数37。鎮守は白山社。」
やはり由右衛門さんとその子孫がががんばってくれたものの、戸数は少ない村だったようです。2000年時点でも電話帳による戸数は37戸ほどですし。
また、角川地名大辞典に鎮守として記載のある「白山社」。義母のイトコの方が、いまは花山神社となっているその社の由来を写真に収めてくれていました。
曰く「菩提町は大昔蛙子村と称された。平安時代には三枝郷に属して、白山比咩神社(※しらやまひめじんじゃ。白山市にある加賀国一之宮)の勢力圏にあった。戦国時代には一向一揆の勢力下にあり、信長、秀吉の征伐によって山口宗永(1545~1600)の領有となり、慶長5(1600)年から前田家の領となった。寛永16(1639)年大聖寺藩領になり、那谷組22か村の一つとして肝煎が村を治めていた。当初は戸数100戸に近く、如何なる山頭を開拓しつくし、草高も453石に及んだが、山村のこととて地味も悪く生活も困難となり、遂には僅かに7戸となり、田野は荒廃甚だしく、遂には一村退転に及ばんとした。藩主のすすめで、月津の由右エ門らがきて復興につとめ、その子孫が13戸になった。」
・・・角川地名大辞典の内容をほぼ含み、さらにより詳細な事柄が彫られております。非常に貴重な資料です。
さらには花山神社の御神体に関する記述要旨も彫られていまして、
一、菩提村花山神社に奉安される御神体は4体の本像であり、皆僧形にて内1体は頭巾を冠しており、これ花山法皇(968~1008)様で、他の3体は侍臣藤原実定(1139~91)、藤原義懐(よしちか。958~1021)、藤原惟成(953~89)ならずやと。
二、花山法皇様奉葬の後、侍臣等、陵傍に草盧を結び、その冥福を祈りたり。その子孫繁栄し、村を成すに至る。
三、菩提村の起源。法皇様の王柩を法皇が丘に奉葬せる時、河原村(※加賀市河原町?)より菩提院を此の地に移築せり、その後この地を菩提と呼ぶにいたると。
かつて蛙子村だったのを、花山天皇を葬った際に菩提村と名を変えたようです。もう千年以上も前の話ですね。
そもそも森井の発祥は関西地方であるらしく、日本姓氏語源事典を参考にさせていただくと、県別の人口でいうと兵庫の2,800人を筆頭に、大阪1,800人、東京1,300人、三重1,200人、奈良1,100人と、トップ5のうち4つが近畿地方となっています。
また、兵庫県西部の豊岡市出石に、森井という地名があります。
兵庫に多いのは、ここが発祥だからなのかなぁと想像したり。
そして、太田亮氏の姓氏家系大辞典には、以下のような記述がなされています。
「神宮内宮社家。能登の社家等に見え、また伊勢、志摩、美濃、尾張、武蔵、摂津等にあり。」
ふむ、神宮内宮ということは伊勢神宮の社家。そして能登の社家。三重に多いのはこの絡みか・・・。
伊勢の神社から請われて分霊でもしたのかな?輪島市に伊勢神社があったり、サイト「八百万の神」さまによると、石川県には34もの伊勢神宮系列の神社があるようですし。ただ、小松市には無いようですが。
話は変わりますが、小松や加賀のあたりは「北前船」という上方(大阪)と北海道の物流を結ぶ航路の拠点でありました。
森井家は北前船となんらかの関係を持ち、関西から加賀付近に移り住んだのではないかと想像できます。
菩提村の歴史を見るだに、森井家が菩提村にやってきたのは荒廃から復興したのち、由右エ門の子孫が繁栄した後であるのかと思っています。
もうひとつ。北海道に来たのちの話ですが、「八雲町史」によると、明治43(1910)年に当時57歳だった森井半左エ門が落部村漁業組合の組合長となっています。
この事実が、極めて高い確率で漁業を生業にしていたということをうかがわせますね。
漁民であった森井家は、関西から加賀地方へ北前船がらみで転住し、その後に北海道の落部へ一攫千金を狙って移り住んだ。
昭和に入り、さらに上を狙って当時日本一の漁港を争っていた釧路へ来たのではないかという妄想ができるわけです。
ただ、釧路に来てからは漁業ではなく、馬喰などを生業にしていたようですが・・・
ふたたびさかのぼって、半四郎の妻(半左エ門の母)であるスエは、坂下家の出ということがわかっています。
かつて菩提の坂下さんにお手紙をした際、もともとは吉崎御坊(福井県あわら市吉崎)に住んでいたとの情報を教えていただきました。
そして坂下の項を前述の姓氏家系大辞典で調べてみると、
「伊賀、尾張、武蔵、美濃、信濃等にこの地名あり」
「摂津島上部(名族)。武蔵都筑郡に坂下長右衛門山あり。また伊勢、志摩等に存すと。」
・・・森井と同じような地名の記述が!
もしかすると、森井家と坂下家は、ともに関西地方からやってきた旧知の仲だったのでは・・・?
森井家も吉崎を経由してきたのではないのかなど、さまざまな憶測が頭の中を暴れまわります。
こんな感じで毎日が過ぎていくわけですね~(◎_◎;)
明治19年式戸籍編製時期について
明治19年式戸籍。
われわれが目にすることができる最古の公的書類。
明治4(1882)年に戸籍法ができ、翌年よりいわゆる壬申戸籍が編製されたものの、職業や宗派や犯罪歴など、見られると困っちゃうかもしれない情報が載ってしまっていることから、現在は仮に遺っていたとしても、存在しないものとされています。
明治19年式戸籍は、その壬申戸籍をベースに、明治19(1886)年の戸籍制度改正によって編製されたもの。
現在でも、平民や士族といった族称等が塗抹されてはいるものの、正当な手続きを踏めば取得できる貴重な資料です。
ただし、平成22(2010)年までは「除籍簿は、除籍後80年経過するまで保存し、証明として発行する」というような法律であったため、除籍となって80年が経過した除籍簿については処分しちゃってもよいこととなっていました。
現在は法改正で除籍後150年まで延ばされておりますが、平成22年時点で80年経過、つまり最も最近のもので昭和5(1930)年までの除籍簿は、闇に葬られていてもなんら行政の落ち度はないのです。
なんということでしょう。それらの戸籍簿は、各市区町村判断で融解されたり裁断されたりして、世の明治19年式戸籍の何割かはすでにこの世に存在しないものとなっているのです。
物理的に保管場所が限られている都市部や、電算化してシステムによって80年経過した時点でデータを削除するようになっていたりだとか、さまざまな事情や方法で貴重な資料が処分されてしまいました。
また80年保存の法律とは関係なく、戦時中の爆撃によって焼失、役場が火災で戸籍簿もろとも全焼・・・といった、災害によって失われてしまった戸籍簿も・・・。
そういった戸籍簿は完全な状態では再製できず、中途半端な状態で再製されたりしていますね。
戸籍簿の副本は法務局で管理してはいるものの、常に最新の状態というわけではないはずです(昔はどうだったかはよく解っておりません(;'∀'))。
ちょっと違いますが、かつて日本の領地だった樺太や北方領土の戸籍も、一部を除いてほとんどが戦乱によって失われてしまっています。
さて、本題ですが、このわれわれが目にすることができる最古のA級資料である明治19年式戸籍。
どうやら編製された時期については、地域差があるようなのです。
壬申戸籍からの移行が遅くなったところは、おそらくよその町村が切り替えていく中でも、一定期間は壬申戸籍で事務を行っていたのだと思います。
高祖母の実家である石井家の明治19年式戸籍の本籍地が、「茨城縣久慈郡生瀬村大字小生瀬248番屋敷」となっています。
戸主は明治17年に相続しているので、これが遺っている最古の明治19年式戸籍。
しかし、「生瀬村大字小生瀬」とあります。
これは、明治22(1889)年に全国的に積極的に進められたいわゆる明治の大合併により、小生瀬村から生瀬村の大字となったことによる地名です。
つまり、少なくとも生瀬村となった明治22年までは壬申戸籍で事務をおこなっていたと想像ができるのです。
また、同じ大子町では、明治26(1893)年や明治29(1896)年編製(前戸主隠居等による)の戸籍簿よりも古い除籍簿は存在しないという例も確認されています。
もしかすると明治30年くらいまで、壬申戸籍での運用が行われていたのかもしれません。
茨城県では、私が知る限りでは現在つくば市上里となっている旧・牛縊村は大合併前に明治19年式を編製しています。
私の手持ち資料では大子町の他にそういったところは見受けられませんでしたが、明治19年式への切り替えがもっと早ければ、得られた情報がさらにあったのかと思うと、至極残念な気持ちになりますね。