平野儀三郎と平野儀三郎
高祖父・平野儀三郎(1866~1939)。
慶応2(1866)年5月、武蔵国多摩郡田無(現在の西東京市南町)において、質屋等を営む新倉治兵衛とふじ夫妻の二男として生まれる。
明治12(1879)年3月、公立田無学校下等小学第4級を卒業。
明治16(1883)年4月16日、明治天皇が田無を行幸された際、妹のまつが天皇のお茶のみにお付き合いする。
その8日後、16歳で北豊島郡小榑村(現在の練馬区西大泉)の平野丑松・はつ夫妻の長女であるいちの婿養子として、平野家に入る。いちは3歳上の姉さん女房。
儀三郎を迎えた平野家は、もともと鴨川の仁右衛門島に在り、源頼朝より平野姓を賜ったのち、千葉を経て日蓮宗とともに小榑に入ったと伝わる。家紋は「丸に抱き茗荷」。
明治17(1884)年1月、丑松の隠居により、弱冠17歳の儀三郎が平野家の家督を継ぐ。
その3か月後、長男である留五郎が誕生したのを初めとして、五男二女をもうける。
明治26(1893)年3月、実兄で新倉治兵衛の長男でもある庄藏が分家するにあたり、立会人としてサインをする。
明治27(1894)年12月9日、失踪届出。
翌年2月17日、復帰届出。
この間、何があったのか知れず。
明治30年代に北海道瀬棚に入植するも、農耕に適した土地が無く、利別村メップ(今の今金町種川)に移住。
明治38(1905)年、39歳時にオホーツクの斜里郡止別村(今の小清水町止別)へ移住。
昭和10(1935)年、68歳にして樺太恵須取町上恵須取へ移住。
昭和14(1939)年2月22日、脳出血のような症状により急逝。満72歳。
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そしてもうひとりの平野儀三郎。
大正5(1916)年、水産に関する「碇ウインチ」についての特許を取得。その際の住所は東京府下谷区龍泉寺町379。【大正7年発刊の「水産界425号」より】
大正9(1920)年、当時は西巣鴨村にあった滝乃川学園で発生した火災より、米田久興を救出する。久興は、北海道興部(おこっぺ)村の有力者である米田常作の息子。
なお、滝乃川学園にも確認したところ、儀三郎については「米田氏友人」としかわからないとのことでした。
滝乃川学園を創設した石井亮一氏は、この火災の際に閉園を考えたそうですが、大正天皇の后である後の貞明皇后に再建を促されたそうです。
大正11(1922)年、貴族院議員の柳原義光伯爵が北海道に行きたいということで、儀三郎が米田氏を紹介。伯爵は三室戸敬光子爵とともに興部へ赴く。
米田氏、伯爵、子爵、儀三郎は発起人、賛助員として興部村の浄土真宗隆興寺の建立に携わる。
昭和2(1927)年、米田氏に手紙を送る。その際の住所は東京府下谷区龍泉寺350。
昭和5(1930)年、平野儀三郎方の平野元三郎なる人物が「武蔵野会」に入会。住所は同上。【昭和5年発刊の「武蔵野 第15巻第5号」より】
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「水産界」に載っている碇ウインチの特許取得、「武蔵野」に載っている平野元三郎の名。
この2件の情報につきましては、家系探求同朋の渡邊氏にご提供いただきました。誠に感謝です。
この2件の情報を得たことで、高祖父と龍泉寺の平野儀三郎は別人であろうという方向にシフトしていっているところです。
特に、武蔵野に記載がある元三郎氏。
おそらくは儀三郎の息子さんではないかと想像しておりますが、同名の著名人がいらっしゃるのです。
平野元三郎(ひらの・もとさぶろう、1910~90)。
「日本人名大辞典」によると、東京出身の氏は、早稲田大学卒業後、昭和27(1954)年より千葉県教育委員会に勤務。考古学者として「青木昆陽伝」など著書が多数。
※10/13追記:早稲田大学の卒業生名簿には平野健造と五郎の間に記載があるため、読みは「げんさぶろう」もしくは「げんざぶろう」かと思われます。昭和8(1933)年史学科卒。
高祖父の戸籍情報とは少しもかすりません。
しかしながら、真偽が確定しているわけでもありません。
祖父が言っていたことが頭をよぎります。
「じさまは東京にちょいちょい行っていた」。
「樺太に居たころ、徳川の紋が入ったいろいろなものがあった」。
そして東京とオホーツクという2つの地に関わりがあるという共通点…
しかし数百年も日蓮宗なのに浄土真宗の寺院建立に携わるのはなかなか考えにくいですし、元三郎氏の存在やずっと龍泉寺に家があったということを鑑みると…
んもう、こうなったら別人でも構わないから腑に落ちるような情報が欲しい!
藁をもすがる思いでいろいろと調べてみました。
そこで思い当たったのが、柳原家。
儀三郎と懇意であった柳原義光伯爵は、典侍(天皇のお世話役、女官の監督)であった柳原愛子(やなぎわら・なるこ。1855~1943)の甥。
愛子は大正天皇の生母でもあります。
その愛子を仲人として、24歳年上のアメリカ人、ヘンリー・パイク・ブイ(Henry pike Bowie)と婚姻した女官が、横浜代官所詰めだった武家の娘、平野駒(1870~?)。
そのふたりの長男で、フランス文学者でもあった平野威馬雄(1900~86)は、言わずと知れた料理愛好家である平野レミさんのお父さん。
次男の平野武雄氏は翻訳家として活動し、武雄氏の息子さんはライブハウス、ロフトプロジェクト代表の平野悠氏。
悠氏は、お祖母さんのことをブログに綴ってらっしゃいました。
少しでも興味がおありなら、何かご存じなのではないだろうか・・・!!?
そのような乱暴な図式により、平野悠氏に連絡をとってしまうという暴挙に出てしまいました。ご迷惑にもほどがあります。
しかし、心優しい悠氏は、ご返事をくださったのです。
『私の婆様は「駒」といいました。天皇家で側近を務め、柳原愛子の家で私の祖父、ヘンリーパイクブイと出会って結婚して、平野威馬雄、武雄が生まれたといいます。
平野駒さんのことはほとんど知りませんし、平野儀三郎さんも初めて聞く名前です。もし駒婆さんの生涯がわかれば楽しいのですが、全く手がかりはないと思います。その点では平野レミさんの方が詳しいかも』
そんな悠氏に私は無理なお願いをしました。レミさんに聞いていただけないでしょうか?・・・と。
すると、しばらくして再びご返事をくださった悠氏!
『平野レミさんに聞いたところ、平野儀三郎の名前は自分の父から聞いたことがあるそうですが、それ以上のことは全くわからないので、連絡をくれても仕方がないと申しておりました。平野駒さんは私たち平野一族にとっては全くのミステリアスな人で、もしそちら様で何か発見したら教えてくださいとのことでした。』
!!!儀三郎の名を聞いたことがある!!!?
でもそうですか・・・やはりレミさんでも詳しくはわからないのですね・・・
どこの馬の骨ともわからない男に優しくしていただいた平野悠さん、ほんとうにありがとうございました!
・・・ということで、これからはちょっと思考をシフトして、平野駒および龍泉寺の平野儀三郎について調べていこうと思います。
平野駒については悠氏曰く家紋も没年もわからないとのこと。
明治3年生まれではありますが、特殊な経歴なので情報が残っていてしかるべき人物だとは思いますけれど・・・、お孫さんが何もわからないのですから、ほんとうに何も遺っていないのですね。
この目線から、真実にたどり着けるよう、精進していきます!
そしてレミさんや悠さんをはじめとする平野家に、なにか少しでもお伝えできる情報を探し出したいです。本気ですよ!
2021/10/5追記:平野悠氏より、貴重な情報をいただくことができました。
「平野駒さんはどこぞの下級武士の娘だったそうで、横浜の料亭『花の家』に養女に入って天皇家の側近に仕えて、それから天皇家から駒さんは柳原愛子さんの家で過ごし私の祖父ヘンリー・パイク・ブイさんと知り合って結婚したそうです。ヘンリーさんは渋沢栄一とも親交があったそうです。」
平野駒が横浜の元武士の家に生まれた・・・ということは、そこはかとなくいろいろなwebページで見たことがありましたが、料亭に養女に入っていたというのは初めて知りました。この「花の家」(ネットで探しても出てこない💦)で皇室関係者に見初められたとかなのでしょうか・・・?
また、ヘンリーが渋沢栄一と親交があったのもうなずけます。
渋沢栄一は滝乃川学園が火災に遭った後、教育に全力を注ぎたいという石井夫妻の意思をくみ取り、理事長に就任しました。
滝乃川学園は大正天皇より今の天皇に至るまで、幾度となく行幸啓されている施設。
平野儀三郎とヘンリーが面識があったかはわかりませんが、平野家と滝乃川学園に何らかの繋がりがあったと考えると、リンクするような気がします。
以下は今まで綴った平野家に関する記事です。
2008/05/11 東京府北豊島郡小榑村→利別村→斜里村【平野家】
2011/08/13 平野家についてじいちゃんから得られた情報
2018/03/01 平野儀三郎について、一縷の望み断たれる
北前船と森井家
江戸時代から明治期にかけ、「北前船」という日本国内の交易になくてはならない存在がありました。
端折って言うと、大阪から北海道まで日本海側ルートを航行し、各地の港で特産物などを売買していた船です。
当時は日本各地の特産物についての相場を知ることなぞ一般的には不可能でありましたが、ここで安く買ってあそこで高く売る!ということが、船乗りたちには可能だったんですね。
どうやら海峡を通るのは厳しいとの判断から、この比較的安全な西回りのルートが開発されたそう。
それでも遭難は多かったそうですが、それ以上に一攫千金を夢見て、この世界に入る人は多かったらしいです。
北前船のことを調べてみると、ここに綴るのがもったいない面白い話が多いので、ぜひお時間があれば調べてみてくださいね。
話は変わって、妻の母の実家である森井家。
昭和10年代に妻の曾祖父・森井半次郎(1882~1964)が釧路に来る前は、道南の落部村野田追(現在は八雲町東野地区)で漁業を営んでいたようです。
半次郎の父・半左エ門(1853~1922)が落部の漁業組合で組合長をしていたとの記述を、八雲町史に見つけることができます。
その落部に来る前、森井家の本籍は石川県江沼郡菩提村にありました。
落部への転籍は明治27(1894)年。
菩提村は現在の小松市菩提町ですので、小松市へと除籍の請求をしてみましたが、80年廃棄の罠が発動。。。がっくし。
ちなみに、落部村に来たときに編成された、現存する森井家最古の戸籍がこちら。
なんぼよく見ようとしても、達筆とは言えない・・・(>_<)
なにせ半左エ門の分家した日や、転籍前の地名がよめませんからね。
ここいらあたりはイ・ロ・ハ・・・という小字がつく、石川県特有の地名の箇所。
おそらくは「江沼郡那谷村字菩提 ○(カナ) ○○○番地」と書かれているのでしょうが、んもうさっぱりわかりません。
当時、ここまでの情報を手土産に、義母に「森井家は石川県から来たみたいだよ!」と得意満面で教えたらば、「うん、そうだよ」と。
それまで知らなかったのですが、義母のいとこである神戸在住の森井幹男さんという方が家系図を昔から作っていたそうなのです。聞いてないよ~!
伯父から幹男さんの作製された系図を見せてもらうと、けっこう調べられている!
菩提町にある森井家のお墓や、菩提寺である福井市の牛鼻山興宗寺(浄土真宗)にまで足を運んでいます!
たまらず幹男さんにお便りをしてみると、最新版の調査記録と家系図を快くご提供くださいました。
幹男さんによると、菩提町の森井家は、半左エ門の兄である半四郎が継いだものの、大正時代に山中温泉(今の加賀市)に移住。
そこで子孫の方は喫茶店を営んでいるということでした。でも昭和8(1933)年の生まれだそうで、もうさすがに引退してるかな・・・と思い、コンタクトはとっていない状態で今に至ります。
それが12年くらい前の話。いまとなっては後悔しきり。
その後、幹男さんが同窓会で釧路に里帰りした際、一度だけお会いすることができました。
会社の昼休みにいっしょにソバをすすりながら、「何で調べようと思ったの?」みたいな話をした・・・のかな?もう忘れてしまったのですが。。。
そのうち、またいろいろ聞く機会があるだろうと、なんとなく思っていたのですが・・・
2018年のお正月、一通の寒中見舞いが届きました。
それは幹男さんの息子さんから。
幹男さんが亡くなったことが書かれていました。満71歳。山登りが大好きだったそうです。
幹男さんの頭の中にあった断片的なまとまっていない記憶がこの世から失われたということです。
なんという喪失感。
まさか一度しか会えないなんて考えてもみませんでした。
結局、未だに私は小松に行ったことがないのですが、幹男さんが遺してくれた資料をたまに眺めます。
こういう資料とにらめっこしながらいろいろ聞きたいことがあったんですよね・・・
資料に森井家の本籍地が「江沼郡那谷村字菩提85松番地」って書いてあるんですが、松番地って何??っていうこととか。
菩提町にある森井の墓石に彫られている家紋が、釧路の「丸に五三の桐」とは異なり、「四本骨扇」であることとか。
しかも四本骨扇なぞ、どの家紋図鑑にもネット上にもみつかりません。
しかしもう誰も答えてはくれません。。。
森井家が「但馬興宗寺」と呼ばれている寺を菩提寺としていたということは、もともと但馬地方からやってきたのではないだろうか?
但馬地方の兵庫県豊岡市出石町には、ずばり森井という地名がありますし。
ジャパニーズドリームを夢見て船に乗るようになり、北前船で寄港地であるこの小松付近に住み着いたのではないだろうか?
でもすべては推測でしかありません。
・・・と、あらためて興宗寺のことを調べていると、「但馬」は当て字で、福井市の「田島」地区にあったから「タジマ」とつけただけみたいなことが書いてあるのを見つけてしまいました。
なんじゃそりゃ!たまたまか~!!普通に田島ってついてたら誤解しなかったのに・・・
ところで、半左エ門の兄も父も同じ森井半四郎という名。
そして父・半四郎は、同じ菩提村の坂下家からスヱを妻として迎えています。
いまも菩提町に住んでおられる坂下家の子孫の方から伺ったお話なのですが、坂下家はもともと福井の吉崎御坊に居を構えていて、なんでか菩提村に移り住んだということ。
わざわざ菩提村という辺鄙なところに移住するのには理由があるはずですが、ひとつ思い浮かぶのが、この興宗寺。
菩提村から2里ほど北に、月津村という地があります。
そこは興宗寺の第五世・円慶が隠居した地であり、のちにその隠居した掛所も興宗寺の寺号が与えられたそう。
使い分けとして、但馬興宗寺、加州興宗寺と呼ばれているらしいのです。
そして、菩提村にある花山神社の由来の碑によると、菩提村は平安時代のころ蛙子村(読み方は不明)と呼ばれており、戦国時代には山口宗永の領→1600年に前田家の領→1639年大聖寺藩領となり、その当時は100戸に近いほどの人口があったそうで、当時の石高は453石と記録されています。
しかしながら山村で、土もよくなく、不便な地であったために7戸しか残らないまでに荒廃してしまったそう。
そこで月津村から由右エ門ら何戸かが移住し、13戸まで村を建て直したと。
うむ、関西地方→吉崎御坊→月津→菩提・・・と、このような感じで移住していったのかもしれません。
幹男さんの資料には、「福井の興宗寺には過去帳は無し。月津にあるのかも」との記載があり、月津までは行かなかったことがわかります。
わたし、跡を継ぎますから!!いつか月津に行きます!いまや過去帳を見せてもらうのは高い壁になってしまいましたがね。。。
また、北海道に渡ってきた時期も不明な半左エ門。
転籍は明治27(1894)年ですが、明治19(1886)年に生まれた半次郎の弟・小太郎が、のちに半左エ門の妻となる髙谷タケ(1845~1922)の子として落部で生まれているのです(弟は最初、髙谷家の戸籍に入っていました)。
ですので、少なくともそれ以前には北海道にいたのだと思うのですが・・・
戸籍上では明治15(1882)年生まれの半次郎、どこで生まれたのか知れません。
大正7(1918)年に、父・半左エ門が隠居していまして、その際に編製された同じ落部村の戸籍には、母欄にタケと書かれています。
最古の戸籍には母についての記述は一切ないのですが、隠居の届を出すときにきっといろいろと書かされたと思うので、母が髙谷タケなのはほぼほぼ間違いないのかなと思っております。
そうすると、半次郎が生まれる1年前の明治14(1881)年には落部に移住していたのか?
あるいはもしかすると、出稼ぎ先でのロマンスだったとか・・・?それで移住を決意したとか・・・?
半左エ門の戸籍に半次郎は出生時から入っているようですし、でも弟の小太郎は髙谷の戸籍に入っているし・・・
むむぅ、妄想が暴走気味に💦
半次郎が生まれたとき、半左エ門は29歳、タケは37歳。この年齢差も、なんだか時代背景を考えるだに不思議に思うのです。
ちなみに半左エ門、隠居して2か月後に分家し、さらにその1か月後には森井家を廃家。
タケの子(タケですが、半左エ門と結婚する前は髙谷重太郎氏と結婚していました)である玉藏が継いだ髙谷家に夫婦そろって入籍という、説明がないのでまったく意図がわからないことになっています。
こういう場合は名字も髙谷になるのかな?髙谷半左エ門になっちゃったんでしょうか?
高谷家の戸籍では、続柄「継父」となっています(タケは「母」)。
その後、大正11(1922)年にタケが亡くなり、そのわずか11日後に半左エ門も68歳の生涯を終えました。
きっと仲良し夫婦だったんでしょうね。
少なくとも道立公文書館に所蔵されている明治6(1873)年の落部村戸籍簿(目次みたいなの)に髙谷家は載っていましたが、森井家は載っていないのは確認できました。その時点では半左エ門は菩提村に本籍があったのですから当然なのでしょうが。
ちょいちょいもやもやが残っている森井家。
八雲の髙谷家や加賀の山中温泉にアプローチをしてみたいところですが、時間をおいてしまったためにちょっと及び腰。
北前船についても、調べたい調べたいと思っていて、数年来ほっぽったままです。
以下は、森井家についての調査進捗状況です。
妻の祖先の地、下北半島
下北半島。
本州の最北にある、斧みたいな形の半島。
妻の実家である山田家は、高祖父・山田菊松(1875~1934)の代のとき、明治38(1905)年にその下北半島から釧路郡鳥取村(現在の釧路市北斗)へ入植してきました。
青森県下北郡田名部町大字関根字高梨川目。現在はむつ市関根高梨川目となっていますが、そこが山田家がかつて住んでいた地域の名です。
角川地名事典の関根村項には以下のように記されています。
「下北半島先端部、津軽海峡に注ぐ出戸川下流右岸に位置する。地名の由来は、古く二道の関・大関・根古木の小村が合併した際に各村の一字をとったものという。江戸期は北郡に属し、盛岡藩領。江戸期の資料によれば、家数175。本村を除く集落別内訳は北出戸15、川代14、烏沢45、高梨11。宝暦8(1758)年創建の春日神社がある。明治元(1868)年に弘前藩取締。以後黒羽藩、九戸県、八戸県、三戸県、斗南藩、斗南県、弘前県を経て、明治4(1871)年に青森県に所属。明治元(1868)年の戸数147。」
その江戸期に11戸しかなかった集落・高梨川目の山田家は、山田三之丞が戸籍上では最古の名前。
文政7(1824)年生まれの次男・山田善四郎(1824~97)の父として名前が記載されています。
善四郎夫妻には男子が無く、跡取りとして同じ高梨の畑中家より由藏を養子に迎えます。
しかし明治元(1868)年、望外の長男・留藏を授かったのです!
時に善四郎および妻・みの、44歳の初夏でした。
跡取りとして迎えられたところで、立場が微妙になってしまった由藏でしたが、妻として同じ関根村の舘半六養女・みゑ(1856~?)を迎えます。みゑの実家はここからは知れません。
なお、善四郎の妻・みの(1824~1917)は舘半右エ門長女であり、同じ舘(この地域では「たて」と読むそうです)姓であることと「半」の字が共通していることから、半右エ門と半六は何らかのつながりがあると考えるのが自然かと思われます。
そして明治8(1875)年、由藏とみゑ夫妻の間に長子・菊松誕生。由藏の年齢はわかりませんが、みゑは18歳でした。
私の手元にあるのは、山田家の明治19年式戸籍。
山田の本家は三之丞の長男・春松が継いだようで、次男の善四郎は明治12(1879)年、55歳の時に分家。
さらにその5年後の明治17(1884)年に善四郎は隠居しており、編製時点では当時18歳の山田留藏が戸主となっています。
しかし、由藏の名前が見当たりません。
菊松の父欄には「善四郎離別養子由藏長男」とあり、何らかの理由で由藏は山田家を離れたようです。
留藏がいることで結局居づらくなり、実家の畑中家に戻ったのかもしれません。
山田家はどういう家なのか、なぜ下北に住んでいるのか、畑中由藏はどうなったのか、舘家とのつながり・・・
気になることがわんさかでてきたことで、高梨の山田家へとお手紙作戦を決行!
そうしたらば、おそらくは善四郎の兄が継いだ本家の方と、留藏の子孫の方からご連絡をいただくことができたのです(≧◇≦)
本家からのお手紙には、以下のようなことが記されていました。
「山田・田中・舘・畑中・安藤・倉田の六氏が戦に敗れて落人となり、この高梨地区に落ち延びた」。
なるほど・・・、戦・・・?どの戦かしら?
調べてみると、高梨が属する旧関根村のお隣である大畑地区には、1615年の「大坂夏の陣」で豊臣方に附いて敗れた兵が落ち延びた末に発見したという言い伝えがある薬研温泉が!
大阪からこんなに遠い下北まで命がけで来るのですから、おそらく同じようなシチュエーションで高梨にも落ち着いたのではないかと。
しかも本家の方が教えてくださった6つの姓は、調べてみると東海や関西地方に多い姓。
そういう断片的な情報を以ていろいろ勘ぐると、高梨の人々の下北以前のルーツは東海や関西となるのではないかと推察。ずいぶん範囲が広いですけれど、これが精いっぱいかなぁ・・・
その後、2012年に実家の函館にへ帰省ついでについでにフェリーで下北半島に渡り、高梨で墓参をするという野望を果たせたのです。
まさに高梨は秘境ともいえる雰囲気の集落であり、敗走から落ち延びるのにちょうど良かったのでしょうか。
本家の家紋は「丸に三つ柏」。
分家の善四郎家は「丸に木瓜」。
なぜ変えたかは知れませんが、釧路の山田家は善四郎家と同じ紋を使用しています。
善四郎家ですが、40年位前までは稲作農家だったそう。
もしかすると釧路に渡った菊松もノウハウを活かして釧路で稲作を試みたかもしれません。
でも釧路は寒くて海沿いで塩分の多い不毛な土地なので、農業はとても無理なのです。
最終的には馬のブリーダーとなりました。
そして菊松の母・みゑ。
由藏が山田家を去ったのち、奥内・鳥山万右エ門家より次男の丑松を婿として迎えました。みゑとは同い年。
丑松とみゑの間には、万次郎(1885~1966)、伊與松(1887~1954)、多三郎(1893~1955)という三人の男子が生まれ、その後は菊松とともに丑松一家も釧路に渡ったのです。
伊與松家の墓石には、「丸に三つ柏」紋が彫られていますが、本家と同じくした紋なのか、あるいは丑松の鳥山家の紋なのかは不明。
なお、万次郎と多三郎の家の家紋は現在わかっていません。
万次郎家には子どもたちとともに2014年に訪問したことがあり、その時は万次郎の息子さんの奥さんがいろいろお話してくださいました。
主に馬の話でしたが、釧路の山田家にとって馬はそれほど大切な存在だったのだなと改めて思った次第。
馬産王国ともいわれた釧路を支えていた誇りが感じられました。
しかしその翌年、その奥さんが亡くなり、さらに息子さんと息子さんの奥様もその翌年、翌々年に相次いで亡くなってしまい、もはやお話を聞くことができなくなってしまいました。。。
ところで、菊松の母であるみゑの没年がいまのところわからないのです。
万次郎家では、みゑは多三郎家に住んでいたはずといわれ、多三郎家には万次郎家に住んでいたはずといわれ・・・
大正時代のことなのに~と思ったのですが、大正も遥か昔のことなんですよね。200年くらい前のこととか考えていると感覚が麻痺してしまいます。
戸籍で確認しようにも、釧路市の除籍は80年廃棄。
取得できる最古の戸籍、大正12(1923)年に編製された多三郎が戸主の謄本に、隠居した丑松は記載されていますが、みゑについての記載はありません。
青森から鳥取村に転籍したのが大正5(1916)年12月。
この7年の間におそらく亡くなったのだろうと推測されます。そうなると没年齢は60歳~67歳の間ということに。
なにせみゑは直系の祖先。
供養のためにもどこに眠っているか知っておきたいです。
また、この記事を綴るにあたってネットでいろいろ調べていたところ、こんな本が出ていたのを知りました。
関係者1,000人以上の豊臣方人物について記されているようです!
高梨の祖先についての記載があるかも・・・どきどき💓
読みたいけど2まんえんもするのか~💦
うん、ここは図書館だな。
でもほとんどの所蔵図書館が禁帯出扱い・・・
北海道だと江別の道立図書館と、私の実家がある函館の市立図書館にあるみたいだ!遠いなぁ。。。
以下は、いままで綴った山田家についてのブログ記事です。
2008/05/12 青森県下北郡田名部村→鳥取村【山田家】
高祖母の実家、小生瀬石井家もまた・・・
私の高祖母・菊地すゐ(1874~1931)。夫である菊地幸吉(1874~1959)とは同じ年。
茨城県久慈郡大子町にある小生瀬という村から、明治26(1893)年に隣町の福島県東川郡矢祭町の東舘に嫁いできました。おたがい19歳の年でした。
その石井家、戸籍を手繰りますとすゐの父である石井庄衛門(1837~1902)が隠居し、その長男である石井酉次郎(1861~?)が戸主のものが最古。
庄衛門の父欄には、亡祖父(戸主である酉次郎から見て)重四郎長男と。
その後、庄衛門と二男の鐡之助は酉次郎家より分家し、娘の嫁いだ東舘に移住しています。
弟子屈町に住んでいる大叔父(すゐの孫)が、石井家について伝え聞いていることがあります。
「石井家、久慈郡一帯の庄屋・庄右衛門として代々治める」
なるほど・・・、これはあれですね、大風呂敷というやつ。
信じないわけではありませんが、おおげさな感じが否めません。
しかしそう伝わっている以上、ご先祖様にとっては余計なことかもしれませんが、調べなくては納得がいかないのですね。
まず、図書館の相互貸借で大子町史を紐解いてみます。
石井重衛門という名がたまに出てきますが、庄衛門や重四郎という名は出てきませんでした。
でも似てますね。庄衛門と重四郎が混ざったみたいな名前です。
そんなことをブログに綴らせていただいたらば、当時筑波大学の学生だった大子町出身の青年から、一通のメールをいただきました。
どうやら彼が実習している施設に、石井家の縁故者がいらっしゃるという話!
こうして、奇跡的に石井庄衛門の次男である鐡之助の曾孫さんとコンタクトをとることができたのです。
この方によると・・・
・すゐの存在は初めて知った(最古の戸籍からは既に除籍となっているため)
・小生瀬村の庄屋であったことは語り継がれている
そして、貴重な歴史の声である石井さんのメール原文を以下に載せさせていただきます。
『水戸藩内の幕末の政争「天狗諸生の乱」で、親子が天狗派と諸生派に分かれ、天狗派であった息子が小生瀬の家を出てしまい、一時は原戸籍からも抜かれていたことなど、断片的に聞いておりましたが、出てきてしまった土地での昔のことは、何とでも良いように話を作ることもできるから、と一笑に付しておりました。
このたび、菊地さんのブログを拝見して、同じような伝承があることを知り、少し真面目に父の思い出話を聞いてみました。おかげで、今までごちゃ混ぜになっていた曽祖父と祖父の話を、少し整理することができました。
天狗諸生の乱で家を出てしまった子というのが庄衛門、当時31歳。父が聞いている話では、諸生派の襲撃に逃げ切れないと観念し、妻と赤子だった次男鐵之助を連れて谷底に身投げしようとしたところ、赤子が泣くので乳を含ませるとニッコリ笑ったので、子どもを道連れに死ぬことを思いとどまり、東館付近に潜伏したとのことです。当時、7歳ほどになっていた長男酉次郎は父重四郎に託し、小生瀬の家に残したのだと思われます。鐵之助の生まれ年から考えると、明治元(1868)年のできごとのようです。
そのまま東館に腰をすえ、鱗(うろこ)屋(わが家の屋号はウロコヤといいます)という旅館を開業して大いに儲けたそうです。鐵之助の妻 アキや長男一(はじめ)から、大きな池のある立派な旅館だったと、私の父は聞いているようです。しかし、鐵之助が将棋に現を抜かし、一が5才位の時に破産したとか。庄衛門の死をきっかけとして、家財道具を大八車に乗せ、夜逃げ同然に東館をあとにしたようです。』
・・・ということを教えていただきました。
また、家紋は「二つ巴」、家があった小字は「寺地」だということも。
さらには、
『小生瀬の屋敷跡は、父が子供時分は竹薮になっていると聞いていたとのこと。酉次郎らが岩間に移ったとの(戸籍の)記載を見て、父は祖父一に、東京からの帰り、親戚がいるのだと岩間で途中下車して訪ねたことがある、と思い出しました。祖父の代までは、行き来があったようです。
現在の我が家の墓地は、市内近所の寺院にあり、墓誌に「小生瀬で横目を長年務めた」と刻してあります。「横目」とは村内の取り締まりを兼ねた庄屋のことのようです。父によりますと、この墓地を造るに当たり、東館の東慶寺にあった墓を移し、庄衛門夫妻の遺骨も納めたそうです。』
・・・と、やっぱり大叔父が言っていた「久慈郡一帯」は大げさだったにしても、小生瀬の庄屋さん的立場だったんだ!ということが判明し、何だか一安心でした。
後日、小生瀬に伺えることになったことで、石井家についてより一層の調査をすべく、お手紙をしたことがありました。
そして、お会いできるとおっしゃってくださったお宅が2軒あり、スケジュールが合えばお会いできることとなったのです。
さらに、大子町出身の名字研究家で、日本テレビの番組「沸騰ワード10」でのハンコバトルでも有名な髙信幸男先生にも石井家について質問のお手紙をしてみましたところ、ご返事をいただくことができました!
髙信先生のお手紙には、細かい字とかはぜんぜん読めませんが、石井家のものだというたいそう立派な墓石の写真。
これはぜひともお参りしたい!
ということで、2018年10月に行ってきました。小生瀬に。
実は10年ぶり2度目の訪問ですが、前回は一切の収穫が無く、後ろ髪ひかれる思いで去っていた過去があります。
そういえば、小生瀬という名にもしかすると聞き覚えがある方がいらっしゃるかもしれません。
飯嶋和一先生の小説「神無き月十番目の夜」の題材にもなった、「小生瀬の乱」あるいは「生瀬騒動」などという名がつけられている事件があった場所です。
詳細ははしょりますが、詳しくはネット上にたくさんの情報がありますので、ご覧いただければと思います。幕府がひた隠しにしていた非常に興味深い事件です。
小生瀬で最初に伺った石井家。最古の祖先は石井庄次兵衛氏。
お話を伺ったのですが、接点が見いだせません・・・。
そこで、お墓に連れて行ってもらえることに。
石井さんの軽トラの後を追うフィット(レンタカー)!
そこにあったのは、髙信先生が送ってくださった写真とは異なり、真新しいお墓が4基。家紋も異なります。
どうやら庄次兵衛さんを祖とする一族のお墓を纏めたそうです。
むむむぅ・・・という顔をしていると、
「庄屋だった益子さんのお墓にもいってみっかい?」とのご提案。
益子さん?庄屋?庄屋は石井家じゃないの?え?
・・・と思う間もなく石井さんは軽トラで動き出しました。追わないと!
すると、目の前には髙信先生に送っていただいた写真と同じおっきな墓石が!!!!!
え?石井家の墓石じゃなかったの?これ??益子さん?確かに益子って書いてある!?
んもう釧路から遠い小生瀬で大混乱の極み。
なんとかがんばって心を落ち着かせ、まじまじと見てみました。
いろいろとみてみると、家紋は見つけられません。キリーク文字が彫ってあるので真言宗でしょうか・・・?
石井さんによると、水戸藩の廃仏毀釈が激しかった地域のようで、寺は廃寺になり、その後の石井家は神道になったそうな。
また、益子家の子孫の方は東京で病院を営んでおり、年に一度は墓参に来られるとのこと。
そんな話をしていると、ん?天明8(1788)年正月と彫られた俗名・益子庄右エ門信任?のお墓がある!
しょうえもん!石井じゃくて益子だけど・・・!?
これはどういうことかしら?
いままで益子という名は聞いたことがありませんし。
しかし、石井家のものだとおもって写真を送ってくださった髙信先生のこともありますし、なんらかの形でかかわりがあると考えるのが自然?
石井さんは庄衛門の名にどうやらぴんと来ない様子でしたし、謎のままに終わってしまいました。
そして、もう1軒お邪魔するはずだったりんご園の石井さんへは、タイムアップでお邪魔できず・・・
ちょうどりんご狩りのピークで、めちゃめちゃ混んでましたし、またいつの日か閑散期を狙ってコンタクトをとろうと画策しています。
石井家の謎はもうひとつ。
万延元(1860)年3月、井伊直弼大老が襲撃された「桜田門外の変」。
その実行隊長である水戸藩士・関鉄之介をかくまっていた中に、石井家の人物がいるのです。
その人は石井重衛門。
町史にも名前が出てきていた人物。
その重衛門とのかかわりがあるものかどうかについても調査しておりました。
石井重衛門の親戚であり、同じく関を匿った地元の名士である櫻岡家。
そちらの子孫の方にお話を伺うことができたのです。
しかしながら、私の祖先の名はまったくご存じなく、お持ちの文献にも載っていないようでした。
重衛門の子は、兵衛門、忠蔵、権五郎、百太郎。
きょうだいに菊池佐一兵衛妻のとり、佐藤五郎衛門妻、伝重郎(平八郎とも)。
父は石井源治兵衛義房(義国とも)。
祖父は石井久治衛門義教。
まったく知らない名ばかり・・・。
こちらもまた、ぼちぼちと調査していきたいと思いますが・・・なかなか厳しそうです。
今回ももやもやする感じでおわってしまってすみませんです。
でも同志の方ならわかっていただけると思いますが、こんなのばっかりですよね。答えはあってないようなものですし。道は厳しい。
以下は石井家についての調査に係るブログ記事です。心に余裕がおありでしたらご一読をいただけるとうれしいです!
2008/05/24 茨城県久慈郡生瀬村→福島県東白川郡豊里村【石井家】
父の父の父の父の父の実家、近藤家の謎
祖先の謎シリーズ、まだ続けさせてください(/・ω・)/
今回はライトです。
菊地家の高祖父である幸吉(1874~1959)の父・菊地儀平(1844~97)が生まれ育った、福島県矢祭町上関河内(かみせきごうど)の近藤家についてです。
近藤姓といえば近江の藤原氏。現在の滋賀あたりにルーツがあると思われるのですが、さすがにそこまでは伝わってはおりません。
現在、上関河内には近藤家が2軒。
13年前ほど前からコンタクトをとらせていただき、2014年に亡くなられた当時の矢祭町議・近藤誠氏をはじめとした近藤家の方々にご協力いただけたことで、さまざまな情報を得ることができました。
これならすぐ縁故者が見つかるだろう(^-^)、菊地家との縁も何かわかるかもしれない!
・・・と、簡単にわくわくしていました。
しかし、その思いはどんどん闇に包まれていくのです。
誠さんからは、江戸後期に近藤數右衛門(数右衛門)という人がいて、江戸の終わりから明治の初めころに上関河内の庄屋をやっていたとか、飢饉の時に打ち毀しにあったとか・・・。
だけど旧いものは何も残ってないよ、と。
国立公文書館に遺されていた文書には、確かに明治2(1869)年に名主として「上関河内村 數右衛門(姓の記載は無し)」の名を見つけることができました。
なお菊地家の戸籍には、儀平の欄に「上関河内村 近藤勝右衛門五男」との記載。
「かずえもん」と「かつえもん」・・・。語感は似ていますが、おそらく別人であろうという前提ですすめます。
勝右衛門を探すべく近藤家の協力を仰いで除籍謄本を集め始めました。
委任状をいただけたり、お持ちの謄本を見せていただいたりして、上関河内の近藤家に関する明治19年式戸籍を、奇跡的にひととおり確認することができたのです!
しかし、勝右衛門どころか數右衛門も名前がありません。
近藤家の戸籍上、最古のお名前は文化8年に産まれた近藤義冨
義冨の息子には、上関河内村の村長を26歳にして務めていた長男・近藤邦彦(1850~1914)。
そして誠さんの祖先で、のちに分家となった二男の近藤彦雄(1853~1924)。
仮に義冨が明治2(1869)年の古文書に名のあった數右衛門だったとして(だとすると当時は58歳)、數右衛門=勝右衛門(訛ってたら語感が似てる)という仮の図式を考えてみました。
儀平は勝右衛門の五男。長男の邦彦が1850年に産まれているのに、五男の儀平が1844年生まれというのは無理があります。
しかし!邦彦誕生当時は義冨は39歳。
もしも壬申戸籍時代に除籍になった人を数えないで、残っていた邦彦を長男としていれば・・・
あるいは後妻の長男だと考えれば・・・
あながち無いとは言えないような気がしないような気がします。もやもや。
ちなみに、のちに近藤家の墓参をしたときにわかったのですが、數右衛門には諱が別にあったようです。近藤數右衛門藤原義冨という名を見つけることができました。もうひとつ関係や年代は不明ですが、近藤新六藤原義高という名も知ることができました。
昔ながらに藤原を名乗っていたのですね。
もう一軒近藤家があるのですが、そちらは清兵衛(1830~1896)さんという方が祖で、邦彦の養子(養父よりも14歳年上!実家は不明)にあたります。
むぅ、いったい勝右衛門はどこの人なのかしら?儀平の実家はどこなのかしら?
なお、近藤家の菩提寺は曹洞宗の積善寺だったそうですが、明治の初期に燃えてしまって廃寺になったそうで・・・残念。
ちなみに曹洞宗というのは菊地家と同じです。
そして家紋は、なんというか「隅切り鉄砲角に細違い鷹の羽」といった風情のもの。図鑑とかでは見たことない紋です。
むぅ、詰んだ~。義冨家から発展しているのはわかったのですが、勝右衛門がどこにも出てこない・・・
机の上ではもはや何もできない・・・
と、なってからはや5年ほどが経過しています。
誠さんという協力者もいなくなってしまった今、どのように調査をしていくか悩ましいところです。
以下は近藤家調査についての悩ましい歴史です。
こちらもミステリアス・・・母方平野家高祖父の謎
前回、菊地家についてのやるせない思いを綴ったばかりですが、またベクトルとしては変わらないことを書き綴ってみたいと思います。
私の母が生まれた北海道小清水町の平野家。
戦後に現在の場所に落ち着いてから現在に至るまで、農業を営んでいます。
5年くらい前までは養豚も行っておりましたが、現在は畑作一本。
ビートやカルビーのじゃがいも、人参、アスパラなど、さまざまな野菜を生産しています。
そんな平野家が小清水に移り住んだのは、明治30年代。
小清水町史によると、明治38(1905)年に祖父・平野政次(1922~2018)のそのまた祖父・平野儀三郎(1866~1939)が止別原野に入植したと記載されています。
その前は道南の今金町というところに入植したものの、良い場所が無く、オホーツクに向かったそうです。
北海道での平野家の祖となった、高祖父である平野儀三郎。
慶応2(1866)年、東京府北多摩郡田無町(現在の西東京市南町付近)にて、質屋などを営んでいた新倉治兵衛・フジ夫妻の3男1女の次男として生まれました。
今回は平野家というよりも、この儀三郎の人生にスポットを当ててみたいと思います。
明治12(1879)年3月、12歳の時に父・治兵衛が世話役をしていた田無学校の下等小学第4級を卒業。当時、田無は神奈川県に組み込まれていました。
その4年後、明治16(1883)年4月に16歳で北豊島郡小榑村(現在の練馬区西大泉2~3丁目付近)に住む平野丑松(1827~1903)の長女・いち(1863~1953)の婿養子として平野家に迎えられます。
言い伝えによると新倉家と平野家はもともと親戚だったそうですが、詳細はまったくわかりません。
すると、その翌年1月には丑松が56歳で隠居。儀三郎が若干17歳で家督を継ぎます。そして4月に長男・留五郎が誕生。
あまりにもスピーディーな展開で、17歳の儀三郎少年はどのような気持ちで過ごしていたのでしょうか。
その後、26歳までに次男~四男まで男子を4人授かりました。
しかし、そこで平野家の運命が動き出します。
明治26(1893)年に埼玉三芳村へ嫁いだ儀三郎の妻・いちの妹・かのが、10か月で離婚して平野家へ戻ってきます。
するとその4か月後、隣の上土支田から加藤音五郎(儀三郎より4つ上)を婿に迎えたのです。
そしてその5か月後の明治27(1894)年12月、戸籍の儀三郎欄に記されたのは「失踪」の文字。
儀三郎は2か月の空白を経て復帰届を出していますが、旧土地台帳によると、その2日後に所有していた土地を当時10歳だった長男・留五郎に譲渡しています。
さらにその4日後、丑松夫妻と音五郎夫妻が儀三郎の籍から分家。儀三郎一家のみの戸籍となりました。
独立させた形だったのか、それとも厄介払いの形だったのかは知れませんが、短い期間でいろいろありすぎです。
留五郎は、儀三郎から譲られた土地を明治31(1898)年に叔父の音五郎へ譲渡し、儀三郎家は先祖代々の土地を一切手放した状態となりました。
その翌年に生まれた儀三郎の長女・喜代についての記載。「北海道瀬棚郡利別村字メップ南岸番外地にて出生」とあります。
戸籍に初めて北海道の文字が出てきました。
おそらく儀三郎一家は、この時期にすべての縁故を棄てて、北海道へ渡ったのでしょう。
なお、郷土史家である加藤惣一郎氏著の「大泉今昔物語」によると、平野家のルーツは千葉県鴨川市の仁右衛門島。
源頼朝より、平家の追手から匿ったお礼として島+漁業権+平野姓を賜ったと伝わっています。
我が平野家の祖先は、仁右衛門島に日蓮が訪れたときより行動を共にし、市川市中山の法華経寺に寄留したのち、日高上人とともに寺領地の有力者高橋氏の故郷である小榑へと布教活動に訪れ、21日間の説法の末、天台宗大覚寺を日蓮宗への改宗まで持っていき、名も西中山妙福寺(中山の西にあるから)と改めました。祖先はそのまま寺檀那として土着したそうです。
そしてここから平野儀三郎のミステリアスな部分について・・・
大正9(1920)年、西巣鴨村の学校で寄宿舎火災があり、そこから米田久興(北海道興部村出身)という少年が救い出されました。
その久興少年を救ったのは、平野儀三郎なる人物(当時54歳)。
大正11(1922)年、大正天皇のいとこでもある貴族院議員・柳原義光伯爵が北海道に行ってみたいという話になり、「興部に知り合いがあるので」ということで、柳原伯爵を興部へと誘ったのが平野儀三郎なる人物(当時56歳)。
なにせ伯爵さまがやってくるのです。久興の父で興部の有力者であった米田常作は、私財を投じて「米田御殿」と呼ばれるようになる、たいそう立派な屋敷を建てました。
そして、興部までやってきたのは柳原伯爵と三室戸敬光子爵など錚々たるメンバー。
縁あってか、このお二方には興部の浄土真宗興隆寺建立にも賛助員としてお力添えいただいたようです。
その後、昭和2(1927)年。儀三郎は61歳となり、東京市下谷区竜泉寺350番地に居住。そこから米田氏になにやら香典に関わる手紙を送付しています。
ミステリアスな部分はここで終了です。
儀三郎は昭和10(1935)年に新天地に希望を求め、樺太恵須取町布礼に移住。
樺太時代は、農業や煙突掃除など、なんでもやって生活していたそうです。
昭和12(1937)年に長男の留五郎を熊の襲撃によって失い、自身はその2年後におそらくは脳卒中で世を去りました。72年の生涯でした。
そして、祖父・政次が16歳にして家督を継ぐこととなります。
儀三郎のミステリアスな部分ですが、実は高祖父である儀三郎であるかという確証はいまのところありません(-_-;)
しかし、この平野儀三郎が高祖父と同一人物であるかの調査はずいぶんがんばったと思います。
興部の米田家に連絡をとり、伯爵来村当時のエピソードを伺ったり、貴重な集合写真をいただいたり。
その集合写真を、わくわくしながら生前のじーちゃんに見せたのです。
「おぉ、じさまだ!」・・・とはなりませんでした(;'∀')
この写真は大正11(1922)年のもの。祖父が生まれた年です。
じーちゃんの記憶に残っているじさま(儀三郎)の顔とは違うのか、あるいはそもそも別人である儀三郎が写っていたのか・・・、興部に来てないっていうことも考えられます。
そして米田久興が通っていた瀧乃川学園にも、儀三郎のことについて照会をかけさせていただきました。
この瀧乃川学園は、明治24(1891)年に創立された日本で初めて障がい児福祉施設。
石井亮一・筆子夫妻が生涯を捧げて運営していた学校で、現在も場所は変わりましたが、石井夫妻の意思が引き継がれています。
この大正9(1920)年の火災で園児6名を亡くし、学園閉鎖を決めたそうですが、当時の貞明皇后(大正天皇妃)より事業存続をうながされ、学園は残りました。
なお、その翌年に、渋沢栄一が理事長になったりしているそうです(; ・`д・´)
照会の結果としては、儀三郎について「米田氏友人」としか遺されておらず、謎のまま。
でも偶然居合わせた感じではなさそうですし、何らかの用務についていたと考えるのが自然のような気がしますが、友人かぁ・・・
余談ですが、先日亡くなられた米田家の当主夫人にお話を伺った際、夫人が北見北斗高校に通っていたときの英語の先生が、山梨で村岡花子に習った先生だったそうです。
村岡花子といえば、赤毛のアンを翻訳した、NHK連続テレビ小説「花子とアン」で有名です。
そして白蓮事件で有名な柳原燁子(あきこ)の友人でも。
さらに柳原白蓮こと燁子は、柳原義光伯爵の妹・・・
なんだかいろいろと不思議なリンクをします。。。
最後に柳原家にコンタクトをとるべく、身分も顧みず旧華族の親睦団体である霞会館へと勇気を振り絞って連絡。
するとなんということか、柳原家のご子孫の方からご返事をいただきました!!
しかし、義光伯爵が北海道に行ったのも初耳だったそうで、儀三郎についての情報は無し。
ここまでか~!と思いながら、今度はダメもとで三室戸家にもコンタクトをとってみました。
そしたらば、三室戸家のご子孫である三室戸東光氏(東邦音楽大学などを擁する三室戸学園理事長)より、直接お電話をいただくことができたのです。
「祖父(敬光子爵)が北海道に行ったことも初めて知りましたし、戦争で本郷の家が燃えてしまったので、昔のものは何も残っていないんです。」
・・・とのご返事でしたが、その電話の最中、私の足はずっと震えていました。
う~ん、結局平野儀三郎=高祖父の図式は成り立たず!!
・・・という状態のまま今に至ります。
儀三郎の実家である新倉家。
かつて明治天皇が行幸で田無に立ち寄った際に、美人と名高かった儀三郎の妹・まつがお茶の相手を務めたこともあったそうです。
そんな新倉家に生まれた儀三郎。
戸籍上は練馬に婿入りし、失踪し、北海道に渡り、樺太に渡った波乱の人生。
その間に戸籍に載らないようなことがあったのでしょうか。
西巣鴨村で火災現場から友人の息子を助けたり、竜泉寺に住んでいたり、柳原伯爵と親交があったりといったことがあまりにも突飛なのです。
あくまでも妄想ですが、天皇家と何らかの形で繋がっていたような気すらします。隠密とか。
しかし、建立時に儀三郎が総代となっていた興部の寺は、平野家代々の日蓮宗ではなく浄土真宗。
やっぱり別人なのか・・・
ただ、じーちゃんの記憶によると、時折りふいっと東京に行ったりしていたことがあったらしいのです。
どこに行っていたかは知れませんが、実家の新倉家にとっては樺太へ渡って以来音信不通だったそうなので、それまでは行き来があったのかもしれません。
東京と北海道を行き来するなんぞ、当時(大正~昭和初期)の農民としてはかなり珍しいことだったのではないでしょうか。
・・・と、こんな感じで菊地家とは違う感じで行き詰っている平野家。
この平野儀三郎=高祖父という図式の正誤だけでも知りたいものです。
平野家については、いままでのもやもやした調査内容を以下のように綴らせていただいています。もしもお時間がありましたら是非・・・(/ω\)
2008/05/11 東京府北豊島郡小榑村→利別村→斜里村【平野家】
2011/08/13 平野家についてじいちゃんから得られた情報
2018/03/01 平野儀三郎について、一縷の望み断たれる
菊地家の謎、幾度目かの整理
私の姓である菊地。
大正2(1913)年に高祖父である菊地幸吉(1874~1959)一家と、その兄の初太郎(1870~1942)一家が北海道屈斜路村へ入植する前は、福島県東白川郡豊里村大字東舘字舘本40番地(現在の矢祭町)に住んでおりました。
遅くとも明治19(1886)年式戸籍編製時点では、東舘に住んでいたようです。
その最古の戸籍の筆頭者は、幸吉の父であり、上関河内村の近藤家から婿入りした菊地儀平(1844~97)。
籍には儀平の養父に当たる菊地儀右衛門(1810~90)も記載されています。
その儀右衛門の父欄には「亡養祖父藤兵衛養子」と書かれており、儀右衛門も養子であるようです。
・・・と、ここまでで、
藤兵衛-儀右衛門-儀平-幸吉-曾祖父・幸太郎-祖父・幸松-父-私・・・
という直系父系となります。
藤兵衛については血族であるという確証は今のところありません。
私からさかのぼって儀平までは戸籍の記載に大きな破綻はないので、だいたい合っているのではないかと思います。
なお、戸籍上確認できる菊地家の男子は、屈斜路に渡った初太郎と幸吉兄弟だけなので、東舘には誰も残っていないことになります。。。
頭を悩ませるのは、儀平の養父(儀平の妻の父)である菊地儀右衛門。
戸籍中、儀右衛門の欄には「当郡関岡村 菊池友輔 三男」と。
儀右衛門は文化7(1810)年の生まれなので、明治19(1886)年の戸籍編製時は76歳。
既に家督は婿養子の儀平に譲っています。
戸籍の情報を素直に年表にしてみると、
・1810年 関岡村の菊池友輔の三男として生まれる
・??年 東舘村の藤田傳五右衛門長女ヤス(3歳下)と婚姻
・1853年 長女・ハツが誕生。当時儀右衛門は43歳(!)
・1862年 東舘愛宕神社の祭りに賛成する署名をする(矢祭町史より)
・??年 ハツが儀平を跡取り婿に迎える
・1870年 初孫・初太郎が生まれる。儀右衛門60歳
・??年 隠居し、儀平に家督を譲る
・1886年 戸籍編製
・1890年 東舘にて逝去。満80歳
むむむ・・・いろいろ疑惑が。
①儀右衛門が東舘に移ったのはなぜか
→結婚?それとも養子になったとき?
②藤兵衛はどこの村のものだったのか
③儀右衛門の長女・ハツの出生は儀右衛門夫妻が43歳と40歳のとき。当時としては考えづらい・・・
→ハツの上に記載されてない男子がいるかも(ハツという名から、女子としては初子だったと思われる)
・・・と、戸籍でここまで疑念が湧いてきたのが14年前の話。ちなみになにひとつ解決していません💦
なお、その後に儀右衛門の妻・ヤスは、菊地家のお隣39番地にある藤田家の娘さんであることが判明しています。
隣の娘さんと結婚したのか、それとも結婚したから隣に引っ越したのか、それもまた謎。
その後、2008年に行きました。釧路から矢祭町へ。生後11か月児を連れて。今思えばひどい夫ですよ。
ちなみにその前にお手紙作戦をしていまして、関岡と東舘のきくちさんへいろいろとアンケートをしていたのです。
余談ですが、この二つの地域にきくちさんは当時の電話帳で45軒有ったのですが・・・菊地さんが1軒、菊池さんが44軒でした。しかも菊地さんはマチから引っ越してきた方。
え?なんでウチは菊地なんだ???
そしたらば、菊池友輔の子孫という方が見つかりまして、お世話いただけることになりました。
関岡を訪れ、もう亡くなられた菊池玄さん(1925~2016。いろんな近隣小学校の校長先生を務めておられた方)に戸籍をみせていただいたり、お話を聞かせていただいたりしたのですが、なんだか噛みあいません。
玄さんの祖先は、確かに「菊池友甫」(「輔」と「甫」は似たような意味合いらしいので、本人もどちらも使用していたよう)でした。
最古の戸籍には「前戸主 菊池友甫」とあり、戸主は「菊池政恒(1843~97)」。
・・・ん?
政恒(1843~97)と儀平(1844~97)は同世代ですね。そしたらば友甫は儀右衛門と同世代ということに。
儀右衛門の父である友輔は、この友甫の父?儀右衛門と友甫は兄弟?
の~みそこねこねのまま、友甫のお墓に連れていかれました。
そこには、友甫の父・友元(1781~1855)のでっかいお墓が!
家紋は「丸に並び鷹の羽」。我が家は「丸に違い鷹の羽」。ううむ。
玄さんによると、菊池三寿道恒(友元)は農民の家に生を受けたのちに救世を志し、医師となってたいそう地域の人々に信頼されていたそうです。
長男の友甫孝恒、その長男・政恒も医師となり、乾唱堂医院を継いでいったそうです。
友元の墓碑に彫られているのが、以下の文です。
「先生菊池氏の諱(いみな=実名)は道恒、字(あざな=呼び名)は三寿、友元と称す。陸奥白川郡関岡村の人なり。其の先は蓋(けだし=おおかた)肥後の菊池氏の族ならんと云う。
十世祖某、始めて関岡に来たり、世農を業とす。関岡六氏の一祖なり。友元の君、済世の志あり。因って黄岐の術(こうぎのじゅつ=黄帝を祖とする神仙術を黄といえ、それからわかれた漢法医術)を治む。
考(こう=亡父)は知仙の君、母は鈴木氏なり。知仙の君早く没し。先生王父(おうふ=祖父)の後を承襲(うけつ)ぎ、友元と称し其業を継げり。人と為り剛毅物に屈せず。而して技術に恵志たり。是を以て門を踵(たず)ね、治を請う者日に益す多し。
初め先生の家甚だ貧なりしも後に頗る饒富(じょうふ=財産がゆたかになる)たり。而して自ら菲薄(ひはく=貧しいもの)に奉(ほう=衣食の一切を自分でととのえる)じ、能く小民の自在なること能わざるものを済(さい=すくう)す。人も亦馬に頼りて倚る。
安政2年3月13日疾に没す。享年七十有五なり。葬るに宅を距る百歩の先とす。塋(えい=美しい)の側(そく=妻)は高沢氏より娶り、二男二女を生む。女の一(ひとり)は菊池某に適(とつぎ)、一(ひとり)は湯岐(ゆじまた)村大森某に適(とつ)ぐ。長男孝恒は友輔と称し箕裘(ききゅう=家督)を継ぎ、次男孝昭は出でて本宗(ほんそう=一族中の本家)の嗣(し=跡継ぎ)となる」。
・・・と、難しい文章ですが、友元には高沢家から迎えた妻との間に2男2女がいたようです。女の子は菊池家と湯岐大森家に嫁ぎ、男子の一人が玄さんの祖先である友甫ですね。
そうなると、もうひとりの男子である弟・孝昭。「一族中の本家を継いだ」とあります。
この孝昭がのちの儀右衛門・・・?
藤兵衛が一族中の本家・・・?
しかし、そうは問屋が卸しません。
友甫の墓に彫られている文字です。
「明治17年12月18日没 享年74」。
明治17(1885)年から数え年の73を引くと、1812年。
友甫は1812年生まれ。
しかし、儀右衛門は1810年生まれ。
弟の方が年上ということはないでしょうから、この説はいったん引っ込めます。
もしその推測があっているとすると、友甫が年をサバよんでいたとか、儀右衛門の戸籍がミスっているとかでしょうが、真相は薮の中です。
それでも、戸籍には「菊池友輔三男」とありますので、単に3人目の子だからっていう意味で三男なのか、それとも墓碑に記されていない謎の三男が儀右衛門なのでしょうか・・・?
我が家は今でも曹洞宗なので、このお寺から来ているのでしょう。
過去帳も探していただきました。
そこには、
・儀右衛門(儀平父として)
・ヤス(儀平母として)
・儀平(初太郎父として)
・ハツ(幸吉母として)
・・・の4名が記されていました。俗名の記載はありませんでしたが、戸籍と没年月日(旧暦でしたが)も一緒です。
しかし、この家は子孫もわからないし、お墓は無いとのこと。ずがびーん。
のちに「もしかすると横浜に引っ越した菊地さんがそうかも」と住所(団地のよう)を教えていただきましたが、お手紙をしてもなしのつぶてでした。
可能性、潰える!
なお、過去帳のハツの記載について、長男の初太郎ではなく次男の「幸吉母」と記されているのもこれまた謎です。屈斜路に入植するまで、戸籍上ずっと初太郎は東舘にいましたから・・・
のちに、国会図書館デジタルライブラリーに気になる文献を発見。明治35(1902)年「茨城県公民要鑑」ですが、これにはある程度の額を納税して、選挙権を持っている者の氏名が記載されています。
その中で宮川村(現在の大子町下野宮付近)の項に、「金32円68銭1厘 菊池初太郎」という名が。
ハツが亡くなったのは明治39(1906)年ですから、もしかするとこの時点では宮川村に寄留していたのかもしれません。
そういえば初太郎の娘が下野宮の大森家から婿を取っているのは、無関係ではないのかも。
謎が謎を呼ぶ菊地家。
戸籍は菊地ですが、旧土地台帳は菊池。過去帳も菊池。
大叔父がかつて、「本家とケンカして菊地に変えたんだ」といっていましたが、なんか少しは合っているような気がします。
しかしながら、友甫の墓には菊地と彫ってあったりしますので、あまり区別なく使っていたのかもしれませんが。
ちなみに、旧土地台帳を関岡村の大部分取得するという、法務局さんにとって大迷惑なことをしたことがありますが、菊池姓だらけで菊地姓は一つも見つかりませんでしたね。
最後になりますが、さきほども初太郎が居たのでは?と推測している茨城県の大子町。
矢祭のすぐ南にある共に県境の隣町なのですが、大子町と矢祭町は、江戸時代から通婚があったようで、矢祭は棚倉藩に属しながらも、水戸藩の影響が大きかったようです。うろ覚えですけど。
天狗党の乱という事件が明治初頭にあり、その戦いに、多気の菊池義衛門という人物がいたと教えていただきました。もしかするとこれは儀右衛門なのかもしれません。
そうなってくると調査範囲があまりにも広大に!
調べ始めて14年、さっぱり進展しない菊地家の謎について、おさらいしてみました。
なんとかならんもんかなぁ。
もしよろしければ、14年間の記録を以下のリンクから見ることができますので、お時間が許せばご覧いただけるとうれしいです♪
2008/05/11 福島県東白川郡豊里村→屈斜路村【菊地家】
2018/01/22 菊地・菊池家はなぜ鷹の羽紋が多いのか?